鉢屋三郎夢
『先は奈落かそれとも』






 いつも、ふとしたときに不安に思う。
 こいつは本当に、俺のことが好きなのだろうか、と。



「三郎」

 呼びかけられて振り向くと、が微笑んでこちらに駆け寄ってきた。

「どうした、
「三郎、今暇?」
「ああ、部屋に帰ろうとしてたとこだ」

 授業が終わり、これから委員会だと言う雷蔵と別れたところだった。はほっとした表情になってから、きょろきょろと他に人がいないことを確かめるように、辺りを見回す。

「……どうした?」
「あのね」

 他人の気配がないことに安心したのか、は俺の手を握って身を寄せた。そして、躊躇いがちに俺を見上げる。

「三郎、今日の夜は忙しい?」
「いや、特に用事はないけど。どうした」
「あの……同室の友達、今日遠出のお使いで帰ってこないの。だからね……」

 言葉を濁らせて、は俯く。握った手が微かに震えて、恥ずかしいのかゆっくりと離そうとするのを追いかけて、こちらからその手を改めて握り直す。

「行っていいのか」

 誘われているのだと気づいて問うと、はかあっと顔を赤らめた。それから、俯いたまま小さく答える。

「……うん。三郎が良かったら」
「飯食って風呂入ったらすぐ行く」

 繋いでないほうの手での頬を引き寄せて、そのまま重なるだけの口付けをした。は赤い顔のまま嬉しそうに「待ってるね」と微笑んで、踵を返して自分の部屋に帰って行った。









 愛されているのだろう。
 もしくは愛そうと思われているのだろう。
 恋仲らしいことはしている。
 好きだと互いに告げているし、触れ合うことにも慣れてきた。 
 俺はが好きで、……おそらく好きという言葉では言い尽くせないほどに好きで。
 も俺を好いてくれているのだろうと、そう行動や言葉の端々で理解は出来るけれども。

 ──それはいつまで続くのだろうか。

 明日までか。今日までか。それとももうすでに終わっていたとしたら。
 言い尽くせぬ不安の固まりが、いつも頭から離れない。
 の傍にいてもいなくても、ずっと。

 そしてその軋みは、いつかなにかの形で表に現われるだろうと分かっていても。
 俺は不安を消す方法を見つけられず、ひたすらにその軋みを抱え続けた。
 











「ん……あ、さぶろ……」

 熱に浮かされたの声が、切れ切れになって夜の闇に消えていく。荒い息遣い、涙で濡れた瞳。華奢な身体と、温かく締め付けてくる、の中。
 時折絡み合う舌と舌が、水音を発ててお互いの熱を奪い合い、そして新しく与え合う。まだ行為に慣れないのか小さく震えながら受け入れるに、軽い嗜虐心が沸き起こる。泣かせたい。もっと。
 の手が、救いを求めるように伸び、背に回される。三郎、と幾度も名を繰り返して縋り付く姿は、愛らしかった。今俺が触れているのはの身体で、意識が飛びそうなほど快感を与えているのもの中で、それら全てをに許されているのが、自分だ。
 幸せで脳が溶けそうだった。馬鹿馬鹿しいほどにこの女が好きで仕方ないのだと、今一度はっきり認識する。
 強烈な快感の渦の中、隙間がないほど触れ合っているのに、もっとに近付きたいといつも願う。煽られる、泣き声に似た喘ぎが耳をくすぐり、背に回された小さな手がぎゅっと俺の肩を掴んだ。の息が荒くなり、その頬に涙が伝う。無理をさせているのだろうことは分かっている。せめて俺の欲に振り回されるだけのの負担を減らそうと、抽出する勢いを少し落とそうとした。
 ──そのとき。
 それは、本当に唐突だった。頭の中に過ぎった、過去の記憶。

