綾部喜八郎夢
三話『好きだと一言』後編



 二度目も果てた後は、綾部はそれ以上行為を続けようとしなかった。なにも言わずに一度だけ私を抱き締めて起き上がり、行為の始末を付け始める。地面の上なんかで睦んだからか、いろんなところが痛む身体を起こして、私も持っていた手拭いでざっと全身を拭いた。ぐちょぐちょの綾部の精と、私の蜜と、それから太股に残っていた朱色を、全部無感動に拭き取った。
 脱ぎ捨てていた着物を身につけて、髪も一纏めに束ねると、もうやることはなくなった。泥とお互いの体液で汚れてしまった綾部の上着を取り上げて、軽くはたく。これは早い内に洗濯しないといけない。そうぼんやりと考えていると、突然に腕を引かれた。

 私が持っている着物以外の着衣を済ませた綾部が、私の腕を掴んでいる。引かれるままに、その腕に抱き寄せられる。突然抱き上げられて身を固くすると、綾部は木の下に足を進めてそこに座って、そのまま私を後ろから抱き締めた。ぎゅ、と。綾部の着物を抱いた私ごと。
 最初と同じように、綾部はなにも言わずに、ただ私を抱き締める。私は力を抜いて、その身体に身を預けた。疲れた。繋がっていたあそこはまだ月のものの何倍もの痛みだったし、なにより全身どっと疲労まみれで上手く身体を動かせなかった。
 そうだ綾部に抱かれたんだと、その時急にさっきのことが現実味を帯びてきて、少しだけ恥ずかしくなった。でもそれよりも、最初からずっとあった、胸にどこか穴が開いたような悲しさのほうがまだ私の中で勝っていた。
 綾部が私の顔を後ろに向かせて、私の涙の跡に唇を寄せる。それは欲愛の行為というより情愛のそれで、綾部も抱いた相手にはそんな風に優しいんだと、まるで他人事のようにぼんやりと思った。
「痛かったよね。ごめん、
 綾部の声が固い。私は少しだけ胸が痛んだ。あれだけ強く痛がったから、気にしてるんだろう。
「……いいよ、別に。いつか、誰かとしなくちゃいけないし」
 返した言葉に、綾部の動きが止まる。それがどうしてか分からないまま、私は綾部に身体をすり寄せる。
 間を置いて、綾部はまた私の涙の跡に触れる。綾部の行動は、少し意外だった。男なんて、行為が終わったら物凄く淡白になるものだって、授業で聞いたばかりだったから。抱くだけが目的だったなら、もう別れていてもおかしくないはずなのに。
 けれど次の綾部の言葉で、私はその意味を知った。
。……また、抱いてもいい?」
 ──ああ、なんだ。
 綾部が今私に優しくすることに、納得が行く。私に触れる綾部の手が、ほんの少しだけ震えている。
 綾部は単に、『幾度も抱かせてくれる相手』として、私を見ていたというだけのことだ。
「あ……」
 納得した途端、涙が滲む。突然に堰を切ったかのように涙が溢れ、私の頬にぼろぼろと流れていく。綾部が息を呑む気配がして、顔を覗き込まれる。戸惑った顔で、不安そうに、
「っ、? どうしたの、──」
 そうやって。全部終わった後も、名前で呼んで!
「あ……あんたは! 私のことなんか好きでもないくせに!」
 今まで抑えてきた感情が、その時突然に爆発した。悲しい。物凄く悲しい。なんで私は、こんな奴のことを好きなんだろう。
 綾部から逃げだそうとした途端、物凄い強さで引き戻され、無理矢理その場に組み敷かれた。
「待って、。どうして──」
 行為中よりもずっと強く押さえつけてくるのに、綾部の顔は見たこともないほど戸惑いに揺れていた。なにそれ。なんであんたがそんな顔するのよ!
 悲しさと共に、綾部に対する怒りが湧き起こる。私がなんであんたに大人しく抱かれたのか、全然分かってないくせに!
「なにが、どうして、よ! 誰でもいいんでしょう? あんたの欲望のはけ口になるなら、私でなくてもいいんでしょう!? でも嫌、絶対嫌! あんたの都合のいいときに抱かせる便利な女になってまで、一緒にいたいなんて思わない!」
 悔しくて悔しくて、言いながらも涙が流れる。綾部は一瞬唖然と目を見開いて、「違う!」と叫ぶ。
「違う! 、お願いだから落ち着いて、聞いて!」
「ああ、そうだよね。大人しく抱かれたくせにこんなこと言い出すの、変だと思うよね? 分かってるよ、わけのわかんない女だと思ってるよね? 一度抱かせたのに次は駄目なんて変だよね? で、でも、やっぱ嫌! あんたにモノ扱いされるの、絶対嫌……!!!」
「違う!」
 どん、と平手ですぐ傍の地面を叩かれた。耳元を切る空気の音に、びくりと震えて言葉を呑んだ。だから、だから男なんて嫌いだ。都合の悪いことは力尽くでなんとかしようとするから。
「違う……違うよ、
 綾部の声が少し震えている。今更なにを言い訳するつもりなのか、それを思うと悲しくなる。もういいじゃない。認めて、諦めて、私を逃がしてくれればいいのに。
「なにが、違うのよ。あんたは、誰でもいいから抱きたくて、私が暇そうにしてたから誘って、次もそうしようと思ってるんでしょ? 抱くだけの便利な相手が欲しいんでしょう?」
 男のほうが性的衝動は大きいと聞くし、別に綾部がそう望むこと自体を否定するわけじゃなかった。だけどそれに私がなるのは嫌だった。綾部のことが嫌いじゃないから、なおさらに! そうだ、好きだから、だ。
「え……」
 突然に綾部が呆気にとられたように固まった。図星をつかれて……というより、なにか凄く驚くことがあったみたいに見える。もしかして全部無意識のうちの行動だったとか、そんなことを言い出したら思い切り殴ってやると心に決めていたら、綾部がゆっくりと私を見る。
 その視線は、先程見たような欲に浮かされたものでも、いつもの無表情のものでもなくて、どこか物凄く納得が行ったような、物凄く慌てたような、そんな複雑な視線だった。
、違う。本当に、違う」
 綾部の手が私の手を握る。ぎゅっと、繋がりを求めてるみたいに。ゆっくりと言葉を紡ぐ綾部にやけに気圧されて、私は言葉を荒げることなく、綾部を見上げる。
「だから……なにが、違うの」
 ようやくに、先程の酷い感情の揺さぶりは少し落ち着いていた。とりあえず綾部の話だけは聞こうと、私は全身から力を抜く。
「あのね、
 ゆっくりと。言い淀むみたいに躊躇しながら、綾部は声を出す。静かに、静かに、その続きを。
「僕は、が好きだよ」



