食満留三郎夢
二話『炎天下』前編
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雨が降ったらすぐに雨漏りしそうなんですと、吉野先生に昨日壊れた屋根の修理をお願いされた。それ自体は確かに委員会の仕事だしなんの問題もないのだけれど、吉野先生がすまなそうにしてらしたのは、きっと今日がカンカン照りの真夏日だからだろう。日陰にいても暑くてたまらないのに、それを陽を遮るところがなにもない屋根でということになると、想像を絶する暑さになるのは目に見えていた。それでも早急に直す必要があることは私も承知していたし、こんな過酷なことを下級生に押しつけるわけにもいかない。吉野先生は無理そうなら後日でいいと仰ってくださったけれど、いつ雨が降るか分からない。分かりましたと頷いて、私は用具倉庫に向かった。 用具倉庫から修理道具を持ち出すだけでも、あまりの暑さに絶え間なく汗が流れ落ちる。あちこちでみんみんみんみんと蝉の大合唱が鳴り響くので木陰にいることも出来ず、大抵の生徒は学園内の池で泳いでいたり部屋の中で大人しくしていたりする。人気のない庭を横切って、私は長屋の屋根へと上がる。 「先輩、なにしてらっしゃるんです!?」 突然の声に屋根の端から見下ろすと、「ここここのクソ暑いのに!」と用具委員の後輩の作兵衛が目を丸くして私を見上げていた。 「屋根の修理だよ」 「このクソ暑いのにですかー!?」 作兵衛は同じ台詞を繰り返した後、物凄く嫌そうな顔をしてみせた。 「信じられません! このクソ暑いのに! このクソ暑いのにー!」 「私がやるから、大丈夫だよ」 身体が未発達で体力だってあまりない下級生の作兵衛に、炎天下での作業を手伝わせようなんて思わない。 「違いますよ、そんなことを心配してるんじゃないんです! 先輩、こんな中で動いたら倒れますよ!?」 「大丈夫、水も持ってきたし。それにこれも用具委員の仕事だから」 「なんで先輩はそう真面目なんですかー! 貧乏くじですよ、明らかに保健委員ですよ!」 不運の代名詞にされている保健委員をちょっと可哀相だと思いながら、私は作兵衛に苦笑してみせる。心配してくれるのは、素直に嬉しい。 「本当に大丈夫だから。心配してくれてありがとう、作兵衛。でも外にいると作兵衛まで倒れちゃうから」 「わ、分かりました。でも手が必要なら呼んで下さいね、俺すぐ来ますから! 無理しないでくださいよ!」 作兵衛はそう念を押して、ようやく長屋に帰って行った。慕ってくれる下級生がいるのは嬉しい。用具委員に入って良かったなと思いながら、私は修理を始めた。 「あれ、食満委員長!」 留三郎が共用の渡り廊下を歩いていると、突然に後ろから名を呼ばれた。 呼ばれた方に振り向くと、用具委員の富松作兵衛が廊下の端に突っ立っていた。作兵衛は蒸し暑さに額を伝う汗を拭いながら、どこか不思議そうに首を傾げている。 「作兵衛か。なにか用か?」 「い、いえ。用と言うほどでもないんですが……、さっき先輩を見かけたので」 そういえば先輩は一人だったなぁ、と作兵衛は独り言のように続ける。なにを言われているのか分からず、留三郎は怪訝に思って眉をひそめた。 「なんだ? がどうした?」 「あ、いえ。先輩が、さっきお一人で屋根の修理をしてらしたんです」 「屋根の修理……?」 その言葉になにか引っかかって、留三郎は腰に手を当てて考え始める。 「はい、この暑い中大変だなと思いまして……その、いえ、食満委員長に関係のあることじゃないんですが」 言いながら、ようやくに作兵衛は自分が言いたいことに思い当たる。留三郎ならば、がキツイ作業をするならば、きっと手伝っただろうと思ったからだ。後輩からは武闘派と噂される留三郎だが、委員会活動において他の委員に仕事を押しつけて自分だけが楽をすることなど、まずない。 「確かに、この天気で屋根の修理は辛いだろうな。……しかし屋根の修理……ああ、そうか」 留三郎も、自分が引っかかっていたことに思い当たった。そういえば昨日、吉野先生が早急に修理が必要な屋根の箇所があると言っていたのだ。