中在家長次夢
『二度目の鼓動』


十話
「前日の夜」その二





 それほど長い間は待たなかった。二頁ほどの帳簿付けが済むと、長次は墨が乾いたのを確認して、帳簿を閉じた。長次の手が筆を筆入れに直し、算盤を仕舞って、文机の上を片付けていく。
 その動きが止まったとき、私は寄りかかっている長次を見上げた。ゆっくり、長次も私を見下ろす。
「もう終わった?」
「……ああ」
 背を起こして、長次と向かい合わせになるように身体を反転させた。今度は正面から長次に抱きつくと、長次はなんだか一瞬だけ躊躇った様子を見せた後、ぽんぽんと私の背を撫でてくれる。
「次は私に構ってくれる?」
 長次の首に手を回して、ぎゅっと身を寄せる。微笑みながら訊ねると、長次はなにも言わずに、今度は背ではなくて私の頭を撫でてくれた。
 なんだかやっぱり様子が変だなと思い始めたのは、その少し後だった。軽く頬に口付けたり私から手を握ったりしても、長次は拒絶はしないけど返してもくれない。唇を重ねようとしたときも、掠めただけでやんわりと離された。
 どうしたんだろうと長次の瞳を見上げても、長次はなんだか困っているような悩んでいるような、さっき私が勝手に布団を敷いたときに見せたものと同じ表情をしている。
「……もしかして長次、その気じゃなかった?」
 ようやくにそのことに思い至って、私は少し長次から身を引いた。夜に部屋に呼んでくれたのだから、当たり前にそういうことなのだと思っていたけれど、長次はもともとそんなつもりじゃなかったのかもしれない。だとするとなるほど、勝手に布団を敷いたり脱いだり、私はただのはしたない女だ。
「……そうじゃない」
「じゃあ、どうして? 私の都合で寝れないときもあるんだから、気にしなくていいよ」
 長次が私を気遣ってくれなかったことは、今までに一度もない。私の気持ちと身体、両方の準備が出来ているとき以外は、絶対に触れようとしない。長次がそうやって私を大切にしてくれているのだから、だから返す、というわけじゃないけれど、私も長次の意思を尊重したい。というか、したくもないのに抱いてもらうなんて意味がないし。
「…………」
 長次は相変わらず、悩むような目で私を見てる。はっきりそうだって言ってくれてもいいのに。

 ようやくに、意を決したように長次が私の顔を覗き込む。そっと頬に触れる長次の大きな手が、温かい。
「説得力は、あまりないかもしれないが」
 唐突な前置き。次に続けられた声は、少し固いというか、いつも以上に真面目なものだった。
「俺は、寝るためだけにお前と共にいるわけじゃない」
「え? ……ああ」
 やっと長次の言いたいことが分かった気がして、私はほっとすると同時にちょっと可笑しくなった。今更、なんでわざわざそんなこと。
「分かってるよ。私も、長次と寝るためだけに一緒にいるわけじゃないから」
 つまり長次は、私と恋仲でいるのは身体が欲しいからではないと、ひいては今夜私を部屋に呼んだのは寝たいという理由からじゃないと、そう言いたいのだと思う。さっきまでの長次の変な様子の意味が、なんとなくそれで分かった気がした。それにしても、いくらなんでも考えすぎのような気もするけど。
「でもね長次、せっかく一緒にいるんだから、抱けるときは抱いて欲しい。私は、長次に抱いてもらうのが好きだよ」
 ときどき長次は、私が長次を好きだということを、いまいち信じ切れていないような態度を見せるときがある。寝る前なんかは特にそうだ。躊躇いがちに触れてくることが多いから。
「それに、私だけやる気満々みたいなの、ちょっと寂しいよ。嫌じゃなかったら長次も返して」
 恋はひとりでは出来ない。好きなひとに抱いてもらうこともそうだ。長次が私に配慮してくれるのは嬉しいけれど、それがたまにそう、少し寂しくなるから。
「……悪い」
 長次の瞳が、私を見る。私も目を合わせて微笑むと、ようやくに長次からそっと口付けてくれた。重ねるだけの柔らかな感触が、心地良い。
「抱いてくれる?」
「いいのか」
「うん、長次に抱いて欲しい。……、っん」
 頷いた瞬間、唇を塞がれた。瞬く間に口の中に入り込んでくる舌が強い動きで探り、私のそれと深く絡む。同時に長次の手が私の中着の下に潜り込んで、背中に熱を起こすように撫で上げる。いつもの優しい手つきじゃなくて、少し性急な愛撫。……なんだか、ずっと我慢していたみたいだった。
 珍しく最初からの強い動きに戸惑いながらも返していると、長次が一度唇を離して、少し強く私の首筋を吸い上げた。くすぐったさと柔い痺れに肩が震えたとき、自虐的にも聞こえる、小さな吐息混じりの声が耳に届いた。
「だから、説得力がないと言っただろう」
「……そうだね」
 でも長次は、誤解されたくないと思ったからこそ、わざわざ口にしたんだろう。いつもはあんまり喋らないのに。なんだかそれすら幸せに思えて、心の中があったかくなった。笑って、私も長次に腕を伸ばして身を寄せる。
「長次」
「……ん」
「長次も脱いで」
 はやく、ひとつになりたい。