「は?」
 突然零れた言葉に、即答で聞き返した。
 今、なんて言ったんだろう。なんか好きだとかなんとか言った気がするけど、聞き間違いか言い間違いか。
が好き」
 繰り返された。
「好きだから、抱きたかった」
 説明された。
「……い」
 かっと頭に血が昇った。
「今更、そんなの信じるわけないでしょう!?」
 綾部の手が緩んでいたので、起き上がって目の前の綾部に食ってかかった。そんなんで納得するほどにアホな女だと思われてるのか、私は!
「違う、本当にが好きなんだ」
 殴ろうとする私の腕を掴んで、綾部が首を横に振る。好きだ、と言われたら悪い気はしない。一瞬嬉しかったのも確かだ。でも、そんな言葉を易々と信じられない。嘘に決まってるのに。
「なんで、そんな嘘吐くの」
「嘘じゃない」
「嘘じゃないの! じゃあ、なんで最初に言わなかったのよ! 誰でもいいんだって思ったから! だから、」
「……それは」
 珍しく、言いにくそうに綾部は一度言葉を切って、いきなり私を抱き締めた。強く、逃げ出せないくらいに、強く。そうして私を閉じこめてから、綾部はぽつりと言葉を続けた。
「ごめん、言ったと思ってた。──忘れてた」
 は。
「……はぁ?」
 綾部が私を抱き締めてる意味が分かった。殴られないように、だ。悲しいよりも純粋に腹立ってきた。
「あんた……さっきから嘘ばっかり、なんで」
「僕は、に嘘を吐いたことはないよ」
 顔を上げさせられて、綾部は私と視線を合わせる。懇願するような瞳に、ざわりと揺れる。でも。
「ごめん。は不安だったんだね。ほんとに、ごめん」
 真面目な瞳。もしかしたら、本当なんじゃないかな、と思う。それなら一応意味は通る。……でも、騙されるな。絶対嘘だ。普通そんなこと忘れるわけがない。
「じゃあ……聞いてもいい?」
「うん」
 私が信じる気になったと分かったのか、綾部は目に見えてほっとした。私は最初のことを思い出しながら、綾部に尋ねる。
「綾部は、焦ってるから抱きたいって言ったよね? 早くしたいんだって。それは? 抱きたい理由なんて、好きの一言で説明出来るよね?」
 言いながら、ああやっぱり嘘じゃないかと悲しくなってきた。綾部は、そんなにも、嘘を吐いてまで私を便利な相手にしたいのだろうか。
 けれど綾部は、あっさりと首を横に振る。
「嘘は吐いてないよ。焦ってたのも、早くしたかったのも本当。──誰かに、を取られるのが嫌だったから」
「…………そ、そんなの」
「だから、いいよって言ってくれたとき、嬉しかった。僕が初めてだって言ってくれたときも」
 綾部の言葉に、心が揺れた。もし。もし綾部の言うことが本当だったら。
 綾部は、私を好きでいてくれるってことだ。
 それは私にとって甘い希望で、そうだったら嬉しくて、でもそうじゃなかったら凄く悲しくて、どう答えて良いのか分からなかった。私の戸惑いに気づいたのか、綾部は私を抱き締める腕に力を込める。
「ごめん。僕のせいで、ごめん。……でも、僕はが好きだよ。ずっと、好き」
「っ……」
 それが本当だったら、私はすごく嬉しい。だって綾部が好きだから。私も、きっとずっと、綾部が好きだから。
「信じてくれない? なにをしたら、は信じてくれる?」
 綾部の声は、私の頭を麻痺させていく。好きだと言ってくれてるんだから、嘘でもいい。傍にいられるなら、嘘でもいい、と。そう思ってしまうほどに。
「分かんない。私、なにを信じて良いか、よく分かんない」
 声が震える。綾部が少し悲しげな顔で、私の顔を覗き込む。
「──だから、一緒にいてくれる?」
