綾部喜八郎夢
一話『これは僕の役目』
|
図書室に新しい本が入荷したと聞いて、昼休みに喜び勇んで駆けつけた。 すでに顔見知りの委員長に目礼して、新刊本の積み上げられている場所に陣取る。図書室はいつものように人影がほとんどなく、数人の図書委員が整理を行っているだけだった。これなら、誰の邪魔にもならないだろう。 今月の新刊本は三十冊。ひとまず優先順位を決めて読むのが大事だ、とは頷き、頭の中でざっと読む順番を考える。専門的な内容が中心の資料本は後回しとして、やはり今回の目玉は南蛮から輸入した古書だろう。どうせ辞書と付き合わせて読むことになるだろうが、海を渡ってきた古書にはそれほどの努力を積んでも構わないと思う魅力があった。 よし、やっぱり借りるのはこれにしよう。は全三巻の南蛮古書を手に、いつもながら無口な図書委員長に「お願いします」と手渡した。同時に読み終わった本を返却し、貸し出しカードを渡してもらう。 「……」 「あ、はい」 帰ろうとした時、長次に呼び止められた。振り向いて首を傾げると、長次はちらりとの抱えた本を見て、それからどこか意味ありげに外に視線を移した。 「……気をつけろよ。本を汚さないようにな」 「? いつも気をつけてますが……返却した本、汚れてましたか」 「いや。……いい、とりあえず気をつけろ」 それだけ言って、長次は黙ってしまう。一体なんなのだろうと思いつつ、は図書室を退室した。 退室してから、は右脇に抱えた南蛮古書に目を下ろす。長次の言うとおり、確かにこれは稀少本だ。他の本よりも丁寧に扱うべきだと納得して、は懐から風呂敷を取り出して包み込む。そういえば最近同学年の滝夜叉丸と三木ヱ門の仲が特に悪いとも聞いたし、突然にどこでくだらない乱闘が始まるかも分からない。火薬委員が火薬を暴発させるかもしれないし、生物委員が毒虫を逃がすかもしれない。多分安全なのは、よく知っている自分の部屋だけだろう。そう肝に銘じて、は古書を守るように胸の前で抱える。 さて、そうと決まればさっさと長屋に帰ろう。そして明日の休みはずっと本だけ読んで過ごすのだ。 本の虫のにとって、本を読んでる間が一番の至福のときだった。その時間だけは、来月に迫った期末試験のことも、聞くだけで疲れそうな山登り実習のことも忘れられる。早くこの本を無事に部屋に持って帰ろう──! 使命感と高揚感を胸に抱き、が図書室前の廊下から地面へと下りたその瞬間、 穴に落ちた。 「だーーーーーーーーーー!?」 ずぼ、と踏み出した右足が地面に吸い込まれ、その次には身体全体が穴の中に落ちた。どすん、と全身を打つ痛みに、悲鳴というより怒声を上げる。 落ちてすぐに、あいつの仕業か、と同学年の穴掘り小僧を思い浮かべる。即座に犯人を思い浮かべたのは、このところがしょっちゅう綾部の掘った穴に引っかかっているからだ。 慌てて、抱えてきた本の状態を見る。とりあえず風呂敷に包んだのが良かったのか、本が汚れている様子はなかった。ホッと一息吐いてから、すう、と息を吸う。 「こら、綾部ーーーーーーーーー!」 「なに?」 叫んだ瞬間、ぴょこん、と綾部の顔が穴を覗き込む。やっぱりいたよこいつ、とは顔を引きつらせる。基本的に綾部は掘った穴は放置しているのに、なぜかが落ちる穴の近くには待機していたりする。これは多分というか絶対、落ちるのを期待してどこかで見守ってるに違いないとは思っているのだが、果たして今回も綾部はすぐに現れた。 「あんたいい加減にしなさいよ、今月入って何度目だと思ってるのよ!」 「が勝手に引っかかってるんだけど」 穴の縁に両手をかけてを覗き込んで、綾部は飄々と言う。その無表情にかちんときて、はいっそう声を張り上げた。 「なーにが、『勝手に』よ! あんた明らかに私を狙って落としてるでしょうが!」 元々綾部は塹壕堀りが趣味なような男だから、忍術学園に在籍していればそりゃ幾度も綾部の掘った穴に落ちることになる。運が悪ければ連続して落ちることだってあるだろうが、それにしても、ここ最近のの落ち具合は酷かった。