中在家長次夢
『二度目の鼓動』


八話
「三日目」





 朝目が覚めてしばらくの間は、なにも考えなくても習慣で動ける。
 眠気の残る頭で布団から這い出し、夜着から忍装束に着替え、布団を押し入れに直し、洗い場に顔を洗いに行く。その間に少しずつ頭がはっきりしてきて、今の私が置かれている状況を思い出す。
 昨日目覚めたときは、記憶を失ったのはやっぱり夢ではなかったのだと悲しくなったけれど、今日はそれに比べると幾分か冷静だった。昨日のうちに分かったことを、夜寝付くまでずっと考えていたからかもしれない。
 顔を洗いながら、もう一度考える。どうすればいいのか。私はどうしたいのか。
 その答えは、はっきりとした形ではまだ出ていない。私が『今の私』である限り、失った記憶がある限り、きっと完璧な答えは出ないと思う。
 それでも、今のままでは嫌なのだと。その気持ちだけはいつまでも変わらなかった。
 私は、あのひとを思い出したい。


 放課後、委員会が終わって委員室から出ると、前で待っていたらしい数馬が駆け寄ってきて、「先輩、善法寺先輩からご伝言があります」と声をかけた。
 なんだなんだと好奇の視線を向ける委員達の前で、数馬はなぜかざっと私の身体を確認するように目を向けた後、言葉を続けた。
「この間の傷の具合を診たいから、医務室に来て欲しいんだそうです。今なら手が空いてるからと」
「そっか。ありがとう、数馬」
「いえ、失礼しました。お大事にしてくださいね」
 数馬は一礼して去って行き、周りの委員達がなるほどという顔をする。
先輩、お怪我ですか」
「ちょっと背中にね。大したことないんだけど」
「呼び出しなんて先輩、治療さぼってたんじゃないですか? 善法寺先輩に怒られますよう」
 からかうように笑う後輩に、そうかもしれないねと苦笑して別れて、私は医務室へと向かう。
 もちろん、この伝言は山本先生のときと同じで、誰かに聞かれてもいい表向きの呼び出し理由だろう。そう分かり切っていたから、私はそのまますぐに医務室へと足を運んだ。
 たどり着いた医務室の中には、伊作だけしかいなかった。伊作は薬箪笥の整理をしていた手を止めて私を振り返り、「ごめんね、急に呼び出して」と申し訳なさそうな表情になる。
「ううん。委員会も早く終わったから。数馬、長い間待っててくれたんじゃない?」
「さっき呼びに行かせたところだから、そうでもないと思うよ。あ、そこに座って。……数馬にはそのまま帰っていいって言ったから、もう誰も来ないよ。怪我人とか病人とかが出ない限りはね」
 少し笑って、伊作は薬箪笥から離れて、私の前に腰を下ろした。誰も来ないというのは、私に対する配慮なのだろう。
「それで……その、ごめん。最初に言っておくけど、治療法が分かったとかじゃないんだ。ただ様子が知りたくて……。もちろん、なにかあればすぐ言ってくれるってことは分かってるんだけど」
「ううん、大丈夫。……でも私もごめん、なんにも思い出せない」
 期待はしていなかったのだろう、伊作は残念そうな顔はしなかった。
「じゃあ、他にもなにか忘れてることはなかったかな。長次のことじゃなくて、どんな些細なことでもいいから」
「今のところは、なんにも」
 伊作に言われたことを覚えていたから、昨日の夜も考えてみたけど、中在家君以外に忘れているものはなにも思いつかなかった。
「そっか……」
 ふっと息を吐いて、伊作はすまなそうに眉を下げた。
「ごめんね。僕もどうすればいいのかよく分からないんだ。でも出来ることがあればなんでもするから、遠慮なく言って。それと、一人で抱え込んで無理しないで」
「……うん、ありがとう」
 もう一人、今の私の状況を知っている友達も、顔を合わせる度に気遣ってくれる。無理しないで。なにかあったらいつでも言ってね、と。
 山本先生も、小平太も。こうして私を気にしてくれるひとがいてくれるのは、幸せなことだと本当に思う。
「無理矢理に思い出そうとしたら、たぶん逆に混乱しちゃうんじゃないかと思うんだ。あんまり考えずに、いつも通りに過ごしてるほうがいいと思う。……家には帰らないんだよね? 長次と家が近いからかな」
「うん、そう。……伊作は、帰ったほうがいいと思う?」
「えっと……個人的な意見だけど、僕は出来れば、前と同じ生活をしたほうがいいと思う。が嫌じゃなければ、長次と一緒にいる時間も作ってほしい。ああ、でも無理に思い出そうとしなくてもいいから」
 伊作の言葉は、そのまま聞けば中在家君が言っていたものと変わらない。『無理して思い出さなくていい』。だけどたぶん、その意味は真逆なんじゃないかと思う。
「あ、傷の具合はどうかな? 軽いものだったけど、少し打ち身とか擦り傷があったよね」
「うん、大丈夫。青痣くらいだったし」
 擦り傷なんかはもうほとんど痕も残っていない。打ち身にだってこの六年間で慣れてしまっているし。……それは、全然問題ないんだけど。
「ねえ、伊作」
「ん、なにかな」
「聞いてもいい? 私と中在家君って、仲が良かったんだよね?」
 一応と伊作にも聞いてみると、伊作はすぐに「うん、そうだよ」と頷いた。
「君達は幼なじみだし、いつも一緒にいたよ。は長次によく本とか借りてたみたいだし、たまには外にも遊びに行ってたし。……その、えっと…………うん、すごく仲が良かった」
 伊作が口にするのを躊躇ったのは、恋仲がどうかということだろう。伊作が今までにもそれを言わなかった理由は、なんとなく分かる気がした。記憶もないのにいきなり恋仲だと言えば、さらに混乱するだろうからと。
「あのね、伊作」
「なに?」
「私、ほんとに中在家君と仲が良かった?」
「もちろん。長次は感情が外に出にくいから分かりにくいかもしれないけど、君のことをいつでも気にしてたよ。もちろん今も」
 それは、『今の私』でも……?
 そう問うのは、さすがにやめた。
 ただ「そっか」と頷いて、二言三言なんでもない会話を交わして、医務室を後にした。