 続けた言葉に、綾部は一瞬固まる。戸惑った瞳の綾部に、私はゆっくりと告げた。
「綾部が嘘吐いてるか本当なのか分からないけど、本当だったら私は嬉しい。だから、傍にいてくれる? 一緒にいて、本当かどうか、確かめていい?」
 傲慢だと怒られるかと思った。本当に綾部が私のことを好いてくれてるなら、失礼な言葉だと思った。でも綾部は静かに、私の言葉に瞬きをして、
の傍に、いてもいいの?」
「綾部が……それでよかったら」
「いい。が傍にいてくれるなら、なんでもいい」
 突然に強く抱き締められて、息が詰まりそうだった。綾部の身体が熱くて、また押し倒されるかとちょっと不安になったくらいに。だけど綾部はただ私を抱き締めているだけで、それ以上はなにもしなかった。
「好きだよ、。大好き」
 耳元で囁かれて、泣きそうになる。多分、本当だ。綾部は私を好いてくれてる。私が、綾部を好きなくらいに。
 ──でも普通好きだって言うのを忘れたりするだろうか。やっぱり不安になってきて、揺れる心に渇を入れる。いや、でも。でも。
 ぐらぐら私が揺れている間、綾部はずっと私を抱き締めていた。腕が強くて、綾部の身体が熱くて、ついにちょっと苦しくなって、軽く綾部の肩を押した。
「ごめん、綾部。ちょっと離れて」
「……やだ」
「ちょっと苦しいから」
「……ん」
 仕方なしにと言いたげに、綾部が少し私を拘束する力を弱める。ほっと一息ついた私に、ぽんぽん、と綾部が私の頭を軽く撫でた。
 それから、少し時間が流れる。、と綾部が私の名前を呼ぶ以外、なにも聞こえない。綾部の声と体温だけが自分の世界みたいになって、私は少しの気恥ずかしさに綾部に身を寄せた。
「ねぇ、。一つ聞いてもいい?」
「ん? ……うん、なに?」
 突然、相変わらずに私の頭を柔く叩くように撫でながら、綾部は僅かに首を傾げる。
「あのね。どうしては、僕に抱かせてくれたの?」
 唐突な質問に、一瞬黙る。ぽんぽん、と綾部は手の動きを止めずに、子どもにするように私の頭を撫で続けながら、
「僕はのことを好きだって言ってなかったのに、どうして抱かせてくれたの? ……僕のことが、嫌いじゃなかったから?」
 ぽん、とそれを最後に、綾部の手は止まる。な、んで。この男はそういうことには気が付くんだろう。どくん、と鼓動が跳ねる。
「……?」
「い、言うのやだ」
「なんで? 変な理由なの?」
「へ、へんじゃないけど」
「別にどんな理由でもいいよ。初めてだったのに、抱かせてくれたのは嬉しかったから。……大したことじゃないんだ。僕のことが嫌いじゃなかったらいいなって、そう思っただけだから」
 う。言うべきか、言わざるべきか、私の頭の中で、その二択がぐるぐる回る。でも言ってしまえば終わりな気がする。でも私だけがちゃんと言わないのは不公平だと思う。でも……
「言いたくなかったら、言わなくていいよ」
 ぽんぽん、と綾部はまた私の頭を撫で始める。
「き、嫌いじゃないよ」
「ほんと?」
「うん、嫌いだったら一緒にいないよ」
「……じゃあ、好き?」
 ぐいっと顔を上げさせられて、まともに綾部の視線とぶつかった。かあっと顔に血が集まる。なにこれ、なんでこんなことになったんだろう。
「う……」
 咄嗟に顔を背けても、綾部がそれを追いかける。
「好きじゃなくても、いい。いいんだ。が僕の傍にいてくれるなら、どっちでも」
 ゆっくりと目を細めて、綾部は素早く私の唇に口付ける。その一瞬の重なりに、胸が締め付けられるように痛んだ。
「……どっちでもいいの? 好きでも、そうじゃなくても」
