次屋三之助夢
『恋した理由』後編





 びくりと身体が震える。おそるおそる被っていた布団を押しやり、起き上がる。
 雨の音が部屋の中まで届いている。ざあざあ、ざあざあ、耳につく雨音。それに混じって、微かな音と気配。ゆっくりと、音のした戸へと視線を向ける。
 ぴしゃんと、そのとき雷が光って、私は目を見開いた。
 弾けるように戸口へ駆け寄り、そのまま勢い良く戸を開いた。
 途端に雨の音が強くなった。先ほどよりもずっと強く、地面を叩く雨音が響く。
 部屋の前に立っていた人影は、驚いたような顔をしていた。あの、となにか言いかけたそいつの腕を掴み、無理矢理に部屋の中に引きずり込む。戸を閉めると、雨音はだいぶ小さくなり、ただぼんやりと部屋の僅かな灯りが、畳の上に腰を下ろしているそいつを浮かび上がらせていた。
 三之助だった。

「……っ」
先輩、寝てたんですか」

 なにから言えばいいのか分からず言葉に詰まる私に、三之助はただ困惑したような顔をしていた。「起こしたなら、すんません」と見当違いの謝罪に、私はようやくに口を開く。

「いままで、あんた、どこにいたの」
「えっと……山の中ですけど」
「なんで、山の中なんかにいたのよ!」

 叩きつけるように言うと、三之助は押し黙る。私の怒りを理解出来ない顔だ。
 その様子はいつもと変わらないのに、三之助の手足を見て、私はぞっとする。三之助の身体はびしょ濡れだ。ぽたぽたと、畳の上に水滴が落ちていく。きっと身体がすごく冷えてる。だけど、それだけじゃなかった。

「あんた、それ、怪我じゃないの」
「え……ああ、別に大したことないっすよ。ちょっと狼に追いかけられたくらいで」
「ばっ……」

 ばかじゃないの、と言いかけた言葉が途中で止まる。三之助は私の言葉でようやく怪我に気づいたという顔で、右手の甲に滲む血をべろりと舌で舐め上げる。手の甲だけじゃない。頬も足も肩も、剥き出しの肌にもそうでない箇所にも、至るところに傷があった。血はほとんど雨で流されているはずなのに、それでもその赤さが分かるほどに。
 傷に手を伸ばそうとして、寸前で止めた。代わりに、乾いた手拭いを三之助に押しつける。三之助もなにも言わずに、手足や髪を拭き始める。真っ白だったはずの手拭いは、すぐに薄赤に染まった。

「……先輩?」

 ずっとその姿を見ていたら、不思議そうに三之助が私の顔を覗く。
 その目を見て、心の中から、ぶわりと感情が膨れ上がった。迷い癖があるくせに、こんな雨の中に出て行って。一人で外に出るなって、あれだけ作兵衛に言われてるくせに。
 ばか。ほんとに、ばか。
 生きていたからよかったものを、無茶して、怪我ばかりして帰ってきて。

「先輩、どうしたんですか」

 三之助の指が、私の頬に伸びる。涙が溢れる私の目尻に触れて、そして驚いたような顔をする。まるで触ってみてようやく本当だということに気づいた、とでもいうように。

「なんで、そんな無茶したの」

 私の声は、すでに泣き声だった。三之助は私の言葉と姿に不可解そうに眉をひそめて、それからそっと私の頬から指を離した。

「先輩、なんで泣いてんすか」
「誰のせいだと思ってんのよ」
「……もしかして俺ですか」
「他に誰がいるっていうのよ、ばか! あんた一体なに考えてんのよ! なんでこんな大雨の夜中に外に出たりするのよ!」

 思わず叫ぶと、三之助は勢いに呑まれたようにきょとんとして、それからやっとばつの悪そうな顔をした。たぶん今までで初めて聞いた、慌てた声。

「いや、その、なに考えてるっていうか、考えたいことがあって、それで走りたくなって」

 はあ、と三之助はため息をついて、気まずそうにがしがし頭を掻いた。

「頼むから泣かないでくださいよ。俺、今まであんたの怒ったところしかほとんど見たことないんですよ」
「だっ……誰のせいで泣いて、誰のせいで怒ってると思ってんのよ!」
「いや、だってあんた、俺の前で笑ってくんないし。……あーもう、泣かないでくださいよ。泣いたのが俺のせいなら謝りますから」
「私じゃなくてまず作兵衛に謝りなさいよ! あの子がどれだけ心配したと思ってんの!?」

 だんだん、すごくすごく腹が立ってきた。やっぱりこいつ、無茶苦茶ばかだ。考えたいことがあって走りたくなった? なにそれ! なんで走る必要があんのよ!

