中在家長次夢
『二度目の鼓動』
四話
「当日」その二
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『じゃあ、また明日ね、長次。私部屋に戻るね』 『日が昇るまでは、ここにいればいい。小平太は朝まで帰ってこない』 『それだとすぐに「明日」になっちゃうから。今日は一度帰るね。その分、明日も一緒にいよう』 そう言って微笑んで、は自分の部屋へと戻って行った。 その背を見送ったときには、まさかその『明日』をこんな形で迎えることになるとは、思いもしなかった。 「僕は専門医じゃない。ましてや薬師ですらない。だから正式な方法ではないかもしれないけれど、出来る限りのことは確かめてみた。はほとんど全てのことを覚えている。生まれ、育ち、家族、学園での友人、教師、生活習慣、一般常識、物の名前や使い方、地理、言葉。たかだか一刻程度のものだからまだ抜けはあるかもしれないけれど、とにかく今僕が確かめて分かったのは、の記憶から君のことだけが抜け落ちているということだ」 「前例は少なくない。それまでの記憶を全て失うことも、ただ一部分だけ失うことも。たとえば、個人、物、場所、果ては全ての『名前』だけ思い出せないものとか、記憶の喪失に関する事例は様々だけど」 「単なる病気や怪我とは違って、対処法は少ない。特に僕が出来る範囲では皆無に等しい。に外傷はなかったし、直接的に脳の部分がどうなっているのか、僕には分からない。その理由も、原因も。だから、もし少しでも思い当たることがあったら、教えて欲しい。……うん、あればもう教えてくれてるよね。それも分かってる」 「担任の先生には報告したよ。学園長先生にも。追ってと君にも話が行くと思う。……僕は、出来ればこのことは公にしないほうがいいと思う。に直接関わることのない他人が知っていても、が混乱するだけだから」 「書物を読んだ上での知識でしかないけど、自然に戻ることは多い。それは数日後かもしれないし数年後か数十年後かもしれないし、ずっと今のままかもしれない。前向きなことを言えなくてごめん。──でも」 「が忘れていても、君とが過ごしてきた時間は絶対に無駄にはならない。……だから気を落とさないで、出来る限りの傍にいてあげて。きっとそれがにとっても君にとっても一番いいと思う」 伊作に、疲れただろうし今日はもう自室に戻って休んでおいでと言われて、私は医務室を出て自分の部屋へと向かっていた。 よく知った女子寮への道を歩いているだけなのに、現実味がない感覚だった。頭が少し痛む。雨が降るときに響くものに似てる、じくじくした痛み。 伊作と話している間、友達が気を遣って食堂からおにぎりを持ってきてくれたけど、少しも手をつける気になれなかった。昨日の夜からずっと寝ていたのなら空腹のはずなのに、お腹が空いているという感覚すらない。まだ夢の中にいるみたいな気持ちで、それなら早く覚めてくれないだろうかとぼんやりと思っていた。 中在家長次。 私が忘れているひとの名前。 しつこく聞いてごめんと断って、伊作は幾度もその名前を出して覚えていないかと繰り返した。長次と君は幼なじみだ。入学する前からずっと仲が良かった。君にとっても大事なひとのはずだ。 その言葉のすべては、私の頭の中をすり抜けた。 分からない。私はそんなひとは知らない。 あの場にいた伊作も、小平太も、友達も、みんなが信じられないという顔をしていた。あのひとだけは無感情に思える瞳でただじっと私を見つめていたけれど、その瞳も小さな低い声も、私の記憶の中には欠片もない。知らないひとだとしか思えない。 中在家、という名字にだけは覚えがあった。実家の近所の家だ。小さい頃は何度かおうちに遊びに行った気もするけど、私と同い年の男の子がいたなんて、私は知らない。 からかわれているのだろうかと思った。