「ん……好きでいてくれたらすごく嬉しい。でも……そこまで望むのは無理だと思ってるから」
 ……無理だと思われているというのも、少し寂しい。
「いい。がこうして傍にいてくれるなら。理由とか、なんでも、いい」
「よ、よくないよ!」
 どん、と綾部の肩を叩く。別に逃げようとしたわけじゃないのに、綾部はすぐに私を引き寄せて、また強く抱き締める。
「……いいよ、ほんとに。それでいい」
「よくないってば! 私がよくないの! ……ね、綾部。ちゃんと話すから、ちょっと離れて」
「やだ」
「じゃ、じゃあ、せめて顔見て話したいから、ちょっとだけ離れて!」
「ん……」
 渋々と、綾部は私を離してくれる。そうは言っても視線が合わせられるくらいにというだけで、抱き締められたままなのは変わらない。なんかさっきから綾部は私を抱き締めてばかりだけど、他人とくっつくのが好きなんだろうか。いつも飄々としてて、一人で居て、なにを考えてるか分かんないのに。
 綾部が身を引いて視線を合わせてくれたので、私は少しホッとして、それからちょっと気合いを入れた。
「あ、あのね。じゃあちゃんと話すから、聞いててね」
「……うん」
 綾部はどこか不満げで、少しむすっとしてる。なにが気に食わないか分からないけど、人の話はちゃんと聞いて欲しい。
「綾部は、どうして私が抱かれたのかって聞いたよね」
「うん」
「私ね、綾部が私のこと好きって……いやほんとはどっちか分からないけど……」
「本当」
「あ、うんえっと、好きだって知らなかったから、綾部は単に欲求不満とかの意味で、相手を探してるんだと思ってたの」
「……うん」
 ちょっと不満げにしていたからどうかと思ったけど、綾部は聞いてくれる。……ちゃんと、言わなくちゃ。顔が赤くなっていくのを感じながら、私は話を続ける。
「そんな暇つぶしの相手になりたくなかったし、綾部が私をそんな風に思ってたのも悲しかった。だからそんな理由で抱かれるのは、絶対嫌だと思ったの。でもね。断るのは、もっと嫌だった」
 あの時は不思議だった。どうして嫌なのか分からなかった。でも……本当に抱かれてから、気づいた。
「私……ね」
 赤くなってる。耳まで熱くなってくる。綾部の視線が恥ずかしくて、俯いた。
「私……こ、断ったら、綾部が違う子のところに行くんじゃないかって、思って」
「え?」
 綾部の不思議そうな声。恥ずかしい。でも言わなきゃ。私だけ言わないのは、ずるい。
「綾部は誰でもいいんだと思ってたから。だからもし私が断ったら、私以外の女の子を誘って、それで、私以外の子を抱くと思ったから!」
 びく、と私を浅く抱いている綾部が震える。ばくばくと自分の心臓の音がうるさい。でもあと少しだけだから、最後の勇気を振り絞る。
「他の子を抱くくらいだったら、わ、私のことが好きじゃなくても、せめて……私にして欲しかったから」
「……っ
「あんたのことが好きだから!」
 告げた瞬間、視界が揺れる。いつのまにかまた泣いていた。顔を上げる。すぐ傍にある、唖然とした顔の綾部。私はこいつが好きだと、そう改めて思う。
「好きだから、他の子を抱くより、私にして欲しかった。でも、好きだから、便利な女とか、抱かれるだけの関係になりたくなかった。好きだから! だか……ら」
 言った。ちゃんと、言えた。涙が頬にこぼれ落ちるのを感じながら、唖然としたままの綾部に身を寄せる。
 好き。大好き。膝を少し伸ばす。軽く、触れるだけの口付け。
「……好きよ、喜八郎」
 唇が触れそうな近い位置で、想いを告げた。

