中在家長次夢
『二度目の鼓動』


六話
「二日目」その一





「善法寺君から話を聞きました。……大変だったのね、さん」

 西日が差し込む教室は、薄赤色に染まっていた。授業が終わった後、私は山本先生に声をかけられて一人で教室に残っている。表向きには「授業選択のことで聞きたいことがあるから、少し残ってくれないかしら」という理由でだ。
 あれから丸一日。失った記憶はまだ戻らなかった。くの一教室にはあのひとの影がなくて少しほっとしたけれど、それでも頭の中から消えてなくなってくれるわけじゃない。私の頭の中は、今朝目が覚めてからずっと、あのひとのことだけで占められている。
 授業にも身が入らずぼんやりとしていて、同級生達に幾度もどうかしたのかと心配された。その度に事情を知っている友達が、は昨日からちょっと体調悪いんだ、と無難に説明してくれていたけれど、私はそのことに礼も言えていない。ただ中在家君のことと、中在家君を覚えていた、以前の私のことばかり考えていた。
「あなたは、中在家君に関することを思い出せないと聞いたけれど、それで間違いはないかしら」
「はい」
 向かい合う私と山本先生。山本先生の声は優しくて、私に対する労りに満ちていた。
「なにか、理由に心当たりはないのかしら」
「いえ……分からないんです」
「そうね。もしあったとしても、きっとそれも忘れてるわよね。……ばかなことを言ったわ。ごめんなさいね」
 山本先生もこの事態に戸惑っているのだと思う。いつも生徒のことをちゃんと見て的確に導いてくれる先生だけど、今はひどく言葉を選んでいるように思えたから。
 私からなにか言うべきだったのかもしれないけど、なにを言っても意味がないような気もしていた。心の中が重い。ぼんやりとしていると、山本先生はしばらく私を見つめた後、「ねえ、さん」と微笑んだ。
「少しの間、おうちに帰ってみない?」
「え……?」
「学園にいても、中在家君と顔を合わせたり、そのことについて他の生徒と話す度に困ることになるでしょう? ご実家だったら、さんも余計なことを考えずに落ち着けるかもしれないわ」
 思いがけない言葉に、私は驚いて山本先生を見上げた。
 実家に戻る? そんなこと考えもしなかった。だって、
「でも山本先生、授業が……」
「先生ね、次の長期休暇は学園で居残り当番なの。だからそのときに補習授業をしてあげるわ。一対一だからきっとはかどるわよ」
 私と目を合わせて、山本先生はにっこり微笑んだ。その微笑みに先生の配慮を理解して、私もつられて小さく微笑む。きっと、当番というのは嘘なのだろう。先生もその嘘がばれるのは承知の上だと思う。
「どうかしら。おうちの都合さえよければ、今日や明日にでも帰って構わないのよ」
 優しい声と瞳だった。私のことを真剣に考えてくれている先生の心遣いは、素直にとても嬉しかった。
 確かに私は、一度忍術学園……というか、中在家君と離れてじっくり考えてみるべきなのかもしれない。記憶を突然に失ったときは、少しずつ戻ってくることが多いと伊作も言っていたし、精神的に落ち着ける場所にいたほうがいいだろうと、客観的にもそう思う。
 でも、駄目だ。
「ありがとうございます。でも、家に帰らなくても大丈夫ですから」
「そう……? みんなには体調不良っていうことにしておくし、気にしなくてもいいのよ?」
 気遣わしげな先生の声に、私は少し無理をして笑みをつくり、首を横に振った。
「いえ、本当に大丈夫です。学園で普通に過ごしていたら、中在家君に会うことはあまりありませんから」
 山本先生は私をじっと見て、それから「そう」と小さく頷いた。
さんがそう決めたのなら、先生はそれで構いません。でも考えが変わったらいつでもおうちに帰っていいし、精神的に負担があるようなら男子との合同授業は休んでも構いません。後で補習は受けてもらうけれど」
「はい。先生、ありがとうございます」
 礼を口にすると、山本先生は少し寂しそうな切なそうな顔をした。そっと手を伸ばして、私の頬を撫でてくれる。