「え、作兵衛が俺のこと捜してたんですか? あいつ大概心配性っすからねー」
「い、いい加減にしなさいよ。そんな怪我だらけでなに言ってんのよ、痛くないとでもいうつもりなの!? それで心配するなっていうの!? もうそんな無茶なことするのやめなさいよ、死んでもおかしくなかったのよ!?」

 掴みかかる勢いで三之助に叫ぶと、三之助は少しの間沈黙したあと、ゆっくりと肩を落とした。

「……すみませんでした」

 ぽつりと。幼い子どもがするような、三之助の謝罪が耳に届く。
 薄赤に染まる手拭い。びしょ濡れの三之助。まだ外で降り続けている大雨。きっと今でも三之助を捜し続けているのだろう、作兵衛や先生達。
 私の身体から、ゆっくりと怒りと力が抜けていった。私だけがこれ以上怒鳴っても仕方ない。とにかく、致命的な怪我もせずに帰ってきた。それで今は充分だ。

「……もういいよ。早く医務室に行こう。作兵衛とか先生達にも、あんたが戻ってきたことを言わないと」

 立ち上がり、身体が痛むだろう三之助を支えようと、手を差し出した。けれど三之助はじっと無言で私を見上げ、差し出していた私の手を掴み、そのまま自分のほうへと引き寄せた。

「ちょっ……」

 膝が折れ、無理矢理にその場にまた座り込まされる。さっきと同じ、三之助と向かい合わせに腰を下ろす格好に、眉をひそめた。

「なに。早く行かないとみんな心配してるから──」
「俺、あんたに話があるからここに来たんすよ」
「話?」

 私の手首を掴む三之助の手は、当たり前だけど酷く冷えていた。三之助はそれに気づいて顔を少ししかめながら、私の手を離す。

「そうです。あんたが言ったんじゃないですか、『私のどこが好きなの』って」
「……え」
「だから俺は、ずっと考えてたんです。せっかく来たんですから、先にそれだけでも聞いてください」

 そう言った三之助の顔は、今まで一度も見たことがないくらい、真剣なものだった。
 本当なら、そんなのどうでもいいと一喝して、医務室に連れていくべきだったのだろう。あれほど心配していた作兵衛や三反田のことを思えば、そうするべきだった。
 でも私は、三之助のその言葉を聞いた瞬間に、思考が全部そっちに行ってしまった。私のどこが好きなのか、なんて。そんなものはもうとっくに終わった話だと思い込んでいたからだ。

「あんた……私のことなんか好きじゃないんでしょ?」
「はい? 惚れてもいない女を追い掛け回してなんの得があるんすか。時間の無駄です」

 私が冗談を言っていると思ったのか、三之助がくだらなさそうにため息を吐く。その言葉に身体を固くした私を余所に、三之助はそのままさっさと話を続ける。

「で、あんた言いましたよね。『好きだって言うなら私のどこが好きなんだ』って。言われたときはなんだそれってむかついたけど、よくよく考えたら、確かになんであんたのこと好きなのか分かんなくなって、そんで走って考えようかなって思ったんすよ。頭冷やしたら少しはすっきりするかなって」

 ま、すっきりするどころかすげー寒かったですけどね、と三之助は真顔で言って、固まったままの私に目を向ける。ふっと、その目が少し笑ったように見えた。

「俺、昔からずっとあんたのことが好きだったんですよ。委員会で作兵衛と一緒にいるのよく見てたし、たぶんあんた覚えてないですけど、下級生の頃、委員会に遅れそうになったとき、体育倉庫まで連れてってくれたこともありましたし。だから俺は、あんたのことが好きってだけで、他のことは全然考えなかったんです。昔からずっとそうだったんで、それが当たり前でしたし」

 言われて、ふいに思い出した。たぶん私自身も下級生だった頃だ。体育倉庫が消えたとかぶつぶつ言いながら女子寮の中を走ってる、微妙に知っている後輩を、仕方なく連れて行ったことがあった。作兵衛から聞いてはいたけれど、そのとき私は身を持って、三之助の迷い癖が酷いことを知ったのだ。
 ああ、そうだ。三之助がいつの間にかあのときよりずっとずっと大きくなっていたから、全部忘れてしまっていた。