多いときなど、一日に三回引っかかることもある。明らかに異常だ。 「この間なんてくのたま長屋の中で落ちたし! 昨日夜中に厠に行った時だって、行きにはなかった穴に落ちたわよ! あれもあんたでしょうが!」 大体、今だってそうなのだ。この穴は、図書室に行く前はなかったはずだ。つまり、が図書室で本を吟味して帰ってくるまでに、綾部が穴を掘っていたということになる。 「うーん」 の言葉に、綾部は首を傾げてみせた。しばらく思案した後、ふむ、と穴に落ちたを見下ろす。 「そうかもしれない」 「は!?」 「でも、の場合引っかかりすぎだと思う。僕は引っかかってくれたほうが嬉しいけど」 「だから、私が引っかかるように掘ってあるんでしょう!」 「うーん」 綾部はまた首を傾げて、ふむ、と頷く。 「そうかもしれない」 「あ、あんたねぇぇぇぇぇ!」 人を馬鹿にしたようにしか思えない態度に、は咄嗟になにか投げてやろうかと辺りを見回す。しかし今持っているものは借りてきた本だけだったので、仕方なしにますます声を張り上げた。 「いい加減にしなさいよ、落ちるのだって体力いるんだからね! 次やったら本気で怒るから!」 「今だって怒ってるようにしか見えないけど、ほんとは喜んでるの?」 「綾部ほんと、あんたほんと、いい加減にしないと怒るわよ……!」 身体を起き上がらせて、本を汚さないように気をつけて穴を出る。その様子を見守っている綾部は、いつものようになにを考えているか分からない無表情だ。 「じゃあね、分かったらもう落とさないでよ」 「うーん」 「落・と・さ・な・い・で・よ」 一語一句強調して、は綾部から踵を返す。結局肯定はしない綾部に腹が立ちつつも、頭のどこかで綾部に何を言っても仕方ない、と諦めに思う気持ちがあった。本当に、この男はなにを考えているのか全く分からないのだから。 「ねぇ、」 歩き出してから声をかけられて、は後ろを振り向いた。綾部が淡々とした声で、続けてくる。 「努力はしてみる」 「へ? ……努力ってあんた」 多分、さきほどの「落とすな」ということに対する言葉だろう。努力しないと出来ないものなのかそれは、と言い返したかったが、正直少し疲れていたので、ああそう、と投げやりに返して再び歩き出した。 午後の授業が終わり、は浮き足だって部屋に戻った。同部屋の友達が「、明日休みだけど、町にでも行かない?」と誘ってくれるのに、無言で本を掲げてみせる。付き合いの長い友達はそれで分かったらしく、「あんた、そんなに本読んでたら紙魚になるよ」と苦笑しつつ肩をすくめた。 失礼な、紙魚は本を食べるけど私は本を読むだけだ。そりゃ食べてしまいたいほど好きだという気持ちは分からないでもないけれど、と思いつつ、は胸に抱いた古書を見下ろし、ハッと気がついた。南蛮古書を読むためには、辞書がいる。少し前まで図書室から借りてきていたのだが、今はもう返してしまったのだ。明日は朝から読もうと思っていたのに、これでは意味がない。また借りてこなくては。 「私、図書室に行ってくるね」 「またー? あんたほんと、部屋以外だと図書室と教室にしか行ってないんじゃないの」 友達の冷たい視線を受け流して、は部屋を出る。 くのたま長屋から図書室へと向かう渡り廊下を歩いていて、ハッとは身構えた。そうだ、屋内ならいいとして、地面を歩く時は気をつけないと。先ほどの綾部の様子から見て、とても諦めたとは思えない。 けれど、図書室に着くまでは順調だった。かなりおっかなびっくりだったのだが、結局拍子抜けするほどになにもなかった。無口委員長にまた来たのかと視線で問われながら、は辞書を借り受ける。これで明日、あの南蛮本を夢中で読める。 日は少しずつ沈みかけていた。図書室から出ると、すでに辺りは薄暗い。転んだりしたら辞書が汚れてしまうし、気をつけて帰らないと。はそう肝に銘じて、早足で自分の部屋に向かっていた。 それでも一応、綾部が掘った穴──目印があるものだ──がないかどうかは確認していた。