「今、学園長先生と新野先生が専門の薬師さんがいないか探してくださっているところなの。大丈夫、心配しなくてもきっとすぐに元に戻るわ。先生はそう信じてます」
「……はい」
 なんの根拠もない言葉。それを口にするのは、山本先生も辛いのだと思う。だけど私は嬉しかった。私を気にしてくれるひとがいる、そのことが。
「あなたも決して無理をせずに、なにかあったらなんでも言ってちょうだい。私達教師は、あなた達のためにいるのだから。……早く思い出せるといいわね、さん」
 その温かな指がゆっくり離れる。私は小さく頷いて、山本先生に頭を下げた。
 ──欠落した記憶を抱えたまま学園にいるのは、確かに少し苦痛だった。
 だから一瞬本当に家に戻ってしまおうかと思ったけれど、すぐにそれは出来ないのだと気がついた。
 あのひとは私の幼なじみだ。
 実家の近くに、中在家という家があったのは覚えている。帰れば否応がなしに目に入るほどの近所だ。同じ学園に通っているのだから、きっとあのひとの家族も、私に学園での中在家君の様子を聞きに来るだろう。私の両親も、間違いなく中在家君のことを知っている。
 ここ以上に逃げ場がない。
 記憶を失ったのだと両親に告げたら、きっと酷く心配するだろう。もしそれが周囲に漏れてしまったら、すごくややこしいことになるかもしれない。それならばまだ学園にいたほうが、事情をよく知る友達や伊作や先生達が、助けてくれるだろうから。
「もういいわよ、さん。時間をとらせてごめんなさいね」
「いいえ。山本先生、ありがとうございました」
 先生は少し申し訳なさそうにしていたけれど、私の心は今日一日で一番軽くなっていた。私はもう一度山本先生に頭を下げて、退室するために腰を上げた。
「……そうだわ。さん、あと一つだけいいかしら」
「はい? なんでしょうか」
 引き止められて、上げかけた腰をまた下ろした。改めて先生と向き合うと、今までとは違う、少し硬い声が響く。
さん。あなたが中在家君を忘れたのは、昨日の昼に目が覚めてからだったわね」
「はい、そうです」
「それなら、一昨日の夜、あなたはどこにいたの?」
「えっと……」
 少し戸惑いながら、問いに答えた。そんなの考えるまでもないのに。
「一昨日の夜は、自分の部屋で寝ていました」
「どこかに行かなかった?」
「いえ……お風呂から帰ってきた後は、部屋を出た記憶はありません」
「……そう」
 私の答えに、山本先生は柔く微笑んだ。その表情はなんだか安堵したものに見えて、私は不思議に思う。けれど山本先生は私がそれを訊ねる前に立ち上がり、もう一度「もういいわよ」と声をかけて、授業後の黒板を消しに教卓へと向かって行った。

 
 教室を退室した私は、所属している委員会へと顔を出しに行った。今は違うことを考えていたかったから、仕事がたくさんあればいいなと思っていたけれど、今日は来月の活動日の確認だけで終わってしまった。解散後、先輩お疲れ様ですー、と声をかけてくれる委員会の後輩に手を振って、私はこれからどうしようかと考える。
 出来ればなにか、忙しく動き回ることをしていたい。だけど変に誰かに絡んだら迷惑だろうし、なにかの拍子に中在家君の話が出てきてしまうことも怖い。
 しばらく考えた後、仕方なくそのことを諦めて、私は自分の部屋へと戻った。
先輩、おかえりなさい」
「ただいま」
 部屋には、もう同室の子が戻ってきていた。くの一教室は学年が上がるごとに行儀見習いで入学した子達がやめていってしまうから、必然的に部屋替えも多くなる。今の私は、一つ年下の後輩と同じ部屋だった。
 後輩は文机に向かい、教科書や参考書を開いていた。書き取りしていたらしい筆を置いて、私へと身体を向ける。
先輩、お体は大丈夫ですか?」
「うん、ありがとう。だいぶましになったよ」
 昨日帰ってきてからの私はさすがに調子が悪く見えたらしく、後輩は昨日の夜も今日の朝も心配して声をかけてくれた。自分で言うのもなんだけれど、私はあまり体調を崩さないし、落ち込んだりもしないから。
「そうですか、それならよかったです。……それであの、先輩……」
「ん? なに?」
