田村三木ヱ門夢
一話『委員長への嫉妬』
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深夜。 用具委員が足りない備品を探して学園内を走り回っていたり、保健委員が意味もなく作法委員の用意した罠に引っかかっていたり、体育委員が山でえっちらおっちら自主トレーニングしていたり、生物委員がまた逃げ出した毒虫を必死で捜索していたりする、そんな騒がしい夜。 会計委員は、次期の予算会議に向けて、各委員会の予算案を立てていた。 静かな会計委員室の中、響くのは算盤を弾く音と筆で紙を払う音、そして時折下級生が漏らす欠伸だけ。一体何刻の間こうしているのか本人達にも分からないほどで、委員長以外の委員は心身共に限界に近かった。それも数日前から強行軍でこうなのだから、尚更に疲労が酷い。 誰もが『早く部屋に帰って眠りたい』と思いつつ必死に算盤を弾き、出た数字を黙々と書き込んでいた、その時。 「……委員長ー」 突然に、その静けさを破る気だるげな声が響いた。右手を軽く挙げて発言を求めているのは、眠気のせいか目つきが悪い、会計委員唯一のくのたま、五年生の。目つきが悪いというかほとんど据わった目で睨んでくるに、文次郎は手を止めて顔を上げる。 「なんだ。くだらんことだったら却下するぞ」 「計算に飽きました」 「却下だ」 文次郎が断じた瞬間、は、ばしん、と文机を叩いて立ち上がる。ひ、と周りの会計委員が後ずさりするのにも構わず、 「委員長!」 「夜中に大声を出すな、どこで敵が聞いているか分からんだろうが」 「空想上の敵と戦うのも程々にしてください、フケ顔委員長」 「な……! 誰がフケ顔だコラ! いいからとっとと計算に戻れ!」 「ですから、飽きたと言ってるじゃないですか! 大体、予算案の枠組みは三木と左門が作ってくれたじゃないですか、なんでもう一回計算し直さなきゃならないんです!」 「誤りがないよう、何度も確認することが大事なんだ。寝ずに重い算盤を弾いていれば鍛錬にもなる! ……ほら、とっとと座って続きをやれ」 しっし、とまるで追い払うような手の動きで着席を促す文次郎に、はピキ、とこめかみに青筋を立てた。 「委員長!」 「……なんだ、。またくだらんことなら──」 「月のものが酷いので帰っていいですか」 『ぶっ!』 の言葉に、会計委員全員が噴き出した。上級生は目を剥き、かろうじて意味の分かるらしい下級生達は、真っ赤に顔を染めている。 「き、貴様、なにを……!」 「事実です。……いやぁ、困りましたよ委員長、月のものってイライラするんですよぉ」 と、そこで一旦言葉を切り、はゆっくりと文次郎を睨み付ける。 「そのせいですかねぇ、……委員長の血が見たくてたまらないです……」 ふふふふ、と不敵に笑いながら、は腰元から手裏剣を取り出す。その瞳に殺気が宿っているのに気づいて、文次郎も席を立つ。 「ほほう……俺に喧嘩を売ろうってのか。いー度胸だ。表に出ろコラ」 「望むところです。正々堂々木っ端微塵にして差し上げましょう、横暴委員長」 ふふふふふふ、と二人分の薄笑いが部屋の中に充満し、張り詰めた空気が頂点に達した、その瞬間。 「やめてくださいよ、二人とも! 団蔵、左吉、左門、潮江先輩を止めろ!」 三木ヱ門の声が響き渡り、その声でようやく我に返った一年生二人が、必死に文次郎の両足に飛びついた。三木ヱ門もを後ろからはがいじめにして文次郎と距離を離す。少し遅れて、左門も袋槍を掲げようとしている文次郎の右手にすがりついた。 「な、貴様ら、離せこのアホウ!」 「い、嫌です! 潮江先輩、もう少し落ち着いてくださいよー!」 「潮江先輩、相手は先輩ですよ!」 「だからどーしたー! 売られた喧嘩は買うのが当然だ!」 「なにすんのよ三木! 離せ! なんで止めんのよ!」 「止めるに決まってるでしょうが! た、体調悪いんでしょう!? 安静にしててくださいよ!」 「安静にするためには、あのフケ顔委員長を倒さないと!」 「なんだとコラお前、さっきからフケ顔フケ顔言い過ぎだぞ!」 「それのどこが十五歳なんですか、年齢詐称もいいところです!」 