中在家長次夢
『二度目の鼓動』
九話
「前日の夜」その一
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お風呂の格子窓から見上げた今夜の月は、新月を少し過ぎただけの、まるで針のような細さだった。だけど月明かりが少ない分、夜空に散らばる星が綺麗に見える。 風が涼しくて気候もいいし、月の色からしてたぶん明日も晴れだろう。 湯船にゆっくり浸かりながら、ああ今夜はいい夜だなと、のんびりと思った。 「これから、中在家先輩のお部屋にですか?」 「うん。ちょっと行ってくるね」 「お帰りは……えっと、お泊まりですか?」 「んー、どうだろう。部屋に来ないかって言われただけだから分からないけど、もしかしたらそうなるかも」 お風呂から上がった後、濡れた髪を手早く乾かしながら、同室の後輩に今夜の予定を伝えた。文机に向かっていた後輩は一度手を止めて私を振り向き、「それで先輩、お風呂上がりなのに忍装束なんですね」と頷く。 図書室で長次と夜に会う約束をしてから、もう数刻が経っていた。その間に宿題や細々した用事を終わらせて、晩ご飯を食べて、お風呂に入って、あとはもう髪を乾かしてしまえば、それで長次の部屋に向かう準備は終わりだ。 約束した就寝時刻にはまだ半刻ほど早いけれど、出来ればその前に移動してしまったほうが、どちらの寮も騒がしいから目立たなくて都合がいい。 「なにか、予定はある?」 「いえ、特にありません。明日は昼から友達と市に行く約束してますけど、それくらいですから」 「そっか。私、もしかしたら遅くに帰ってくるかもしれないけど、うるさかったらごめんね」 「いいえ。どうせ今日は他の部屋もうるさいでしょうし。休日の前の日ですから、気にしないでください」 後輩はすでに騒がしい両隣の部屋に目を向けて、苦笑する。確かに休みの前日だと生徒達は遅くまで起きているし、先生達もよほどうるさくない限りは見逃してくれるから。 「ん……もういいかな」 髪もだいぶ乾いてきたから、あとは自然乾燥でも大丈夫だろう。櫛で一通り梳いて整えて、後ろでひとまとめに結い上げた。 「よし。じゃあ、私行ってくるね」 「はい、行ってらっしゃい先輩。おやすみなさい」 「うん、おやすみ」 忘れ物はない。持って行くものはなにもなかったはずだから。 私は後輩に軽く手を振り、部屋を出て忍たま長屋に向かった。 明日が休み、というのは大抵の生徒がわくわくするものだと思う。もちろんそれは、男子も女子も変わらない。女子寮と同じほどの騒がしさの男子寮に、私もなんとなく楽しくなる。ひとがいないときを見計らって廊下から天井裏に忍び込み、六年長屋へと移動する。今まで数え切れないほど通った道だから、部屋の配置や音が響きにくい場所も自然に覚えている。 目的の場所にたどり着いて、なんとなくいつもここと決めている天井板を外し、下へと飛び降りた。 六年長屋の廊下。長次と小平太の部屋のすぐ近く。幸い廊下に出ている生徒はいなかったから、戸が開いているその部屋をそのまま覗き込んだ。 「お邪魔しまーす」 「お、!」 「……」 「あれ?」 部屋に入った途端、二人分の声と視線が私に集まる。部屋の中は燭台の灯がよく燃えていて、戸も開け放して外のかがり火の光を入れているから、かなり明るかった。 「小平太がいるなんて珍しいね。どうしたの?」 長次が私を呼ぶときはいつも小平太がいないから、今日もそうなのだろうと思ったんだけど。それとも来るのが早すぎたのだろうか。 私の言葉を受けて、長次はじろりと小平太を見て、次に部屋の外を軽く顎で指した。 「小平太、さっさと出て行け」 「うおおおお、あからさまに二人して追い出す気満々だな! むかつくから今度なにかうまいもん寄越せ!」 「……明日カステイラを半分やるから、文句は言うな」 「本当か!? その言葉忘れるなよ!」 ぜったいだぞ!と念を押す小平太に、分かったからさっさと行けと長次が目で言っている。話がついていないのだろうか。珍しい。 「小平太、もしかして長次に追い出されてるの?」 「おおおおお、原因のやつがなんか言ってるぞおおおおお」 私は部屋の中に入り、二人の前に腰を下ろした。文机に向かっていたらしい長次に視線を向けると、視線の意味を察したのか、長次は否定するように嘆息する。やれやれとした小さな声で。 「……無理に追い出しているわけではない。小平太に外出の用事があるから、お前を呼んだ」 「そうなの、小平太?」 