私の知らないひとを連れてきて、私が戸惑っているのを楽しんでいるだろうかと。 でも、そんなわけがない。 みんなの真剣な表情を思い出して、心が重くなる。伊作の必死な言葉。友達の悲しそうな顔。小平太なんて、早く思い出してやれと幾度も鋭く言葉をぶつけてきた。 頭が痛い。おかしい。そんなはずない。 私はあのひとのことを知らない。 記憶の中にあのひとが欠片もないのだから、『私はあのひとを忘れているのだ』という実感もない。 なのに思い出せと言われても、どうすればいいのか分からない。 気づけば、いつの間にか自分の部屋の前までたどり着いていた。戸を開ける。記憶通りの、いつもの部屋。同室の子はいなかった。そういえば昨日、明日は昼から外に出かけますと言っていた気がする。 戸を閉めて、私は一人きりで部屋の中に座り込んだ。慣れた自分の部屋に帰ってきて、ようやくに少しだけ気分が落ち着いた。膝を引き寄せて、腕を回して柔く抱く。 頭の中が、ぐるぐるする。 中在家長次。 私の幼なじみ。仲が良かったのだというひと。私が昨日まで覚えていたひと。 考えれば考えるほどに、分からなくなる。物心ついてからのことも、入学してからのことも、私は人並み程度には記憶していると思う。 でも、そのどこにもあのひとはいない。 いくら忘れているのだと言われても、私にとってはあのひとだけが異分子に思えて仕方ない。だけどみんなは、私こそが間違っていると言っている。だから早く思い出してと。 ──これが夢なら、早く覚めて欲しい。 「っ……」 揺れる心に、少し乱暴に髪をかき上げた。爪が額を軽く抉り、微かな痛みが走る。そのとき、ふと伊作が最後に言った言葉を思い出した。 『部屋に戻ったら、一度自分の持ち物を確かめてみて。他にも忘れていることがあるかもしれないから』 忘れているのがあのひと以外にもあるのかどうか。それが分かれば対処もとれるかもしれないからと。 正直積極的にそれをする気分では到底なかったけれど、私はゆっくりと息を吐き、のろのろと立ち上がって自分の文机へと向かった。 私のものと同室の子のもの、二つ並んだ文机。 私の文机の上にあるのは、硯、墨、筆、栞、半紙、文鎮、算術用の算盤、六年生用のくの一の友、授業で使う資料本、辞書、まとめて古紙に出そうと思っていた、反故紙。それで全部。 すべて私のものだ。ほとんどは学園支給のものだから、特におかしいところもない。ざっとその場で部屋を見回してみたけれど、見覚えのないものはなにもなかった。 一応と机の上の一つ一つを取り上げて確認し終えると、私は気力を失ってその場にずるずると座り込んだ。文机の上に額をぶつけて、強く目を閉じる。ゆっくりとまた目を開いても、夢は覚めず、世界は私の知っているものに戻っていてはくれなかった。 諦めて身を起こしたとき、文机の隣に積んでいた本が視界に入った。五冊ほどのそれを、なんとなく一番上の一冊を手にとって視線を落とす。 本。 そうだ、本だ。授業用のものではない、娯楽用の大衆向け草子や漢詩集。積まれている本の題名一冊一冊に目を向ける。覚えている。全て読んだし、どれも面白かった。昨日も夕食を食べてお風呂に入る前に、時間潰しにと読み返していた。 ああそうだ。返さなくてはいけないんだ。 ぼんやりと、本を見つめながらそう思う。 この本は図書室から借りてきたものじゃない。直接個人の蔵書を借りたものなのだ。だから昨日も早く返さなくてはと思いながら読んでいて、それで── 「…………あれ?」 ふいに、なにかが頭に引っ掛かる。早く返さなければと思っていて、それで……? ……おかしい。そんなわけない。そんなわけがあるはずないのに。 引っ掛かっていた違和感がはっきりとした形になった瞬間、どくん、と大きく鼓動が跳ね上がった。 そのとき私はようやくに、自分が確かにあのひとのことを『忘れている』のかもしれないと思い始めた。 