『なんで、私じゃ駄目だったんだろう……!』

 今、が漏らしている喘ぎが、その時の泣き声と似ていたからかもしれない。
 絶望と心の痛みに泣き崩れていた、の姿。好きだった、本当に好きだったのだと繰り返していた、の姿。
 その相手は俺じゃなかった。初恋を捧げた先輩に失恋して、はずっと苦しんでいた。
 ならば、今は。
 は、俺のことが好きだと言う。こうして身体を重ねることも受け入れてくれる。
 それは、本当のなのだろうか。

『でも……あのひとのことが好きなの』

 溢れ出す。があのひとを愛していた記憶。気づかれてもいないくせにずっと恋をして、傷ついて、それでも見つめ続けていて、また傷ついて。俺はそんなを、同じようにずっと見つめ続けていた。あのひとに捧げたの想いがどれほどまでに大きかったのかも、失恋したときの悲しみも、自分のことのように分かっている。だからこそ。
 は本当に、もうあのひとのことを愛していないのだろうか。

「────」

 一瞬のうちに頭に浮かんだ考えに、俺は為す術なく取り憑かれた。俺の異変に気づいて、不安そうに見上げてくるを気遣う余裕など欠片もなかった。今俺の腕の中にいる、心底愛している女にもし拒絶されたら。
 俺は多分、壊れる。

「三郎? ……どうしたの」

 身体の動きが止まっていた。心の中から全てが冷えていく。あれほど昂ぶっていた熱が一気に引いて、恐ろしく冷たい感情だけが、身体中に巡って行く。
 の瞳が、驚くように見開かれている。そこにあるのは、戸惑いと怯え。怯え。……怯え。


 が、俺に怯えている。

















「────っああああああああああああああ!!!!!!!!!!!」

 の悲鳴で、我に返った。快感のためなんかじゃない、苦痛の色しかない悲鳴。同時にの手が勢いよく俺の肩口に叩きつけられ、押し戻される。ああああ、と同じ音だけ呻きながら、は庇うように身体を縮めようとする。鮮血が流れる右肩を、震える両手で押さえ、嗚咽を漏らして泣きながら。

 鮮血。

 その闇夜にも鮮やかな赤色に、自分が今、なにをしたのかを理解した。
 口の中に、の味が残ってる。錆びた鉄のそれに似た、の血の味。
 の肩に、歯を立てた。俺が。

 俺が。

「い、い……い、や、三郎、なんで……」

 泣きじゃくりながら、は俺から逃げようともがく。噛み傷はかなり深いのか、抑えているのに、の手は血の色に染まっていた。
 は傷口を必死に庇っている。ぬるりと、月明かりにの血の色が照り返す。ぽとりぽとりとその赤が布団に落ち、花の形のような染みを作った。
 身を引く。の腰を掴んで、繋がりを解く。すでにも俺もなんの熱も残っておらず、残滓もなく冷え切っていた。
 俺から解放されると、は一層身を縮めた。酷く痛むだろう肩を必死で手で抑え、血を止めようとしている。苦痛の涙で濡れた瞳が、俺に向けられる。どうして、と。の泣き声が耳に届いた。
 ほとんど反射的に身体を動かして、先程脱ぎ捨てた自分の装束の中から、手拭いを取り出す。痛がるを無理矢理に起こして、肩で縛り上げて止血した。その温かい血は、の二の腕や胸元まで流れている。

「っ、……っく……」

 言葉にならない苦痛の嗚咽を漏らしながら、は止血を続ける俺の様子をおずおずと窺う。その顔に張り付いている表情は、恐怖と怯え。怒りでもない呆れでもない。
 傷は、骨までは達していなかった。けれどそれだけだ。噛み千切られた剥き出しの肉は白めいて生々しく、の鼓動だろうそれに合わせて滲む血は、明らかに手負いの獣の匂いがした。痛みに苦しみ、怯える獣の。