を落とそうとしている時は無論そんな優しい配慮はしてくれないが、落ちなくていいものに落ちることはないのだから。 「うーん……大丈夫そうかな」 きょろきょろと見回しても、先ほどと違ったところは見られない。部屋までは庭を突っ切ればすぐに着く。いっそ屋根に登って移動してしまおうかとまで考えたが、そこまでするのも面倒だし、先生達に見つかったらなにをしているのかと怒られてしまう。 まいっか、と庭を下りて走り出した、その瞬間。 ずぼ。どすん。 「…………う」 や、ら、れ、た。 最後の最後で油断した。昼間経験したものと同じ痛みが身体全体に響き、慌てて、抱えていた本にかかった泥をはたき落とす。穴は先ほど落ちたものより少しだけ大きく、深かった。この短時間でどーやったらこんな規模の穴を掘れるのか、全く理解出来ない。むしろそれに感心しそうになりながら、はすう、と息を吸い込み、叫んだ。 「綾部ーーーーーーーーー!」 「なーに、」 なーに、じゃねぇ……! 昼間と同じく、ぴょこんと綾部が穴に顔を覗かせる。この野郎シメたろうかと腹を立てつつも、もはや諦めの感情のほうが強かった。 「また落ちたんだ、」 「まるで私が悪いみたいに言いますね、綾部さん。てか昼間言ったでしょ、もう落とさないでって」 「うん。それで、考えたんだ」 「……なにを」 綾部はぱちぱちと目を瞬かせて、を見下ろしてくる。 「うん。やっぱり僕はに、僕が掘った穴に落ちて欲しいみたいなんだ」 「迷惑なんですけど……」 「それで、どうしてに落ちて欲しいのか、考えたんだけど」 綾部は、無表情で続けてきた。 「僕は多分、に身動き取れないようにして欲しいんだと思う」 …………。 「なんの嫌がらせですか、綾部さん!」 思わず叫ぶ。そりゃ穴に落ちたら確かに身動きは取れない。中になにか仕掛けるとか、上から重いものでも落とされたりしたら確実だろう、そもそもこれは罠の一種なのだから。だからと言って、なぜ綾部にそこまでされなければならないのか、さっぱり分からない。 綾部はの言葉に少々驚いたようにきょとんとして、首を横に振る。 「嫌がらせじゃないよ」 「どー考えても嫌がらせじゃない。……つまりなに、あんたもしかして、『だから落とすのを止めるのは無理』って言いたいの?」 「そうだと思う」 「思う、じゃないわよ……」 はあ、とため息を吐く。この男、本当にわけが分からない。誰かどうにかしてくれないだろうかと半ば縋るように借りてきたばかりの辞書を抱き締めていると、綾部の声が上から響く。 「は、本が好きなの? よく読んでるよね」 「ええ、そうですね。それはもう大好きですよ!」 ほとんどヤケクソ気味で答えると、ふうん、と綾部は頷いた。そして、じ、と視線を向けてくる。 「ねぇ」 「……なによ」 むっつりと上目遣いで綾部を睨むに、綾部は小首を傾げる。 「穴の中、気に入ったの?」 「そんなわけないでしょうが!」 「じゃあ、どうして出てこないの」 綾部の問いに、は言葉を詰まらせた。視線を逸らして、しぶしぶと答える。 「足……くじいたみたいなのよ」 もこんな穴さっさと出てやろうと思っているのだが、先ほどから右足首に大きな違和感がある。骨折の痛みにはとても及ばないだろうが、動かすだけでも痛みが響く。ああ、だから穴になんて落ちたくなかったのに。 「くじいた……?」 「痛くて出れないのよ」 ここはもうコイツに頼るしかあるまい。が手を貸して欲しいと言おうとした時、綾部が小さく呟いた。 「よくやった、ターコ五号」 「今あんたなんて言った!?」 が激昂して叫ぶのを無視して、綾部は身を乗り出して腕を差し出した。掴まれ、ということらしい。仕方なしに、も腕を伸ばしてその腕を掴むと、ぐい、と強い動きで身体が浮いた。あっという間に穴の外に下ろされ、腕が離れる。足の痛みを感じる暇すらもなかった。綾部は見た目は普通だが、それでも見境なく穴を掘っていることで鍛錬が出来ているのだろうか。