中在家長次夢
『本の返却は計画的に』前編
「あれ?」 久しぶりの丸一日のお休み。 溜まっていた洗濯物を片付けた後、部屋の掃除をしようと行李の中を整理していたときのことだ。 今度天気の良い日に虫干ししようと本を並べていたら、ふと行李の奥から自分のものではない本が出てきた。 南蛮の漢詩書だ。読んだ覚えはあるけど、私のものじゃない。図書室の印も押されていないし、はてこの本はなんだろう……と考えて、すぐにその答えに行き着いた。 長次の本だ。 「……あちゃー……」 記憶を掘り起こしてみても、一体いつ借りたのかも正確に思い出せない。たぶん三ヶ月くらい前、暇だと言ったら長次が差し出してくれたものだ。有り難く借り受けて時間を潰したけど、その後返すのをさっぱり忘れていたらしい。 言ってくれればいいのになあ、と長次のせいにしそうになって、いけないいけないと自分を戒めた。借りたのを忘れてたのは私だし。 こういうのは一日でも一刻でも早く返したほうがいいだろう。私は残った部屋の掃除を手早く終わらせて、早速本を返しに行こうと部屋を出た。 戸を開けて廊下に出た途端に、肌寒さを感じた。朝から降り続けている雨のせいで、空気がじっとりと重い。これじゃ洗濯物の乾きが遅いだろうなと、今出たばかりの部屋をもう一度覗き込む。雨のせいで外に干せずに部屋の中に吊っている洗濯物をちらりと見てから、今度こそ戸を閉めて廊下を歩き出した。 長雨の季節は晴れの日が少なくてちょっと退屈だけど、それでも趣があって私は好きだ。ぽつんぽつんと庇からの雨だれが地面の石を叩く音を『風流だなー』と思いつつ聞いていると、突然に少し前の部屋の戸が勢いよく開く。 「先輩っ」 廊下を歩いている私の気配を察したんだろう。一つ下の後輩が、部屋から顔を出して私を呼んだ。足を止めて「どうしたの?」と聞くと、後輩は「ちょっと待っててください、先輩!」と声をかけてから慌てた様子で部屋に戻り、すぐに私の元に駆けてくる。なんだか腕に大量の、……を抱えて。 「先輩、今からどこに行かれるんですかっ!?」 期待の眼差しで私の顔を覗き込んでくる後輩に、私は持っていた本を掲げて見せる。 「長次のとこ。本返しに行くの」 「図書室の本ですか?」 「ううん、長次の私物だけどね。ずっと借りてたの忘れてたから」 「じゃあ……あ、あの、これも一緒にお願い出来ませんかっ!?」 と、ごっそりと後輩が私に差し出すのは、彼女が部屋から持ち出してきた大量の本。……全部で十冊くらいの量。 見たときからそうだろうなと予想はしてたけど。 「また返すの忘れちゃったの?」 「そうなんです! 試験前だからたくさん借りたんですけど、返却期限が昨日までなんです!」 真剣な顔で頷く後輩に、私は思わず吹き出した。この子はよく返却期限が過ぎてしまった図書室の本を、代わりに返して欲しいと私に頼みにくるからだ。 「あ、でも今回は一日過ぎただけなんでしょ? ちゃんと謝れば長次怒らないと思うよ?」 言った途端、ぶんぶんぶんぶんと首を横に振られる。後輩は引きつった顔で、ついでに本を抱えてない方の手までぶんぶん振りながら、 「違います、先輩! ……普通に怒られるんじゃないから怖いんです」 むしろ怒鳴って怒られたほうがマシです、とびくびくする後輩に、まあ仕方ないかなと苦笑する。長次は口数も少ないし表情も分かりにくいから、誤解されやすい。 「分かった。いいよ、私が返してきてあげる」 「ほんとですか!? 先輩、ありがとうございます!!」 後輩はぱあっと顔を輝かせて、「お願いします!」と私に本を差し出した。「うん」と頷いて、私はそれを受け取って腕に抱える。 「いつもすみません、先輩。……あの、申し訳ないんですけど、中在家先輩ってちょっと苦手で……」 「んー。