田村三木ヱ門夢
『おやすみなさい、目が覚めるまで』





 学期の変わり目が近くなると、会計委員達には不眠不休と戦い続ける激務が訪れる。
 もともと学園の委員会の中でも一、二を争う過激さで有名な会計委員会である。普段の活動ですら、真夜中まで算盤を弾き続け、細かな予算表を作り上げ、厳しい委員長の気まぐれでなんの意味もないのに匍匐前進などさせられているのだ。
 それが学期末ともなれば、なおさらだ。今学期分の収支を計算し直して帳簿を作成し、さらに来期の諸予算案を作り上げなければならない。
 無論授業を欠席するわけには行かないから、委員達は自由時間や睡眠時間を返上して会計委員室に籠もることになる。上級生だろうが下級生だろうが関係なく、全員が血眼で算盤を弾き続け、墨の乾く間もないほどに筆を動かし、帳簿の数字を不備がないか穴が空くほど見つめ続ける。
 各々の委員達の教師が見れば、普段の勉強もそのくらいの真剣さでやってくれれば、と涙したかもしれない。
 それくらいの過激な作業だから、委員達にかかる負担は半端ではない。学年毎に作業量を分配しているとはいえ、体力も経験も少ない下級生達には酷である。一年生からぱたぱたと再起不能になるのは当然のことだ。
 今回もまたそれは変わらず、一番最初に倒れたのは、一年い組の左吉だった。



 ふと、隣にいたはずの一年生の気配がないことに気が付いた。算盤の珠を弾いていた指を止め、顔を上げて嘆息する。仕方なしに、対面の会計委員長に声をかけた。

「すみません、潮江先輩」
「あ? なんだ」
「左吉が倒れました」
 
 ぎろり、と血走った委員長の視線に、隣で気絶したように眠っている左吉を目で指した。地獄の行軍に入ってもう三日目。慣れぬ一年生にはそろそろ限界だろう。潮江先輩は無言で左吉を睨み続けていたけれど、さすがに私と同じ考えに至ったのか、諦めたように頷いた。

「田村、左吉を長屋まで連れて行け。すぐ戻って来いよ」
「分かりました」
「委員長、ちょっと」

 私が腰を上げようとすると、もう一人の委員の声が響く。会計委員会唯一の女子委員、先輩だ。委員長と同じく徹夜続きによる少し血走った目で、先輩は隣で指導していた団蔵の頭をぽんぽんと叩く。その動きに合わせて、団蔵の頭がこくこくと動く。けれどなんの反応もしない。算盤を握った姿勢のまま、団蔵も魂が抜けたように熟睡していた。

「団蔵も限界です」
「…………」

 先輩の言葉に、潮江先輩が顔をしかめる。こうなってしまっては、叩き起こしても使い物にならない。では私が二人を連れて行きます、と言おうとした刹那、ごん、と部屋に大きな音が響き渡った。覚醒していた全員が反射的に目を向けると、最後の委員の左門が、盛大に机に頭をぶつけていた。

「お、おい左門、どうした」
「……だ、大丈夫です! 寝てません、全然寝てません、寝てませ……寝てま……」
「左門、あんた額から血が出てるわよ」
「出てません! 血なんか出てませんし痛くもないですし、なによりお腹も空いてません! 僕は寝ていないのです、僕は寝てない、僕は寝てな…………い」

 ぱたん、とその言葉を最後に左門が力尽きたように文机に倒れ込んだ。ぐーかぐーかと途端熟睡した寝息に、私達上級生はざっと視線を交わし合い、誰からともなく嘆息した。
 潮江先輩が筆を置き、腰を上げかけていた私にまた口を開く。

「面倒だ。三木ヱ門、六年長屋行って保健委員長呼んでこい」
「え。ですが、こんな夜中にご迷惑じゃ」
「下級生が過労でぶっ倒れたって言ってこい。すぐ飛んで来る」

 潮江先輩の言葉は本当だった。もはや怒る気力もないらしく、善法寺先輩は委員室の惨状を目の当たりにして顔をしかめつつも、無言でせっせと下級生一人一人を医務室に連れて行ってくださった。申し訳ないことながら、会計委員会の上級生ならばこんなことは日常茶飯事だ。先輩も下級生の心配をしている様子もなく、さっさと下級生達の帳簿を回収し、やり残した帳簿計算を始めている。