「さ、ぶろう……」

 震える声で、が俺を見上げる。俺から身を引きながら。

「私、なにか、した……?」

 の息遣いが、少しずつ落ち着いていく。流れる血の勢いもようやくましになっていた。責める様子ではない、ただ困惑と悲しみに満ちた瞳に、俺の心は抉られた。

「ごめん……ごめん、

 謝ったところで済むような事態ではないことは、理解していた。自分でも止められない、どうしようもない衝動に突き動かされたと伝えたところで、には意味が分からないだろうし、俺の罪が軽くなるわけじゃない。
 だから、ただひたすらに、ごめん、と。繰り返すしかなかった。

「三郎……」
「医務室に行こう。まだ止血しか出来てないんだ」
「い、いや」
「頼む、放っておいたら膿んで……」

 手を伸ばした途端、乾いた小さな痛みに弾かれて、動きを止めた。が、小さく首を横に振っていた。手を払いのけられたのだと気づくのに、数秒かかった。

「な、なに。それなに、三郎。ねぇ、わ、私、なにかした?」
「──違う」
「なら、どうして」

 未だ、の瞳には責める色がなかった。困惑と、怯えと。そして、こちらの意図が理解出来ないからだろうか、悲しみの色。
「説明、出来ないことなの?」
 繰り返し問われても、俺は返事が出来なかった。どう説明して良いのか分からないのと、もし正直に伝えたそのとき、はどう思うのかと考えると、一言の弁解も、言い訳も浮かばなかった。
 はいつまでも返事が無いのを確認すると、ひくりとしゃくりあげ、肩を震わせた。俺から視線を逸らして、俯く。

「……一人にして」
、手当てを」
「自分でやるから。だからお願い、一人にして」

 の瞳から、また涙がこぼれ落ちた。

「説明出来ないなら、一人にして。……お願い。お願いだから!」
 
 ……ああ。全部、俺のせいだ。
 無言で身を起こし、装束を身につけた。はずっと俺を見ず、小さく泣き続けている。

「頭、冷やしてくる」

 そのまま出て行こうとすると、が泣き濡れた顔を上げて俺を見た。なにかを言おうとしたのか、けれどそれは言葉にならず、全て嗚咽に変わって消えた。

「本当に、ごめん」

 俺の声は、震えていたかもしれない。悲しみと困惑に満ちた視線を受けながら、俺はの部屋を出て行った。

 口の中にも、止血するときに触れた指にも。
 まだ、の血の痕が残っていた。




「なん、で。なんで……」

 悪夢にも思えた肩の痛みは、少しずつましになっていた。出血もようやくに止まりかけている。はやく消毒しないと膿んでしまう。分かっていても、痛みとは違うところが苦しくて仕方なかった。

「どうして……」

 三郎がいつもと違うようには感じなかった。怒らせたと思い当たることもほとんど無い。寸前まで熱に浮かされていたのに、三郎は突然に動きを止めた。どうしたのかと聞いても返事がなくて、どこか呆然とした顔で、私を見下ろしていた。それが少し怖いと感じた、次の瞬間だった。
 三郎が顔を寄せてきたと、そう思ったのと同時に、肩口に激痛が走った。
 痛いことよりも、不思議だった。
 三郎がどうしてこんなことをしたのか、本当に理解出来なかった。三郎がなぜ私にこんな仕打ちをするのか、それが分からないことがすごく怖かった。
 痛みで痺れている右手をどうにか動かして、行李の中から実習で使う救急用の一式を取り出した。包帯や痛み止めの軟膏をかき分けて、消毒薬を取りだし、栓を抜く。
 止血に使った手拭いを取り外すと、それだけの動きでも酷く痛みが響いた。確かに血が止まっているのを確認して、消毒薬を左手で掴む。
 布団に、顔を押しつける。声が出ないように歯を食いしばって、肩の傷に消毒薬を振りかけた。