今日は休日で、留三郎は朝から自主練習に励んでいたから、不在の留三郎に代わってに頼んだのかもしれない。 「……そうか。なるほど、分かった。今からを手伝ってくる。ありがとうな、作兵衛」 「い、いえ、俺はなにも!」 慌てて作兵衛は首を横に振るが、留三郎はその時さっさと踵を返しての元に向かっている。作兵衛は留三郎の後ろ姿をしばらく見送ってから、ほっと微笑んで、帰ろうとしていた長屋へと足を向けた。 きつい日差しの下での作業は、正直なところ想像以上に辛かった。うなじへと落ちてくる汗を手で拭って、次に瞳に滲みそうになった額からの汗を拭う。後ろでひとまとめにした髪は、ぐんぐんと熱を吸収して体温を上げていく。剥き出しの二の腕にも汗が滴り落ちていて、金槌を握る手が滑りそうになる。頭が痛い。目も痛い。さすがに辛いと思いながら、早く作業を終わらせてしまおうと手を動かした。 どちらかと言えば、私はこういうじっと耐える作業は得意だった。暑さや寒さや痛みに耐えるのを、大抵の人に『我慢強い』と評される。自分では単に鈍いだけだろうと思うけど、それでも今日の暑さはきつかった。暑いだけならばまだ我慢できても、汗が流れ出すことで水分が失われるし、頭が灼かれて朦朧とする。そしてなにより、強い日差しに照りつけられた瓦が、凄まじい熱さになっていた。 それでも作業を続けていると、ようやくに屋根の修理は終わった。その出来を確かめて、ホッとする。用具委員に入ってから、大きなものでも小さなものでも、修理する技術はかなり身についた。今では修理するものを見れば、的確にどう直せばいいのか分かるようになっている。これでもう雨漏りはしないだろう。用具委員は地味だ地味だと言われるけれど、私はこうして壊れたものを修理することが好きだった。 ……出来映えに満足している場合じゃない、早くここから降りないと。私は慌てて修理道具を片付け始める。金属製のものはほとんど全て熱を持っていて、蒸し暑いものとはまた違う意味で厄介だった。 「、そこにいるか」 突然にかけられた声に、私は後ろを振り向く。先ほど作兵衛に呼ばれたのと同じ場所で、委員長の食満が屋根にいる私を見上げていた。 「食満。どうしたの?」 「作兵衛に聞いて来た。こんな暑い中辛いだろ、修理が終わってないなら手伝うぞ」 陽炎さえ出来そうな暑さの中、自分が頼まれた仕事でもないのに食満はそう言ってくれる。食満は暑くないのだろうかと思ったけど、もちろんそんなことはなく、食満も額に落ちる汗をうんざりと拭っている。 「ありがとう。でも大丈夫、もう終わったから。今から降りるね」 「そうか。なら片付けるのだけでも手伝わせてくれ。委員にこの暑い中仕事をさせて自分はなにもしないなど、委員長として恥だからな」 真面目で思いやりが強いのは、食満のいいところだと思う。作兵衛が心配してくれた時と同じで、私は食満の気持ちに嬉しくなる。 「うん、じゃあ降りるね」 修理道具を纏めて小脇に抱えると、私は屋根から降りようとその場から立ち上がる。途端、ぐらりと視界が揺れた。 まずい、と思った時にはもう遅い。突然襲った立ちくらみに、頭が真っ黒に塗りつぶされる。貧血だ。理解しても対処のしようがない。抱えていた道具を手放して、受け身だけを取る。けれど身体が倒れ込むまで私の意識は保たなかった。屋根の上に叩きつけられる衝撃も熱さも感じないまま、私は意識を失った。 「!」 見上げていた屋根の上で、大きな音がした。思わず叫ぶが、返事がない。考えるよりも先に、身体が動いた。 長屋の庇から屋根に上ると、凄まじい熱気が体中を包む。地面の上でのものとは程度が違う、熱された瓦で地獄のような蒸し暑さのそこに、今まで会話を交わしていたはずのが倒れこんでいた。 「おい、大丈夫か!」 駆け寄って声をかけるが、意識を失っているらしいは反応しない。それどころか顔は蒼白で、指先や肩が小さく震えている。 ──これは。 を抱え上げる。酷い炎天下で汗を流し続ければ、いくら普通よりは体力があるくのたまとはいえ倒れて当然だ。悪い予感に胸騒ぎを覚えながら、突き動かされるように急いで下へと降りようとする。を抱えたまま慎重に降りることは難しい。