「文次郎。言っても無駄だと思うけど、あんまり委員に無茶させないでくれよ。君らは健康をなんだと思ってるんだい」
「己を鍛えることで忍術の向上にも繋がる。無茶をしなければ忍者など務まらねぇからな」
「はいはい、言うと思ったよ……。文次郎はともかく、あとの二人も無理しちゃいけないよ。健康管理が出来てこその忍者なんだからね。なんて女の子なんだから、なにかあったら大変だよ」
「もの凄く余計なお世話ですしここに穴があったら落としたい所存ですが、それはともかく下級生の面倒を見てくださってありがとうございます、伊作先輩」

 弱いもの扱いされることが大嫌いな先輩が、やや据わった目で善法寺先輩に頭を下げる。善法寺先輩も慣れているのか、特に気を悪くした様子もない。

「お休み中にご無理を言って申し訳ありませんでした、善法寺先輩」
「これも保健委員の務めだからね、気にしなくていいよ。……あの委員長と女子委員にはもう期待していないけれど、君が委員長になったらまともな委員会にしてくれよ」

 それじゃ、と善法寺先輩は最後に左門を担いで医務室へと帰って行かれた。ぱたんと戸が閉められると、また何事もなかったように先輩二人は算盤を弾き出す。
 私もさっきまでの続きをやるために、文机の前に座り直して筆を取り上げる。下級生が作成した予算帳簿に不備がないか見直しながら、さすがに自分もだいぶ疲労しているなと他人事のように思う。
 授業成績も悪くないし同学年の中では体力もあるほうだとは思うけれど、勿論潮江先輩ほどではない。徹夜続きは慣れていても、頭の回転が大幅に鈍くなっている自覚症状くらいはある。左吉達のようにいきなり倒れることはなくとも、作業効率が落ちるのは否めない。
 けれど潮江先輩と先輩は、私から見てほとんど疲労からの支障がない。むしろ疲れていればいるほど、効率が上がっている気もする。恐らく、潮江先輩は自分を追い込むような鍛錬が好きで、先輩は障害があると燃え上がる性格だからだろう。つまり、どちらもなにかと戦うことが好きなのだ。

、お前今なにをやってる」
「団蔵と左門のやり残した帳簿計算ですが」
「それは後に回していい。先に図書の予算案を立ててくれ」
「分かりました。図書からの予算申請書、何割通しますか」
「八割だ。古くなった常備図書の入れ替え予算と、あと適当に不要なところを削ってやれ。お前に任せる」
「分かりました」