「お前こそ、五年生にしては発育が足りてないだろうが!」 「なーー!? 人が多少気にしてることを!」 「あーあーあーもう、やめてくださいよ先輩方ー!」 どすんどすんばたばた、大体こいつに月のものが来るわけないだろうがこの暴力女が、ひゅんひゅーん、ちっ使い物にならなくしてやろうと思ったのにしくった、バカてめどこ狙ってんだふざけんな、どったんばったん、先輩方ほんとやめてくださいよ先生方に怒られますー! 墨は飛ぶわ文鎮は飛ぶわ算盤は飛ぶわ、挙げ句の果てに文机さえも狭い部屋の中を行き来する。こうして乱闘を経験するのは予算会議の度だから慣れているとはいえ、後輩達も静観していられるほどに心穏やかではいられない。必死に二人を止めようとするのだが、文次郎は後輩何人かが束になって止めてもそのまま引きずって行くし、は後輩達にしがみつかれると一応動きは止めるものの、そうすると文次郎からの攻撃を一方的に受けることになるので、逆に後輩達が慌てて離れざるを得なくなる。 結論として──二人が飽きるまでこうして放っておくしかない、と理解した会計委員達は、部屋の隅でこっそりと戦いの行方を見守りながら、時折申し訳程度に文次郎を止めようとし、振り払われて畳の上を転がった。 「仕方ないな……おい左門、とりあえず予算案の決定稿だけは避けておくぞ。破れたら使い物にならんからな」 「また連日徹夜するのは嫌ですしねー……」 珍しく息を合わせて三木ヱ門と左門が帳簿を回収していく横で、一年生二人は身体を縮めている。 「ていうか、なんでいつもこうなんですかね、うちは」 乱闘のとばっちりでも受けたのか、頭に出来た小さなコブを撫でながら、左吉はため息をつく。 「別にうちだけじゃないだろ、作法委員とか体育委員も日常茶飯事だよ」 あははは、と豪快に笑う団蔵を、左吉はキッと睨み付ける。 「ていうか団蔵、お前さっき潮江先輩止めるときに僕の頭踏んだだろ! このコブ、お前のせいだぞ!」 「あれ、そうだっけ。まぁ、そんなことどーだっていいじゃないか左吉、気にすんなって」 「団蔵、お前なーー!」 「なんだよ左吉、やんのかー!」 「こら一年坊主、やめろ! お前らまで喧嘩してどーすんだよっ!」 左門が二人の首根っこを捕まえて引きはがす。むー、と一年生二人はなにか言いたそうな顔をしてから、渋々と身を引いた。 「それにしても先輩達……いつまで続ける気だろうな……」 ぼう、とどこか焦点の合ってない瞳で、三木ヱ門が呟く。 部屋の隅で防御態勢をとっている四人の前で、文次郎とは無駄に高度な忍術で低度な喧嘩を続けている。二人だって連日徹夜続きのはずなのに、よくあれほど動けるものだ。 「田村先輩、なんか疲れてるみたいだな」 「そりゃ、誰だって疲れてるよ。先輩達も、きっとイライラが溜まってるんだろ」 一年生二人がこそこそと言い合う横で、左門が盛大にため息をつく。さらにその隣で、つられるように三木ヱ門も嘆息した。 てか先輩、体調悪いなら無理しないほうがいいんじゃないかな。 お互いに罵詈雑言を吐きながら戦い合っている二人を見ながら、三木ヱ門は少し心配に思う。月のものというの話が本当かどうか分からないが、それでもの顔色がいつもより悪いのは確かだと思う。少しふらついているし、覇気は余りあるが身体がついていっていないような感じだ。 勿論後輩達の言うとおり、徹夜続きなのだから疲れているのは当然なのだろうけど。……その疲労とは、また質が違うように見える。 と文次郎は、なにかとよくぶつかっている。文次郎は無茶なことばかり言う委員長だし、は黙って耐えている性格ではない。だからこうして珍しくない頻度で衝突するのだが、三木ヱ門にはそれがどこか羨ましいなぁなどと思ってしまうのは、多分。 「、貴様手裏剣に毒を塗ったな!? 殺す気かアホウ!」 「もとより本気じゃないのに喧嘩ふっかけたりしませんよ! あと安心してください、毒って言ってもただの猛毒ですから!」 「殺す気満々だろう、この見境のないアホくのたまが!」 「孫兵君に頼んで、じゅんこの毒を少々」 「製造元なんか聞いてないわ、さっさとくたばれ!」 こんな罵詈雑言なのに。