「だから改めて考えようと思って走りに行きましたけど、やっぱり分からないんですよ。なんであんたが好きなのか考えても考えても、好きだから好きなんだってしか思えなくて。あんたの顔とか身体とか性格とか、どれも好きですけど、どれもあんたに惚れてる決定的な理由にならないから、また聞かれても答えられないですし。でも他の女と違って、あんたが怒ってたらなんで怒ってんだろって思うし、たまに楽しそうにしてたらいいもん見たって思うし、あんたのことたくさん知りたいって思うし、あんたの代わりはいないって思うし、他のなにを忘れても、あんたのことは覚えていたいです。だから俺、」

 心臓を直接掴まれたみたいに、ぴくりとも動けなかった。

「だから俺、やっぱりあんたが好きです。……これでいいですか」
















『あれ、あんたここでなにしてんの? 迷ったの?』

『あ、さくべーの先輩。あのですね、委員会にいかなきゃいけないんですけど、体育倉庫のばしょがかわっちゃったみたいなんです。てか、ここどこですか? なんか女子ばっかいるんですけど』

『じゃなくてあんたが迷ってんでしょ。ここ女子寮なのよ、もう……。仕方ないな、連れてってあげるよ。あんた三之助よね、作兵衛と同じ部屋の』

『そーです。先輩、あたらしい体育倉庫のばしょ知ってますか』

『まぁ、あんたよりはね。ほら、行くよ』

『ん、なんで手ぇつなぐんですか?』

『繋いでないと、あんたどっか行っちゃうでしょ。それとも嫌?』

『……いえ、いやじゃないです』

『そう。じゃあ行こうか』

















 
 ざあざあと、雨が降る音が耳を打つ。
 降り止まない雨の喧噪の中、けれど三之助の声ははっきりと届いた。
 なにかを言おうとして、でも言葉がなにも見つからなかった。自分がなにを言いたいのか、なにを言うべきなのかも分からない。それを幾度か繰り返して結局成せない私に、三之助は続けて口を開く。私の反応なんか気にしてない様子で。

「それで、俺ついでに考えたんですよ。なんであんた、俺が好きだっていうのを否定するのかって。あんた最初から嫌そうでしたし、俺のこといつもうさんくさそーにしてたけど、俺がずっと嘘ついてると思われてたなんて腹立ちますし。そんでまあ、分かったような気がしたんです」

 ぞくり、と胸の奥がざわついた。とても嫌な予感がしているのに、私はやっぱりなにも言えず、三之助の言葉を聞いてしまう。

「あんた、単に不安なんですよね。俺があんたのどこを好きなのか分からなくて、だから、今は好きって言ってても、いつか好きじゃなくなるんじゃないかって」

 まずい、と思ってるのに身体が動かない。
 三之助は私がずっと認めようとしなかったことを、あっさりと言ってしまう。

「それってつまり、俺のことが好きってことですよね」

 聞いた瞬間、金縛りが解けたように、反射的に腰を上げた。自分の言葉を疑ってもいないのか、嬉しそうに微笑んでいる三之助の、その顔をいきなり掴んで引き寄せる。目を見開く三之助に、押しつけるように唇を重ねた。
 三之助の身体も唇も、やっぱり冷たかった。口付けを解いて、さすがに唖然としている三之助を、近距離で睨み付ける。

「私、あんたのことなんか好きじゃないの」

 なにかを言いそうになった三之助を遮って、一息で続けた。ずっとずっと心に秘めていた、きっと言うことなどないのだろうと思っていたことを。

「でも、あんたが私のことをいつか好きじゃなくなっても、私のことを捨てても、好きっていうのがもし嘘でも、いつか私とあんたが離ればなれになったとしても!」

 本意が見えない男に、どうして恋してしまったのかと呆れていたのに。
 それでも、もういい。もし全部嘘でも構わない。

「私は、あんたに恋したことを悔いたりしない」

 好きだというならば。恋しているなら。言葉だけでなく態度で示せるだろうと思っていた。三之助にはそれがほとんどなくて、だから私はずっと遊ばれているのだと思っていた。そんな男に想いを伝えることなんて、意味がなさすぎると思っていたのに。

「……すげえ口説き文句ですね」

 ぽん、と頭を軽く撫でられて、そのまま引き寄せられた。途端、強く抱き締められる。三之助の冷たい体温と一緒に、雨の匂いも私に触れる。でも、離れたいとは思わなかった。

「先輩、恋してるってのは好きってことっすよ。こんなときくらい素直になったらどうですか」
「好きなんて言ってないでしょ」
「じゃあ、大好きですか」
「うっさいばか、絶対言わない」