「──っ!」

 酸に焼かれたような染みる激痛に、一瞬意識が飛びかけた。しばらく大きく呼吸をして落ち着かせて、包帯に手を伸ばす。
 頭が混乱しすぎて、わけが分からなくなっている。
 今までにも幾度も三郎と寝たけれど、傷つけられたことなど一度もなかった。三郎は最初から今までずっと優しくしてくれたし、私をいつも気遣ってくれた。それが分かるから嬉しかったし、私は幸せだと実感できた。それが、なんで。
 せめて理由を言って欲しかった。なにか理由さえあれば、それがどんなものでも理解しようと努力したと思う。許すことも受け入れることも出来たと思う。
 でも、言ってくれなければなにも出来ない。
 手が震えて、思うように包帯が巻けない。幾度も幾度も取り落とし、その度に拾って巻き直した。

 どうして。

「どうして……!」





















 ああ、恐れていたことが起こったな、と。
 まともにものを考えられるようになってから、そう思った。
 このままではいけないのだろうと、漠然と思い続けていた。自分の中に狂気に近いなにかが育ちつつあることも、理解していた。
 それでもなにもしようとせず、放置していたのは俺の罪だ。
 傷つけたかったわけじゃない。それは本当だ。
 を愛しているし、優しくしてやりたいし、俺と共にいることで幸せだと思って欲しかった。
 今でもそれは変わらないし、きっとこれからもそうだろう。
 けれどもう全ては遅く、決して元には戻らない。
 ならば俺があいつにしてやれることは、あと一つだけだ。

 まだ俺が、の幸せを願ってやれるうちに。
 俺がまだ、まともにあいつを愛している、そのうちに。






 










 話すことが出来たのは、次の日の夕方だった。を食堂で見かけたとき、やはり右肩が酷く痛むのだろう、利き手の右手よりも明らかに左手をよく使っていた。視線が合ったとき、はこちらを無視もはね除けもしなかったけれど、ただなにを言えばいいのか分からない表情で俺を見つめていた。
 すれ違い様、放課後に、とだけ伝えて、も小さく頷いて、それだけで別れた。
 早く放課後になればいいと思っていたのか、それとも永遠に来なければいいと思っていたのか、覚えていない。けれど時間はいつもと同じように流れて、俺とはお互いを捜すこともなく、教室長屋の前で顔を合わせた。

「……怪我、どうだ。手当てできたか」
「大丈夫。血も止まってるし、友達に消毒もしてもらったから」
「そうか。……ごめんな」

 謝罪などいくら重ねても、足りないことは理解していた。も、欲しいのはその言葉じゃないだろう。

。今、ちょっとだけいいか」
「……うん」

 頷くを連れて、人気が少ない場所へと歩き出した。
 は少し戸惑った様子で、俺の腕に手を伸ばす。繋がれる手を、慣れたの体温を、俺は握り返せない。けれどはそれを理解しているかのように、力の抜けた俺の手を強く握り締めた。

 なんでお前はそうなんだ。
 昔からだ。くの一教室の生徒のくせに、こいつはいつも甘い。他人を強く突き放せない。自分を傷つける俺でさえも拒絶出来ない。優しさではない、気質なんだろう。……だから、俺と共にいては駄目だ。

 辿り着いたのは、恋仲になる前、がここでよく昼寝をするんだと笑って教えてくれた、学園の木立の中、自主練にしか使わないような人気のない場所だった。俺達以外誰もいないそこで、俺はの手を少し強引に振りほどく。はほんの少し傷ついた顔を見せてから、振り払われた手をゆっくりと下ろした。

。お前に話があるんだ」
「……うん」

 は頷いて、それから俯いた。昨日の話だと分かっているんだろう、普段はのんびりとした雰囲気なのに、今は表情も気配も固い。
 目の前にいるこの女が、俺は好きだ。幾年も前から誰よりも好きで、それは恋仲になってからも変わらなかった。こいつさえいてくれるなら、他の誰もいらないと本当に思えるほどに、俺はが好きだ。
 が俺を好いてくれているだけで、奇跡だと思っていた。隣にいてくれて、笑ってくれて、身体を重ねて、それすら許してくれるのは、幸せすぎることだった。
 けれど。
 俺がこいつにとって毒でしかないのなら、俺はを解放するべきだ。
 俺が、本格的にを壊してしまう前に。

