中在家長次夢
『二度目の鼓動』


最終話
「十日目」





 まだ完全には夜が明けていない、朝靄の漂うひんやりとした空気の中。
 忍術学園の正門前に、大きな牛車が止まった。
 平民ではとても手に入れられないだろう、豪奢な造りの牛車。その中から小さな人影が二人顔を出し、地面へと降りていく。
「よいしょっ……と。結構時間かかったねえ、カメ子。ぼくもうおなかぺこぺこだよ」
「まぁお兄様、車の中でも飴や干し芋をお食べになっていたのに……」
「あれはご飯じゃなくてお菓子だからね。早く食堂のおばちゃんのご飯を、おなかいーっぱい食べたいなあ」
「お二人とも、お疲れ様でした。今荷物を降ろしますね」
 しんべヱとカメ子に続いて、牛車を率いていた奉公人が御者台から離れて駆け寄ってくる。
「弥次郎も、長い間ありがとうございました」
 カメ子が弥次郎にねぎらいの言葉をかけたとき、正門の通用扉がゆっくりと開いた。話し声を聞いて様子を見に来たのだろう小松田が、片手に箒を持ったまま「あ」と顔をほころばせる。
「なんだか外が騒がしいと思ったら、しんべヱ君とカメ子ちゃんかあ。そういえばお家に帰ってたんだったね」
「小松田様、朝掃くからお仕事ご苦労様です」
「おはようございます、小松田さん!」
「うん、二人ともおはよう。あ、カメ子ちゃん、職員室にカステイラくれてありがとう。美味しくて一人でたくさん食べちゃって、吉野先生に怒られちゃったよ」
「まあ、気に入ってくださったなら嬉しいですわ。またお持ちしますわね」
「本当に? 嬉しいなー。あ、じゃあしんべヱ君、サインくれるかな? えっと……あれ? 墨持ってくるの忘れてきちゃった。ごめんね、ちょっとそこで待っててね」
 小松田は慌てた様子で顔を引っ込めて、ぱたぱたと墨を取りに走っていく。「小松田さんは相変わらずだねえ」と呟くしんべヱの隣に、弥次郎が一抱えもある荷物を下ろす。
「どうぞ、お荷物です。少し重いですから、気を付けてくださいね」
「ありがとう、弥次郎。そうなんだよね、図書室で借りてきた本も重いのに、パパが南蛮のお菓子もたくさんくれたから、行きよりも荷物が多くなっちゃった」
「そういえばお父様、お兄様がお戻りになるときは一緒に見送りに行くと仰ってましたけど、いらっしゃらなかったようですわね」
「パパ、なんだか忙しそうだったもんね。新しいお仕事でも入ったんじゃないかな」
 しんべヱの言葉に、不思議そうに小首を傾げていたカメ子も「そうですわね」と軽く頷く。
「お兄様、お勉強頑張ってくださいませ。長い間お休みになっていた分も」
「大丈夫だよ、乱太郎達が後で教えてくれるって言ってたから! 庄左ヱ門も、帰ってきたら勉強会するよって言ってくれたし!」
「まあ、学園の皆様は本当に良い方ばかりですわ。……皆様にもご挨拶したいのですが、こんな朝方からだとご迷惑ですわね。お兄様、私の代わりによろしくお伝え頂けますか? は組の皆様と先生方と……お兄様の委員会の先輩方と、それから中在家様と、様にも!」
「うん、任せといてよ! カメ子も堺まで気をつけて帰ってね」
「お兄様も、お風邪など召されないように」
「ふー、待たせてごめんね、なかなか見つからなくて……あれ、カメ子ちゃん、もう帰っちゃうのかな?」
「小松田様、どうぞ兄をよろしくお願いします。門前でお邪魔して失礼致しました」
「いえいえー、またいつでも来てね、カメ子ちゃん」
「はい!」
 カメ子が牛車へと戻り、「では」と弥次郎がしんべヱと小松田に頭を下げて出発する。からころと動く牛車の、簾の向こうから顔を出すカメ子に、しんべヱと小松田は大きく手を振る。
「カメ子、またねー!」
「気をつけて帰ってねー!」
「お兄様方もお達者でー!」
 負けじとぶんぶんと小さな手を振るカメ子を乗せ、牛車は遠ざかって行く。道の向こうまで消えていくのを見送ってから、しんべヱは荷物を抱えて小松田の元へと駆け寄った。
「えっと、外出届が出ていたんだよね。……はい、しんべヱ君。ここに書名してくれるかな?」
「福富しんべヱ……っと。はい、出来ました!」
「うん。じゃあどうぞ、入ってね」
 しんべヱから筆を受け取り、小松田は微笑んで通用扉を開けた。
「おかえり、しんべヱ君」
「はい、ただいまです!」





