私はここにある本を読んだ覚えがあるのに、誰かに借りた覚えもあるのに。 ──それが誰だったのか、覚えていない。 気づいた途端に、唖然とした。 「先輩ー、いらっしゃいますかー?」 突然にかけられた声に、はっと顔を上げた。凝視していた本を文机の隣に積み直し、慌てて立ち上がる。部屋の外からの声は、よく知っているくの一教室の後輩のものだった。どくどくと鳴る動悸を息を吐いて落ち着かせて、戸へと向かう。 「……うん、いるよ」 戸を開けた先にいたのは、やっぱり見慣れた後輩だった。後輩は私が部屋にいたのが嬉しかったのか、ぱっと顔を輝かせて「こんにちは、先輩!」と軽く一礼する。 「うん。……どうしたの? なにか用?」 その明るい顔を見て、少し動悸が治まってきた。用を訊ねると、後輩は急に口にするのを躊躇うような様子になって、ちらちらと私の顔を窺う。 「あの、すみません。先輩にお願いがあってきたんですけど……」 「なに? 大丈夫、今忙しくないから」 私はちょっとほっとした。あのひとのことをずっと考えているとわけがわからなくなりそうだったから、いっそ考える暇もないくらいに違うことをしていたかった。ぎこちなかったかもしれないけれど微笑んでみせると、後輩は後ろ手に持っていたらしい書物をおずおずと取り出し、私へと差し出した。それに自然に目を落としたとき、後輩がまた躊躇いがちに口を開く。 「この本ですね、図書室の本なんですけど、また返却期限がいつの間にか過ぎちゃってて、あの……」 「うん?」 図書室の本。確かに、忍術学園所蔵を示す印も押してある。頷く私に、後輩が意を決したように言葉を続けた。 「これ、私の代わりに中在家先輩に返して頂けないですか……!?」 「っ!」 自分の顔が強張ったのが分かった。中在家。その名前だけで、頭を軽く殴られたような衝撃が走る。 中在家長次。 私が知らないあのひとのことを、この子も知っている。 「いつもすみません! で、でも今回は五日くらい過ぎちゃって、あの、前も三日延滞したときじろって睨まれちゃったし、たぶんすごく怒られるんじゃないかなあって………………あの、先輩?」 「中在家……」 「……先輩……? す、すみません、怒ってますか……?」 戸惑った様子の後輩が、不安そうに私の顔を覗き込む。私はさっきの後輩の言葉を思い出して、口を開く。 「……本。返す? 私、いつも本を返してたの?」 「え? あの……」 「中在家長次……? に、本を代わりに返してたんだよね? いつも?」 じっと見つめると、後輩の身体がびくりと震えた。その顔に溢れていた戸惑いが薄れ、代わりに怯えが浮かんでくる。一歩身を引き、後輩は私へと差し出していた本を戻して、ぎゅっと両手で抱き締めた。 「ご、ごめんなさい! 私から返します、すみませんでした!」 「あ、待って!」 背を向けようとする後輩を、慌ててその肩を掴んで引き止めた。まずい、と焦りが走る。 「ご、ごめん。違うの。ちょっと寝起きで頭がぼーっとしてて、それで……。うん、私が返しておくね。貸して?」 「先輩……」 掴んでいた肩を離して、手を差し出すと、後輩は私の顔と手とを交互に見て、そしてゆっくりと本を私に手渡した。 「あの、ほんとに怒ってらっしゃらないですか……?」 「うん。ごめんね、私結構寝起き悪いの。気にしないでね」 「あ……はい。よろしくお願いします、先輩」 まだ戸惑った表情だったけれど、後輩は少し安堵した様子だった。まだ幾度か気がかりそうに私を見ながら、頭を下げて自分の部屋へと戻っていく。 本。 中在家先輩に返して頂けないですか? 渡された本に、視線を落とす。 どうということもない、試験かなにかの参考に使ったのだろう資料本だった。いつもすみません、ということは、私は日頃から本を返す役目をしていたのだろうか。 ぼうっと、頭の中が揺れる。意味もなく涙が浮かびそうだった。