、別れよう」

 告げた瞬間、ぴしり、と、の瞳がひび割れたように一度揺れた。身体を強張らせて、を俺を見上げる。

「なに、言ってるの。別れようって、」
「一緒にいることも、寝ることも、もうやめよう」
「な」

 目を見開いた後、途切れ途切れに、が言葉を吐き出す。

「わ、私のこと、嫌いになった。だから、──したの」

 震える声での左手が触れるのは、俺が傷つけた右肩。

「違う」

 違う。真逆だ。

「お前のことは好きだ。嫌いになったわけでも、誰か他のやつが好きになったわけでもない。でも、お前と一緒にはいられない」
「ま、待ってよ。私も三郎のことが好きだよ。なんでそんな、一方的に」
「分かってるんだろう? お前を傷つけるからだよ。昨日みたいに」

 が息を飲む。包帯が幾重にも巻いてあるのだろう右肩に視線を向けると、はびくりと身を震わせた。微かな怯えが伝わってくる。当然だろう、行為中の無防備なときに、あれほどの仕打ちを受けたら。

「俺は、お前が好きだ。だから、別れよう。俺はな、お前に嫌われるのも、お前を傷つけるのも嫌なんだ。……だからそれが一番いいだろ」
「そんな……」

 の顔が歪められる。悲しげな、怒りの表情。

「なんで、そんな勝手なこと言うの!」
「言っただろ、お前が好きだからだよ」
「私だって好きだよ! なのに、なんで一人で全部決めちゃうの!? どうしてちゃんと話してくれないの!?」
「俺は……」
「ちゃんと話してよ、三郎の考えてることが全然分からない!」

 が本気で怒るところを、たぶん俺は初めて見た。普段大抵のことじゃ激昂しないが、俺を憎々しげに睨み付けている。
 理由を言えば、納得するだろう。けれどこいつに嫌われる。俺はこの期に及んでまだそれが怖かった。
 それに、どちらにしても別れるという答えを変える気はなかった。俺自身がを傷つけるなら、一緒にいないほうが絶対にこいつのためだから。……俺がそう思えているうちに。

「……なにも言ってくれないの? 言う必要もないと思ってるの?」

 の赤くなった目尻から、浮かんだ涙が頬にこぼれ落ちる。
 が一歩俺へと足を踏み出した。膨れ上がるのは殺気。の泣き顔が、近付いてくる。ああ、殴りたいならいくらでも殴ればいい。その権利がにはあるし、俺はそうされるべきだ。身体から力を抜き、歯を噛みしめることすらせず、俺はの怒りを受け止めようとした。
 けれど、次に触れたのは痛みではなく、柔らかな感触だった。が俺にしがみついて、泣き声混じりに叫ぶ。

「三郎は、い、いっつもそうだよね。自分ばっかり好きみたいに言って、それだけが本当みたいに言って! 私だって、三郎のこと好きなのに! ……大好きなんだよ? それも分かってくれてないの?」
、離れろ」

 その体温と言葉に、胸が炙られたみたいに痛む。の身体を少し強引に押しのけたその瞬間、左頬に乾いた感触が走った。が、俺の頬を張った右手を震わせて、俺を睨み付けている。

……」
「私、邪魔だった? 鬱陶しかった? もっと可愛い子のほうがよかった? ……私のことなんて好きにならなきゃよかったって、後悔してる?」
「違う。……違う」
「…………違うってだけじゃ、分からないよ」

 悲しみに満ちた泣き声。は突然に力を失ったように、膝から崩れ落ちた。反射的にその身体を支えようとして、俺も地面へと膝をついた。瞬間、が勢い良く俺の肩を掴んで、後ろに押し倒す。俺の上に馬乗りになって、顔を近づけて睨み付ける。
 泣かれるより、怒りをぶつけられるほうがずっとましだった。

