田村三木ヱ門
『出会い』
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「ここが会計委員室。あそこに座ってる女子生徒が、君のひとつ年上の先輩です」 最初の委員会選挙の後、顧問の安藤先生に連れられて、私は初めて会計委員室の中に足を踏み入れた。部屋の中にはたくさん帳簿が積まれていて、そのせいか少し古臭い紙の匂いと、染み付いた墨の匂いがした。 部屋の中に並んだ文机の隅に、紹介された通り一人の女子生徒が座っていた。長い髪をひとまとめにしていて、机の上に開いた帳簿に、つまらなそうに視線を向けている。 なんだか、怖そうな人だなと思った。 表情が固くて、帳簿に向けている目が少し冷くて、鋭い感じがした。 だから、この先輩とこれから同じ委員会なのは嫌だなと、憂鬱に思った。 その時私は、くの一教室の生徒は姑息で乱暴で酷い奴らだから近づくなと先輩達に脅された直後だったから、なおさらに警戒が強かったのかもしれない。挨拶をしなければと思うのに、なかなか口に出せず、躊躇した様子を繰り返していた。 すると、ふと先輩が私に気づいて、ゆっくりと視線を向けた。 その、濡れたような黒い瞳が私に向けられた時、私はさっきの考えが間違っていたことを知った。 ──綺麗な人だ、と思った。 一瞬前まで、怖そうな人だ、この人と一緒にいるのは嫌だと思ったのに、その時私はとても素直に、目の前の女の人に惹かれていた。 どうして綺麗だと思ったのか、その時は少しも分からなかった。見目がすごく良いわけでも、纏う空気が静謐だったわけでもないのに。 それでも私は、先輩の瞳に捕らわれたまま、ああ、この人は綺麗な人なのだと納得した。これからこの先輩と、委員会活動で共にいられることが嬉しいと思った。 そして、次の瞬間、 「そこの一年坊主、どきなさい!」 突然に立ち上がった先輩に、凄まじい勢いで蹴り飛ばされた。 そのまま部屋の隅まで転がった私には、一体今自分の身になにが起こったのか分からなかったけれど、その時先輩は私に向かって投げられた算盤から、私を庇ってくれていたらしい。先輩の手には酷く重そうな算盤が一つ握られていて、それを忌々しそうに畳へと叩きつけたのだけが、当時の私には見えた。 どすん、とやけに大きな音を立てて畳に沈み込む算盤。先輩は素早く腰元から苦無を取り出すと、会計委員室の戸を鋭く睨み付けた。 それと同時に、部屋の中に少し年上の忍たまの先輩が駆け込んできた。寝不足なのか濃い隈の恐ろしい顔をした私の知らない先輩と先輩は、部屋の真ん中で互いに間合いを取る。まだ本格的に忍術の授業を受けていない私にも分かった。 ここは、危険だ。 「潮江先輩、なにしてんですか! 新入りの一年に当たるところだったじゃないですか!」 「うるさい! 狙いが外れただけだ、ぶちぶち言うんじゃねぇ!」 「はあ!? なんですか、もしかして私を狙ったとでも言うんですか、この隈お化け!」 「誰が隈だ、誰が! お前、人の手ぬぐいに落書きしやがったな! 落とし前つけさせてやる!」 「落書きじゃありません、誰にでも分かるように名前を書いてあげただけです! むしろ感謝して頂きたいくらいですよ!」 「『ギンギンに手ぬぐい』のどこが名前だコラ! もう勘弁ならん、今まで女だと見逃していたが、殺す! 今日こそお前を殺す!」 「はっ! 出来るものならやってみてください、先輩には『年下の女子生徒に負けた』という屈辱的な烙印を押してあげます!!」 その後はもうめちゃくちゃだった。墨壷がひっくり返り、筆が宙を飛び、重そうな算盤がまた投げられ、壁にぶつかって軋んだ音を立てた。 その、憤怒の表情をした男子生徒と先輩が切り結んでいるのを、私はただ呆然と眺めることしか出来なかった。 「なにをしてるんだ、二人とも!!」 さすがに安藤先生が制止したけれど、二人は止まらなかった。仮にも教師であり顧問でもある安藤先生に向かって、まるで息を合わせたようにぴったりと、大声で叫ぶ。 『うるさい! 安藤先生は黙っててください!』 ぎょっとする安藤先生をそれ以降は完全に無視して、先輩二人はお互いしか見えていないように、乱暴に戦い続ける。やがて我に返った安藤先生と、物音に気づいて駆けつけてきた当時の会計委員長が力尽くで引き剥がして、乱闘はようやくに終わった。 引き剥がされながらも、二人の先輩は聞くに堪えない罵詈雑言を吐き合っていた。始まりから終わりまでずっと身動き出来なかった私は、その二人の様子に、ああ私の第一印象は決して間違っていなかったのだと思った。 先輩が綺麗だと思ったことのほうが、間違っていたのだと。 やっぱりこんな怖い先輩たちがいる委員会は嫌だなと、どんよりと憂鬱になった。 そして結局のところ、そのどちらが正しかったのかということを、今の私は知っている。 「三木、どうしたの」 じっと先輩を見つめていたら、私の視線に気づいたのか、先輩は軽く首をかしげた。 あれから三年。会計委員室で、私の目の前で、文机の前に座って、帳簿を見下ろしていた先輩。 それは全部あのときと同じだけど。 「……先輩は、あのときよりもっと綺麗になりましたね」 そう言うと、先輩はかちんと固まってから、戸惑いに溢れた顔になり、そしてほんの少し頬を赤らめて、最後には勢いよく私に詰め寄った。 「三木、あのときっていつ!?」 「私達が初めて会ったときですよ」 「全然覚えてない! いつ!?」 「……全然ですか」 「ごめんさっぱり覚えてない! でもいつ!?」 身を乗り出す先輩に、私は少し笑う。先輩はあのときより綺麗で、でも可愛くなったとも思う。私が先輩よりも背が伸びたせいなのか、それとも先輩をもっとよく知ったせいか。 「三木ー、笑ってないで質問に答えてよ。と、というかね、き、綺麗ってなに」 「先輩は、綺麗で可愛いですよ」 「……よくそんなの素面で言えるね、三木」 「本当のことですから」 私の言葉に、先輩は、かあっと顔を赤らめる。ああ、やっぱり先輩は可愛い。この人が今は私の傍にいてくれて、睦言を交わせる関係になれたことがとても嬉しい。あのときの私には、きっと想像出来なかったことだろうけど。 「……好きですよ、先輩。あのときからずっと」 「み、三木。だからあのときっていつ……」 すぐ傍で、私を見上げる先輩。その、濡れたように黒い瞳に。 私はずっと捕らわれたままなのだろう。 でも。 「そういえば、先輩はあのときから潮江先輩と絡んでましたね。だから私は潮江先輩に嫉妬するようになったんですよ、きっと」 「だからー! あのときっていつ!? 三木のいじわる!」 終 |