田村三木ヱ門夢
『笑顔の練習』





 文次郎が会計委員室の戸を開けると、そこには不可思議な光景が広がっていた。
 一瞬身体の動きを止め、しかしすぐに部屋に入って戸を閉める。その不可思議なものは、文次郎が入ってきたことに気付いているだろうにまったく頓着せぬ様子で、部屋の真ん中に胡座をかいて座っている。
 不可思議とは言うものの、ぱっと見た限りではそう大したことはない。
 文次郎の一つ年下の後輩女子が、手鏡を覗き込んでいる、というだけだ。おかしいのは、その後輩、が常に手鏡を使うような女らしい性格ではないことと、覗き込んでいる姿が普通ではないからだ。鏡に映る自分の顔を酷く怖い顔で睨みつけたかと思うと、次にくわっと目を見開いてみたりもする。慌てて笑顔を浮かべようとして、いやいやと思い直したのか頬を膨らませてみたり、指で目をつり上げてみたり、百面相を繰り返している。

「……なにやってんだお前、変な顔しやがって。もう時間だぞ」

 抱えてきた帳簿を少し乱暴に文机に叩きつけてを振り向かせようとするが、はまったく動じない様子で相変わらず鏡を睨み付けている。鼻を軽くつまんで引っ張りながらの鼻声で、

「うっさいれふ、じゃましないでくらはい」
「邪魔どころか関わりたくもないが、委員会を放棄するってんならこっちにも考えがあるぞ」
「ぶっちゃけ委員会などどうでもいい程の事態です。放っておいてください」
「…………」

 んだとコラいい度胸だ表出ろやこのクソアマが、と言いたいところをぎりぎり堪え、文次郎は嫌そうに後輩の奇行に目を向ける。今日は会計委員会の上級生だけが集まる活動で、何ヶ月かに一度の帳簿整理の日だ。せっぱ詰まった急ぎの仕事ではないが、はいそうですかと活動休止するわけにも行かない。そもそもが一応は委員室に来ているのは、少しは委員会活動をする気がある、ということだろう。

「おいこら、いい加減やめろ。見ていて本当に気色悪ぃぞ」
「む」

 は文次郎の言葉に眉をひそめて振り返る。不機嫌そうな目を向けられて、怒るか、と文次郎が嬉々として身構えようとしたとき、想像とは違い、は悩むような顔つきになった。

「気色悪いですか、私の顔」
「あ?」
「あのですね、今日の変装の授業で、山本先生に『あなたはもう少し穏やかに優しく笑えるようになりなさいね』と言われまして。私の顔って怖いのかなと」

 意外と本気で悩んでいるらしい後輩に、文次郎は思わず口を閉じる。文次郎がなにも言わないのを見て取ると、はさっさとまた鏡へと視線を向けた。

「そりゃ可愛い顔じゃないことは理解していますけどね、『きつい女の人に見えるわよ』って先生に言われてしまうと、ちょっと」
「……まあ、その通りじゃねえのか。優しく笑うお前なんて本当に気色悪ぃしな。無駄なことはやめてさっさと委員会活動をしろ」
「ええまあ、私の万倍怖い顔の鬼瓦先輩に助言を頂こうなどと、はなから思ってませんけどね」
「なんでもかんでも一言多いやっちゃなー……」

 半眼になる文次郎をやはり無視して、は鏡の中の自分を見つめ続ける。
 文次郎から客観的に見たところ、確かには優しく可愛く笑うような女ではない。造作がどうこうというより、性格がキツイのだ。どちらかと言えば、他人を蹴落として高笑いをしているほうが似合う女だ。
 文次郎にとって意外だったのは、それを少しなりともが気にしているらしい、ということだ。優しく笑うなんて出来ないですけどなにか問題でも?と鼻で笑いそうなのだが。

「うーん、眉の角度が悪いのかな。ちょっと眉山柔らかくしてみようかなー」
「だから無駄だっつってんだろうが。お前の場合は性格が顔に滲み出てんだよ」
「それなら観音様ばりに優しい笑顔になって当然なんですけどねえ」
「真顔で言ってのけるお前って結構すごいな」
「むーっ」

 ついには手鏡を畳の上に置き、それを身を乗り出して覗き込みながら両頬を思いきり引っ張りだしたに、そろそろ殴ってでも止めるかと、文次郎が腰を上げたときだった。

「失礼します」

 ぱたん、と軽い音と共に、引き戸が開いて四年生の会計委員が入ってきた。瞬間、どたばたがたごと、と手鏡を拾おうとして落としたような音が響き渡り、入ってきたばかりの三木ヱ門はきょとんとした顔で部屋の中に目を向ける。

「よう、三木ヱ門」
「あ、はい、委員長。遅れてしまってすみません。……あの、先輩はなにをなさってるんですか?」
「さあな。新しい寝技の練習じゃねぇのか」

 不思議そうな三木ヱ門の視線の先、畳の上ですっ転んでいたらしいはようやくにむくりと起き上がる。片手に持っていた手鏡を素早く手近な文机の上に置き、少々引きつった笑顔で三木ヱ門を振り向く。