 普段は一触即発の先輩方も、淡々と仕事をこなしていく。算盤を睨み付けている仏頂面も、どことなく似ていた。おそらく私も同じ顔をしているのだろうけれど。
 一冊目の予算帳簿を確認し終え、次の帳簿を取り上げる。書かれている文字からして、団蔵が作ったものだろう。帳簿のあちこちに、直接指導をしていた先輩からの指示が書かれていた。
 顔を上げると、潮江先輩と先輩はただひたすらに算盤を弾き続けている。私が見ていることにも気付かぬ様子だ。一瞬の間を置いて、私も帳簿確認に戻る。
 四年男子の私と、五年女子である先輩とは、どれほどの差があるのだろうか。睡眠不足からくる頭痛に軽く眉をひそめつつ、私はそんなことをふいに思う。先輩に勝ちたいというわけでは決してないけれど、はたして来年になって私が五年男子になり、先輩が六年女子になったとしたら、二人の間に差はなくなっているのか。それとももっと引き離されているのだろうか。
 伊作先輩の、女の子なんだから、という言葉はまあ間違ってはいないと思う。女性のほうが体力も持久力もないはずだし、なにより回復も遅い。身体の構造的にそれは仕方ないことだ。しかし私が疑問に思うのは、はたして先輩は男である私よりも弱い存在なのだろうかということだ。
 先輩は体力も持久力もあるし、潮江先輩と一対一で戦えるほどに忍術の覚えもある(まあ、潮江先輩も当然手加減しているだろうけれど、そうは見えないほどには、だ)。
 大体今だって、疲労でぼんやりしている私と比べて、先輩は元気そうだ。眠そうだし疲れているようにも見えるのに、動きが緩慢になったりしないし言葉もはっきりしている。団蔵の帳簿を見ていても指示書きは的確だし、普段から先輩は睡眠不足でも計算間違いをしていない。
 つまり、と私は思う。なんだかぐるぐると余計なことを考えた気がするけれど、それはこういうことだ。
 私は先輩を好きだから、良いところを見せたい。たまにはかっこいいとかすごいとか言われたいし、先輩が困っていることを手伝って頼りになると思ってほしい。なんなら危ないところを助けて、きゃー三木ありがとう大好きとか言って抱きつかれたい。
 後半がただの妄想に過ぎないことはきちんと理解しているのだけど、つまりはそういうことだ。先輩にも出来ないことはたくさんある。当然だ。だけど、その中で私が手伝えることなど、はたしてどのくらいあるのだろうか。
 下級生もいなくなってしまうと、いかに自分が二人に比べて未熟かということが否応なく理解させられる。頭がまともに働いてないせいか、なんだかいつもよりも無駄にそのことが気になり始めた。そんなことを考えている暇などないはずなのに。

「潮江先輩、図書の予算案作りました。確認をお願いします」
「なにを削ったか言え、それだけでいい」
「常備図書の入れ替え予算・閉架図書用の新しい棚の購入予算を全額、それと中在家先輩の図書便りの発行予算と南蛮書購入予算をそれぞれ三割ずつ削りました。これでぴったり全申請予算の八割です」
「ん、まぁいいだろう。次は火薬委員だ。寒いから火薬倉庫での火鉢代をとかまた恐ろしくわけのわからん計上してやがるから、最低限の備品代以外全て削れ」
「了解です」
「三木ヱ門、お前はそれが終わったら体育を頼む」
「はい、委員長」

 おそらく私が会計委員会で学んだことの一つは、多少違うことを考えていても計算が出来るという特技だろう。意味もとりとめもないさきほどまでの考えを頭の端に押しやって、集中しようと算盤を握り直す。軽く頭を振って眠気を散らし、再び珠を弾き始めた。






 それから何刻経ったのか、真っ暗だった空が少しだけ白みだしてきた頃、ようやくに仕事に終わりが見えてきた。大方の委員会の予算案も作り終え、今学期の予算帳簿も仕上がった。まだ細かな修正は残っているけれど、計算や記入誤りは少し時間を置いたほうが見つけやすいものだ。

「まぁ、こんなもんだろう」

 潮江先輩のこの一言は、かなり褒めている部類に入る。さすがに疲れて瞼が落ちるのを必死に堪えながら、私は帳簿や算盤を文机の端に直す。
 さっさと片付けを終えた潮江先輩は、「また放課後に続きだ。下級生にも伝えておけ」と一言残し、委員室を去っていった。普段から徹夜をしていて隈だらけだから、潮江先輩はほとんどいつも通りに見える。七松先輩ほどではないけれど、あのひとも十分規格外だ。

「……疲れた」

 ぽつり、と先輩が文机に頬杖をついて言う。全くです。私も深く頷いた。慣れたことではあるけれど、三日徹夜はさすがに辛い。
 まだ微かでしかない朝の光が、すでに目に痛い。頭に薄い靄がかかっているようだ。
 私よりもだいぶ元気そうに見えていた先輩も、小さな欠伸を繰り返している。先程までと違って目もとろんとしていて、そのまま眠ってしまいそうに見えた。立ち上がり、先輩の元に向かう。

