鉢屋三郎夢
六話『夜明け』後編
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言葉と共に繰り出された突きを、その場に沈み込んで避けた。 喜八郎君の動きそれ自体は、そこまで素早いとは思えない。だけど殺気が僅かにしか感じられないせいか、次の手が読みづらくてやりにくかった。 一応はまだ四年生だから、潮江先輩のように力強く的確な攻撃じゃない。隙もないわけじゃなかったけど、私は防戦一方に回るしかなかった。なにしろこっちの武器は小刀一本で、鋤とやり合うのはとても無理だったし、鎖鎌を取り出す余裕はさすがになかったから。 「……喜八郎君も、宿題が増えるのは嫌なの?」 頭を狙って振り下ろされた鋤を横手に避け、抵抗程度に蹴りを繰り出す。案の定軽く弾かれた足を引き戻し、後ろへと飛んだ。 「ええ、嫌ですね」 いくら距離を稼いでも、喜八郎君は瞬く間に詰めてくる。このままでは、私が先に隙を見せてしまう。その前になんとかしないと。 「宿題が増えたら、休みを楽しめないですから」 「そうだよね」 攻防の合間の会話に、私も同意する。喜八郎君の言う通りだ。休みが少なくなるのも宿題が増えるのも、どちらもあまり変わらない。お休みは満喫できてこそなのだから。 「ですから、先輩を上に登らせるわけには行きません」 「えっとね、私にはゴールする気なんて全然ないんだけど……って言っても無駄かな?」 「ええ」 喜八郎君はあっさりと頷く。その動きは疲労のせいかほんの少し鈍くなっていたけど、それでもまだ身体の重心はしっかりしている。普段から穴を掘ることで鍛錬が出来ているからだろう。 「先輩方をゴールさせたら宿題が増えますけど、参加不能にした人数に応じて、逆に減ることになってるんです」 「……なるほど」 確かに、それなら交渉は意味がない。というかとことん私達に利のない話だ。 「じゃあ仕方ないね」 潮江先輩のときと同じ手を使うしかない。逃げるが勝ち。忍びの鉄則だ。 喜八郎君の攻撃を避けながら、私はさっき木の上から見た罠の場所を確認する。確かあそこと、あそこ。 木の下は危険だ。茂みの近くも。罠がありそうな場所を抜けるように、退避口を定める。 逃げ道を決めたら、あとは喜八郎君の隙を作ればいい。ちょっと危険なのは覚悟して、喜八郎君の間合いに自分から飛び込んだ。 握った小刀を、喜八郎君の眼前で強く右から左へと薙ぐ。防ぐよりも流したほうがいいと判断したのか、喜八郎君は後ろに飛び退いてそれを避けた。 今だ。 私も続けて後ろに飛ぶと、私と喜八郎君の距離は大分開いた。即座に駆け寄れないくらいには。 迷わず背を向けて、一気に駆けだした。丁度良く月に雲がかかって、辺りが闇に包まれる。 このままなら逃げられる! と、思ったんだけど。 強く地面を踏みしめて蹴った瞬間、後ろから喜八郎君の声がした。焦った様子でもない、ぽつりとした声音。 「僕、山って好きなんです」 もう走り出していた身体は、その言葉を妙だと思ってもすぐには止まれなかった。 ずぶ、と着地した足が地面に沈み込んで、ようやくに悟る。ああ、そうだった。 「だって、罠を仕掛け放題ですから」 その淡々とした声が耳に届くと同時に、私の身体は勢い良く穴の底へと叩きつけられた。 「うー……あいたたた……」 「おや」 落ちた穴はかなり深く、大きかった。とりあえず穴の中にはなにも仕掛けられていなかったらしく、ただ全身が落下の衝撃にじわじわ痛んでる。 特に強く打った右膝を撫でながら見上げると、穴の中を覗く喜八郎君と目が合った。喜八郎君はいつもながらの無表情で、さらに棒読みで声を上げる。 「先輩、すごいです。実はこれは、うさぎを獲ろうとして仕掛けていた落とし穴だったんです。さすがです」 「いやいやいや、そんなわけないよね。明らかに大きすぎるよね。私の背より深いよこれ」 獣対象だとしたら、熊か猪用の穴だ。落ちたときに転がった小刀を直し、よいしょ、と穴の中に座って喜八郎君を改めて見上げると、喜八郎君は軽く小首を傾げてみせる。 「で、どうしますか?」 その問いに、二度瞬きをするほどの時間は考えた。地質のせいか、穴の土壁は触るとぽろぽろ崩れてくる。