「っあや…………ん、んっー!」
 突然に、綾部が噛みつくように口付けた。乱暴で容赦のない、獣の咀嚼のような口付け。私と綾部の舌の温度が同じものになったとき、ゆっくり、綾部は唇を離す。
「や、なんで……」
 苦しさに息を整えていると、睫の触れそうな距離で、綾部が私の顔を覗き込んで、告げた。
「絶対離さないから」
 ぎゅうっと、心臓を掴まれたみたいに動けなくなる。
「嘘だって言っても遅いから。絶対、離さないから」
 そのまま、痛いほどに抱き締められる。苦しくて、でもようやく本心が言えて、嬉しさがこみ上げる。ようやく本当に実感出来た気がする。私は綾部が好きで。……綾部もきっと、私を好きでいてくれる。
「……嘘じゃないよ、好きよ」
「僕も好き。……大好き、
 抱き合ったまま、想いを告げて、告げられて。すごく嬉しくて、すごく幸せで。
 ずっとぴったりくっついたまま、お互いが飽きるまで、口付けを交わし合った。





「……ねぇ、綾部」
「ん? なに?」
「あんた、他にもなにか忘れてたりしない?」
「他って……? なんのこと?」
 帰ろうか、と立ち上がった時だった。なんだかちょっと不安になって、私は首を傾げる綾部を軽く睨む。
「だ、だって、好きって言うことを忘れるとか、普通ないよ。他にもない? 隠してることとか」
に嘘は吐かないよ」
「……えっと、後で言われたら私が怒りそうなこととか、ないの?」
 たとえば……そう、昔付き合ってた子がいるとか……い、いやこれは別に私が立ち入ることじゃないか。そうだ、私が好きなのは、貧乳が好みだったからとか。べ、別にそれはそれでもいいけど。あ、違うか、綾部は穴に落ちまくるから私が好きなんだっけ。なんかそれはそれでヘコむ。
 一人でぐるぐる考えてたら、うーんと綾部は首を傾げて、「ああ」と思いついたように顔を上げた。
「な、なんかあるの?」
 嫌な予感にびくびくしてると、綾部は私に視線を向けて、いつもの無表情でさらりと言った。
……って、呼んでいい?」
「な」
 なにを今更!! と思ったけど、そういえば最中に呼び方が変わってそのままだったと思い出す。律儀なんだかなんなんだか。
「ん、うん。いいよ」
「うん。じゃあも、僕のこと名前で呼んでね」
「ん……」
 額に一つ口付けられて、顔が赤くなりながら頷いた。別にそれ自体に抵抗はないけど、なんだか行為の後で呼び方を変えるなんて、本当に恋人同士っぽくて恥ずかしい。それじゃ帰ろうかともう夕陽が照らしている木立の中を歩き出そうとすると、いきなり綾部に抱き寄せられ、そのまま抱え上げられた。
「……綾部さん? なにしてるの」
「喜八郎」
「喜八郎さん、なに?」
「……痛そうだから」
 腰とか、足とか。そう付け足されて、ぐわんと頭に血が昇る。確かに痛いのは確かで歩くだけで痛いのは確かなんだけどこれはない恥ずかしい。大体他の人に見られたら言い訳できない。
 でも……今日くらいはちょっといいか。そう思って、綾部の首に手を回す。
「人がいないとこまででいいからね?」
「……うん、多分」
「た、多分!? どうしてそんな不安になることを!」
 もしかして綾部、いや喜八郎は、天然装っていろんなことを分かっててやってるんじゃないだろうか。
 そんなことを訝しく思いながら、ちょっとだけ目を閉じる。傍にいる人の体温と、匂いと、気配と。全部全部全部、愛おしいと改めて思って。


 ──大好きだよ。


 小さく囁いて、僕も、と返された。




















 終

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