 長次はきっと、私よりもずっと私の身体のことを知っていると思う。触れられるところすべてに熱が生まれて、瞬く間に身体中へと広がっていく。
 最初の頃は痛みや恥ずかしさにばかり頭が染まってしまっていたけれど、今はそれよりも先に、好きなひとと身体を重ねる幸福感に酔ってしまう。まだ恥ずかしいと思うことも多いけれど、この行為のすべてが長次が私を求めてくれる結果ならば、それでいいかなと思えるから。
 愛し合って、求め合う。その相手が長次であることが、私の幸せだ。
「……、逃げるな」
「ご、ごめん勝手に……っあ……」
 愛撫の刺激に自然に身を引きそうになった私を、長次の腕が抱き寄せて、逃げられないように後ろから組み敷く。
 身体中に熱が回ると、頭がまともに働いてくれない。涙が滲んで視界まで曖昧になるから、さらに現実味が薄れてしまう。
 いつも私からもなにかしたいと思うのに、こうなってしまったらそんなことすら考えられなくなってしまう。ただ長次がくれるものを、そのまま受けることしか出来ない。それが嫌ではないけれど、ちょっとずるいなと思うこともある。
「長次、……ずる、い」
「なにが」
「っ、長次ばっかり、ずるい」
「だから、なんのことだ」
 うなじに、長次の唇が落ちる。舐められたところを強く吸い上げられると、まるで背骨に直接響くみたいにじんじんする痺れが走る。ああ、頭がくらくらする。
「私も……長次みたいに、長次を抱きたい」
「…………」
「っや、長次……、……っん!」
 一瞬困惑したような間があった後、前触れもなく長次の指がぐるりと中に入ってくる。同時に今度は耳の後ろに軽く噛み付かれて、びくびく勝手に身体が震えた。ほら、ずるい。長次に触れられると、私はすぐになにも考えられなくなるし、なにも言えなくなってしまう。

「あ……っ、長次……」
 敷布を強く握り締めていた指を、ゆっくり離される。代わりに握らされた長次の手に爪を立てて、身体に走る甘い痺れをやり過ごした。
 頭の中がさらにぼやけてくる。すすり泣いている自分に気づいて、ああ、やっぱり長次にぜんぶ酔わされている、と思った。
「……
 私を無理矢理酔わせているのに、長次はいつも労りに満ちた仕草で私に触れる。
 けれど声だけは、こんなときにしか聞けない少し余裕のない掠れたもので、私はそれを聞くのが好きだった。
 長次は寝るときでも愛してるだとか好きだとかはあまり言わないけれど、代わりに幾度も私の名前を呼んでくれる。その声は私の耳から身体の中に溶けて、それがまた熱になる。
「んっ……長次、もういれて……、っあ、か、髪ちょっと痛い」
「……悪い。ほどいてもいいか」
「う、ん。いいよ……」
 長次の熱が、私の熱と混ざり合う。長次が私の中に入ってくると、ほんとに長次とひとつになったみたいな錯覚が起こって、くらくら目眩がしてしまう。
「長次……ちょう、じ」
 熱と想いが溢れて、止まらなくなる。すごく愛おしくて幸せなのに、すごく切なくも感じる。
「す、好き。好き長次、大好き……」
 溢れる感情を単純な言葉にして、ただそれだけを繰り返す。
 離れないで。ここにいて。大好き長次。大好き。
……」
 幾度も私の名前を呼んでくれる声と、抱き締めてくれる腕。その二つに私のすべてを預けて、ゆっくり目を閉じた。