みんなそう言うけど、長次は結構可愛いとこもあるよ?」 「……う、うーん、そうです、か」 あからさまに『想像できません無理ですあり得ません』という表情をしてから、後輩は小さく首を傾げる。 「あの……でも先輩、それはお二人が恋仲だからじゃないんですか?」 「……まあ、私と長次は幼なじみだしね。それはあるかもしれないね」 昔から兄妹みたいに引っ付いてたせいで、今でも長次は私に甘いから。 ちょっとそれを考えていると、後輩はハッと気づいたように一歩身を引く。 「すみません、お引き止めしちゃって。申し訳ないですけどお願いします、先輩!」 ぺこり、と嬉しそうに笑って頭を下げる後輩に、私も本を抱え直して、微笑んだ。 「うん、ちゃんと返しとくからね」 「はい、ありがとうございます! お手数おかけしてすみません!」 「ううん、どうせ長次のとこに行くついでだしね。またなにかあったら言ってね」 じゃあね、と小さく手を振って、私は後輩に背を向けて女子寮の入り口へと歩き出した。 「……これ、全部で何冊あるんだろう」 男子寮に着いたとき、私の手の中には二十冊近い本が抱えられていた。 あの後どうやら話を聞いていたらしい後輩達が次々駆け寄ってきて、「先輩、私もお願いしていいですか!? 返却期限が先週までの本が三冊あるんです!」とか「私、図書室の本をちょっと汚しちゃったんです! 弁償はちゃんとしますから、お伝えして頂けませんか!? この本なんですけど!」とか頼まれてどんどん増えていったからだ。 私が女子生徒と長次の間に入るのはいつものことだ。だからそれ自体は全然構わないけど、さすがにこの量はちょっと重い。これだけの本を抱えて天井裏からは辛いので、開き直って男子寮の正面から入ってしまう。 庭から移動しようにも本を濡らすわけにも行かず、堂々と廊下を歩いて長次の部屋へと急ぐ。運が良いことに上級生にしか会わず、みんな抱えた本の多さでなんとなく状況を察したのか、見ないフリをしてくれた。そのおかげで、私は何事もなく長次の部屋の前へとたどり着ける。 部屋の中には、人の気配があった。抱えた本のせいで上手く戸が叩けないので、まずは声をかけてみる。 「長次、いる? 私だけど入っても…………あれ?」 「ん? 、どーした?」 声をかけた瞬間に、すぱーんと目の前の戸が開いた。その先に顔を出したのは、長次と同室の小平太だ。小平太はきょとんと私を見てから、「おおっ」とすぐに納得した顔になった。 「長次に会いに来たんだな? でも今長次いないぞー」 「え、そうなの? どこにいるか知ってる?」 「なんか先生に頼まれて資料整理の手伝いだって。昼には戻るって言ってたから、そろそろ帰ってくるんじゃないか?」 「そっか。じゃあ私、中で待たせてもらってもいい?」 「いいぞー。私どうせ今から委員会活動だからな! 途中で長次に会ったら伝えとくぞ」 「うん、ありがと小平太! 委員会頑張ってね!」 「おう! じゃあなー!」 小平太はにっと笑って、雨にも負けない勢いで瞬く間に廊下を走って行った。実技授業のコース設営だろうか。この雨の中でも委員会なんて、体育委員ってすごいなーと思った瞬間、「ちょ、七松先輩!! 私は今から予習をするんです! 今日は委員会の日じゃないじゃないですかー!」「なに言ってんだ滝夜叉丸! こんな絶好の雨の日に塹壕掘らなくてどうする! べちょべちょで楽しいぞ!」「嫌ですよ、顔が汚れますから、ってああああああもう七松先輩ーー!」「あはははは、いけいけどんどーん!」と悲鳴のような声と有無を言わさぬ声が聞こえてきて、やっぱりすごくない、と思った。 さて。 小平太の許可ももらったことだし、部屋の中に入って戸を閉めて、とりあえずはと抱えてきた本を下ろす。さほどの量じゃなかったけど、下ろした途端にちょっとだけ腕が痺れた。