万全の体調なら出れるだろうけど、膝のじんじんした痛みが今は無理だと告げていた。 この穴からは、たぶん一人で出られない。そう理解してしまうと、迷いはなかった。 「……ん、もういいや。頑張っても賞品があれじゃね。やる気が湧いてこないし」 「そうですか。じゃあ委員長に脱落の連絡してもいいですか?」 「うん、お願い」 「では、夜が明けるまでそこにいてください。失格した生徒は、その場にいれば後で迎えが来ることになってますんで」 「ありがとう」 ついお礼を言ってしまうと、喜八郎君は僅かに微笑んで、私に向かってひらひらと手を振る。 「それでは先輩、よい穴をー」 「……よい穴をー……?」 挨拶なのかなんなのかよく分からないことを言って、喜八郎君の姿が消えた。微かな足音と共に、気配も薄れて消えていく。 「…………よい穴を」 謎の言葉をもう一度口にして、ふう、と私は息を吐いた。穴の中で座り直し、痛めた右膝をゆっくりと伸ばす。たぶん骨には異常はない。それを確認してから、そっと後ろの土壁に背を預けた。 深い穴は、ざわざわとした山の音さえも薄れて聞こえてくる。ようやくに今まで張り詰めていた気が緩んで、私は身体の緊張を解いた。 空を見上げると、生い茂る木々の間から数個の星だけが見えた。月が見えないから時刻が計りづらいけれど、夜明けまではあと二刻かそれくらいだろう。 私はよく外で昼寝しているくらいだから、土に囲まれているのが嫌いじゃない。むしろ好きだ。土の匂いが強くする穴の中は、私にとってはとても落ち着く場所だった。 痛む膝を撫でながら、目を閉じる。途端に身体のあちこちから鈍い痛みが響いてきて、この分だとたくさん青痣が出来ているんだろうなと、少し憂鬱な気持ちになった。 『──気をつけろよ』 ふいに、頭に三郎の声が響く。 三郎は委員長だから、これがただのランニング大会じゃないことくらい、最初から全部知っていたはずだ。 だから、その上で私に注意してくれたんだと思う。……気づけなくて、無駄にしてしまったけれど。 「………………」 そのことに思い至って、少し申し訳なくなった。 喜八郎君が報告したら、三郎にもすぐにそれが伝わるだろう。三郎はきっと、だから忠告してやったのに、とやれやれとした顔でため息を吐く。その様子が容易に思い浮かんでしまって、胸が痛んだ。 三郎に無能だと思われるのが、少し辛い。 三郎は昔から、私のことをよく心配してくれる。捻くれた言葉や態度が多いから、すぐに気づけないこともあるけど、後から考えれば……ということがしょっちゅうある。 ……どうしよう。 一瞬、やっぱり今すぐに穴から出て喜八郎君を追いかけ、脱落を取り消してもらおうかと思った。けれど身体の痛みと疲労を理解した今、それを実行に移すことは出来なかった。 あともう少し頑張ればよかった。今更ながらに、そう思う。 三郎は、失望してしまっただろうか。本当は言ってはいけないだろうことを口にしてまで、私のことを心配してくれたのに。 ──ぞく、と背筋を冷たさが走った。夜の寒さのせいだろうか。咄嗟に左足を引き寄せて、膝に頬を押しつける。 思い起こせば、三郎は本当によく私を気にかけてくれていた。男子と女子は授業も違うしそんなに会うこともないのに、それでも三郎はしょっちゅう私の面倒を見てくれた。最近も、先生のお使いのときとか、手裏剣の成績が良くなかったときとかに、呆れながらも助けてくれた。 そうだ。あのときも。 今までは思い出すことすらも出来る限り抑えていた記憶が、じんわりと浮かんでくる。 大好きだった先輩に失恋したとき、三郎は私のところに来てくれた。あのときの三郎の言葉は私には痛いものばかりで、私はなにも考えずにただ三郎に怒鳴った。でも今思えば、三郎の言葉は全部正しかったんだ。 三郎はあのとき、私を笑いに来たんじゃない。 私を一人で泣かせないために来てくれたんだ。 泣いていた私の頭を撫でてくれた、温かな手を思い出す。途端によく分からない酷く寂しい感情が溢れ出して、鼻の奥がつんとした。私は慌てて大きく息を吐いて、感情を落ち着かせようとする。 ……大体、三郎に呆れられるなんて、ずっと前からだ。 成績もあんまり良くない、可愛くもない、他にこれといった取り柄もない私は、三郎にこれまで幾度だって失望されて来たのだろう。