先輩、大丈夫ですか」
「ん……」
「半刻くらいは眠れそうですし、お部屋に戻りましょう」
「んー……」

 まだ瞼が下りてはいないけれど、もはやそれも時間の問題に思えた。ああ困ったなこれは私が先輩を支えて長屋か医務室にお送りするしかないかもしれない困ったな、でも不可抗力ですから仕方ないですよね、と眠気に半分程度しか働いていない頭で少しも困らないことを考えていると、その次の瞬間、眠気が全部吹っ飛んだ。

「ごめん三木、寝かせて」
「っ、え!?」

 ふらり、と先輩の身体が飛び込んでくる。慌てて両手を伸ばして支えたものの、突然のことに腰が入らず、そのまま後ろに倒れ込んでしまう。はたから見れば先輩に押し倒されたような体勢だ。

「ちょっ、先輩……!」
「あーもう、あの隈お化け委員長、寝たらすぐ馬鹿にするから無理矢理起きてたけどもう限界、ごめん寝かせて三木、ごめん眠い……」
「あ、あの、その、困りますから!」
「ほんと困るわよね……大体徹夜なんて逆に効率が下がるってのになんなのあの徹夜信仰。算盤をわざわざ重くするのと同じくらい意味分かんないんだけど、徹夜しすぎて頭の回転がおかしくなってるんじゃ…………あ、無理ほんと限界。ごめん、また起こして三木……」

 ひとしきりぶつぶつと潮江先輩への文句を言った後、だんだんと先輩の声が小さくなっていく。

「……おやすみ」

 最後に一言を残して、ぷつりと糸が切れたように先輩の身体から力が抜け、その重みが私の身体に密着する。
 直後、さっきの下級生達と同じように、すうすうと小さな寝息が聞こえてくる。

「えっ、と」

 とりあえず状況判断だけを済ませ、私はおそるおそる熟睡している先輩に手を伸ばした。背をゆっくり叩いても、先輩はぴくりとも動かない。そりゃそうだ、三日徹夜してるひとが眠ってしまったら、ちょっとやそっとじゃ起きるわけがない。
 それは分かってはいるのだけど、頭の中がぐらぐら混乱していく。無理に起こすのも忍びなければ、そもそも起こしたところで起きてくれる保証もない。けれどこのままというのもちょっと抵抗があるというか、いや決して嫌なわけじゃないんですけど役得なんですけど、でも先輩もほぼ意識がなかったみたいだし、男に抱きついたまま眠るっていうのが先輩の意思とも思えないし、先輩のことを考えたら離れるべきかもしれないけど、でも役得なのは確かだし、今後こんな機会があるわけないし、ええと、ほんとどうしようか。
 しどろもどろ考えていると、無駄に頭の中の酸素を使ったからだろう、だんだんと吹っ飛んだはずの眠気が戻ってきた。いつもだったらたぶん固まったままずっと考え続けるだろうけれど、私も心身共に限界に近かったから、珍しく積極的な結論が出た。

 仕方ないから、このまま一緒に寝てしまえばいい。

 それこそ気を失うように寝入ってしまった先輩は、静かな寝顔からも疲労が滲み出ている。そうだ、先輩だって疲れていないわけがない。体力が尽きても、気力だけで仕事を続けていたのだろう。
 なんだかそう思うと、少しほっとした。ついでに眠気がどっと酷くなって、さっきまで考えていたいろいろなことが消えていく。もう難しいことを考えずに、寝てしまいたい。先輩の身体は柔らかくて、体温を傍に感じているのはとても心地良かった。腕を回して抱き寄せて、その頭を撫でながら目を閉じる。

「おやすみなさい」

 あとはもう一瞬だった。転がり落ちるように、私も先輩の後を追って眠りについた。




 一刻ほど経って先輩に起こされるまで夢はなにも見なかったけれど、いい眠りだったのだろう、頭はだいぶはっきりしていた。
 すみませんと慌てふためいて謝る私を不思議そうに見ながら、まだ少し疲労の残る顔で、先輩は口を開いた。おはよ三木、と笑って。










 終