「まあなー! 私、これから委員会で夜間マラソンなんだ! 今夜はあんまり月の光もないし、真っ暗できっと楽しいぞー!」 あっさりと頷いて、小平太は言うとおりに楽しそうな満面の笑みを浮かべる。わー。今から夜間マラソンかあ。 「それはまた大変そうだね、真っ暗の中で」 滝夜叉丸のげんなり顔が容易に浮かんでくる。次いで、他の委員達のそれも。 「大変じゃないぞ、楽しいぞ! 明日休みだから、時間気にしないで思いっきり走れるしな! 風呂入ったら集合なんだ!」 「すぐ泥だらけになるのに、お風呂の後に集合なんだ……」 「風呂上がりのマラソンはすっきりして特に楽しいぞー! 全員集まったら、滝夜叉丸が私を呼びにくることになってるんだ!」 と小平太が言ったまさにそのとき、「失礼します」と開け放したままの戸の向こうから滝夜叉丸が顔を出した。四郎兵衛や金吾も一緒だ。滝夜叉丸は私と長次に目礼して、小平太へと顔を向ける。 「委員長、遅れて申し訳ありませんでした」 「お、噂をすれば滝夜叉丸! みんな集まったか!?」 「三之助以外の委員は集まりました。少し探したのですが、見つからなかったので」 「じゃあ、三之助拾ってから山に行くぞ! 長次、、まったなー!」 「うん。小平太……っていうかみんな頑張って」 「……無理はするなよ」 「お言葉痛み入ります先輩方。失礼しました」 「よーし行くぞー! 最初に三之助を見付けたやつには、今日のマラソンコースを決めさせてやるぞー!」 「委員長、お先失礼します! 三之助、どこだーーーーー!」 「次屋先輩ーー! いらっしゃったら七松先輩の声だけには返事をしないでくださいー!」 「死活問題ですー!」 「おお、みんなやる気満々だなー! 私も負けないぞー!」 どったんばったんと一際騒がしい体育委員達の足音が、瞬く間に遠ざかって行く。それを見送ってから、開いたままだった戸を閉めに立ち上がった。さすがに開けっ放しだと、先生達が通ったときに言い訳できないから。 「っと……」 この部屋の戸は少し立て付けが悪くて、ときどき動きにくくなる。戸を敷居から軽く浮かせて閉めると、小平太達の足音も喧噪もまったく聞こえなくなった。 「小平太ってほんとに元気だね……」 感心して思わず呟くと、長次は小平太の文机に目をやった後、私の顔を見た。長次の言いたいことが分かって、私も頷く。元気じゃない小平太は小平太じゃない。 「あ、そうだ。ごめん長次、借りてた本、もう少し持っててもいい? 面白かったから読み直したいの」 「……ああ。構わない」 頷いてくれた後、長次は「少しだけ待っていてくれ」と私に声をかけて、文机に身体を向ける。文机の上には、開かれた帳面と算盤がある。 「宿題してるの?」 長次の手元を上から覗き込んでみると、どうやら委員会費の帳簿付けをしてるみたいだった。新刊図書の仕入れ数や仕入れ時の値段、備品代に雑費に、新しく購入した書棚代。 悪い、と小さな謝罪に、苦笑して首を横に振る。 「いいよ。私も早めに来ちゃったしね。あ、なにか本読んでてもいい? 終わるまで待って…………あれ?」 長次の本でも物色させてもらおうかなと思ったとき、ふと長次の文机の横になにか見慣れないものが置かれていることに気がついた。 黒塗りの、小さな箱が二つ。一目で高価だと分かる作りで、どちらも未開封だと示すように、飾り紐で丁寧に結んであった。 「長次、これどうしたの? 高そうだね」 「……一つはお前のだ」 「え? 私の?」 言われて面食らって、改めてまじまじと塗箱に視線を向ける。なにが入ってるのか分からないけど、こんな綺麗なものをもらえる理由が思いつかない。そもそも、これは長次のものなのだろうか。私のならば触ってもいいだろうかと一つ取り上げて膝に置いてみて、ようやくに気がついた。 「あ。もしかしてこれ、カメ子ちゃんにもらったの?」 「そうだ」 添えられた薄紙に刷られた屋号に気付いて問うと、長次は小さく頷く。それから、もらった経緯をぽつりぽつりと話してくれた。 私が図書室を退室し、夕方になった頃。改めてもう一度カメ子ちゃんとお付きの人が挨拶に来て、日頃のお礼にと置いていったものらしい。お付きの人が迎えにくるときに、牛車で運んで来てくれたのだとか。 図書室にいた長次と雷蔵の分と、そして『こちらは一つ様にお渡し頂けますか? 本当にありがとうございましたとお伝えくださいませ』という伝言と共に、私の分も。 