 医務室を退室した私は、図書室へと向かっていた。考えてみれば、私は今までにもよく図書室に通っていた気がする。それはたぶん、中在家君がいたからなのだろう。
 今日は図書室にいるだろうかと思いながら歩いていると、ふと通りすがりに見知った顔を見付けた。
 一瞬どちらかと悩んだけど、図書室へと続く道で本を抱えているから、雷蔵だろう。
「雷蔵」
 声をかけると、大量の本を持っていたからか、雷蔵はそこでようやく私に気づいて足を止めた。「あ」と声を上げ、そしてすぐに「先輩」と慌てた様子で一礼する。
「雷蔵、今図書室から出てきたの?」
「あ……は、はい。そうです。あの、先輩……」
「ごめん、忙しいかな。えっと、なか……長次、図書室にいる?」
 なんだかあたふたしてる様子に、急いでるところを引き止めてしまっただろうかと申し訳なくなった。雷蔵はほんの一瞬迷った様子を見せた後、珍しくすぐに答えを出したのか、少し躊躇いがちに頷いた。
「えっと、中在家先輩は今日は当番ではないので、図書室にはいらっしゃらないです。食堂やお風呂でなかったら、お部屋だと思いますが……」
「そっか。ありがとう、雷蔵」
「……いえ」
 雷蔵はなにかを言おうとして言うべきことが見つからないような顔で、じっと私を見つめている。どうしたのかと目で訊ねたけれど、雷蔵は「すみません、なんでもないです」と首を横に振った。
 ああ、もしかしたら昨日の私の様子を見ていたから、怪訝に思っているのかもしれない。
「そう。……じゃあ、ありがとう」
 それなら、なにか言っても仕方ない。軽く手を振って、私は雷蔵に背を向けて歩き出した。