 後輩は、なんだか申し訳なさそうに顔を曇らせた。躊躇いがちに、口を開く。
「私、明日試験なんです。今日は夜遅くまで起きているかもしれないんですが……あの、ご迷惑でしたら同級生の部屋に行きますから」
「あ、そうなんだ。構わないよ、気にしないでここで勉強してて」
「いいんですか……? 先輩、お体に障るようでしたら……」
「ほんとに大丈夫だから。私、どっちかと言うと騒がしいほうが落ち着くし」
 それは本当のことだったから、後輩はほっとした様子で「はい、ありがとうございます」と私に一礼して、また筆を取り上げて書き取りの続きを始めた。
 そうか、五年生は明日試験なんだ。学年が違うとこういうときにお互いに気を遣うことになるから、特に後輩は窮屈だろうなと申し訳なく思うけれど、つまりその分私も配慮すべきだろう。
 すぐに集中して試験勉強をし始めた後輩の隣で、私は持ち歩いていた授業用の教科書や筆記具を文机の上に戻す。ここにいて後輩の邪魔をするのは嫌だし、なにか外に出る用事をつくろうと、ゆっくりと部屋の中を見回した。
 友達の部屋にでも行こうか。それとも少し早いけれど夕食を食べに行こうか。それとも委員室に戻って過去の書類の整理でもしていようか。それとも……
「……………」
 ぼんやりと考えながら、ふと文机の隣に積まれた、数冊の本に目を止める。手を伸ばして、一番上の一冊を取り上げた。私が忘れている……中在家君から借りた本だ。
 返しに行こうかな、と思う。
 中在家君のことを考えるだけで気持ちが重くなってしまうけれど、いつまでもこのままではいたくない。思い出さなくてもいいと言われたけれど、私の心はそれで楽にはならなかった。隙間が空いたかのような喪失感が、昨日目覚めてからずっと胸の奥にある。なにより欠落した記憶があるという事実は、とても落ち着かない気分になる。
 会いに来るなと、拒絶されたわけでもない。
 積んでいた本を片腕で抱え上げて、立ち上がる。今の時間、中在家君は図書室だろうか。図書委員長だと言っていたから。
「私、ちょっと図書室に行ってくるね」
「あ、はい。わかりました」
「なにかいるものあったら、借りて来ようか?」
「いえ、大丈夫です。ありがとうございます、先輩」
「うん。試験勉強頑張ってね」
 後輩へと空いた手を軽く振って、私は部屋を出て図書室へと歩き出した。
 

 放課後になると、共用廊下は行き交う生徒達で騒がしくなる。長屋に帰っていく生徒達、友達同士誘い合いながら食堂に駆けていく生徒達、まだ委員会活動中で備品を手に足早に移動している生徒達。
 その幾人もとすれ違いながら、私は目的の場所である図書室へと向かっていた。
 右腕に抱えた本は、抱えるのには負担な量ではないけれど、その代わりに少し心が重い。今から中在家君と会うのだと思うと、どうしても躊躇う気持ちが大きくなる。
 その分やっぱりいつもより遅い足取りで廊下を歩いていると、ふいに庭のほうから「先輩!」と下級生のものだろう声がした。足を止めて声の主を探すと、少し離れたところから、ぱたぱたと二人の一年生が私の元に走ってきた。
「どーも! 先輩! 今お時間空いてますか!?」
「こら、きりちゃんってばー! あ、先輩、こんにちは!」
「うん、こんにちは」
 私の前に並んでいるのは、一年は組の生徒だ。乱太郎ときり丸。あと一人足りないなと不思議に思って、すぐに気づいた。しんべヱは今おうちに帰省中なんだっけ。
「どうしたの二人とも、なにか用?」
「ええもう、大事な用がありまして! 先輩、お菓子好きっすか!?」
「あ、きりちゃん、こら! 先輩に売り付けようとしてるんでしょ! だめだよ!」
「だめじゃない! これは銭の神様が俺にくれた、ささやかーなご褒美に決まってる!」
「そんなわけないでしょ、もともときりちゃんのじゃないんだから!」
「拾ったものは俺のものって言うじゃん」
「それはきりちゃんの中だけの常識なの!」
 二人はなんだか揉めるようにああだこうだと言い合っている。口を挟まないほうがいいだろうかと収まるのをおとなしく待っていると、ふとそのとき、きり丸が図書委員だったことを思い出した。