こんなんじゃきっと図書委員にはなれないなと苦笑してから、なにをして待っていようかと部屋の中を見回した。 長次と小平太の部屋の中は、比較的綺麗に見える。たぶん長次が几帳面で、小平太は部屋にいること自体が少ないからだろう。二つ並んだ文机も、名前も書いていないのにどちらのものかすぐ分かる。長次の机の上はきちんと勉強道具が並んでいるのに、小平太のは物置みたいに教科書がどどんと積み上げられているだけだ。硯も長い間使った形跡がない。 「……勉強してないのかな、小平太」 容易に想像出来すぎる。それとも、長次が自習してるときにでもついでに教えてもらってるのか。 さすがに人様の部屋をそれ以上物色するわけにも行かず、私はちょっと手持ち無沙汰になる。長次なら怒らないだろうと長次の文机から座布団を拝借して、その上に頭を乗せてごろんと横になった。 雨の音とざわざわした長屋の空気が、静かじゃないのに逆に眠気を誘う。朝から掃除と洗濯しかしてないけど、ここのところ委員会が忙しくてあまり寝ていなかったから、少しだけ眠い。 私以外誰もいない部屋は外と同じように肌寒くて、手足を縮めて膝を抱えた。それでも部屋の中には長次の気配と匂いが残ってる気がして、私はなんだか安心して目を閉じた。 うとうととしていたけど、眠りに落ちてはいなかった。だから気配と足音には気づいていたし、ぱたんと戸が開けられたときには、私も同時に目を開けた。 慣れたその気配は部屋の中を見て(たぶん私が丸くなってるのを見て)一瞬動きを止めた後、すぐに部屋の中に入って戸を閉めた。僅かな足音と共に近づいてきて、私の隣に腰を下ろす。ゆっくり見上げると、長次は私の額にその大きな手で軽く触れた。顔を覗き込むように、少し身を乗り出して。 「……どうした、」 「おかえり、長次。……あのね、これなんだけど」 問われた言葉に持ってきた本を視線で指すと、長次はすぐに理解して軽く頷いた。 「……返却か」 「うん、そう。長次のとこに行くって言ったら、後輩達にも頼まれちゃって。ごめんね」 長次は怒ったそぶりも呆れたそぶりも見せず、無言で私の額から手を離して本に向き合う。私も起き上がって隣に座ると、長次はただ黙々と本に入っている貸し出しカードを確認し始めた。 「どれも返却期限過ぎてるらしいんだけど、怒らないであげてくれる? 反省してたから」 「……ああ」 甘えてるみたいで申し訳ないけど後輩が怒られるのも可哀想でそう言うと、長次は一言そう返す。それからぽつりと、「女子生徒はお前がいるからまだマシだ」と呟く。 「そうなの? 男子生徒ってもっと酷いの?」 図書委員は男子生徒が多いし取り立てだってやりやすいだろうにと言おうとしたら、それよりも早く長次にしては苦々しい口調で「……学園長先生だ」と言った。 あー。 「教師陣は面倒だね……」 生徒なら問答無用で取り返せても、教師はそうも行かない。図書委員も大変だなと思っていると、長次がじっと一冊の本を見ている。後輩の一人が、汚したから弁償すると言っていた本だ。 「あ、ごめん。それね、汚しちゃったから弁償するって。いくらか言ってくれれば伝えるから、教えてくれる?」 「……そうか」 すっと指先で少し変色した本の端をなぞって、長次が見定めるように目を細める。それから、「別にいい」と小さく言う。 「いいの?」 「……読むのに支障があると思うか」 言われて本を渡されて、ぱらぱらとめくる。確かに数頁だけ端が少したわんでいるだけで、その他は目立った汚れもない。 「支障はないと思うけど」 「それに、新刊本だけ入れているわけじゃない」 確かに、そもそも図書室の本は古書のほうが多い。これ以上に酷い状態のものだってたくさんあるだろう。 「ん。じゃあそう伝えとく。