尾浜勘右衛門夢
『あの日は雪が降っていた』





 雪が降っていた。
 生まれてまだ幾年も重ねていない勘右衛門も、雪が寒いときに降るものだということは知っていた。温かい綿入れを着せてもらってはいるけれど、それでも頬をちりちりとかすめる冷たい風や、手足の先から凍えそうな鋭い冬の空気は、小さな身体から温度と体力を奪っていく。
 いつも遊んでいる野原でずっと探していたともだちを見つけ、勘右衛門は大きく名を呼んで駆け寄った。けれどいつもは勘右衛門より大きな声で返事をしてくれるともだちが、今日はただ木の下に座り込み、俯いている。

『みんな心配してるよ、ちゃん。ちゃんのおとうさんとおかあさんも』
『………………』

 家を飛び出して来たのだろうは、勘右衛門のように温かい格好でもなく、剥き出しの手足や頬が寒さに赤く腫れていた。それでもは泣くのを堪えるような表情で、ただ黙って動こうとしない。

『ねえちゃん、ここは寒いよ。おうちにいたくないなら、ぼくのうちにくればいいよ。あったかいよ』

 ね、と手を差し伸べたとき、ゆっくりとが顔を上げる。
 視線が合った途端、はまた顔を伏せてしまう。首を傾げて勘右衛門がを覗き込むと、はぎゅっと自分の膝にしがみつくように腕を回し、震えそうな声で言う。

『……おとーさんとおかーさんと、けんかしたの』
『うん。ごめんなさいしにいこう。ぼくも一緒にいてあげるから』
『やだ。わたし悪くないもの。悪いの、おとーさんとおかーさんだもん』

 は昔から頑固なところがあった。同年代の子ども相手にもよく喧嘩をしたし、自分が悪くても気に入らなければ絶対に謝らなかった。それを知っている勘右衛門は、なんですぐに謝らないのかなと幼心に不思議に思う。のお父さんとお母さんは、はもちろん、勘右衛門にも優しくしてくれるいいひとたちだ。きっと喧嘩したのも、がなにか我侭を言ったからだ。今を必死に探しているあの人達が、に意地悪しているはずがない。だから、が謝ればすぐに元通りになるのに。

『わ、わたし悪くないもの! おとーさんとおかーさんがおかしいんだよ!』

 いつになく真剣に言うの右手は、勘右衛門にはよく分からない複雑な形を次々に作っていく。それは手話と言うんだといつか親に教えてもらったけれど、時折(特に怒っているときに)がする仕草にはすぐ慣れてしまい、幼い勘右衛門はそれがどういう意味なのかも理解していなかった。

『おかしいってどういうこと? ちゃん、なんでおこってるの?』
『だって……』

 の頬に、膨れ上がった涙が零れていく。寒そうだなと勘右衛門がその頬に手を伸ばすと、はしゃくりあげながらも、必死にその怒りを保とうとするように怒鳴る。

『おとーさんとおかーさん、嫌なことばっかりいうの! とわたしたちはちがうって、わたしは──!』

 ぶわ、と冷たい風が吹いた。舞い上がった雪が、二人の身体に叩きつけられる。その中でもは大きな声で、泣きながら叫び続ける。両親とが喧嘩した理由を。
 そのときの勘右衛門には、その言葉の意味がほとんど分からなかったけれど、これだけは確かだ。


 の声を聞いたのは、そのときが最後だった。













 微睡んでいた眠りは、物理的にぶち破られた。

 どん、と背中のひどい痛みに一気に覚醒したものの、なにが起こったのかはさっぱりわからない。受け身も取れなかったせいでずきずきと痛む背に閉口しながら目をこらすと、なにやら見慣れた少女の顔がある。造作は大人しくか弱そうなのに、鋭い目が明らかに勘右衛門を睨んでいる。ここは自分の部屋で、自分はさっきまで寝ていたはずだ。二呼吸の間ほど考えて、ようやく今現在の状況だけは理解した。
 勘右衛門が寝入っているところに押しかけてきたが、なにがお気に召さなかったのか、眠る勘右衛門を一本背負いして畳に叩きつけたのだ。

「……え、なんで?」
『おはよう、かんちゃん』
「え、お前なんでここにいんの?」
『おはよう、かんちゃん』
「お、おはよう?」

 じっとりと見下ろしながら、の手が執拗に朝の挨拶を強要する。外の明るさは起きるには丁度良い時間だけど、今日は休みだ。同部屋の兵助もまだ眠って──、と視線を隣に向けると、そりゃ近距離で騒いでいれば起きるに決まっていて、兵助はを視認してぎょっとした顔をしていた。

「ちょ、え、!? なんでここに!? ここ男子長屋だよな、そうだよな!?」

 自分の夜着姿が気になるのか、あわわわわ、と慌てふためいて布団を被る兵助に、はちっと舌打ちして横目で兵助を睨む。完全に軽蔑しきったような表情で紡がれた手が語る言葉はあまりに早くて、慣れていない兵助は戸惑った顔になる。