「殴れよ」

 怒りに満ちたの瞳が、ゆっくり細められる。もう一度、頬に乾いた感触が走る。力が入っていないのだろう、痛みをほとんど感じない張り手。殴れと言ったのに。どうせなら、首でも絞めるか手裏剣でかっさばけばいいのに。

「……別れるしかないって、思ってる?」
「ああ」
「考え直す気も、私とちゃんと話す気もない?」
「……ない」
「そう」

 ぽとり、と。の涙が俺の頬に落ちた。そのの涙は、昨日俺のせいで流れた血と、同じ温かさだった。

「三郎。なら教えて。どうして私を噛んだのか、教えてよ。理由がないと分からないし、納得も出来ない」

 はぽとぽと涙を零しながら、怒りのこめられた眼差しで、俺を覗き込む。俺は数瞬考えてから、口を開いた。……嫌われることと、を傷つけることなら、嫌われることを選ぶべきだ。言って納得するなら、そうしたほうがいい。

「お前が、俺のことを好きじゃないかもしれないって、不安になった」
「……それで、なんで」

 頬に落ちるの涙と、身体に伝わる温もり。こいつがどうしようもなく好きなんだと、俺は今一度思う。だから言わなくちゃならない。
 本当はずっと頭にあった。恋仲になる前からそれを思い、打ち消して、けれど完全に消せないまま、ここまで来てしまった。
 俺の、抱え続けた軋みだ。

「お前に傷をつけたら、──俺以外の誰もお前を愛さないと思った」

 ぴくり、とは身体の動きを止めた。固まった瞳から、押し出された涙が流れ落ちる。

「身体中傷だらけになれば、お前はどこにも行けないし、俺だけがお前を愛せる。だからだ」

 これで納得しただろう。愛するあまりに傷つけるような男と共にいて、まともに幸せになれるはずがない。俺だって、そんなふざけたことのために暴力を振う男は、虫酸が走ると思っていたのに。
 俺の愛情は屈折している。そんな歪んだ想いに、こいつを引きずり込みたくない。そうだ、俺がまだそう思えているうちに。

「……分かった」

 ぽつりと、感情のないの言葉が落ちた。ああ、これで全部終わりだ。もう俺のことなんか忘れて、俺とは違う優しい男と幸せになればいい。そう口にしようとしたとき、が突然に起き上がり、自分の装束を勢い良く脱ぎ始めた。

「なにしてんだ、お前!」

 思わず起き上がって止めようとしても、は俺の手を振り払って上半身を全てさらけ出す。白い肌、右肩に幾重にも巻かれた包帯が露わになって、俺は胸に走る痛みに顔を歪める。包帯には、うっすらと血が滲みだしていた。そういえば、は俺の頬を張るときも右手だった。力が入っていないはずだ、そのせいで傷口が開いたのだろう。

「馬鹿か! 血出てるだろ、動くな! お前なにを──」
「いいよ」

 俺の言葉を遮って、は俺の前に肌を晒す。俺の顔を見上げ、涙の残る瞳で告げた。

「いいよ、傷つけても。全部好きにしていい」

 一瞬、なにを言われたか分からなかった。

「…………なに、言ってんだ、お前」
「私ね、理由が欲しかったの。三郎が私を傷つけた理由。それさえ分かれば、三郎に傷つけられてもいいよ」
「で、出来るかよ。俺はそれが嫌だから別れようって言ったんだろ!」
「私だって三郎が好きなのよ!」

 悲鳴のような叫び声に、言葉を飲み込んだ。

「大好き。他の誰も好きじゃないし、三郎にしか愛されたくない。……でも三郎が不安に思ってるなら、私の全部好きにしていい。安心するまで、三郎のものにしていい」

 は震える手で、俺の頬を包む。の頬から伝う涙が、首筋を伝って胸元に落ちていく。剥き出しのの肌に、ぞわりと飢餓感のような独占欲が走る。その全てを、好きにしろ、とは許す。

