平滝夜叉丸夢
『その傷跡が消えないように』





 ぱらぱらと外では雨が降っている。雲の色からして明日には雷雨になりそうだ。雨の嫌いな私は若干憂鬱だったけれど、隣にいる滝夜叉丸は逆に生き生きとした表情で、忍具の手入れに没頭している。
 理由は分かり切っていて、体育委員会がここ数日休みだからだ。普段ほぼ無休の体育委員会に訪れた安息は無論悪天候のせいではなく、単純に体育委員長の不在が原因だ。六年生が一昨日から五日間の実習に赴いているため、委員長のいない委員会は休みか、もしくは活動を縮小せざるを得なくなっている。
 滝夜叉丸は目上を立てる性格だから、体育委員長の横暴さに表立って声を上げることは(あまり)ないけれど、最近予習復習をする時間がないと隈の出来た顔で幾度か零していたから、渡りに船というやつだったのだろう。今は睡眠不足も解消され、予習復習どころか忍具の手入れをする時間もあるのだから、機嫌が良いのも当然だ。

「ねえ、綾部はどこに行ったの?」
「ん? あいつならば、『委員長不在の今、委員室に委員長の知らない罠を仕掛ける絶好の機会だよね』とか言って、作法の下級生を呼びに行ったが」
「立花先輩がそう易々と引っ掛かると思えないけど……」
「昨日も兵太夫を呼んで罠の設計図を作っていたな。『目指せ、委員長一本釣り!』とかなんとか」
「仲良しねー」

 棒読みで言って、私はそれまで目を落としていた本から顔を上げた。滝夜叉丸に借りていた参考書を返しに来ただけなんだけど、特に用事もないのでだらだらと部屋に居座っている。滝夜叉丸も機嫌が良いからか、文句も言わない。
 滝夜叉丸は相変わらず、忍具の手入れに熱中している。自意識過剰とは言え、実技共に成績優秀なのは間違いない。ずらりと並ぶ忍具は、様々な手裏剣に苦無に小刀に鎖鎌。そのどれもが持っているだけでなくよく使いこなされているあたり、滝夜叉丸の優秀さを表している。
 手を伸ばし、久しく触っていない鎖鎌を握ってみる。ずしりと重いそれは、最近本格的な実技授業を受けていない私には、もう使いこなせないものだろう。
 手裏剣を一本磨き終えた滝夜叉丸が、それを布の上に置き、また次の手裏剣を取り上げる。ぼうっとただ見つめていた私の視界に、ちらりと見慣れた銀色の光が見えた。
 おそらく一番始めに磨き終えたのだろう。並ぶ武具の端に、戦輪が丁寧に置かれている。輪子、などと名前をつけて可愛がっている滝夜叉丸の愛用武器だ。
 磨き粉で細やかに手入れされたそれは、私の顔が映りそうなほどに滑らかに磨かれていた。さすが思い入れが強い武器は違う。握っていた鎖鎌を戻し、次は戦輪をそっと持ち上げてみた。

「あ、思ったより重い」
「おい、触るのはいいが落としたりするなよ」
「うん」

 返事をして、いつも滝夜叉丸が持っているように戦輪を指にくぐらせる。滝夜叉丸が自在に扱っているから傍目には簡単そうに見えるけれど、戦輪は他の武具と比べて格段に扱いが難しい。滝夜叉丸も今のように難無く扱えるようになるためには、相当の鍛錬を積んだのだろう。
 ……性格さえまともだったら、本当に自他共に学園一だったかもしれないのにね……。
 はあ、とため息を吐いたとき、ふいにつるりと戦輪を支えていた指が滑った。慌てて戦輪を掴み直した瞬間、ぷす、と指先に薄い線が走る。

「あ」

 薄い線から瞬く間に赤い雫が盛り上がり、指先から手を伝って下の布へと落ちていく。痛みはさほどないけれど、気構え出来ていなかったためか、赤い雫がゆっくりと流れていく様をただぼんやりと眺めてしまう。
 ああ、家に帰ったときに両親に怒られてしまうだろうか。そんな憂鬱なことだけが、頭を過ぎる。もう身体に傷を付けるような実習はするなと、四年になったときにそう言われた。私が学園に入ったのは行儀見習いのためと、いざというとき夫となるひとの助けになるよう、戦いに対する心構えを身につけるためだ。くの一になるためではない。
 だから私は、基礎的なものはともかく、厳しい実技授業にはすでに参加していない。
 ぬるりと血のぬめりを指先で確かめる。赤いなあ、と当たり前のように思ったときだった。