当たり前だ。 それをなぜ、今更辛いだなんて思うのか、自分の気持ちが理解出来ない。三郎は私を心配してくれている。そのこと自体は、素直に嬉しいと思えるのに。 「……三郎」 思わず名前を呼んでいたけれど、胸の中をぐるぐる渦巻く感情は薄れてくれなかった。その理由を考えても、答えは浮かんでこない。 なんだか自分が酷く情けなく思えて、私はぎゅっと膝を抱える。途端に疲労が身体を包み込んで、意識がぼんやりとしてきた。 ……もう眠ってしまおう。そう思った。 穴の中は、山の匂いが強くする。私が好きな、安心する緑と土の匂い。それに身を預けて、私はゆっくりと目を閉じた。 少し眠っていたみたいだったけれど、それはかなり浅いものだった。うとうとと微睡むような眠りから覚めると、辺りはまだ闇に包まれていた。夜明けまではあとどれくらいだろうか。 眠気を払うために頭を軽く叩いて、私はゆっくりと身体を伸ばした。固まった肩や背をほぐしているうちに、意識もはっきりしてくる。 ふわ、と欠伸をして、月が見えないだろうかと空を見上げた。雲は流れて行ったのか、さっきと違って晴れた夜空だったけれど、やっぱりそこには星の光しかなかった。 そのとき、微かにかさりと草を踏みしめるような音がした。獣か、それとも人だろうか。気配を探ったけれど、距離が遠いのかよく分からない。一応と懐から小刀を取り出して右手に握り込んだとき、声がかけられた。 「、そこにいるか」 どくん、と鼓動が鳴り響く。しっかり握ったはずの小刀を取り落としそうになってしまい、慌ててまた懐に戻して穴の外を見上げた。 「……三郎?」 「やっぱりここか。喜八郎もまた、随分とでかい穴掘ったんだな」 嘆息混じりの言葉と共に、三郎の顔が覗く。もともとあまり明るくない月の光の下、しかも逆光だからよくは見えなかったけど、そこにいるのは確かに三郎だった。身体が強張ってしまってなにも言えない私を、三郎は身を乗り出して見下ろす。 「大丈夫か」 「……ん、うん。大丈夫」 少し遅れたけれど、返事は出来た。さっきの今だ、三郎と顔を合わせるのは申し訳ないような気がして、上手く目が合わせられない。でもどうにか平静にと落ち着かせて、三郎に問いかけた。 「もう夜明け? まだ暗いけど」 「いや、あと少しだな。さっき五年全員が脱落したから、それで迎えに来た」 「え、全員脱落?」 さすがに驚いて聞き返すと、ああ、と三郎は苦い顔で頷く。 「知ってるか? 妨害側の六年と四年は、脱落させた人数に応じて長期休暇の宿題が減ることになってるんだ」 「うん、喜八郎君に聞いたけど……」 「それで、七松先輩が本気出した」 端的な三郎の言葉に、一瞬でその光景が目に浮かんだ。やる気満々で次々に五年生を脱落させていく七松先輩が。 「うわー……」 「お前、喜八郎でまだ良かったぞ。七松先輩にやられた奴らは、簀巻き状態でそこらにごろごろ転がされてるらしいからな」 怖っっ! 思わず一瞬、三郎に対して抱いていた複雑な感情がどこかに行ってしまった。確かに、今回はどういう点から見ても七松先輩向けだ。先輩の得意な山だし、宿題がかかってるし。 「そりゃ、こっちが勝てるわけないよね……」 「だろ? 大体、六年と四年が組んだ時点で、五年だけじゃ無理に決まってるんだ。賞品があれじゃやる気が出るわけないし、だからあんなに止めたのに……」 ぶつぶつぶつと、三郎が半眼になって零す。その三郎を見て、私はなんだかほっとした。危惧していたように呆れられることもなく、三郎がいつも通りだったからだろうか。 「まぁ、今そんなこと言っても仕方ないけどな。……ほら、手伸ばせ」 三郎が、私に向けて手を差し出してくれる。私も腰を浮かせようとしたけれど、足を伸ばした瞬間に痛みが響いて、その場に崩れ落ちた。 「痛っ」 思わず声も上げてしまって、三郎が眉をひそめる。膝の痛みを堪えてなんとか立ち上がろうとしていると、三郎が無言で穴の中に下りてきた。 「さ、三郎」 急に近づいた三郎の気配に動揺する私の隣で、三郎は私の右足に視線を向ける。 「痛むのは膝か? まさか骨折してないよな」 「……だ、大丈夫。たぶん打ち身だけ」 すぐ傍で顔を覗き込んでくる三郎に、慌てて頷いた。