多少の危険は覚悟して、そのまま屋根から飛び降りた。二人分の体重を支えた足は少し痛んだが、それだけで済んでくれた。まだぐったりと意識のないを抱え直して、一直線に医務室に駆け出す。 本当は、あの屋根の修理は俺がするはずだった。ただ俺が部屋に不在だったから、が頼まれたに過ぎない。つまりは、自身はそう思っていないだろうが、俺のせいで倒れたという見方さえ出来る。いや、実際のところそうなのだろう。 少しでも頭を巡らせれば分かることだ。委員長の俺が不在ならば、次は同学年のに話が行くのは当然だった。は真面目だから、こんな暑さの中でも不満を言わずに作業をする、それも容易く想像出来たことだ。 ──なぜ、気づかなかったのだろう。 舌打ちをして、自分より余程華奢で軽いの身体を支える力を強める。悪かった、と胸中だけでもとにかく詫びた。 「……どうした留三郎、の具合が悪いのか?」 「っ! ……仙蔵」 突然に目の前に現れたのは、立花仙蔵だった。この暑いのにどこか涼しげな雰囲気で、俺に抱えられたに視線を向ける。関わっている暇はない、一刻も早く医務室に行かねばと、咄嗟に止めてしまった足で再び駆けだした。 「おい留三郎、人の質問には答えろ」 無視したのが気に触ったのか、仙蔵が後ろからついてくる。正直凄まじく邪魔なのだが、手ぶらの仙蔵に対してを抱えている俺が振り切ることは出来ない。仕方なしに、走りながら口を開いた。 「用具委員の仕事で屋根の修理をしていたら、倒れたんだ」 「この暑さの中、屋根の修理? そりゃいくら体力があっても倒れもするだろうさ。もう少し委員のことを考えたらどうだ、用具委員長」 うるさい、そんなこと俺が一番分かってるんだよ。そう言い返したかったが、それを口にする余裕もなかった。俺が黙っていることをどう思ったのか、仙蔵はまだ続けてくる。 「大体は女だろうが。女が弱いとは全く思わんが、炎天下の作業にはお前のほうが適任だろう、留三郎。しかも倒れてそんなに必死になるくらいなら、最初から危ないことなどさせるな、阿呆」 くたばれ仙蔵。胸中でしか罵れなかったのは、その言葉が全て真実だったからだ。どう考えても俺の過失で、それに後半の言葉も否定できない。だが、こいつに言われると腹が立つ。 「まぁ、責めるのは後にしておいてやるか。先に新野先生に伝えてやろう。感謝しろよ」 仙蔵は言いたいことだけ言って、現れた時と同じく唐突に姿を消した。先に伝えてくれるという点のみにおいては感謝するが、正直仙蔵自身については本気でどうでも良かった。後でなにを言われようが知ったことじゃない、今はを医務室に連れて行くことしか頭にないのだから。 が倒れた原因は、十中八九日射病だろう。あれは一度患うと、それ以降癖になる体質になってしまうのだと聞いたことがある。それに、酷い場合には死に至ることもあり得る。 なぜ、気づかなかったのだろう。俺の過失で俺自身がどうにかなるのは仕方ないが、が害を被ることなど断じて望まない。 運んでいる途中で意識を取り戻したのか、の瞳がうっすらと開き、力のない声で「食満……?」と小さく名を呼ぶ。それで症状が軽いことが分かり、僅かながらホッとしたが、今はその言葉に応えてやれない。 医務室は、すぐそこだった。手が塞がっているので閉まったままの戸をどうして開けようかと思案していると、俺の足音が聞こえたのかそれとも偶然か、辿り着く前に戸が開き、見知った顔が飛び出してきた。 「留三郎! さん、倒れたんだって!? 早く中に!」 保健委員長の善法寺伊作が、こちらを確認してそう叫ぶ。見慣れたその姿が、今は酷く頼もしく思える。そのまま、医務室に飛び込んだ。 「食満君、ここに寝かせてください」 医務室にはすでに布団が敷いてあり、新野先生がその上にを横にするようにと指示をする。医務室の中にはあと保健委員のくのたまと、仙蔵がいた。仙蔵は『感謝しろよ』とでも言いたげな意味ありげな視線を送り、医務室の外に出て行く。 寝かせたを覗き込んで、新野先生がの様子を診始めた。 「どういう状況で倒れました?」 「屋根の上で修理をしていたんですが、降りると言った瞬間に倒れてしまって」 「意識はありますね。