それなのにどこか羨ましいなぁ、などと思ってしまうのは、多分。 ……多分。自分は、とこんな風に喧嘩というかなんというか、そんなものをしたことが無いからなのだろう。 そう思って、三木ヱ門はまた嘆息を漏らす。 いや、別に喧嘩がしたいわけじゃないんだけど。と、心の内の呟きは続く。 は基本的に温厚だし、自身が納得さえすれば文句だってほとんど言わない。だから後輩とも上手くやっているし、もちろん三木ヱ門とだって別に仲が悪いわけじゃない。むしろ良い方……だと思いたい。 けれど、今目の前で繰り広げられている対潮江先輩みたいな、こういう絡み方の出来る二人も悪くないんじゃないかとか、そんな風にもちょっと思う。思い切り本音だけでぶつかり合える間柄というか、遠慮のない間柄というか、なんでも言える間柄というか、こうやって喧嘩してもすぐに元通りになれる関係というか、それはつまり、 ──結局仲良いんだよな、潮江先輩と先輩は。 ああ、私はそれが気に入らないのか。と、なんとか答えを導きだして、三木ヱ門は半眼になる。潮江先輩に嫉妬してるなんて自覚したところで、どうにもならない。ただ心が重いだけだった。 「田村先輩、さっきからぼーっとしてるけど大丈夫かな」 「まぁ、先輩達の喧嘩ももうすぐ終わりそうだし、そしたら部屋に戻れ──うわ!」 「っ、ちょっ! 田村先輩危ない──!」 後輩達の声に、へ、と振り向こうとした瞬間、頭に強い衝撃を受けて畳の上に崩れ落ちた。急速に遠くなっていく意識の外で、ばたばたと騒がしい音が響いている。 「うそ、大丈夫!? 三木、ねえ三木!」 ああ、先輩の声だ。ということは、頭に今激突したものは先輩が投げたかどーにかしたものなわけで……ええと。もしや毒? 「や、ちょっと三木、三木ーーー! 医務室、医務室ーーー!」 「先輩落ち着いてください、田村先輩は大丈夫ですから!」 焦りに焦った先輩の声が届いてから、身体を無理矢理持ち上げられる。意識を保てたのは、そこまでだった。 ぷつん、と糸が切れるように、三木ヱ門は意識を失った。 好きになったのがいつなのかは、あまり覚えていない。一つ先輩のとは会計委員としてでしか接点がなかったから、きっとなにもかもが会計委員の活動の場でのことだったのだろう。短気で喧嘩っぱやくて特に潮江先輩と一触即発で、でも普段は優しくて、後輩全てを子ども扱いしているところはちょっと気になったけど、それでも時折褒めるように頭を撫でてくれるのは嬉しかったし、三木、と親しみを込めて呼んでくれる声も好きだった。けれどその声がもし耳元で囁かれたら多分私は動けなくなるだろうなとか、柔らかそうな頬や唇に触れたらどんなに気持ちいいだろうかとか、いつからかそんなことしか考えられなくなった。一年ほど前から背がのそれを大きく越し、見下ろすようになってからは、その想いはどんどん強くなった。 自分以外の男が近づくと、それが一年生であっても嫌な気分になった。以前に団蔵が廊下で転びそうになったのをに助けられて抱えられていた時など、純粋に「団蔵殺す」と殺意が湧いた。いや、むしろ今思い出してまた腹が立った。やっぱりあいつ殺す。 けれどこちらがどんなに想っていても、きっとは気づいていない。それを思うと、胸が痛い。傍にいると鼓動が高鳴るのは自分だけで、手が少し触れただけで顔が赤くなるのも自分だけで、そして潮江先輩に嫉妬しているのも自分だけだ。 には、好きな相手がいるのだろうか。決まった相手がいるという噂は聞かないけれど、と同学年の先輩に比べて、こちらは圧倒的に不利だった。なにしろ接点が委員会活動しかないし、そもそもが後輩のことを子どもとしか見ていないのだから。 ──温かい。身体のどこかに触れる温かくて柔らかいなにかを感じて、三木ヱ門は堂々巡りの思考を閉じた。ごめんね、と微かな声が聞こえてくる。ごめんね三木、と繰り返される。それは多分、 私が一番好きな人の声。 「……、先輩」 「三木!」 目を覚ますと、まずこちらの顔を覗き込んでいるの顔が見えた。三木、大丈夫!? と呼びかけるはなんだか泣きそうな顔で、三木ヱ門は理由が分からず困惑した。