三郎はしばらく考えるように沈黙して、それからその場に片膝をつく。 「左足は動くのか」 「うん」 「なら肩に乗れ」 ほら、と促されて、ゆっくり立ち上がった。穴は横幅もかなりあったから、私と三郎が二人でいてもそこまで狭くない。三郎に手を取ってもらって、痛みを堪えながら三郎の肩に足をかける。膝の痛みのせいで人馬の体勢が上手く出来ずに時間がかかってしまったけど、三郎はなにも言わずにただ待ってくれた。 「落ちるなよ」 ぐ、と身体が浮く。穴の縁に手を掛けてようやくに外に出ると、次に三郎もすぐに穴から出て私の隣に並ぶ。 「ありがとう」 手足についた土を軽く落としながら礼を言うと、三郎は目で頷いて立ち上がる。私も、それに続いてゆっくりと腰を上げた。 「一人でも歩けるか」 「……うん、歩くくらいなら大丈夫。あんまり膝曲げなかったら痛くないし」 走るのは難しいかもしれないけど、下山は出来る。数歩試してみて、そのことにほっとした。これ以上三郎に迷惑かけるのは申し訳ないし。 それに……やっぱり今三郎の隣にいるのは、なんだか少し恥ずかしいような居たたまれないような気持ちになってしまうから。 「俺が背負ってやってもいいけど、これから他の奴ら迎えに行かなきゃならないからな……。遅くなってもいいならもう一度迎えにきてやるから、ここで待ってるか」 「いえ大丈夫です! ほんとに!」 当たり前のようにさらりと言われた言葉に、慌ててぶんぶんと首を横に振った。三郎はじっと私を見て、そーか、とちょっと笑う。 「まあ、無理そうなら呼び子でも鳴らせ。そこらに誰かいるだろ」 「はい、分かりました!」 「とりあえず途中まではついて行ってやるよ。……あー、次は誰のとこ行くんだったか……」 言いながら、三郎は幾つにも折り畳まれた紙を取り出して、ばさりと広げた。覗き込んでみて、それが裏々山の地図だと分かる。そこにぽつぽつと点在する、丸印と見慣れた名前。 「それ、みんなのいるところ?」 「ああ。その場で待機してるはずだからな。……次は、八左ヱ門だな。あいつ朝の当番があるって言ってたから、早く帰してやったほうがいいだろ」 三郎が独り言みたいに呟いた言葉に、私は思わず目を見開いた。 早く帰してやったほうがいい。 そのこと自体は分かる。竹谷は生物委員で、他の生徒より朝が早い。同年ならみんな知っていることだ。 ……でも。それならどうして三郎は、その竹谷より先に私のところに来てくれたのか。 行くぞ、と目で促されて、三郎に続いて歩き出した。三郎は私が大丈夫そうなのを確認して、それでもゆっくり歩いてくれる。 罠がないか目を配りながら、さりげなく数歩先を進んでくれる三郎の背を見つめながら、私は心が温かくなるのを感じる。 どうして私のところに先に来てくれたのか。そんなのきっと、これまでと同じだ。 ……三郎が、私を心配してくれたからだ。 なんだかすごく素直に、私はそのことを嬉しいと思った。三郎に心配してもらえることが、幸せだった。 だからそのまま「ありがとう」と、そう礼を言おうとして顔を上げて。 光が、目に入った。 日が昇ろうとしていた。鮮やかな陽が闇色の空の端から覗いて、瞬く間に色を変えていく。 夜が終わり、朝を告げる日の光。 三郎の肩越しにそれを見たとき、私はようやくに理解した。 ああ、そうだったんだ。 世界が一度、塗り替えられた気がした。 私の周り、私の中、まだ私が見たことのない異国まで全部。私が感じるもの、見るもの全てが、鮮やかに彩られていく。 これは、あのときと同じ。 あの先輩に、恋をしたときと同じ感覚。 ──私は、三郎が好きだ。 雷蔵の顔で、雷蔵の髪で、けれど雷蔵のものではない三郎だけの表情と気遣いで、三郎は今私の傍にいてくれる。 夜明けの光が、三郎の顔から髪から身体まで、ゆっくりと照らしていく。その次に、私も光に触れた。眩しくて一度目を閉じてまた開くと、もう三郎と私は同じ光の中にいた。朝日の中に。 ……そっか。私は三郎が好きなんだ。 気づいた瞬間に、泣きたくなった。 ばかだ、私。 どうして三郎なんか好きになっちゃったんだろう。 よく私をからかってて、お説教して、でも優しくて、結局いつも心配してくれて、助けが欲しいときは傍にいてくれる。