さん、話せますか? はい、無理せず楽にしていてくださいね。……二人とも、食塩水を作ってください、それと氷を早急に」 『はい、新野先生』 新野先生の指示に、伊作とくのたまの二人がすぐに仕事に取りかかる。新野先生はしばらくを診た後、ほっと一息ついた。 「軽い日射病ですね。適切な処置をすれば問題ありませんよ、意識もありますし」 そう俺に向かって言った後、新野先生は食塩水と氷を持ってきた伊作からそれを受け取り、保健委員のくのたまになにかを目で合図する。くのたまは一つ頷いて、俺と伊作に視線を向ける。 「の手当てをするから、食満と伊作君は外に出てて」 何故だ、と怪訝に思う俺を置いて、伊作はすんなりと外に出て行く。 「どうしてだ、俺がいたら邪魔か」 の容態が軽いと聞いても、安心出来なかった。俺の言葉に、くのたまは首を横に振る。の脈を測りながら、 「違うの。着物を脱がせるから出て行って、早く」 「…………はい」 その言葉になにも言えなくなり、素早く立ち上がって伊作の後を追った。 「よう、留三郎」 「やあ、留三郎」 医務室を出て戸を閉めた途端、両脇から声がした。右に仙蔵、左に伊作。伊作はともかく、仙蔵はにやにやと愉しい玩具でも見つけたかのように笑っている。悪い予感に頬がひきつった。 「……なんだお前達」 「まぁ座れ留三郎、の手当てが終わるまで大人しくしてろ」 「良かったねさん、大したことなくて。それにしてもこの炎天下で屋根の修理なんて、用具委員も大変だね」 仙蔵が俺の肩を叩いてその場に座らせる横で、同情の眼差しで伊作が苦笑する。 「全くだな伊作。この用具委員長様はな、か弱い女子委員に辛い仕事を押し付けておいて、倒れたら倒れたで取る物も取り敢えずこのザマだ。想像力が足りんのさ、さぞかし後輩の用具委員達は大変だろうな」 「仙蔵……俺に喧嘩を売ってるのか」 が倒れている隣で騒ぎを起こしたくなかったが、仙蔵の言葉は明らかに皮肉だった。湧き上がった怒気に、それを察した伊作の声が慌ててかかる。 「まぁまぁ、仙蔵。留三郎だって悪気は無かったんだろうし、そんな風に言わないでさ」 「悪気なんかないだろうさ、なぁ留三郎」 仙蔵はどこか意味ありげな視線で俺を見る。さっきから妙に引っかかる言い方に、さらに苛ついた。 「……悪気なんかあってたまるか、いい加減黙れ仙蔵」 「ほらほら二人ともやめてよ、さん寝てるんだし、ね」 取りなそうとする伊作の言葉にも、仙蔵は引き下がろうとしない。どころか、ずい、とこの暑さにも歪まない整った顔を近づけて、愉しそうに笑う。 「ああそうとも、悪気なんかないだろうさ。なんせは留三郎の想い人だろうからな」 さらりと言われた言葉に、俺だけ一瞬時が止まった。 「……え、仙蔵、それどういうこと?」 「どういうこともなにも言った通りだ。そうなんだろう、留三郎。……ん、聞こえなかったのか? お前はがす」 「アホか仙蔵! 憶測でものを言うな!」 ようやく思考が戻ったのは、仙蔵が意図して声を張り上げたからだ。ふざけんな、に聞こえたらどーする! 仙蔵の言葉を遮るために叫んだことに気づいたのだろう、仙蔵はまたにやりと愉しそうに笑う。 「事実だろうが、さっさと認めてしまえ」 してやったりと笑う仙蔵に、俺は出来る限り平静になれと自身に訴えていた。こんな挑発に乗ってたまるか。 「くだらない邪推もいい加減にしろ、仙蔵。どうして倒れた委員を運んできただけでそんな妙な話になるんだ」 「そうだね、仙蔵もからかうのやめなよ。留三郎はさんが心配なだけなんだよ」 ようし、よく言ってくれた伊作。思わぬ伊作の援護に俺は心から感謝する。仙蔵になど気取られてたまるか、どれだけからかわれるか分かったもんじゃない。 「お前は鈍いだけだ、伊作。……まぁ、私は他人の恋路になど興味はない。だから本当のことを言ってみろ、留三郎。に言ったりしないから安心して打ち明けろ」 「安心出来るかよ。お前はまずその誤った考えから改めろ」 つうか明らかに興味津々だろうが、お前は! 「まだ言い逃れする気か。男らしくない奴だ」 「いい加減にしろと言ったぞ、仙蔵。