 ひとの気持ちを勝手に見透かしておいてこの態度。やっぱりむかつく。むかつくのに、三之助の傍にいるのは心地良いと思ってしまう。
 嬉しいのか悔しいのか分からない涙が滲んできて、頬を三之助の肩に押しつける。落ち着かせるように、三之助の手のひらが私の背を撫でた。

「不安にさせて、すみません」
「そうよ、ばか」
「はい」
「ばか」
「はい、嬉しいです」
「ばか……」

 ばかばか言い続ける私に、三之助は同じ数だけ律儀に頷く。しばらくして言い疲れた私が口を閉じると、私を抱き締める三之助の腕の力が一層強くなった。
 そして、耳元で三之助が囁く。

「あんたのことが好きです。いつまでも絶対に好きでいるって約束は出来ませんけど、俺は一生あんたが好きでいたいです。こんなに面倒なくらい好きなの、あんだだけでいいです。だから、俺の女になってくれますか」
「…………う」
「黙ってたら承諾したってことにしますけど」
「じゃあ、やだ」
「ほんと素直じゃないっすね」

 三之助の手が、私の頬に触れる。顔を上げると、三之助の笑った顔がすぐ傍にあった。
 その目に促されて、ゆっくり身体の力を抜く。三之助の唇がまず私の頬に落ちて、それからそっと唇が重なる。
 三之助の唇も手もやっぱりまだ冷たくて、だけど私に触れる仕草と唇は、それとは裏腹にとても優しいものだった。






「……あの、そろそろ止めない?」
「あー、先輩あったかいですね。一年を何人か抱えてるみたいです」
「いやその例えはあんまり嬉しくないけど」

 私の言うことなんて聞きもせず、三之助はぎゅうぎゅう私を抱き締める。時折額やら頬やらに口付けが降ってくるし、私が嫌がってるのが楽しいのか、わざと「愛してますよ」とか「素直になってくださいよ、もう俺の女でしょ」とか囁いてくる。正直ちょっとうざい。
 それにそろそろびっしょびしょに濡れた身体が鬱陶しくなってきたというのに、三之助は私を離そうとしない。

「てかあんた、そろそろいい加減に医務室行きなさいよ。みんなまだ心配して捜してるかもしれないのに」
「ん? ああ、嫌です」

 離れようとした瞬間、にやりと三之助が笑った。かと思うと、そのままどすんと勢いよく布団の上に押し倒される。ぽとりと、三之助の髪を伝った雨粒が、私の頬に落ちた。

「……三之助?」
「俺、今までずっと我慢してたんすよ。好きでもない男に追っかけられるのは許しても、好きでもない男に触れられるのは御免でしょ? 俺もあんたに本気で抵抗されて傷つくの嫌でしたから」
「いや、あんたちょっと」
「部屋まで来て二人きりなのに、触れもしないなんて地獄でしたよ。でももういいですよね、先輩」

 耳元で囁かれる言葉に、まずい、と警報が鳴り出す。三之助の声音は笑いを含んでいない、真面目なものだ。どうやら本気らしい。ああ、やっぱりこいつありえない。無理。

「だってもう恋仲でしょう? これで堂々と触れるし俺の女だって言いふらせるし抱いたり抱いたり抱いたりでき……っ!?」

 ごす、と容赦なく三之助の股間を蹴りつけると、三之助は息を飲んで私の上にどさりと落ちた。それを足蹴にして押しやって、立ち上がる。
 さすがに三之助は動かない。本気じゃなかったけど、急所を蹴りつけたのだから当然だ。

「ちょっ……」

 夜着の乱れを直していると、三之助がようやくによろよろと身体を起こす。

「あんた……この状況でタマ蹴るとかなに考えてんすか」
「それはあんたでしょ。作兵衛達が心配してるってあれほど言ってるのに!」
「はー……分かりましたよ」

 三之助は心底嫌そうに渋々と立ち上がり、戸に向かう。出て行くまで見届けてやろうとついていく私に、戸に手をかけたまま三之助が振り返る。

「じゃあ、戻ってきたら続きっつーことで」
「またタマ蹴るわよ」

 苦々しく言うと、その言葉を予想していたのか三之助は笑って、「じゃあ、代わりに」と言いながら戸を開けた。

「今度はあんたから聞かせてください」
「ん、なにを?」

 ふいに、掠めるような口付けが落ちた。近い距離で、三之助の目が微笑んでいる。

「俺のどこを好きなのかを、です」




















 終