私はそれも覚えていない。 本。 そうだ。伊作が言っていた。あのひとは図書委員長なのだと。 確かに思い出そうとしても、私の頭の中に六年の図書委員長はいない。図書委員会は委員長不在だったという記憶もないのに。図書室には、幾度も足を運んだことがあるはずなのに。 だから、あの誰に借りたか分からない本も、やっぱりあのひとのものなのだろう。 理解せざるを得なかった。私の欠落している記憶は、そこにあのひとがいたのだと考えれば、つじつまが合う。 私はやっぱり、あのひとを忘れてるんだ。 渡された本を抱えて、部屋を出た。医務室で、なにも言わずにただ私を見つめていた、思い出せないあのひとの瞳が浮かんでくる。 この本を返して、一度話をしてみよう。重い心で、そう思った。 そう思ったのだけど、男子寮に着いたとき、私は気づいて足を止めた。 ……だめだ。 あのひとの部屋の場所が、分からない。本を抱えたまま、しばし立ちつくす。六年生だということは聞いた。だから六年長屋にいるのは確かだろうけど、でも私は、あのひとが六年のどの組なのかも知らないのだ。 伊作に聞きに行こうか。もう日が沈んだから、伊作は部屋にいるだろうか。それともまだ医務室だろうか。入り口で悩んでいると、後ろから「か?」と声をかけられた。 「よう、こんな時間になにしてんだ」 「……食満」 自主練か委員会活動か、動き回った後らしく少し疲れた様子の食満が、私のすぐ後ろにいた。食満は私と私の抱えている本に目を向けて、「ああ」とすぐに合点が行った顔になる。 「また長次のところか?」 何気ないその言葉に、ずきりとした。動揺を顔に出さないように、気を落ち着かせようと努める。伊作から言われたことを思い出す。君が長次を忘れていることは、出来る限り表沙汰にしないほうがいい。騒ぎになってしまうと厄介だろうから、と。 私もこれ以上にいろんなひとにあのひとを忘れたのかと詰め寄られるのは嫌だったから、そうしたいと思っていた。そうしたほうがいいと、思っていた。 ……でも本当は、出会う人全てに聞いて回りたかったのだ。あなたは中在家長次を知っているのかと。知らないのは、私だけなのかと。 「食満。あのね……変なことを聞くと思ってくれていいから、教えて欲しいの」 「ん? なんだ、どうした」 私が真剣なのが分かったのか、食満は表情を真面目なものにして私に一歩近づいた。食満。六年間同じ学園で学んだ相手。私は食満を知っているし、食満は私を知っている。それが当然なのに。 「あの……中在家……長次? の部屋って、どこにあるの?」 「は?」 食満がぽかんと間の抜けた声を出した。次いで、怪訝そうに首を傾げる。 「今更なに言ってんだお前。よく行ってんだろ」 「ん……そうなんだけどね」 覚えてないけど、そうなんだろうね。 「部屋替えなんかしてねーぞ。あいつ部屋にいなかったのか?」 「……そう」 「ろ組が実習なんて聞いてないけどな。小平太はどーせいつもいねえだろうけど、長次は……部屋じゃないなら図書室じゃねえか? それ返しに行くんだろ?」 食満は私が持っている本を見てそれだけを言うと、じゃあなと背を向けて自分の部屋に戻って行った。 その背が長屋に消えていくのをぼうっと見ながら、私はさっきの食満の言葉を繰り返して考える。 ろ組。そう、きっとあのひとはろ組なのだ。そしてもしかしたら、小平太と同室なのかもしれない。 私はようやくに、欠落した自分の記憶を少し理解し始めていた。六年男子の全員を、私はよく知っている。小平太の部屋も知っている。だけど、小平太と同室の生徒を、私は思い出せない。小平太が一人部屋だった、という記憶はないのに。 ……そう、きっとそうなのだ。 六年はもう人数が少ないから、部屋も大体把握している。小平太の部屋も。 私は本を抱え直して息を吐くと、その部屋へと足を向けた。 →五話『当日』その三 |