 昨日の夜。
 小平太に会い、簪のことを知ってから、決めていたことだった。
 私は中在家君と話をするために、男子寮へと向かっていた。
 男子寮は基本的に女子禁制。もちろん逆も。だけどあからさまに見つからなければ、大抵の生徒達は見逃してくれる。この間食満に、中在家君の部屋はどこかと聞いたとき、当たり前のように答えてくれたように。
 けれど放課後になるとさすがに出入り口付近は人通りが多くなるから、庭からこっそりと天井裏に忍び込んだ。そこから移動して、六年長屋の廊下へと下りる。
 長屋は、以前と同じくひっそりとしていた。ざわざわとした人の声や気配がすぐ近くにあるけれど、それは違う学年の長屋からだ。
 中在家君は、部屋にいるだろうか。お風呂だったら待っていてもいいだろうか。そう思いながら、隠れる必要もないほどにがらんとした廊下を、目的の場所へと足を進めた。
 二日前、こうして中在家君の部屋に向かっていたときは、すごく怖かった。自分が本当に中在家君のことを忘れているのかすらも分からなかったし、それを確かめるのも怖かった。全部夢であればいいのにと、そう願いながら歩いていた。
 でも今は、中在家君がこれまでの私の時間に確かにいたのだと理解したし、そのすべてを思い出したい。
 足を止めて、ゆっくりと息を吐いた。
 目の前の部屋に掲げられた名札は、中在家君と小平太の部屋であることを示している。
 意を決して、部屋の戸を軽く叩いた。
「………………」
 返事はなかった。
 もう一度、今度はもう少し強く戸を叩く。そして、中に声をかけた。
「入ってもいい?」
 部屋の中にひとの気配があることは分かっていた。それが小平太のものではないことも。私は気配を消してはいなかったし、きっと中在家君も、私が部屋の前で足を止めた時点で気づいただろう。
 それでも、やっぱり返事はなかった。まだ日が沈み始めたばかりの早い時間なのに、寝ているということはまずないだろう。それならばいっそこちらから開けてしまおうかと、戸に手をかけたときだった。
 唐突に、戸が開いた。
 反射的に手を引き戻すと、一昨日と同じように、開いた戸の向こうから中在家君が姿を見せ、じっと私を見下ろした。部屋の中で気配が動いた様子はなかったのに。
 その瞳が、無言で私に問う。なにか用か、と。
 私は右手で拳を作り、ぐっと握り締めた。
「邪魔じゃなかったら、話したいことがあるの。中に入ってもいい?」
 中在家君はしばらく悩むような沈黙を持った後、また無言で私に背を向けた。戸は開いたままだったから、入っていいということなのだろう。
 敷居を跨ぎ、戸を閉める。またゆっくりと息を吐いて呼吸を整えて、部屋の中へと歩き出した。
 中在家君は前と同じ場所、部屋の真ん中あたりで腰を下ろす。私もその前に向かい合わせになるように膝をついて、正座した。
 中在家君はただ私を見つめている。無表情に見えるけど、たぶん促されているのだと思う。
 私は真っ直ぐに中在家君を見上げ、そのひとの『名前』を、覚えている限り初めて呼んだ。