ありがと」 きっと後輩も安心するだろう。それが嬉しくて長次に身を寄せると、長次はぽつりとまた「女子生徒はまだマシだ」と零す。 「なにかあったの?」 聞くと、長次はほんの少しだけ不快そうに眉をひそめた。ぽつりぽつりと単語だけで漏らしたのをつなぎ合わせてみると、さっき行っていた資料整理の手伝いで酷い状態の本をたくさん見た、ということだった。ちなみに学園長先生の私物の書庫整理だったらしい。 「お菓子食べながら読んだりしてそうだよね、学園長先生」 「……墨だらけのものもあった」 「硯からこぼしたんだろうね、きっと」 ちょっと楽しくて笑ってると、はあ、と長次がため息を吐く。そのときようやく私も長次に用があるのだと思い出して、慌てて長次から離れて借りていた本を懐から出した。 他のものと混ざるといけないからと別にしていたその本を手に、長次の顔を覗く。視線に気づいて私に目を向ける長次に、そっとそれを差し出した。 「あの、今日来たのはこれが本題なんだけど、この本ずっと借りっぱなしで返せてなくて。今日部屋掃除してたら出てきたから、……ごめんね」 「……ああ」 長次の瞳がちらりと私の差し出す本に向けられて、それから少しだけ躊躇うような間を置いて、取り上げられる。そのまま文机に本を置く長次の瞳の色と、僅かな表情の変化で分かる。たぶん長次は、私が持ってるのをずっと知っていたんだろう。忘れていた、という感情を出さなかったから。 「返せって言ってくれてもよかったのに。分かってたんだよね?」 「……読む予定がなかった」 聞いても、長次はただ簡潔に返すだけだった。これは私が甘やかされているということなのだろうけど、怒るときは怒ってくれてもいいのに。 「…………本当に気にしていない」 長次はそう言って私の頭を一度撫でて、また返却作業をし始める。 その姿をじっと見ながら、私はどことなくだけど違和感を抱く。 長次が私に甘いのは、恋仲になる前からずっとだ。むしろ恋仲になってなにが変わったかと言うと、お互いに深く触れるようになったことくらいだ。私は昔から長次に甘やかされて育ってきたし、本気で無茶なことをしたとき以外、声を荒げられた経験もない。 だから今回怒られなかったのだってそういう意味だと分かっているのだけど、……なんとなく。なんとなーくだけど、長次は私が本を差し出したとき、僅かに残念そうな感情を漏らしたように見えた。 それが気になる。 「」 「ん、なに?」 私が黙っていたのを気にしたのか、長次は部屋の隅に小山になっている本(たぶん私が持ってきたのと同じように返却された図書室の本だろう)から一番上の一冊を取って、私に差し出した。暇なら読んでいろという意味だと理解して、素直に受け取る。 よいしょ、と長次の後ろに回って、自然に長次の背に身体を預ける。長次もなにも言わずに、ただ私の体重を受け止めてくれる。 本の表紙を見ると、やっぱり図書室蔵書の、私の好きな作家の本だった。それもまだ読んでないものだ。たぶんそれを分かっていて、一番上に目立つように置いていてくれたんだろう。長次に気遣われていることが嬉しくて、ちょっとくすぐったくなった。 「ねえ、長次」 「……なんだ」 背中合わせの温もりに声をかけると、長次が小さく返す。そのいつもの声音と気配に安心して、私はちょっと笑った。 「私ね、長次が大好きだよ」 「…………」 告白した瞬間に、ぴたりと長次の動きが止まる。照れてるんだろうなと思って、私はまた笑う。それを察したのか、長次は小さく嘆息してからまた作業に戻ってしまう。 こういうところが可愛いなと思うんだけど、確かに後輩が言うとおり、それは私と長次が恋仲だから分かることなのかもしれない。それが幸せで、私は温かい気持ちになりながら、本をゆっくり開いて読み出した。 →後編 |