「ごめんきり丸、先にちょっと聞いてもいい?」
「あ、はい! なんすかなんすか、アルバイトのお話でしたら、先約があってもお金がいいほうを優先させます!」
「あはは。ごめんね、そうじゃないんだけど……あの、今日の図書室の当番、誰か分かるかな」
「図書室の当番ですか……えーっと……」
 きり丸はそれまできらきらと小銭にしていた目を戻し、うーん、と首を傾げる。
「僕は今日当番じゃないんで絶対とは言えないですけど、確か今日は中在家先輩と不破先輩と能勢先輩だったと思います。一年二人が休みだったはずなんで」
「そっか、ありがとうきり丸」
 それなら、中在家君は今日は図書室にいるのだろう。正直中在家君の部屋で二人きりで会うのは気が重いから、少しほっとした。
「いえいえ、確実なこと言えなくて申し訳ないです。……で、で、先輩、こっちの話なんすけど! まずこれを見てください!」
 ぱっと顔を輝かせて、きり丸がそれまで小脇に抱えていた小ぶりな箱をずいっと差し出した。手のひら二つ分ほどの、塗箱。重箱を小さくしたような感じだ。塗箱自体に花の装飾が施されている丁寧な作りのもので、蓋の上には屋号が刷られた薄紙が置かれ、その上から飾り紐で蓋が開かないように結ばれている。
 高級品、という単語がよく似合う、質のいいものだ。
 なんとなくその屋号に見覚えがある気がして、私は軽く首を傾げる。
「この屋号どっかで……あ、もしかしたら福富屋さんのかな?」
「さすが先輩、お目が高いっす! 福富屋と言えばご存じ、高級貿易商の有名処! そこの一品とくれば、庶民には手が届かない一級品に決まってます!」
「こらこら、やめなってばきりちゃん。それ誰のか分からないんだから」
「え、きり丸のじゃないの?」
 話が見えない私に、きり丸が「実はこれ拾ったんすよ」とあっさり頷く。
「中にはカステイラが入ってるんです。一昨日カメ子ちゃんが、いつもお世話になってるお礼にって先生達とかは組のみんなにくれたんすけど、これは今日の朝、庭の端で見付けたんです。誰か落としちゃったんだと思うんすけど……」
「てかきりちゃん、なんで朝から庭の端なんかにいるのさ」
「そんなん、日課の早朝小銭探しに決まってらい」
「ああ、そう……」
 乱太郎のじとーっとした視線にも、きり丸はふふんと誇らしげに胸を張り、私に笑顔を向ける。
「というわけで、どうっすか先輩!? 高級南蛮菓子カステイラと質のいい塗箱! カステイラを食べた後には小物入れとしてもお使いできる優れもの! いつもなら食券三枚のところ、二枚でいいすよ!」
 きらーんと小銭の目になるきり丸の隣で、乱太郎がやれやれとため息をつく。
「きりちゃん……拾った原価タダのものをよく堂々と売り付けようとするよね……」
「なんにでも商売に繋げるのが、正しいドケチの道なんだぜ。どうっすか先輩! 僕もらったその日に食べましたけど、すごく美味しかったですよ!」
「確かに美味しかったけどね……。あ、先輩、きり丸のことは気にしないでください」
「乱太郎ーー! お前、親友の商売の邪魔するなんてひどいぞ!」
「もー! 親友だから止めてるんでしょ!」
 わあわあと言い合ってる二人を見ていて、私はなんだか気持ちが温かくなった。ずーっと曇りきっていた心が、少し晴れたような気がする。二人のやりとりがお互いをよく知る仲の良いもので、素直に微笑ましいなと思ったから。
 ……私と中在家君も、もしかしたら以前はこんな風だったのかもしれない。
 腰元の内袋から食券を二枚取り出し、きり丸に差し出した。
「……じゃあきり丸、これ食券二枚ね」
「まいどありーーー! お買い上げありがとうございますー!」
「え、ちょ、先輩!」
 満面の笑みになるきり丸の隣で、乱太郎が信じられないという顔をしている。食券を受け取り、はいどーぞ、ときり丸に差し出された塗箱には手を伸ばさず、私はきり丸の顔を見下ろす。
「ん? どうしたんすか先輩?」
「あのね、きり丸。それあげるから、元の持ち主さん見付けてあげて。せっかくカメ子ちゃんがそのひとにって用意してくれたのに、そうじゃないひとに渡すなんて可哀想だよ」