うちの委員が倒れてるんだ、まだうだうだとくだらんことを話す気なら叩き出すぞ」 仙蔵を睨み付けると、仙蔵は顔をしかめて「つまらん奴だな」と呟いた。顔には出さずに安堵する。どうやら仙蔵はなにか確信があって俺がに懸想していると見抜いたのではなく、単に俺が焦っていたからからかっただけなのだろう。人騒がせなこと言いやがってこの野郎。 「留三郎の言うとおりだよ、仙蔵。少なくとも医務室の近くでは静かにして。そういう話はせめてさんが元気になってからしようよ、さんは今辛いんだから」 さすが保健委員長と言うべきか、大抵の場面では他人に押されがちな伊作が、今はきっぱりと仙蔵を窘めている。仙蔵はさすがにばつが悪いのか、それ以上はなにも言おうとしなかった。 ──勝った。危機は去った。 内心拳を握りしめつつ、俺はまだ気分を害している風にふんと鼻を鳴らした。実のところまだ心臓がやかましい音を立てているのを悟られないために、必死で平静を装う。 俺がに特別な感情を抱いているのは、今更仙蔵に言われなくとも俺自身がよく知っている。他の用具委員ならばいいというわけでは決してないが、それでもこの件でが俺を嫌ったらどうしようだとか、勿論に無理をさせてしまった後悔だとかがせめぎ合い、それこそ本当に仙蔵などに構っていられる状態ではなかったのだ。それなのにに懸想していることを勘づかれそうになり、心底無駄に時間と余裕を消費させられた。人騒がせにも程がある。出来るだけ気取られないように、安堵のため息をゆっくりと吐いた。 そしてようやく、医務室の中に意識を戻す。ぱたぱたと少し忙しそうに走り回っている音は、保健委員のくのたまか新野先生か。ほんの時折新野先生が指示する声が聞こえるが、内容までは聞き取れない。の声もしない。けれど焦っているような様子もなくて、それに俺は先ほどとは別の意味で安堵のため息を吐く。 「心配しなくても大丈夫だよ、留三郎。意識があるなら大したことないんだ。すぐに元気になるよ」 俺がを心配していることが分かったのか、伊作が励ますように声をかけてくる。 「……ああ、そうだな」 「でもほんと、こんな暑い日に屋根の修理なんて大変だよね。明日じゃ駄目だったの?」 「雨が降ればすぐに漏れるほどだったんだ。誰だか知らんが屋根に大穴開けた阿呆がいるらしくてな」 雑談をしていたほうが気が紛れると気遣ってくれたのだろう、伊作の言葉に答えると、それまで黙っていた仙蔵がため息混じりに口を開いた。 「小平太だ」 「……は?」 思わず顔を向けると、仙蔵はつまらなそうに前を向いたまま、続けた。 「昨日小平太がいつものように体育委員を先導して学園内を走り回ってたんだ。『屋根の上でバレーしたらきっと面白いぞ!』とかなんとか言ってたな」 「……あ、んの大阿呆が……!!!」 「ま、まぁまぁ、留三郎落ち着いて。まだ小平太のせいかどうか分からないだろ」 「明らかにあいつだろうが! まったく体育委員……というか小平太のせいで毎回うちが泣きを見ることになるんだ! あんな野生児、野放しにしておいていいのか!」 「まぁ……保健委員も体育委員が出した怪我人の手当てでよく引っ張り出されるからなぁ。仙蔵はいいよね、作法は関係ないだろ?」 「バカ言え、うちがどれだけあいつのせいで備品を壊されてると思うんだ。それさえなければ先の予算会議で文次郎などに押し切られることもなかったものを」 あの野郎いつかボコる、と各委員会委員長のどす黒い怒気が一つになった時、軽い音を立てて医務室の戸が開いた。思わず振り向くと、保健委員のくのたまが俺の顔を見つけて駆けてくる。 「よかった。食満、まだここにいたんだね。の具合大分良くなったし、なにか伝えることがあるなら話しても大丈夫だよ」 どう? と保健委員のくのたまは俺に首を傾げる。俺はすぐに腰を浮かせて頷いた。 「ああ、悪いな。顔を見てくる」 「うん。でもあんまり長くは話さないでね、きっと疲れてるから」 その言葉にもう一度頷いて、俺は医務室へと向かう。「良かったね」と微笑む伊作と、なぜかまたニヤニヤと笑っている仙蔵の視線を感じながら、医務室へと入った。 →二話『炎天下』後編 |