この人ともし恋が出来たら、私はきっと幸せだろう。 頭を撫でてくれる手と、たまに見せてくれる笑顔と、なによりも私の名前を呼んでくれる声。その全部が一番近くにいてくれるなら、きっと私はもうなにもいらない。 でも、三郎には。 ──好きな人がいるのに。 先輩を想って泣いた日々。辛くて仕方なかった失恋。それを慰めてくれたのは三郎だった。 ……その人に恋をしてなんになる。 三郎には、好きな人がいる。それが一途で真剣なものだということを、私は三郎本人から聞いたから。 ばかだ。私はばかだ。 どうして好きになっちゃったんだろう。 どうして三郎が誰かを好きになる前に、三郎を好きにならなかったんだろう。 どうして、好きの気持ちはこんなにも、私の思い通りにならないのだろう。 好きな人がいる人を、私はもう絶対に好きにはならない。 そう決めたはずだったのに。 今なら分かる。全部分かる。私は三郎が好きだ。すごく好きだ。 どうしてこんなにも手遅れなくらいに、好きになっちゃったんだろう。 どうして。 今すぐ泣いてしまいそうなほど、私は三郎が好きなんだろう。 「?」 後ろからついてくる気配がなくて振り向くと、は足を止めてただじっと俺を見つめていた。そのさっきとは違う様子に、の元に向かう。 「どうした。やっぱり痛いか」 袴の下だから患部が直接見えなくとも、穴を出るときや歩き方から相当痛むだろうことは分かっていた。はあまり痛い痛いとやかましく騒ぐ奴ではないから。 やっぱりここに置いていって後で迎えにくるか、それとも近くの女子でも連れてくるかと思ったとき、がぽつりと、全く関係のないことを口にした。 「ねぇ。三郎は好きな子がいるんだよね?」 「……なんだ、いきなり」 「この間、いるって言ってたよね?」 あまりに唐突な問いに眉をひそめる俺に、はただじっとこっちの目を見て答えを待っている。一瞬苛立ちのようなものが襲ったが、息を吐いてそれをやり過ごした。 「……言っておくが、聞かれても誰かは答えないからな」 「うん、聞かないね」 そこでは、なぜか僅かに微笑んだ。のんびりした風でも、楽しそうな風でもない、普段ほとんど見ることのない、ぎこちなく寂しそうな笑み。 「どうした、お前」 「ううん、なんでもない。……変なこと聞いてごめんね。早く竹谷迎えに行ってあげないといけないよね」 はすぐにいつもの表情に戻り、歩き出す。それに続いて俺も歩きながら、先ほどのの様子を怪訝に思う。けれど俺としても追求されたくない話だったから、そのときはそのままにしてしまった。 ねぇ、三郎。 決して伝わらないと知りつつも、私はすぐ傍にいてくれる三郎を想う。今自覚したばかりの恋心を、出来る限りの心の奥に押し込めながら。ただ私が、自分自身に誓うために。 「三郎、手を繋いでもいい?」 「ん? ……ああ、歩きにくいのか。ほら」 三郎は、すぐに手を差し出してくれる。私の手を包み込んでくれる三郎の手。咄嗟にぎゅっと強く握ってしまいたくなるのをこらえる。 好きだと自覚するのは、悲しくなかった。三郎を好きだと想う気持ち自体は、温かで心地良かった。 けれどこの想いは決して届かないと理解していることが、どうしようもなく悲しい。 伝えられずに押し込めるしかない想いのままに、今だけはと三郎の手に甘え続けた。 ねぇ、三郎。 あの先輩のときと同じ。私が三郎を忘れる日まで、私は三郎に嘘を吐くね。 私、困らせたりしないから。好きだなんて言わないから。ずっと隠しておくから。 三郎が誰かと結ばれるのを見るその前に、出来るだけ忘れるように努力するから。 だから。 だからせめてそのときまで、たまにでいいから、今みたいに優しくしてください。 「…………おねがい」 微かに呟いた言葉が、三郎に届いたかどうかは分からない。 だけどその後すぐにぎゅっと手を握ってくれたから、もしかしたら少しだけでも気持ちが伝わったのかもしれない。 それが嬉しくて、私からも弱く手を握り返した。 日が昇っていく空には、もうどこにも夜の気配はなかった。 瞬きをするごとに、明るくなっていく世界。 鮮やかな夜明けを三郎の隣で見ながら、私は、二度目の恋を失う覚悟を決めた。 終 →七話 |