「み、三木。ちょっと遅かったねー」
先輩、大丈夫ですか? 額に畳の痕が……」
「え!? あ、これ、お洒落! 今くの一教室で流行ってて、タカ丸さんもわあ斬新だねって褒めてくれたりなんかしてほんと、お洒落!」
「そ、そうなんですか……?」

 明らかに滅茶苦茶挙動不審なの姿に、ほほうと文次郎は唇の端を上げる。困惑する三木ヱ門と、あわあわとしているを交互に見やり、一つ頷いて口を開いた。

「おい三木ヱ門、その畳女、なんか悩みがあるらしいぞ」
「は、はいぃ!?」
「悩み? 先輩、どうかされたんですか」
「いいいいやいやそんな悩みだなんてまったくちっとも全然」
「顔が怖いって言われたんだとよ。さっきまで手鏡睨み付けて笑顔の練習してやがった」
「なあああああ! ちょっとなんなんですか、人が明らかに隠したがってるんだから空気読んでくださいよ!」

 激昂しかけたは、三木ヱ門がじーっと視線を向けているのに気付いてびくっと身体の動きを止めた。三木ヱ門が静かに足を進めての前に腰を下ろすと、はまるで悪戯をした子どものように正座をして、小さく縮こまる。

「そうなんですか、先輩?」
「え、あ、いや……うん。優しく笑えないかしら、って山本先生に言われたのは本当だけど。いや、でも気にしてるとかじゃなくてその、くの一としてどんな表情も作れたほうが有利ってだけで、うん」

 しどろもどろに言うは、じっとただ視線を向ける三木ヱ門に、やがて言葉を切って俯いた。鬼瓦だのなんだの言われた恨みを晴らせた、と少し溜飲を下げた文次郎を尻目に、「あの」と三木ヱ門が口を開く。不思議そうな顔で。

先輩は、自分が怖い顔だと思って悩んでらっしゃるんですか?」
「え? ……自分じゃよく分からないけど、まあ確かに優しい顔じゃないかなって……。そ、そんな、悩んでるってこともないんだけど……まぁ、ちょっと……」
「でしたら、お気になさることはないと思いますよ。先輩は怖いお顔なんかじゃないですから」
「……そ、そう?」

 ようやくに顔を上げておずおずと三木ヱ門を見上げるに、「はい」と三木ヱ門は頷く。慰めるようなものではない、当然だと自信に満ちた顔で。

「心配なさらずとも、先輩はとても可愛らしいですし、優しいお顔ですよ。後輩達だって、先輩のことよく慕ってるじゃないですか。きっと授業のときは緊張なさっていたんですよ」
「……ほんとに?」
「ええ、私が保証します。それとも、私の言うことは信じられないですか?」
「そ、そんなことないけど……う、うん。そっか」

 えへへへへ、とは顔を緩めてしまりのない笑顔を浮かべる。そうですよ、と三木ヱ門もほのぼのと頷き、辺りはふわふわとした甘ったるい空気に変わっていく。

「今度からは、悩む前にまず私に聞いてくださいね。先輩より、私のほうが先輩のことについては詳しいですから」
「わ、なんか恥ずかしいよ、それ」
「それはもう、先輩のことなら自信がありますから。だからもう一人で悩まないでくださいね」
「うん。ありがとね、三木」
「いいえ、本当のことを言っただけですから」
「三木……」
先輩……」
「って、お前ら鬱陶しいわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」

 どがしゃーん! と文次郎が一人用の文机をひっくり返す。机の上にはなにも乗っていなかったが、勢いづいた文机はごろごろと転がり、壁にぶつかってようやくに止まった。
 瞬時に壊された空気に、がチッと舌打ちし、三木ヱ門がようやくに文次郎の存在を思い出したかのようにさっと顔を赤らめる。

「やだ、なんですか潮江先輩、いくら自分が怖い顔だからって」
「違うわアホか! ひとの目の前で気色悪ぃもん見せやがって、恥を知れ!」
「なるほど。つまりらぶらぶな私と三木が羨ましいということですね。ぐふふ」
「誰が羨むかバカタレが! いちゃこきたいなら委員会がないときにしろって前から散々言ってんだろうが! とっとと活動準備しろ! おい三木ヱ門、年度末決算書全部持ってこい!」
「は、はいっ。分かりました委員長!」
「ちょっと、先輩権限振りかざして後輩の三木に八つ当たりしないでくださいよ、いくら自分がもてないからって」
「違うっつってんだろうが、いい加減にしろこのアマああああ!」
「ぐっふふふふ。さーて、委員会委員会ーっ」

 にやにやと愉しそうに笑うは、先程三木ヱ門の前にいたようなしおらしい姿ではない。正直、文次郎には同一人物にさえ思えない。
 とりあえずすっきりしたのか機嫌良く算盤や硯を用意すると、慌ててばたばたと帳簿棚や押し入れを往復する三木ヱ門を交互に見つつ、文次郎も腰を上げる。胸くそ悪いからもう絶対にこいつらを妙な雰囲気にさせてたまるかと誓いながら、自分がひっくり返した文机を戻しに向かった。










 終