「前にも言ったはずだよ。私の全部、三郎にあげる。三郎が好き。……だから一緒にいて、ずっと」

 どうして、俺は──

「三郎、私を置いていかないで。……ひとりにしないで」

 ──まともにこいつを愛せないのだろう。

 なにかを思うより先に、手が伸びた。子どもみたいな顔で泣くを、抱き締める。幾度となくこの腕に抱き、もう離すと決めた温もり。その温もりを確かめながら、俺は「ごめん」と、自分でも驚くくらい震えた情けない声で、に縋った。

、俺はお前を傷つけたくなんかなかったんだ。お前に嫌われるのも、拒絶されるのも嫌だったんだ。怖かったんだ。、ごめん。……ごめんな」
「いいの。私も怖い。いつも怖いよ。……でも、こうやって三郎が一緒にいてくれたら、一緒に怖いと思えるなら、幸せだよ」

 が膝を伸ばし、俺の唇に触れるだけの口付けをした。

「だから、ずっと一緒にいよう」
……」

 湧き上がる激情のままに、の唇に噛み付くように口付けた。絡まる舌、内と外から伝わる体温。あまりの愛おしさに目眩がした。は俺の背に左手を回して、身を寄せる。口付けの合間に、三郎、と。名を呼ぶ声が優しかった。
 どうして、こんな女がいるんだろうか。盲目的なまでに愛する女に、これほどまでに許されている。嫉妬に狂い、いっそ世界にこいつと俺だけならばと幾度も望んだそれと変わらないほどに、は俺を許容してくれる。
 唇を重ね合いながら、の剥き出しの背中に触れる。が小さく微笑んで、その左手が俺の背を撫でた。絡んだ舌を解いて、濡れたの唇を舐める。が俺の頬や額に口付けするのに同じように返してから、の首筋に唇を寄せて、軽く吸い立てた。
 腹の奥底から、熱が上ってくる。その熱を、と共有したい。欲しい、と思った。
 けれど、の背中を撫でていた手を胸元に伸ばそうとしたとき、が小さく震えた。ん、と漏れるのは苦痛の喘ぎ。それが俺の動きのせいで肩に響いた痛みなのだと気づいて、身を離した。

「ん……三郎?」
「着ろ」

 戸惑う表情で見上げてくるに、が脱いだ上衣と中着を押しつけた。

「なんで……?」

 自分の装束を浅く抱きながら、は悲しみの色が混ざった瞳を向けた。拒絶されたと思ったのかもしれない。

「なんでって、当たり前だろ。こんなとこで出来るかよ。……とりあえず、さっさと着ろ」

 に背を向ける俺に、追い掛けるようにの体温が触れる。……やめろっての。

「どうして? していいよ?」
「あほ。無茶させられるか」
「大丈夫、そんなに痛くないから」
「駄目だ。……てか昨日の今日だろうが」

 そのままなにも言わずに待っていると、しばらくしてがそっと俺から離れる。すぐに衣擦れの音が聞こえてきて、ほっとした。
 やがて衣擦れの音が止み、振り向いてもいいかと思いかけた時、が俺を迂回してすぐ目の前へと歩いてきた。地面に膝をついて、さっきと同じように俺に身を寄せる。の腰に手を伸ばして、肩の傷に触れないように抱き寄せた。

「……なあ、
「なに?」
「俺、また同じことをするかもしれない」

 が全て許すと言ってくれても、俺はあんなことを二度と繰り返したくなかった。傷つけたくないし、壊したくないし、共に狂いたくもない。けれどふとしたときの嫉妬や、独占欲や、他にもなにが引き金になるか分からない。