「……カメ子ちゃんって、ほんとに丁寧な子だね。私、ちょっとお手伝いしただけなのに」 私でなくとも、学園の生徒ならば誰だって同じことをしただろうに。 「お前は、しんべヱとも知己だったからだろう」 「うーん、そうなのかな。なんか恐縮しちゃうけど、でも嬉しいなぁ……。これ、中になにが入ってるのかな。結構軽いよね?」 「菓子だ。カステイラだと聞いた」 「ほんと!? うわぁ、すごい……」 カステイラ。高級南蛮菓子。庶民の口に簡単に入れられるものじゃない。それもただ適当に配るんじゃなくて、わざわざこうして箱入りで手渡しするなんて。 いくら日頃のお礼の品とはいえ、ここまで出来るなんてカメ子ちゃんは本当に丁寧というか、しんべヱのことを大切にしてるんだなとしみじみ思う。お金持ちだから、という理由だけでは、普通のひとはここまで出来ないだろう。 「カメ子ちゃんってすごいね、まだ小さいのにこんなに気配り出来て。大きなおうちを継ぐんだから、当たり前なのかもしれないけど」 私はお金持ちでも名家の生まれでもないから分からないけど、カメ子ちゃんもしんべヱもその分大変なんだろうなと思う。けれど今は、素直にその心遣いが嬉しかった。 「長次はたまにお手伝いに行ってるよね。福富屋さんって、やっぱりおうちも広いの?」 「……店もそうだが、奥も。初見ならばまず迷う」 「忍術学園みたいだね」 笑って、私は膝の上に乗せた塗箱を軽く撫でた。指が引っ掛からない、つるつるした丁寧な塗り。気持ちなのだから詮索すべきじゃないだろうけど、やっぱり相当に高価なものなのだろうなと思う。 「ちゃんとお礼言いたいな。長次、しんべヱがいつ戻ってくるか分かる?」 「……五日後以降」 「以降?」 繰り返して訊ねると、長次は算盤を弾きながら「そうだ」と頷く。いつもながら、長次と長く接しているひとにしか聞こえないような、小さな声。ぱちぱちと控え目に響く算盤の音のほうが聞こえやすいくらいだ。 「五日後に商談があり、学園に戻るのはそれ以降だと。……遅くとも十日後までには戻ると言っていたが」 「そっか。じゃあしんべヱが戻ってくるときに、お付きのひとにお礼のお手紙とか渡したら、カメ子ちゃんに届けてくれるかな。……ああ、でも私よりカメ子ちゃんの字のほうがずっと上手そうだしなあ……」 どうしよう、と私は一人でうんうんと考え始める。 「それにこんなにいいものもらったのに、お礼がお手紙だけっていうのもなあ。でもこれ以上いいものなんてあげられないし、私お金持ってないし、お金持ちじゃないし、これからお金持ちになる予定もまったくないし……」 ふう、とため息を吐いたとき、それまで響いていた算盤の音がふいに止まった。顔を上げると、手を止めた長次がじっと私を見つめている。うるさいから黙って考えろ、という抗議……ではないみたいだ。 「どうしたの、長次」 「……金持ちになりたいのか」 「え?」 突然に問われて、ぽかんとした。意味がよく分からなくて戸惑ったけれど、長次はただじっと私の答えを待っているだけだ。つまり、そのままの意味で聞いているということなんだろうけど。 「えっと、お金持ちがいいって意味じゃなかったんだけど……。でも、全然ないよりは少しくらいはあるほうがいいと思うよ。長次、お金嫌い?」 「…………いや」 「うん、私も。単にそういうことだから、深い意味はないよ。……どうしたの、突然」 笑って聞き返すと、長次は目でなんでもないと答えて、また帳簿付けへと戻ってしまった。その様子を少し不思議に思ったけれど、特に追求することでもないかなと、私も膝上の塗箱に視線を戻す。 お返しは出来なくても、やっぱりお礼の気持ちくらいは伝えるべきだろう。お手紙だけでも、カメ子ちゃんなら温かく受け取ってくれるはずだから。明日はお休みだし、ついでに実家や学外の友達に手紙を書くのもいいかもしれない。 うん、そうしよう。 明日の予定を決めて、私は膝に乗せていた塗箱を元の位置へと戻した。頂いたお菓子も、同室の子や友達と一緒に食べよう。珍しいものだから。 「…………」 と、そこで手持ち無沙汰になってしまったので、長次の様子を窺ったけど、長次はまだ算盤と帳簿に向かっていた。その横顔は、大分集中しているように見える。 これ以上邪魔はしたくないし、さっき長次に言ったように本を物色させてもらおうかなと思ったけれど、そのときふと気づいて押し入れへと向かった。どうせだから、用意しておこう。 