「長次」

 呼んだ瞬間、ぴくりと中在家君の瞳が鋭くなった。顔も、強張っているように見える。ほら、やっぱり。
「どうして、嘘ついたの?」
「…………」
 すっと、中在家君の表情が無感情なものに戻り、視線が伏せられた。私にはこのひとの感情の動きがよく分からない。だけどきっと、喜んではいない。
 中在家君はなにも言わない。だから、重ねて問いかけた。
「私があなたのことを思い出したら、すぐ分かるようにでしょう?」
 わざわざ前と違う名前で呼ばせる理由なんて、私にはそれくらいしか思いつかない。そしてその答えがたぶん間違っていないだろうことは、肯定も否定もしない中在家君の様子で分かる。
「……誰かに聞いたのか」
「あなたと私が、恋仲だったことも」
 予想はしていたのだと思う。中在家君の瞳も表情も、今度はほとんど動かなかった。
 少しの間、会話が途絶えた。ざわざわとした喧噪が、他の長屋から流れてくる。それがよく聞こえるくらいに、部屋の中には音がなかった。
 しばらく続いた沈黙の後、ぽつりと中在家君の声が落ちた。「すまない」と、小さな謝罪の言葉。
 中在家君は、目を伏せている。私と視線を合わせることを拒むように。
 違うの。
 責めているわけじゃない。謝って欲しいわけじゃない。私はただ、その理由が欲しかっただけなのに。
「……私、あなたがなにを考えているのか、分からないの」
 中在家君の言葉も、私に対する態度も。なにもかも理解出来なくて、それが苦しかった。私はこのひとのことを思い出したいし、そのための努力をしたいのに。
「あなたは、私のことが嫌いなの?」
「……いや」
「あなたのことを忘れたから、怒ってる?」
「違う」
「じゃあどうして、私と距離を取るの?」
 返事はやっぱり、そこで途絶えた。今の私には言えないことなのだろう。すべて教えて欲しいとは言わないけれど、ほんの少しでも、中在家君がどう思っているのか知りたかった。
 中在家君は、やっぱりなにも答えてくれない。私は膝を詰めて、中在家君に少し身を寄せた。じっと私を見下ろす中在家君の、その足に置かれている手に目を向ける。
 すぐ近くに中在家君の視線を感じながら、断りなしにその手に自分の手を重ねた。
「……なんだ」
「…………」
 大きな手。私の手が子どものそれに見えるほど、大きくて骨張った男のひとの手。長い指やその手の甲には、忍具で負ったのだろう細かな傷跡がたくさんあった。
 だけど私は、この手を知らない。今の私は。
 中在家君の手を上から握る。固い、今の私が知らない手の感触と、体温。
 でも、怖いとか嫌だとかは思わなかった。
「私、あなたに抱かれたことある?」
「……なぜ」
「自分のことだから聞きたい。……教えてくれない?」
 返事はないかもしれないと思っていた。けれどその長い指先を撫で、そっと離したとき、答えが落ちた。身を寄せていたから聞き取るのに苦労はしない、短い言葉。
「……ある」
「そっか」
 私はそれも、なに一つとして覚えていない。
「ねえ。抱いてくれないかな」
 そう言ったとき、たぶん初めて、中在家君が驚いた顔を見せた。
「なにを……」
「前にも私と寝たことあるんだよね? 今じゃなくてもいいけど……駄目かな」
 いくら考えても、直接話しても駄目だった。ならば前と同じように触れてもらえれば、少しは思い出すきっかけになるかもしれないと、そう思ったから。
「俺がお前を抱いたところで、記憶は戻らないだろう」
「もしかしたら、戻るかもしれないよね」
「…………」
 その沈黙は嫌がっているのか迷っているのか、私にはそれすらも分からない。
 以前の私は、すべて理解していたのだろうか。中在家君の一挙一動、なにを考えているのかを分かっていて、そしてこのひとに恋をしたのだろか。
「私ね。あなたのことを思い出したい」
 きっと大切にされていたのだろう。そして私も大切にしたいと思っていたのだろう。
 けれどそのすべてを、今の私は思い出せない。なに一つとして。
「……前にも言った。無理はしなくていい」
「無理してでも! 思い出したい!」
 思わず声を荒げて睨むと、中在家君がぴくりと眉をひそめた。たぶん初めて向けられた、強い視線。
「……俺は」
 中在家君の小さな声が、私に叩きつけられた。
「俺を好いていると分かるお前しか、抱きたくはない」