まだぼう、としている頭をなんとか動かして、今の状況を確認する。木目の天井、静かな部屋、壁側に置かれた薬箪笥。そして自分が布団に寝かされているのだと気づいて、ようやく先ほどのことを思い出した。ここは医務室だ。そういえば頭に氷だろう冷たさもある。そうだ、さっき頭をなにかで打って、それで── 「……っ、痛っ!」 思い出した途端に、頭痛が走る。さほどの痛みではなかったが、気構えが出来ていなかったので小さく声を上げてしまった。三木、とが再び顔を覗き込む。 「ごめんね、痛いよね。私が、三木の頭に算盤投げちゃったから」 「あ、あれ算盤だったんですか……」 毒の塗られた手裏剣でなくて良かったと思うところだが、算盤と言っても会計委員のそれは十キロあるのだから、立派に鈍器だ。それであんなに簡単に昏倒したのかと、三木ヱ門は他人事のように納得する。 「ああ、目が覚めましたか。気分はどうです?」 静かに隣に座るのは、新野先生だった。優しい先生の声に、身体の様子を探ってみる。どうやら頭はコブだかなんだかになってるようで少し痛いが、それだけだ。気分は悪くない。 「いえ、大丈夫です。少し痛いくらいで」 「それは良かった。衝撃で気を失っていただけでしょうね。だから大丈夫だと言ったでしょう」 「でも、頭だったから。見た目はなんともなくても後遺症が残るかもしれないって──」 新野先生の言葉を聞いても、はおろおろとしている。ああそうか、自分のせいで私が怪我してしまったから気にしてるんだと、三木ヱ門はその時ようやく気がついた。 「打ち所が良かったんですよ、まだ若いですしね。さて、とりあえず氷を替えましょうか。田村君、無理に起き上がってはいけませんよ」 言い含めて、新野先生は医務室を出て行った。静かに戸が閉まる音が響いて、三木ヱ門はと二人残される。 「……三木、本当に大丈夫? 痛くない? 気持ち悪くない?」 「大丈夫ですよ、先輩。実習でもこの手のことはよくありますし。あの……ほんとに大丈夫ですから」 ほぼ半泣きでこちらの様子を窺ってくるに、慌てて三木ヱ門は安心させようとする。もしかして、寝ている間ずっと隣でこうして心配をかけていたのだろうか。そういえば起きる前も、ごめんね、と繰り返すの声が聞こえていた。大した怪我でもないのにこんなに心配かけるなんて、私は馬鹿だな、と自分が少し嫌になる。 「三木」 「大丈夫ですから、先輩。ほんとに、気にしないでくださ…………え!?」 続けてに声をかけていると、今更ながらに重大なことに気がついた。なんだか右手が温かくて柔らかくて安心するなーと思っていたら、がこちらの右手を両手で握りしめていた。温かい、のはの体温で、柔らかい、のはの肌で、しかもしかもそれどころか、は包み込んだ三木ヱ門の右手を自分の頬に触れさせていて、この感触は先輩の頬で…………ええとちょっと待て私冷静になろう。 「三木? どうしたの? 痛い?」 「いいいいやいやいやいや冷静になれるわけないじゃないですか、なにしてるんですか、先輩!」 「な、なに、どうしたの?」 動揺して早口でまくし立てる三木ヱ門に、も困惑する。次いで、ああ、と気づいたように三木ヱ門の手を離した。うわ、別に離して欲しかったわけじゃないんですけど! と三木ヱ門が声にならない悲鳴を上げている横で、は少し恥ずかしそうに、 「ごめんね。心配だったから、つい」 「いえいえいえいえ、別にそのあの、嫌だとかそういうわけでは!」 むしろぜひ意識がはっきりしているうちにもう一度、とまでは勿論言い出せない。真っ赤になっているこちらと違って、は少し照れているだけだ。ああ、本格的に子ども扱いだ、と三木ヱ門は何度となく実感した事実に今一度ヘコむ。 「でも三木、本当に大丈夫? 無理しないでね」 「だ、大丈夫ですから……そ、そうだ、他のみんなはどうしたんです!?」 また顔を覗き込まれて、慌てて話題を変えた。こんなに近くにの顔があるなんて、動揺するなと言う方が無理だ。 「ああ、下級生はとりあえず部屋に戻ったよ。疲れてるだろうからもう寝てるだろうね」 言われて時刻を探ると、おそらく昏倒してからそれほど経ってはいなかった。 