「長次、ここどうしたの?」
 睦んだ後。長次は私と自分の後始末を終わらせると、私が落ち着くまでいつも布団を出ずに待っていてくれる。
 お互いにまだ裸で、ようやくに熱が治まってきた頃だった。さっきは気づかなかったけれど、私を抱き締めてくれる長次のその二の腕に、塞がりかけた傷口があった。今までには見たことがない、ごく最近のものだ。もう出血する心配はなさそうだけど、そこそこ深い傷に見える。
「……授業で少しな」
「暗器?」
「いや。苦無だ」
 なんでもない風に長次は言うし、実際このくらいの怪我は学園に在籍していればよく目にする。長次の身体には他にもたくさん傷跡があるし、長次の傷が増えることには、私もだいぶ慣れてしまっていた。
「もう痛くない?」
「……ああ」
 その返事を聞いてから、そっと傷口を指で撫でて、唇を寄せて軽く口付けた。
 他の硬い皮膚と比べると、柔らかでまだ脆そうな、新しい肉。共に進んでいる道を思えば、怪我をしないで欲しい、なんてことはもう言えない。ただ早く治るようにと、命に関わる怪我をしないようにと、そう願うだけで。
「長次……」
 ゆっくり、長次の手と自分の手を繋いで、指を絡めたまま長次に身を寄せた。繋いでいないほうの長次の腕が私の背に回されて、長次からも抱き寄せてくれる。
 ただ重なるだけの肌と肌は、熱に浮かされていたさっきとは違って、安心出来て心地良い。ぎゅうっと長次にしがみついて、長次に包まれている幸せにぼんやり浸っていた。
 背に回されていた長次の手が、ふいにぎこちなく私の頭の後ろに触れた。撫でるでもなく、髪を梳くのでもなく、指先でいくらか触れた後、その手はすぐに私の腰に回されて、少し強く抱き寄せられる。
 長次の深い呼吸と鼓動が、肌を介して伝ってくる。落ち着いた様子じゃない、少し固い気配の長次に、私は顔を上げてその頬に指を伸ばした。
「……どうしたの、長次」
 長次の視線は一度私に向けられた後、僅かに逸れた。そのまま見つめ続けていると、繋がれていた手が離れ、私がしているのと同じように、長次の指が私の頬に触れる。

「なに……?」
 鼻先が触れそうな程に近い距離で呼ばれた名に、少しくすぐったくなる。長次は私の表情を探るように見つめながら、口を開いた。
「お前に話がある」
「……話?」
 長次の瞳と声音がいつもより真剣なものに思えて、私は僅かに身体を強張らせた。長次がこんなときに、わざわざ話があると断ってまで言うなんて、どうでもいいことのはずがないから。
「……先に言うつもりだったんだが」
 長次は独り言みたいに言うと、目を伏せた。先に言うつもりだった、というのは、寝るより前にということだろうか。
「なに?」
 言いにくい話なのか、促しても躊躇いがちな長次の様子に、私は少し不安になった。どうしたんだろう。
 長次は数呼吸の間また沈黙を持った後、意を決したように私と目を合わせた。その瞳には、今はしっかりと強い意志が浮かんでいる。
 続けて囁かれた、その低くて小さな声も、私の耳にはっきり届いた。
「お前が好きだ、
「……っ」
 どくん、と鼓動が跳ね上がり、頬が熱くなる。改めて真剣に告げられると、一瞬どうしていいから分からないくらい驚いて、そしてとても嬉しかった。
「あ、……長次、」