少し意外だった。 「なに?」 じっと見つめていたのが気になったのか、そう聞いてくる綾部に、べつに、と視線を逸らす。ゆっくりと立ち上がると、ぎりぎり歩けそうだった。さほど酷いくじき方をしたわけでもなさそうで、ホッとする。今一度抱えていた本をぱんぱんと叩いて泥を落とした。 「じゃあ、私医務室に行ってくるから。言っても無駄かもしれないけど、とりあえず足治るまでは穴に落とさないで欲し──って、なに?」 突然に肩に片手を置かれて、綾部に引き寄せられた。ぽかんとしていると、綾部のもう片方の手がの膝下に入る。そして、一気に抱き上げられた。 「……は!? な、なにしてんの綾部」 「医務室、行くんでしょう?」 突然のことに、頭の理解がついて行かない。唖然としていると、綾部が口を開く。 「足、くじいて動けないって」 「い、いや、歩けることは歩けるし」 しどろもどろ言いながら、はきょとんとしている綾部の瞳から逃げるように視線を逸らす。顔が近い、顔が!! 美少女と言っても通じそうな端正な顔立ちが、すぐ傍にある。憎き穴掘り野郎とはいえ、これは心臓に悪い。全身に感じる綾部の体温と、いつも穴を掘ってるからか、土の匂いがすぐ近くにある。 「ひ、一人で行けるから、下ろしてくれない?」 「駄目」 珍しく、綾部は即座に否定する。 「を落としたのは僕だから、これは僕の役目」 の動揺などすっぱり切り捨てるように断じて、綾部はさっさと歩き出す。なにこれどうなってんの、と混乱していただが、すぐにまぁいいかと諦めた。綾部の言うとおり、落としたのは綾部なのだから、これくらい当然だろう。……気恥ずかしいには違いないが。 「僕、あんまりに本を読んで欲しくないんだ」 突然に声をかけられて、びくりとする。次いで、その内容がわけわからなくて顔を歪めた。 「……なんで」 「さぁ、なんでだろう」 「綾部、あんたさっきから身動きとらないで欲しいとか本読んで欲しくないとか、なんの嫌がらせなのよ」 「だから、嫌がらせじゃないってば」 「じゃあなんなの」 言いつつも、自身もおそらく綾部がを嫌っているわけではないことは理解していた。こうして一応運んでくれているわけだし、なんとなくだが、綾部の行為には悪意は見えない。しかし、それじゃあなんなのかと問われても全く分からないのだが。 「……なんなんだろうね?」 また首を傾げる綾部に、殴ったろうかコイツと思いつつ、は嘆息して諦めた。やっぱり、この男が考えていることはさっぱり分からない。 「ねぇ」 「……なに」 「どうしてなのか分からないけど、考えてみる」 「へ?」 「どうしてに穴に落ちて欲しいのか、どうしてにそこから動いて欲しくないのか、どうしてに本を読んで欲しくないのか」 「……はあ」 「だから」 微かに、綾部が笑った気がした。端正な顔立ちをすぐ傍に感じて、は押し黙る。 「だから、それまでは落ち続けてね」 「は!?」 「大丈夫、また僕が医務室まで運ぶから」 「その度に怪我をしろということですか!?」 思わず叫ぶと、綾部は数秒沈黙してから、頷いた。 「少しくらいなら」 「いや、これはあんたの身体じゃなくて私の身体なんですけどね」 一応言いながら、ま、いいや、と何度目になるか分からないが、諦めた。 どうせ綾部が本気になったら、毎日のように穴に落とされるはめになるのは目に見えているし。 「じゃあ、せめてちゃんと考えてよ、それ。早く答えが出るように」 だから、そう答えるしかなかった。さっさと答えが出て、そして穴に落とされる日々から解放されたい。 「うん、分かった」 「それと、落とすのも程々にしてよ、綾部」 「……うん」 また、綾部が微かに笑ったように見えた。同時に身体を支える綾部の腕に少し力が込められた気がして、鼓動が早くなる。いやいやいくら顔が悪くないからってこんな穴掘り野郎にときめいてどうする私、と思いながら、は視線を逸らした。 喜八郎が自分の想いに気づくまで、あと必要なのは、幾つの穴? 終 →二話『落とす理由』前編 |