「では潮江先輩は」 「ああ、潮江先輩は……安藤先生に怒られてるよ」 言いにくそうに、が肩を落としながら答える。 「本当はね、私も一緒に怒られるはずだったんだけど、私があんまり三木のこと心配するから、お前は田村についとけ、って潮江先輩が言ってくれて」 「そうですか……」 ということは、がこうして来てくれたのは、文次郎のおかげらしい。三木ヱ門はそれを知って、複雑な心境になる。嫉妬していたせいで、素直に感謝する気が起きない。というかそれよりも、やっぱり仲良いんだ、と嫉妬深くなる感情のほうが強い。 「本当にごめんね、三木。……私、先輩失格だよね。潮江先輩に腹が立ったからって、後輩に怪我させるなんて」 そう言って、はしゅん、と落ち込んでいる。客観的に見ればその通りなのだろうが、というなら話は別だ。のためならこんな怪我いくら負っても構わないし、そもそも潮江先輩の横暴に迷惑を被っていたのはだけではないのだし。 「いえ。先輩は、私達のためにも潮江先輩に怒ってくださったんでしょう。それに、うちの委員ではこのくらい日常茶飯事ですから」 「それを言われるとさらにヘコむけど……。でもありがとう、三木」 ようやくに、は笑ってくれた。緩い微笑みでしかなかったけれど、三木ヱ門はホッとする。自分のせいでが落ち込むのは見たくない。 は少し気を持ち直したらしく、そうだ、と身を乗り出した。 「氷、替えるんだったね。もうすぐ先生帰ってくるだろうし、三木、頭──」 頭の氷、どけるね。とでも言おうとしたのだろうか。の言葉は、唐突に途切れた。三木ヱ門の頭に手を伸ばしたその時、ふっとの瞳が揺らいだ。間近でその瞳を見ていた三木ヱ門が気づくよりも早く、はその場に崩れ落ちる。 「……っ! 先輩!?」 慌てて起き上がり、倒れたを抱き抱える。力の抜けた身体、瞼の閉じられた瞳。よく見るとは先ほど潮江先輩とやり合っていたときに思ったように、顔色が悪かった。今までずっと逆光で見下ろされていたから気づかなかったのだろう、額にはうっすらと冷や汗も浮いている。 「先輩、先輩!?」 身体を揺すっても、は目を覚まさない。完全に昏倒している。 「……どうしました?」 その時、丁度良く新野先生が帰ってきた。先輩が、と慌てた三木ヱ門の様子に、新野先生は足早に近づき、を診た。 「ああ──大丈夫です、ただの貧血でしょう。君の様子を確認して、ホッとしたんでしょうね」 新野先生の声に、三木ヱ門も安堵する。そうだ、はあまり調子が良くなかったのだ。元々徹夜続きだったし。その状態であれだけの立ち回りが出来るというのも凄いが、つまりそうせざるを得ないほどに身体が限界だったのかもしれない。それなのに、の様子に気づいていたのに、なんの手も打たなかった自分が腹立たしい。 「月の穢れだと言ってましたしね。……ああ、君のせいじゃないですから、そんな顔してはいけませんよ。そうだ、もう大丈夫なら、布団を譲ってあげてくれますか。この子も疲れているようだし、今日は一日様子を見ましょう」 新野先生の言葉に、一も二もなく三木ヱ門は立ち上がり、ついさっきまで自分が寝ていた布団にを寝かせた。血の気の引いた白い顔が、痛々しい。 「……新野先生、先輩の傍にいてもいいですか」 自然と零れた言葉に、新野先生はしばしの沈黙の後、頷いた。 「ええ、いいですよ。けれどうるさくしては駄目ですよ。それと君も怪我をしているのですから、冷やすのは忘れないように」 そう言って手渡された氷袋を受け取って、三木ヱ門はありがとうございます、と頭を下げた。 「失礼します」 唐突に医務室の戸が開いたのは、それから少しだけ時間が経ってからだった。 「……潮江先輩」 現れた人物に、三木ヱ門は思わず声を上げる。文次郎は新野先生に黙礼すると、三木ヱ門の隣、が寝ている枕元に腰を下ろした。 「三木ヱ門、お前、怪我は大丈夫なのか」 「あ、はい。冷やしておけば問題ないと、新野先生が」 答えながら、三木ヱ門は隣に座る文次郎に複雑な感情を抱く。文次郎は、当然の様子を見に来たのだろう。どうしても、なにかとくだらない邪推をしてしまう。委員長が委員の様子を見に来るのは当たり前だと理解していても。 