 、と。どこかで名前を呼ぶ声がする。起きて、と優しく囁く声。
 それで、自分が長い間眠っていたことに気がついた。
 、と。声は繰り返し私の名前を呼ぶ。眠りに落ちていた頭の中が、呼ばれるたびに鮮明になる。
 幼い頃、母に優しく起こしてもらったときのような、穏やかな意識の覚醒。
 おはよう、
 声はそれを最後に消えて行き、私はゆっくりと目を開いた。


「……あれ?」
 目を開いた途端に、すぐ傍にひとがいることに気がついた。それだけじゃなくて、私はその腕に抱き締められている。慣れた、とても落ち着く体温だ。幾度か瞬きを繰り返して、改めて目の前の顔を見つめる。
「長次……?」
 長次は、返事をする代わりに私の背をそっと撫でる。それでお互いが裸なことと、昨日の夜のことを思い出した。
「私、あれから寝ちゃった?」
「ああ」
「部屋に戻るつもりだったんだけどね……」
 私は随分長い間寝ていたのだろう。長次の声にも表情にも、眠りの名残はなかった。もしかして、私が寝ているところをずっと見ていたんだろうか。ちょっと恥ずかしい。
「長次、寝なかったの?」
「……いや、少しだけ」
「そっか」
 頷いた途端に、お腹がきゅうっと軽く締め付けられた。あらら。
「お腹減っちゃった」
 目でどうしたと問う長次に身を寄せると、長次はなにも言わずに抱き締めてくれた。その指が、そっと私の頭を撫でる。たぶん、食堂はまだ開いてないからもう少し我慢しろ、ということだと思う。
「そうだね、食べるものって言っても忍者食くらいしか……あれ?」
 話しているうちに、ふと思い出した。黒塗りの、小箱のことだ。
「そっか、もらったカステイラ食べちゃおうかな……あ、でもあれは小平太に半分あげるんだっけ」
 それに、ちょっとお腹が空いたからって、滅多に手に入らない高級菓子をさっさと食べてしまっていいものだろうか。たぶんよくないよね。
「あ、でも二つあるから、一つは小平太にあげて、もう一つを私と長次で半分こにしようか」
 少し身を引いて視線を合わせると、長次はじっと私を見つめていた。なにも言わない長次に、呆れられちゃったかなと思っていると、ぽつりと長次が口を開いた。
「お前、……、か」
「え?」
 言われた意味が分からず、きょとんとした。長次は不思議そうな私の様子をまたじっと見て、それからゆっくり身を寄せて、私の額に口付けを落とす。
「……そうだな。お前は、お前だ」
「どうしたの、長次。寝ぼけちゃったの?」
 珍しいこともあるものだ。笑いながら、私も同じように長次の頬に口付けを返す。すぐ傍にある長次の瞳が、少し揺れていた。
 長次の肩越しに、戸の隙間から差し込む、柔らかな日差しが見えた。長い夜が明けて、朝が来た。
 ぼんやりと思い出す。昨日長次が言ってくれた、あの言葉。改めて嬉しいと思うのと同時に、長次が変な理由がなんとなく分かった気がした。
「……ああ、遅くなってごめんね。長次、待たされるの嫌だって言ってたもんね」
 焦らそうと思っていたわけじゃない。長次に言った通りに、幸せを実感していたかっただけだ。でもなんだか今もすごく幸せで、そして、告げたらもっともっと幸せになれる気がした。
「もう『明日』になったもんね。だから、言うね」
 ぎゅっと、強く抱き締められる。私も長次の背に腕を伸ばして、ちゃんと聞こえるように長次の耳元で、答えた。
 昨日のことのはずなのに、なぜかずっとずっと待たせてしまったような気がする、あの大切な問いに。

「長次、私はあなたと夫婦になりたい」

 今までも、これからも、長次がいてくれれば私は幸せでいられると、心から思う。嫌なことがあっても、泣きたくなることがあっても、命尽きて死ぬときも、長次と一緒にいたい。それが今の私の、心からの願いだ。


 ──俺と共に生きてくれ


 あの言葉がとても嬉しかったことを、ちゃんと長次に伝えたい。これから、長い年月をかけて。
 だから、これは始まりだ。幾度も幾度も告げるつもりの、最初の言葉。





「あなたと、ずっと一緒にいたい」















 終