中在家長次夢
『長次と本』





「ちょう…………あ」
 図書室に入って口を開いた瞬間、私語厳禁だということを思い出して慌てて言葉を呑み込んだ。どうしてか図書室内はいつも以上に静かで、私もなんとなく足音すら気遣ってそろりそろりと中へと進む。
 図書室の奥。山のように本が詰め込まれた本棚が、さらにずらりと並ぶ場所。ぎっしりという音すら聞こえそうなその濃密な空間の中で、長次がただ静かに溶け込んで本を読んでいた。
 図書室に入荷した本の選定ではなく、単なる読書なのだと思う。その読み方は斜め読みでも破損を確認するものでもなく、きちんと文字を追っている目の動きだったから。
 きょろきょろと図書室内を見回してみても、他に図書委員はいなかった。一年の怪士丸君は気配を隠すのが上手いのか普段からこっそりしているけれど、今日は本当にいないみたいだし。
 図書委員以外の、読書したり自習したりしている生徒もいない。正真正銘、長次一人きりだった。……いや、長次と私の二人きりと表現するのが正しいのか。
 近くまできたのにすぐに声をかけなかったことには、特に理由はなかった。ほんの少しの『読書の邪魔をしたら申し訳ないなぁ』という気持ちがそのままずるずると引きずられただけだ。でもどうせ長次にと松千代先生から頼まれた資料を渡すために来たのだから、結局は邪魔をすることになるんだけど。
 どうしようかなと考えつつ、私はなんとなく長次を観察してしまう。
 忍びの基礎として、この学校の生徒や教師は気配が薄い人が多いけれど、長次はその最たるものだと思う。いつどこにいても静かで気配が読みにくくて、動作一つ一つに無駄や隙がない。いつの間にかそこにいた、という空気は、意識してもなかなか身につけられるものじゃない。そういうところが、長次は忍びに向いているなといつも思う。
 微かな紙音。長次が頁をめくる音。それすら本当にぎりぎり耳に届くほどの小さな音で、どちらかと言えば静かにするのが苦手な私は、心から感心してしまう。
 真っ直ぐに視線を本に落としているその顔は、傷だらけだ。本を持っている手にも、古いものと新しいものが入り交じる傷がたくさんある。今は見えないけど、装束の下にだってたくさん同じものがあるのを、私は知っている。
 でもそれが痛々しいなとか見苦しいなとか、そんな風には全然見えない。がっしりとした鍛えられた身体をしているからかもしれないけど……、私はその傷を含めて、長次はとても綺麗だと思う。派手ではないけど、静謐で落ち着いた綺麗さ。普段獰猛な獣が静かに寝ているときに感じるものに似ているかもしれない。
 長次は、綺麗だ。
 これを誰かに言ってもあんまり同意してもらえないんだけど。
 思わずくすりと笑ってしまったことで気づいたのか、長次が突然に気配を変えた。まだ本に視線を落としたままで、「」と的確に私の名前を呼ぶ。
「あ、ちょ、長次」
「……さっきからなにをしている?」
 あ、やっぱり気づかれてた。読んでいた本を閉じて、長次がこっちに視線を向ける。なんだかあからさまに悪いことをしたわけでもないのにばつの悪い気分で、私は怒られる前の子どもみたいにちょっと躊躇う動きで長次の元に向かう。
「ごめん、特に意味はなかったんだけど」
「……それは?」
 私が長次の前まで足を進めると、長次の目が私の持つ資料に向けられる。それを差し出しながら、長次の隣に腰を下ろした。
「これ、松千代先生から預かってきたの。図書委員にって」
「……ああ」
 長次はちらりと資料を見ただけで、さっさと床に置いてしまう。
「あの……ごめんね?」
「別に気分を害したわけじゃない」
 もう一度謝ると、長次はいつもの静かな顔でぽつりと言う。そして、さっきまで熱心に読んでいた……はずの本を、長次にしては珍しくぞんざいに見える手つきで、ぽんと軽く投げ出した。
「え?」
「……いや、すまん」
 さすがに自分でもまずいと思ったのか、これも珍しく長次が居心地の悪そうな顔で、投げたばかりの本を引き寄せて隣に置く。