 ──ああ、そっか。


 きっとそれが、中在家君の本音なのだ。だから今の私では駄目なのだ。
 まるで失恋したみたいに、私の心は固まった。ぐさりと、胸が軋むように痛む。そっか。そりゃそうだよね。
「……ごめんなさい」
 中在家君にしてみれば、恋仲だったことを忘れたけど思い出したいから抱いてくれなんて、侮辱もいいところだったのかもしれない。
 でも私は、これ以上どうすればいいのか分からなくて。
「……ごめんなさい」
 中在家君から視線を逸らして俯いたとき、視界がゆるりと揺れた。ぽとりと、頬を伝って涙が落ちていく。手で拭っても次々に溢れてきて、止まってくれない。
「ごめん、なさい」
 涙と共に、今まで堪えていたすべてが流れ出したみたいだった。
 怖かった。どうして忘れてしまったのか、どうすれば元に戻るのかが分からなくて、距離を取られることも、以前の私のことを考えることも、ほんとはすべてが怖かった。
 私はあなたがいた世界を知らない。本当に、思い出せない。
 どうして私は忘れてしまったのか。誰かにこの気持ちを吐露したくてたまらなかった。どうして。どうして。どうして。……どうして。
「すまない。……悪かった」
 そっと、頬に手が触れた。私がさっき触れていた、中在家君の手。涙を拭ってくれるその指は温かかったけれど、その分私は悲しくなった。
 以前の私は、きっとあなたに愛されていたのだろう。
 以前の私は。
「あなたは、私が思い出さないほうがいいの……?」
「…………すまない。違う」
 中在家君の瞳は、私を見つめていた。優しいけど、寂しそうな瞳。
「じゃあ、どうして?」
 涙を拭ってくれていた指が止まる。一呼吸置いて、中在家君が口を開く。無感情にと、努めているような声音。
「……お前は、俺のことが邪魔だったのかもしれない」
「どうして、あなたを邪魔だと思うの」
「お前が忘れたのは、俺のことだけだ。……お前は俺を忘れたかったんだろう」
 違う。反射的にそう思ったけれど、言葉に出来なかった。私はこのひとのことを、まだほとんど知らないから。
 また中在家君の指が優しく動いて、私の頬を撫でる。囁かれた言葉は、酷く悲しいものだった。
「お前の世界に俺が必要ないならば、お前は俺を忘れたままでいい」
 ゆるりと、視界がまた揺らいだ。言葉に詰まってなにも言えず、ただ涙だけが溢れて、頬に滑り落ちていく。
「だから言っただろう。無理して思い出さなくていい。……お前はそのまま、思うままに生きればいい」
「あ、あなたは、それでいいの」
「………………」
 返事はなかった。だけどぽつりと、本当に小さく、こんなに近い距離なのにギリギリにしか聞こえない声音が、微かに耳に届いた。
 ──俺は、お前に二度拒絶されたくはない。
 私は拒絶したのだろうか。このひとを。流れ続ける涙を拭ってくれる、このひとを。
 胸が軋んで痛くて視線を伏せてしまったとき、頬に触れていた中在家君の手が離れて、私の肩に置かれた。

 名前を呼んでもらうのは、あの日目覚めたとき以来だった。
「少しだけ、すまない」
 言葉が落ちた瞬間に引き寄せられ、そのまま抱き締められた。息が詰まるほどの強い力。中在家君の身体は大きくて、全身が中在家君の体温と気配に包まれていた。それは少し苦しかったけれど嫌じゃなくて、……そしてとても悲しかった。

 耳元で、吐息と同じような微かな声。私の熱を確かめるように、中在家君の腕が幾度も私を抱き締める。
「…………」
 名前を呼ぼうとして、やめた。中在家君はきっと、今の私を通して、前の私を見ているのだろうから。
 それは仕方ないことだけど、悲しくて、寂しくて、なにも分からない私は、ただぼろぼろと涙を流した。、と私の名前を呼ぶ中在家君の声と、その体温だけを感じていた。
「すまなかった」
 さほど長い時間じゃなかったと思う。ゆっくりと、中在家君の腕が離れる。表情はいつもと同じに見えたけれど、最後にまた涙を拭ってくれたその指は、少しだけ震えていた。
「私が」
 思わず、引き止めるように声を上げた。
「あなたのことを、思い出したいと思うのは、……私の勝手だよね?」
 自分でも情けないくらい、縋るような泣き声だった。
 中在家君はなにも言わず、ただ私をじっと見つめただけだった。
 変わらない。今の私が覚えている中在家君の姿は、すべてそうだ。奥深い、凪いだ海のような瞳。

 中在家君の両手が、私の頬に触れる。顔を寄せ、私が拒まないのを確かめてから、左右どちらもの目尻にそっと口付けを落とした。流れ続ける涙を、止めるように。
 鼻先が触れそうな近い距離で、私を覗き込む中在家君の瞳が、ゆるりと揺れる。

「──お前の幸せを願っている」

 その一言を終わりにして、中在家君は私から離れた。
 中在家君はもうなにも言葉にせず、私を見ようともせず、私もなにも言えなかった。



 それはまるで、今生での別れの儀式のようだった。















 →九話「前日の夜」その一