 図書室まで案内しただけなのに、ありがとうございました様、と礼儀正しく頭を下げてくれたカメ子ちゃんが頭に浮かんでくる。あの子のことだろうから、質のいいものというだけじゃなくて、純粋にお礼の気持ちを込めて渡してくれたはずなのだ。きり丸も大変なのだろうから仕方ないと思うけれど、出来れば持ち主の手に戻るほうがいい。
先輩……」
先輩……」
 二人が、きょとんと同時に私の名を呼ぶ。じーーーっと二人分の視線を向けられて、私は急に気恥ずかしくなった。いくらなんでも、先生でもないのに説教臭いことを言ってしまっただろうか。
先輩って大人ですねぇ……」
「すみません先輩、僕が間違ってました……」
 ぽかんとする乱太郎の隣で、きり丸が気まずそうに視線を逸らす。言い過ぎだろうか。慌ててごめんと言いそうになった私の前で、きり丸はゆっくりと顔を上げ、手のひらを私に向けて差し出した。
 なんだか申し訳なさそうに、
「すみませんけど、お手伝い賃は食券三枚になってるので、あと一枚……」
「きりちゃん、こらーーーーーーー!」


 結局は苦笑してきり丸に食券をもう一枚手渡して、私は二人と別れた。
 走って去っていく二人の背中を見ながら、私と中在家君も、もしかしたらあんな風だったのかもしれない、ともう一度思う。
 ゆっくりと息を吐いて、右腕の本を抱え直し、また図書室へと歩きだした。


 失礼します、と小さく声をかけて、図書室の戸を開ける。
 図書室の中は、決してうるさくはないけれど複数の人の気配があった。自習中の生徒も何人かいるし、図書委員達も忙しそうに歩き回っている。図書室内を軽く見回しても、中在家君の姿はない。どこにいるのだろうかと思ったとき、「あっ」とすぐ近くで声がした。
先輩、こんにちは」
「久作、こんにちは」
 巻物が入った行李を両手で抱えている久作がこちらへと歩いてきて、私に一礼してくれる。私も会釈して、それからもう一度図書室を見回し、小声で話しかけた。
「あのね久作、聞きたいことがあるんだけど……」
「中在家先輩ですよね? 今は食満先輩と一緒に奥にいらっしゃいますよ。そこ……えっと、棚で見えないですけど、奥の納戸の近くです」
「あ……うん、ありがとう」
「いえいえ」
 久作は軽く微笑むと、また行李を抱えて委員会の仕事へと戻って行った。なにも言ってないのに中在家君に会いにきたのだと理解されたことには、今までのような戸惑いはなかった。周囲にそう認識される程には、私と中在家君はよく共にいたのだろう。幼なじみだということも、みんな知っているのかもれない。
 言われた通りに、図書室の奥へと向かう。普段生徒達が使う本棚とはまた別に、整理中のものや貸し出し禁止の貴重本が並べられている一角。古書の乾いた匂いが特に強いそこに、作業用だろう文机の前に食満と中在家君がこちらに背を向けて座っていた。その近くの本棚には雷蔵がいて、抱えている本を戻したり、順番に並べ替えたりしている。
先輩、こんにちは」
「ん? おう、か」
 最初に雷蔵が、その次に食満が私に気づいた。通りすがりに雷蔵に目で挨拶して、私は二人の元に向かう。
 食満の声に、中在家君もゆっくりと顔を上げて、私を振り向く。その相変わらず無感情に思える瞳に、真意が分からずに心が揺れる。けれど軽く息を吐いてそれをやり過ごし、私は二人の前まで足を進める。
「自習中にごめんね。少しいい?」
「ああ、自習なんかじゃねーよ。本返しに来て、そのまんま居座ってるだけだ」
 気にすんな、と軽く笑う食満の隣で、中在家君はぽつりと呟いただけだった。予想出来た言葉。
「なにか用か」
「うん。……あの、これ」
 その場に膝をついて座り、持ってきた五冊の本を差し出した。図書室所蔵の印を押されていない、中在家君のものであるはずの本。お?と覗き込む食満の隣で、中在家君はざっと題名を確認してから、無言で本を引き寄せた。
「それ……たぶん中在家君のだよね」
「ああ」
「返すの遅くなっちゃったのかな。ごめんね」
「……いや」