「……え、あの、勘右衛門」

 なにを言われたかを問う兵助に、勘右衛門は仕方なしに通訳する。

「『お前みたいな貧弱な男の寝姿見てもなんとも思わねーよ、皮も剥けてないガキは端っこで大人しくしてろばーか』」
「口悪ーーーーーーーーーーーーーーーー!」

 思わず叫ぶ兵助は無視して、はくるりと勘右衛門に向き直る。起き上がった勘右衛門と対等に話すつもりはないらしく、腕組んで仁王立ちに見下ろした。見た目はひ弱そうだが、こうすると多少なりとも威圧感は出る。

『かんちゃん、もうしひらきがあるなら、いまだけきく』
「へ? 申し開き? ……あれ」

 勘右衛門は首を傾げて考えて、「あ」と声を上げる。ようやくこの状況の意味が分かって、勘右衛門は冷ややかな目のに、「あー」とか「えっと」とか無駄に時間を引き延ばした挙げ句、勢いよく両手を合わせて頭を下げた。

「ごめん! 完全に忘れてた!」

 その次の瞬間、本日二度目の背負い投げが炸裂した。




 明日くの一教室の授業で使う備品を購入しに行くのだと、が勘右衛門に言ったのは昨日のことだ。暇なら荷物持ちをしなさいというお姫様のご命令に、特に断る理由もなかった勘右衛門は粛々と従った。なんでも共に行けるはずだった友達が、急に学園長先生のお使いでいなくなってしまったのだとか。嫌だと思っていたわけではないのにさっぱり忘れてしまっていたのは、本当に単なる物忘れだが、まあが怒るのも当たり前ではある。

『このいろ、どうおもう? きれいだよね』
「んー、色鮮やかだけど、俺はこっちの藍色のが好きかな」
『かんちゃんのこのみをきいてるんじゃないよ』
「えー。でもこっちのが上品じゃないか? ねえおじさん、今これ流行りの色でしょ? ほら、これがいいって」
『むー』

 顔をしかめつつもはこくりと頷き、勘右衛門が選んだ藍色の帯を店員に手渡した。さすがに客商売をしている店の主人はにこにこと愛想よく受け取ったけれど、周りで同じように商品を見ている人達は、聞いているだけならば独り言のような勘右衛門の声と、見てみれば変な手の動きをしているに、ちらちらと奇異の視線を向けている。けれどはもちろん、勘右衛門にも見慣れた光景だから、特に思うこともない。

『あ、このかんざしかわいいなー』
「簪も買うんだっけか」
『ううん。でもかわいいなー……。すごくかわいいなー……ほんとにかわいいなー……』
「……分かったよ。あんま高くないし、今日のお詫びに買ってやるよ」
『やったね! おとこなんてちょろいばかだね!』
「くそー、女なんて悪辣でひどい人種だ」

 簪をさらに主人に渡し、包装してもらうのを待つ。勘右衛門の言葉を聞いて気を利かせてくれたのか、簪だけ別で綺麗に包んでくれた。代金を払って商品を受け取り、改めて勘右衛門がに簪を手渡すと、はにこにこと受け取る。

『わーい、かんちゃんだいすきー、みついでくれるひとみんなすきー』
「大好きなのに背負い投げとか、激しい愛だなあは」
『してほしいなら、ここでもしてあげるよ』
「遠慮しますごめんなさい」

 芝居めいた動きで頭を下げると、は楽しそうに笑う。心になにも抱えていない、それは年相応の少女の笑顔だった。

 ふと、勘右衛門の頭に、今朝無理矢理に起こされる前に見ていた夢が過ぎる。もうほとんどおぼろげだったけれど、それが子どもの頃の夢だったことだけは覚えている。
 年を重ねて背が伸び、いろいろと良いことも嫌なことも覚えたけれど、たぶん自分も、そしての本質もなにも変わってないのだろうと、そう思う。

『ふふふ、かんちゃんはちょろいから、あたらしいおびもかってくれるね!』
「心の声はしまっとけー! ってかお前、よく考えたらあの頃より確実に悪辣にはなったよな」
『くのいちにとってはほめことばだねー。……あのころってなあに?』
「なんでもないよ」

 きょとんとするを受け流し、勘右衛門は前を見る。ふと視界に入ってきたものに気づいて、目を瞬かせた。ちらちらと舞うそれは、まだ触れたら溶けそうなほどに小さいけれど。

『ゆきだね』

 楽しそうに、の手が動く。に視線を向けると、合った視線に、はにっこり微笑んだ。

『もうさむくないよ』

 言葉を紡ぐはずの手が、勘右衛門の手と繋がれる。その手を握り返しながら、勘右衛門は頷いた。


 もう寒くない。きっと、これからも。










 終