「……少し内容が支離滅裂でな」
「ふうん?」
 長次が音を上げるなんて、どれだけ変な本だったんだろう。気になって本の題名を見ようとすると、長次がその前にひょいっと取り上げて、傍らの本の山の中に隠してしまった。えー?
「あ、もしかして、普通の本に見せかけた春画とか?」
 にやにや長次の顔を覗くと、長次は半眼で首を横に振る。
「違うが、お前が読むものじゃない」
 そして、これ以上この話はするなと言うように、視線を逸らされる。おや残念。一応長次と付き合いの長い私は、それが長次の拒絶だということを知っている。これ以上つついてもまず教えてくれないだろう。
「用はそれだけか」
「うん。それと長次に会いにきたの」
 微笑むと、長次はじーと私の顔を見て、それから無表情でまた視線を逸らした。ちょっと照れてるなと理解して、私はそのことに嬉しくなる。
 長次の視線を追い掛けようと、少し身を乗り出して長次に近づく。足同士が触れて気配をすぐ傍に感じたとき、長次の手が私を押し戻すように肩に触れた。
「やめろ」
 憮然とした顔だけど、それも照れてるのが分かる。嬉しくなって、少し調子に乗ってさらに身を寄せた。また長次の顔を覗いて。
「長次に会いにきたのに。一緒にいちゃ駄目?」
「……俺の反応を見て楽しむのはやめろ」
 あれ、ばれてる。きょとんとした私に、長次がやれやれと嘆息する。よくよく考えれば、私が長次のことを分かるくらいに、長次も私のことを分かってるんだろうけど。
 でもこのまま離れるのもなんだか勿体なくて、少しの距離を詰めてぼすんと長次に抱きついた。
「……こら」
「ちょっとだけ」
「…………」
 ぎゅっと擦り寄ると、長次はまた嘆息した。けれど私を引き剥がしたりはしない。昔からそうだ。長次は私に甘い。ぽんぽんと、なんだか幼子にするように背を撫でてくれるのが嬉しくて、私はますます長次にしがみつく。
 全身に感じる長次の体温と匂いと優しい手つきに、気持ちがほんわかしてきた。このままお昼寝したいって言ったら怒られるだろうなぁと思っていたら、ぽつりと長次が囁く。
、さっきはなにをしていた」
「ん? なんのこと?」
 顔を上げて聞いても、長次はもうなにも言わずにただ私を見ているだけだ。
 さっき。一瞬考えてから、長次をこっそりと見ていたときのことかと気がついた。長次は気分を害していないと言っていたけど、気にはなっていたんだろう。
「んー……あのね。長次は綺麗だなと思って」
「は?」
 すぐに返ってきた戸惑いの声に、私はちょっと身を起こして、長次と目を合わせた。怪訝そうな長次の瞳。
「長次は綺麗だよ」
 なにも言わない長次の瞳は、ただ私に向けられている。そしてその瞳にずっと捕らわれている私。
「……口付けしていい?」
 言いながら身を寄せようとすると、それより先に長次の手が動いた。腰元に腕を回されて、ぎゅっと引き寄せられる。長次はほんの一瞬だけ辺りに誰もいないのを確認するようにちらりと一瞥して、それから私の頬に手を伸ばした。察して目を閉じたすぐ後に、柔らかな感触が唇に触れる。
「っん……」
 ほんの僅かに離れて、また唇が重なる。少し重なって、また離れて、それを幾度も繰り返す。頭を撫でられているような優しい愛撫が心地良くて、じんわりと溶けそうな気分になる。
「……俺のどこが」
 口付けの合間の、呆れたような長次の声。自分のことを微塵も綺麗だと思っていない声。たぶん私が嘘を吐いたと思って呆れてる。……でも、どこが綺麗なんて言ってあげない。
 ──私だけが、知っていればいいの。
 私を愛してくれる長次。甘やかしてくれる長次。大好きなこの人が綺麗だなんて、私だけが知っていればいい。
 だって、そうじゃないと、みんなが長次を好きになっちゃうから。
 だから長次本人にだって言ってあげない。

 長次は全部、どこもかしこも綺麗だなんて。

「絶対言わない」
 囁いて、自分から強く唇を押しつけた。



















 終