「おい! お前、なにをしてるんだ!」
「あ、えーと」

 気づいた滝夜叉丸が、慌てて身を寄せてくる。どうしたものかと思っていると、迫ってきた滝夜叉丸に素早く輪子を取り上げられた。

「輪子に血がついてるではないか! 血は固まってしまうとなかなか落ちないんだぞ!」
「あ、やっぱりそっち?」
「ああ輪子、汚れてしまって可哀想に、今すぐ拭いて綺麗にしてやるからな」
「可哀想にってあんた、私の血をなんだと」
「よしよし、小汚い小娘の血はもう拭ったぞ輪子、安心しろ」
「誰のこと言ってんのよ」

 一応文句は言っておいたけど、別にはじめから滝夜叉丸に心配されるなんて期待はしていない。切っていないほうの手で手拭いを出して、血を拭う。もともとさほど大きな傷でもない。すでに血も止まりかけていた。

「落とすなとは言ったが、まさか穢されるとはな……私の輪子よ可哀想に」
「ちょっと、仮にも恋仲の相手に向かって言い過ぎでしょ」
「ん? なんだ、私に心配して欲しいのか? ならばそこの鎖鎌でも使って瀕死になるといいぞ。さすがの私も血相を変えて医務室まで連れて行ってやる」
「言うじゃないの……」

 さすがに傷つく……より前にかちんときた。確かに大した傷ではないし滝夜叉丸の大事な武具を汚したのは悪かったけれど、そこまで言うことはないだろう。なんでこいつと恋仲なんだろう私。
 結構真面目に別れようかなと思っていると、輪子を磨きながら滝夜叉丸がさらに口を開いた。全く悪気のない様子で、

「私にとっては、お前が多少傷つくのはむしろ喜ばしいことだからな」
「表に出なさいよ」
「だからどんどん傷つけばいいぞ。命に別状がない程度にな」
「表じゃなくてここでもいいから殴らせなさい」
「そうすればお前は、美しい女ではなくなるのだろう?」

 ざあ、と。突然に外の雨音が強くなった気がした。

「……なにそれ」
「傷のありなしで、人間の美しさなど変わらない。美しさは内面から滲み出るものだからな。と私は思っているが、そう思わない者もいるのだろう。別に否定はしないが、そういう輩がお前を醜いと判断するのは、悪いことではないからな」
「……滝夜叉丸?」
「傷だらけになって誰のところにも嫁がずに、私のところに来ればいい」

 磨き終えた輪子を元の位置に戻して、滝夜叉丸は顔を上げて私を見る。絶句した私に、手を伸ばす。

「ほら、見せろ。痕は残ってもいいが、化膿してはまずいからな」
「ん……」

 素直に手を出すと、慣れた手つきで滝夜叉丸が切れた指を懐紙で拭い、応急手当用の医療器具で手当てをしてくれる。照れた様子も、動揺してる様子も、なにもない。本当に当たり前のようなその態度に、なんだか湧き上がっていた怒りが一気に消えていった。

「あんた、私のこと好きなんだ」
「誰が伊達や酔狂で告白などするか」

 消毒薬を塗って、当て布をして包帯で傷口を巻いていく。滝夜叉丸の手つきは、大切なものに触れるように丁寧だった。

「……ありがとう」

 素直に礼を言うと、滝夜叉丸は頷いて治療用具を片付け始める。なんだか嬉しい気持ちがこみ上げてきて、滝夜叉丸に両手を伸ばした。

「なんだ、ちょ……」

 その顔を引き寄せ、私の名を呼ぶ唇に、自分のそれを押しつけた。すぐ傍の滝夜叉丸の瞳が、見開かれる。
 慌てたように私の肩に手をかけるのを無視して、表面を舐めて吸い付くと、滝夜叉丸の身体から力が抜けた。
 不意打ちに弱いこういうところは、いつも可愛いと思う。調子に乗って続けようとしたら、ぐい、と突然に身体を離された。真っ赤な顔で、滝夜叉丸は庇うように自分の唇を手の甲で覆う。

「あれ」
「お、お前な……! こんなところでなにを考えてるんだ!」
「こんなとこって、誰もいないじゃないの」

 なんだなんだ、つまりは恥ずかしいんだろう。面白くなってきたのでずりずり身を寄せて迫ってみると、

「誰もいないわけあるか、輪子がいるだろうが! 輪子の前でこんな破廉恥な行為など、」
「って、また輪子かあああああああああああああ!」

 ぱしんと軽く頭を叩き、無理矢理にもう一度口付けた。










 終