「いいって言ったでしょう?」

 は小さく微笑んで、俺の頭に左手を回して、子どもにするようにゆっくりと撫でた。

「その度に許すから、いいよ。だから三郎も、私が同じことしちゃったら許してね」
「……お前がそんなことするはずないだろ」
「分からないよ。私も三郎が好きだもん。傍にいて欲しいし、私以外のひとを好きになって欲しくない。……だから、なにかしちゃうかもしれない。やらないっていう自信はないよ」
「お前と同じだ。俺の全部、お前の好きにしろよ」

 もしに望まれたら、俺は大抵のことなら躊躇いなく叶えようとするだろう。俺はこいつに惚れているから。盲目的に。

「俺が出来ることなら全部してやるよ。……なんでも。お前に傷つけられるのでも、誰かを傷つけるのでも」

 俺の最後の言葉に、はほんの少し身を固くする。分かっている。はそんなことが出来る人間じゃなくて、俺はそれが出来る人間だ。が俺を好いてくれていてどれほど歩み寄ろうとしてくれていても、そこに大きな違いがある。俺との想いは、たとえ同じ大きさでも種類が違う。
 ──だからこそ、俺はほんとはこいつといちゃいけないんだろう。

「帰るか、

 を抱え上げて立ち上がると、押し黙った表情だったは、顔を上げて「うん」と微笑んだ。そして、抱き上げられた自分の姿に不思議そうに目を落とす。

「三郎、下ろしてくれていいよ?」
「たまにはいいだろ、いちゃつかせろよ」
「三郎がそう言うならいいけど」

 は嬉しそうに笑って、俺の首に手を回す。肩の傷に響かないように抱え直して、ゆっくり歩きだした。

「あとな、その肩、頼むから一度新野先生に診てもらってくれ。また血出てるだろ。大体それ、縫わなくていいのか」
「やだ」
「子どもみたいなこと言わないでくれ。頼むから」
「やだ。傷口見たら噛み傷だってすぐ分かっちゃうもん。……そしたら大体分かるでしょ、その相手も」

 の、俺の首に回された手に力が込められる。正直、俺はそんなことはどうでもいい。

「いいだろ。嫉妬に狂った男に噛まれましたって言っとけ。事実だろ」
「よくないよ! 私と三郎が恋仲だって知ってるひと、たくさんいるんだよ? 絶対にやだ」

 そうは言っても、俺じゃ完璧な処置は出来ない。かと言って、放置して悪化するのも許容出来ない。どう説得しようかと思っていると、がぽつりと呟いた。

「くのたまの、保健委員の先輩に診てもらう。……それならいい? 新野先生じゃ、どんなにお願いしても、きっと許してもらえない」
「……ああ」

 本来ならば許されないのが普通で、新野先生のような大人の男には、俺との関係はとても危ういものに見えるだろう。他ならぬ、俺だけのせいで。

 俺は、から離れようとした。の傍に居続けたら、きっとこいつを徹底的に傷つけると思ったからだ。
 けれど、『離れたままでいる自信』があったわけじゃない。
 たとえばが頷いて、俺達が別れたとしても。が他の優しい男を見つけて、愛されて、愛して、幸せになろうとしていても。
 ──俺は、それを許容出来たと思えない。

 俺は結局、どんな風になっても、自分のことだけしか考えられないのだろう。が好きで、に幸せになってほしくて、けれどその全てと同等なほどの想いで、俺だけのものにしたい独占欲にまみれてる。たとえば俺が死んだりしない限り、こいつを俺から完全に解放してやる術などないのだろう。

「三郎、大好き」

 幸せそうな、柔らかな笑顔。弾んだ声。愛おしい体温。
 ああ、

 俺は、お前が好きなんだ。
 お前に望まれるためにならば、俺とお前以外のなにを犠牲にしてもいいほどに。

 お前との未来が、幸せではなくとも。
 たとえ、絶望でしかなくても。
 お前がそれを望まなくても。

 お前の傍で生きていたい。



















 終