長次が使っている段から布団を取り出して、畳の上に手早く敷いていく。最近日干ししたのか、布団は柔らかくて手触りが良かった。 生徒の布団は、学園支給のものだ。だから私のものでも長次のものでも形はみんな同じだけど、私は長次の布団が好きだった。なんとなく、長次の匂いがするような気がするから。 もしかしたら気のせいなのかもしれないけど、本のそれに似た落ち着いた長次の匂いがあると思うと、とても安心した気分になれる。こっそり自分のと替えてしまおうかと思ったこともあるくらいだ。 一通り布団を敷き終えて、きちんと出来たか確認した後、最後に枕を置いた。これで完成。 よし、と頷いて、次に自分の装束に手を掛ける。上衣と袴と足袋を脱いで、きちんとたたんで枕元に置く。中着と下着だけの姿になると、さすがに夜気にひんやりと肌が冷えて、慌てて掛け布団に手を伸ばした。長次の作業が終わるまで、布団の中で待っていればいい。 「……」 布団の中に潜り込もうとしたとき、ふいに声をかけられた。顔を上げると、なんだか長次が悩むような目を向けている。布団に寄せていた身を戻して長次を見ると、長次は言葉を迷うような仕草を見せた後、嘆息して口を開いた。 「なぜ脱ぐ」 「…………え?」 きょとんとすると、長次はまた嘆息を挟んで言葉を続ける。今度は、さっきよりも少し強い口調で。 「なぜ布団を敷く」 「…………えーと」 私は今自分が敷いた長次の布団と、脱いだ装束と、下着姿の自分と、そして最後にじっとこっちを見ている長次に視線を向けて、首を傾げた。 「あの……私、もしかして早とちりしてる?」 「…………」 長次は返事を保留するような表情で、視線を逸らす。私はそのまま長次の元に向かい、その顔を下から覗いた。 「長次?」 長次は拒絶することもなく呆れた様子もなく、なんだかまた悩むように私の顔を見て、それからなにも言わずに文机に向かってしまった。 「……長次?」 それを追い掛けるように、膝を伸ばして長次の背に身を寄せて、その肩に顔を乗せる。怒ってるようには見えないんだけど、なんだか様子が変だ。 「長次、なにか嫌だった? 勝手にお布団敷いたこと? 脱いだこと?」 「…………」 やっぱり返事がない。仕方なく、ぎゅっと身を寄せて後ろから抱きついた。長次は私を離そうとはしないから、やっぱり怒ってはいないと思うんだけど。 「長次ー……返事して」 答えがないと不安になる。長次の目や表情で理解出来るときはいいけど、今の長次の様子はよく分からない。 「…………驚いただけだ」 ぽつりと、耳元のすぐ傍で長次の声がする。ん、と見上げると、長次は筆を取り上げて算盤を持ち、帳簿付けの作業に戻ってしまう。 「怒ってない?」 「……ああ」 「……ならいいや」 安心して、私は長次の頬に自分のそれを軽くすり寄せる。その言葉は長次の本心全部じゃないだろうけど、怒ってないなら後でまた理由を聞けばいい。 ほっとして身体の力を抜くと、途端にひやっと夜気に背筋が震えた。 「わっ」 「……?」 ぶるっと震えて、思わず声が出た。何事だと見下ろす長次に、さっきよりも強く抱きつく。 「長次……」 「なんだ」 「背中が寒いです」 素直に言ってみると、長次があからさまに呆れの気配になった。だからなぜ脱いだ、と長次の目が言っている。 「お布団被って待ってようと思って……」 「…………」 「……はい。着てきます」 無言で見つめられて、さすがに離れようと長次から身を引いたとき、逆に腰に腕を回されて引き寄せられた。されるがままになっていると、さっさと長次の足の間に下ろされて、後ろから抱き締められる。 「長次?」 「……気が散るからおとなしくしていろ」 見上げると、長次はまるで手のかかる幼子に向けるみたいに言って、左腕で私を抱えて、そのままの体勢で作業へと戻った。 「あったかい……」 私よりも長次のほうが、平熱が少し高い。長次に寄りかかると、冷えていた肌が包まれて気持ちよかった。長次の体温と気配がすぐ傍にあることに、とても安心する。 私は長次の隣にいるのが好きだ。昔から共にいたからか、長次の傍ではなにかを気負う必要がない。素の私のままでいることが出来て、そしてそれを受け止めてもらえる。……もしかしたら、単に長次が優しくて、私が許されているだけかもしれないけど。 どちらにしてもそれを幸せだなと感じながら、目の前で動く長次の大きな手を、ただじっとなにも言わずに見つめていた。 →十話「前日の夜」その二 |