 ありがとう、と返そうとしたとき、長次が遮るように名前を呼んだ。その瞳が続きを聞いて欲しいと言っていたから、私もそれ以上なにも言わずに口を閉じた。長次の頬に触れていた指を引き戻すと、私の頬に触れていた長次の手が同じように離れて重なり、繋がれる。
。……俺は、言葉にすることが苦手だ。だから、上手く言えなかったら、すまない」
 どくどくと、二人分の鼓動が混ざり合い、ひとつになる。長次はなにを言おうとしているのだろう。震えてしまいそうな指先で、長次の手を握り締めた。
「今まで、お前が共にいてくれて、幸せだった。物心ついてからも、学園に入ってからも、想いを受け入れてくれてからも」
「ちょう、じ」
「俺は面白みのない男だから、悩ませたこともあっただろう。それでもお前が俺を選んで共に歩んでくれたことを、本当に幸いだったと思っている」
 言葉が、そこでほんの一瞬だけ途切れた。ただ長次を見つめることしか出来ない私に、次の長次の声が、届く。
「……。卒業したら、夫婦にならないか」
 一語一句。理解した瞬間に、じわりと視界が揺らいだ。咄嗟になにか言おうとして、けれどなにも出てこない。滲んだ視界の中、長次が繋がれた私の手の甲に、そっと口付けを落としたのが見えた。
「お前と共にいることが、俺の幸せだ」
 溢れた涙が、私の頬を伝って滑り落ちた。
。俺と共に生きてくれ」



 それは長い間だったのか。それともたった一瞬だったのか。
 なにも言えないでいる私の瞳から、涙だけが流れ続ける。伸ばされた長次の指が私の涙を拭おうと頬に触れた瞬間に、私は弾かれたように強く長次に抱きついた。
 言葉に出来ない感情の渦が、心の中から溢れ出す。どう言い表せば一番的確なのかは分からない。この気持ちを正確に伝えることなんて、きっと出来ない。
 ただひたすらに。幸せすぎて死んでしまいそうだった。
 長次の手が、私の頭を撫で続けてくれる。壊れ物を扱うような優しい手。昔からずっと傍にいてくれた長次。
 ゆっくりと息を吐くと、ようやくにほんの少し感情が落ち着いた。
「長次」
 顔を上げて、触れるだけの口付けをした。視界はまだ涙に濡れていて、長次の顔はよく見えなかった。二度、三度、優しく重ね合ってから、私はまた長次に身を寄せる。
 さっき長次にもらった言葉が、頭の中で繰り返される。
 夢じゃない。現実だ。
 私は長次に、求婚されたのだ。共に生きてくれないか、と。
「……長次、もしかして今日私を部屋に呼んでくれたの、それを言うためだったの?」
「…………ああ」
「ずっと前から、考えてくれてたの?」
「そうだ」
 だから長次は、さっき私と共にいるのは寝るためだけじゃないとか、金持ちになりたいのかとか、そんなことを言ってたんだ。ぜんぶ、私に求婚してくれるために。私との未来を選んでくれるために。
 嬉しくてたまらなくて、またぎゅっと強く長次に抱きついた。やっぱり、この気持ちを的確に表せる言葉なんてない。一番近い言葉は『幸せ』だけど、そんなのじゃ足りないから。
 嬉しい。すごく。

 けれど、ふと零れた長次の声は、私とは違ってなんだか不安そうなものだった。身を少し引いて涙を拭って、長次を見上げる。視界に映る長次は、どこか気まずそうに私から目を逸らして、小さく言った。
。……返事を、聞かせてくれないか」
「……あ」
 そこでやっと、私は長次の求婚になにも答えていないことに気がついた。だってそんなの、言わなくても長次は絶対分かってると思っていたから。
「そうだね、忘れてた。ごめんね」
 詫びるように頬に口付けて、少しだけ顔を離す。長次が私に求婚してくれたときと同じ、鼻先が触れそうな近い距離。私の言葉を待っている長次の瞳を、私もまっすぐ見つめ返した。
 ──私も、あなたとずっと一緒にいたい
 そう答えようとして。
 ふいにそのとき、気がついた。深い意味はなにもなくて、ただ今このときがとても幸せだと、そう思ったからこそだった。
「ねえ長次。返事、明日でもいい?」
「…………」
 長次の瞳が、戸惑いに揺れた。なぜ、と無言で問われる視線に、微笑む。
「だって、求婚なんて一生に一度でしょう? あとちょっとだけ、この気持ちのまま浸っていたいの」
 長次は少し安堵したように息を吐いて、それから今度は困ったように私を引き寄せた。
「あまり待たされるのは、不安になる」
 耳元で囁かれた声に、私はそのことすら嬉しくてまた微笑んだ。長次の背に腕を回し、飽きずに身を寄せて、ぴったりとくっつく。
「長次、好きだよ。大好き」
 大好き。
 その言葉にすべてを込めて。