「どれも面白かった。ありがとう」
「ああ」
 中身のない会話だった。だけど私が記憶を失ったと知らない食満の前では、余計なことは言えない。とにかく中在家君が受け取ってくれたことに安堵して、私は立ち上がる。少し二人きりで話がしたかったけれど、人の多いここでは無理だろう。
「邪魔してごめんね。中在家君、食満、またね」
「あ、……ああ」
「…………」
 きょとんとしている食満の隣で、中在家君はなにも言わずに私に背を向ける。食満の不思議そうな顔。なにか言い方を間違えただろうかと不安に思ったけれど、弁解するのもまたややこしいことになるだろうから、私もそれ以上なにも言わずに踵を返した。数歩足を進めたところで、「あの……」と控え目に声がかけられる。見ると、本の整理の手を止めて、雷蔵も私に戸惑った視線を向けていた。
「えっと……なに?」
 問うと、雷蔵はなにか言おうとして言えないような表情で、ちらりとこちらに背を向けている中在家君を見て、そして「……いえ、なんでもないです」と首を横に振った。
 私は「そう」と小さく頷くと、図書室の戸へと歩き出す。やっぱり、なにかおかしかったのだろう。他人の目があるところでは、中在家君に話しかけないほうがいいのかもしれない。
 また、心が重くなってきた。今度からは気をつけようとぼんやりと思って、私は図書室から出た。


「……どうしたんだ、あいつ」
 先輩が出て行った後、食満先輩が怪訝そうに首を傾げた。なあ、と手元に視線を落としている中在家先輩の顔を覗き、
「なんだあれ。お前ら喧嘩でもしたのかよ。中在家君って」
 食満先輩の言葉に、中在家先輩は顔も上げずにしばらく黙った。そして、ぽつりと。
「…………そんなところだ」
「まさか、お前が怒ってんのか?」
「……いや」
「ならやっぱりあいつってことか。面白い喧嘩の仕方だな。、怒ったら他人行儀になんのかよ」
 食満先輩がからかうように笑うけれど、中在家先輩はなにも言わずに作業を続けている。それがどう映ったのか、食満先輩は少し楽しそうな表情になった。
「ていうかお前ら喧嘩すんのかよ。初めて聞いたぞ」
「…………」
「そういえば、昨日もお前の部屋はどこだとか聞いてたな。長次、お前いったいになにしたんだ」
「…………」
「ま、そりゃ答えられないわな」
 食満先輩は一人で納得したように頷くと、「お前が悪いならさっさと謝れよ」と中在家先輩の肩を軽く叩いて立ち上がる。
「じゃあな、俺もう行くわ」
「……ああ」
「不破、邪魔して悪かったな」
「いえ、そんな」
 前を通る食満先輩に、慌てて一礼する。その背を見送った後、はっと気づいて、持ったままだった本を目の前の棚に押し込んだ。返却された本を棚に戻す作業を続けようとした瞬間、委員長の声がした。
「雷蔵」
「っ!」
 びくっと身体が跳ねた。動きを止め、それから怖々と中在家先輩を振り向く。ずっと手を止めて話を聞いていたことがばれていたのだろう。
「……はい」
 抱えていた本をその場に下ろし、中在家先輩の元に向かう。文机の上で虫食い文書の補修をしている中在家先輩の隣に正座をしてお叱りを待っていると、中在家先輩が手を止めて、ゆっくりと僕を見た。
「雷蔵。話がある」
「は、……はい。委員会中にすみませんでした」
「違う。私事ですまないが、お前に頼みがある」
 頼み……?
 叱られるとばかり思っていたので、呆気にとられた。じゃあなにを……と思ったのと同時に、中在家先輩の声が届く。
は今、俺のことを忘れている」
「……は? あの……なにを仰ってるんですか」
「真面目な話だ。あいつは、俺のことだけ忘れている」
 唐突な中在家先輩の言葉を、僕はまったく理解出来なかった。確かにさっきの先輩は、様子がおかしかった。でも、だからってそんな、忘れたとか──
 一体どういう意味ですかと問おうとした僕の言葉より先に、中在家先輩の声が続けられる。
 それは、とても冗談を言っているとは思えない、真剣な声音で。
がどこかで俺のことで戸惑っていたら、助けてやってくれないか」















 →七話『二日目』その二