「……それで、なんでお前じゃなくてコイツが寝てるんだ」 「へ? ……あ!」 文次郎が不審そうにを見ていることで、三木ヱ門は自分の間違いに気づく。そうだ、文次郎は三木ヱ門が怪我したことしか知らないのだ。はここで倒れたのだし、つまり文次郎は三木ヱ門を見舞いに来たということになる。 「その、先輩、体調が悪かったらしいんです。それで、私が起きたら入れ替わりに倒れてしまって……」 さすがに罪悪感を覚えて、三木ヱ門は文次郎から視線を逸らす。いくら嫉妬の感情が強いとはいえ、これは文次郎に失礼だ。 「そうか。……やはり悪かったのか」 嘆息しつつ、文次郎が呟く。「普段のこいつなら、手を滑らせてお前にぶち当てることもないだろう」と続けて、三木ヱ門の頭を見る。なるほどと三木ヱ門が納得しての顔を見下ろすと、突然にぽん、と頭──怪我をしている部位を避けた場所──に軽い感触があった。 「潮江先輩……」 「悪かったな」 ぽんぽん、と三木ヱ門の頭を軽く叩いて、文次郎は手を離す。思わず見上げると、文次郎はつまらなそうな顔でを見下ろしている。 「潮江先輩、あの、先輩が潮江先輩が安藤先生に怒られたって……」 「委員長は俺だからな」 肩を軽くすくめてそれだけを言うと、文次郎はちらりと三木ヱ門を横目で見る。一度に視線を向け、そしてもう一度三木ヱ門へと戻し、 「見物だったぞ」 「……なにがですか?」 「こいつの、お前が倒れた時の動揺具合がだ。見ればただの昏倒だとすぐ分かるだろうに、三木が死ぬ三木が死ぬと大騒ぎしやがって。大体、俺には毒塗りつけた手裏剣平気で投げるくせに、お前は昏倒しただけで死ぬってどういうことだコラ」 「先輩が……」 そういえば、こちらが目覚めた後もはごめんねとずっと繰り返していた。そこまで酷い怪我ではないというのは、見ればすぐに分かるだろうに。 けれど、それはが三木ヱ門のことを子どもだと、弱いから心配なのだと思っているからだろう。そう、思ったことをそのまま答えた。 「先輩は……、私達後輩に優しくしてくださいますから」 「……ふん」 三木ヱ門の言葉に、文次郎は軽く鼻で笑う。そして立ち上がり、 「俺は戻って寝る。お前も適当なところで寝ろ。……明日はお前とは休みにしてやるから、大人しくしてるんだな」 「潮江先輩」 「その代わり明後日からは働いてもらうからな。にもそう伝えておけ」 文次郎はそう言ってとっとと引き戸に向かう。退出する際に入る時と同じく新野先生に黙礼して、そして今一度三木ヱ門を振り向く。 「おい、三木ヱ門」 「は、はい」 慌てて声を上げる三木ヱ門に、文次郎はニヤリと笑ってみせた。そして、 「俺に嫉妬するのは筋違いだ。いい機会だから、文字通り頭冷やして考えろ」 「…………え? え!?」 「それじゃあな」 静かに閉まる戸と、遠ざかっていく文次郎の気配と微かな足音。 取り残された三木ヱ門は、文次郎の言葉を理解して、かっと顔を赤くする。 なぜ、嫉妬していることが分かったのか。いや、そもそもで言えば私が先輩を好きだということからバレているってことじゃないのかこれはええええちょっと潮江先輩! 三木ヱ門があたふたしていると、くすりと笑う声が聞こえた。視線を向けると、新野先生が微笑んでいる。 「ああ、すみません」 笑顔で謝られて、三木ヱ門はさらに顔を赤くする。この場から逃げ出したい衝動と、文次郎を追いかけて質したい衝動に挟まれながら、けれど結局その場に座り直した。 目覚める様子すらないを見下ろして、今一度文次郎の言葉を思い返す。 嫉妬するのは筋違い、とはどういうことだろうか。先輩は潮江先輩のことが好きとか、そういうわけじゃない、ということなのだろうが。 「先輩」 自分にしか聞こえないほどの微かな声で、の名を呼ぶ。先ほどよりは血色のよくなったように見える顔が、すぐ近くにあった。 「先輩」 もう一度、名を呼んで。 三木ヱ門は、赤くなった自分の頬に指で触れた。 その指がの手で握られていたのだと気づいて、さらに頬が赤くなるのを感じながら。 ──好きです、先輩。 心の中で、告白した。 終 →二話『火器について思うこと』前編 |