「じゃあ、また明日ね、長次。私部屋に戻るね」
 布団を出て手早く着替えを済ませると、は立ち上がって俺の顔を覗く。俺も立ち上がりに背を向けて夜着を羽織ると、は「見送ってくれるの?」と嬉しそうに笑った。
「日が昇るまでは、ここにいればいい。小平太は朝まで帰ってこない」
 夜着の帯を締め終えてを振り向くと、は数秒迷うように眉をひそめて、それから「ありがとう。でもいいや」と俺を見上げた。
「それだとすぐに『明日』になっちゃうから。今日は一度帰るね。その分、明日も一緒にいよう」
 そう言って背伸びをするに、俺も少し屈んで唇を重ねた。もう数え切れないほど交わした口付けでも、未だにそれは初めてのときと変わらず愛おしかった。早く明日が来ればいいと思いながら、の頭を軽く撫でる。はくすぐったそうに微笑んでから、「あ」と身を引いて、すぐ傍の文机の前に膝をついた。
「これ、カメ子ちゃんに頂いたお菓子、一つもらっていくね。どっちでもいい?」
「ああ、構わない」
「そういえば、小平太に半分あげるんだっけ。私もそうしようかな」
 だってそのおかげで求婚してもらえたんだもんね、とはまた微笑んで、塗箱を一つ腕に抱え上げた。
 先に足を進め、音が響かないように、そっと部屋の戸を開ける。は声に出さずにありがとうと唇を動かして、そして最後にもう一度同じ言葉を囁いて、自分の部屋へと帰って行った。
 俺がこれからも共にいて欲しいと望んだ、柔らかな笑顔で。


「また明日ね、長次」














 その『明日』は、それから幾日過ぎても訪れることはなかった。
 次の日、は俺に関するすべての記憶を失っていた。俺のことだけを一つ残らず、すべて。

 共にいてくれないかと求婚した答えは、もう返ってくることはないのだろう。そしてそれがきっと、の出した答えなのだと。

 俺は、これからの人生をと共に歩みたかった。
 も同じ思いでいてくれると信じていた。
 愛されていただろうことを疑いはしない。は俺を愛してくれた。傍にいて、想いを受け止め、十分過ぎるほどに返してくれた。
 けれど。

 唐突に記憶を失う原因のほとんどは、外傷ではなく、心因性のものだと聞いた。
 つまりは、俺のことを忘れてしまいたかったのだろう。自分の意志で、そう決めて。
 そこに至るまでになにを考え、どう迷った末で選択したのかは分からないが、きっとその答えがにとっての最善だったのだろう。

 そう信じていなければ、自身を保つことが出来なかった。
 お前の世界に俺が必要ないならば、お前は俺を忘れたままでいい。
 そう言い聞かせて、と距離を取ることしか出来なかった。

 ──俺はお前に望まれなかった

 その事実に、潰されてしまう前に。
 



 俺はを愛していた。
 長い時間を共に過ごし、成長していくのを互いに傍で見ながら、年を重ねた。
 その記憶は本人と同じように愛おしかった。覚えているのが、もはや俺だけだったとしても。


 今までの俺の幸せは、お前と共にあるものだった。
 これからもそれが大きく違えるとは思えない。
 だから、もう俺には必要ないものだ。その分も持って行けばいい。
 今の俺には、もうそれだけしかお前に与えられるものがない。





 
 お前の幸せを願っている。















 →十一話「四日目」その一