川西左近夢
『左近と包帯 四年生ver』後編
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「……ごめんなさい」 今までに飽きるほど聞いた、謝罪の言葉。だけど些細なことでもすぐにごめんねごめんねと謝っていたその姿とは少し違う。先輩の顔は、なんだか少し笑っていた。楽しそうなものじゃない、諦めに近いそれ。 ぽつりぽつりと、先輩は言葉を続ける。 「あのね、私今までたくさん怪我してきたしそれを手当てしてもらってきたけど、わざと怪我したことは一度もないの。あ、病気もそう。熱が出ればいいと思って無茶したことはないよ」 「…………はい」 それは、そうなのだろう。また怪我してきて、と僕があれほど繰り返していたからだろうか。先輩の言葉に、僕はまた少し心が重くなる。きっとこれまで、こんなに頻繁に怪我するなんて馬鹿ですとか先輩は注意不足ですとか散々言って、傷つけてきたのだろうから。 「あ、違うの。責めてるわけじゃないの。そうじゃなくて……私ね、一度も自分から怪我したいとか病気になればいいとは思わなかったけど、ほんとに怪我したり病気になったらちょっと嬉しかったんだ」 「……え?」 「医務室に行ったら、左近がいてくれるかなーって。またあなたですかってぷりぷり怒りながら、手当てしてくれるかなって」 小さく、先輩が優しく笑う。なにも言えない僕に、その微笑みのまま先輩は続ける。 「私が怪我することも、病気になることも、家族も友達も結構慣れちゃってね。もちろん怪我したり病気になったときには心配してくれるけど、そうじゃないときにも叱ってくれるのはあなただけだった」 「それは──」 心配、していただけじゃない。そうじゃない。でもそれを口に出来ない僕の前で、先輩はまた笑う。 「嬉しかったんだ。出会ってから一年経っても二年経っても、いつも心配してくれてたから。怒られるのは申し訳なかったし、たまには怒られずにお話ししてみたいなとも思ってたけど、でも結局私はどっちでもよかったんだと思う。あなたと一緒にいたいだけで」 ……違う。僕は。 「でも私、気づけなかったの。左近に会うために怪我したいとまでは思わなかったけど、怪我してもいいかなとは思ってたかもしれない。怪我したら痛いのは私だけど、手当てしてくれるのは手間がかかるし、治すためのお薬や包帯だってタダじゃないのに。……それに気づいたら、左近に怒られるのが怖くなった。だから怪我しないように頑張ったけど、やっぱり無理だった。怪我したら申し訳ないのにやっぱりなんだか嬉しくて、……でも、私」 そこで言葉を切って、先輩は一つ息を吐き、またゆっくりと口を開いた。 優しそうな、温かそうな、でもどこか諦めたみたいな微笑みで。 「……私ね、つまりあなたに嫌われたくなかっただけなの」 でも遅かったね、と先輩はぽつりと言う。笑おうとして笑えないような、曖昧な表情で。 「気付かなくてごめんね。私はただこれ以上嫌われたくなくてここに来ないようにしたけど、左近は保健委員だもんね。自分のせいで医務室に来ない生徒がいたら、気になるよね。……でも私のことだけが原因だったら、お願いだから保健委員をやめるなんて言わないで。私に会いたくないだけなら、左近の言うとおり、左近の当番じゃないときにちゃんと来るから。……約束するから」 ゆっくり、先輩の手が、もう一度畳の上に開いたままの当番表へと伸ばされる。そしてその指が触れ、かさりと小さな紙の音が聞こえたとき、僕は無意識に動いていた。 先輩の右手。手の甲にまだ傷跡の残るそれを、気付いたときにはもう掴んでいた。先輩の右手から当番表が離れ、畳の上へと落ちる。 「左近?」 「……違うんです」 「違う……?」 先輩は不思議そうに、僕の顔と、掴まれた自分の右手首へと交互に目を向ける。 僕は僅かな間だけ逡巡し、それから先輩を見た。包帯だらけ。傷だらけの姿。先輩はいつもへらへら笑ってた。痛いくせに痛いって言わずに、苦しいくせに苦しいって言わずに、ごめんねって繰り返してた。 分かっていた。僕は全部分かっていたのに。 「僕は、あなたが心配だったから怒ったり声をかけていたわけじゃありません」 「………………」 先輩の瞳が僅かに見開かれ、その中に悲しみの色が揺れた。咄嗟に身を引こうとする先輩の手を改めて掴んで、少し強引にこちらに寄せる。 「さこ……」 「聞いてください、先輩」 もう、なんの躊躇いもなかった。 「僕は、あなたと話したかった。どんな理由でも短い間でもいいから一緒にいたかった。あなたと接していたかった。あなたとの関係性が欲しかった。だから僕はいつもあなたに怒りました。医務室に来たときも、他の場所で会ったときも、怪我や病気のことなら、僕はあなたに声をかける理由があったから」 だって僕は。ずっと前から。 「あなたが好きなんです、先輩」 僕は、自分が素直ではない性格だということをよく知っている。 細かいことを気にしないでいられる性格でもない。極端に臆病ではないけれど、後先考えない行動は出来ない。どちらかと言えば慎重なほうだと思う。 だから今までずっと先輩に告白なんか出来なかったし、したいとも思えなかった。恋仲として先輩と共にいることが出来れば幸せだろうと分かっていても、断られることの辛さと比べれば、今までと同じほうがずっといい。 でもこのときの僕は、迷いも躊躇いもほとんどなかった。先輩を傷つけて誤解させたままでいるよりは、まだ少なくとも自分が傷ついたほうがましだと、そう思った。 それは本当だったけれど、口にしてしまってからほんの少しだけ後悔した。僕はこれから、先輩に拒絶される。先輩は他人を傷つけることを躊躇するひとだから、返事に困るだろう。戸惑って、迷って、また僕の顔を見れなくなって俯いて、それでも必死にどうにかしなければと考える。 結局は、泣きそうな顔でごめんねと、いつもと同じように謝られるのだろうなと、僕はぼんやり諦めていた。泣かれたり逃げられたりしたらさらに切ないけど、ここまで来たら仕方ない。 そう覚悟を決めて、僕は先輩の反応を待っていたのだけど。 「………………」 先輩は、かちんと固まっていた。今聞いた言葉はなんだろう、という顔で。 僕と目を合わせたまましばらく時間が過ぎ、さすがに気まずくなって僕が目を逸らそうとしたら、 「…………あ」 ふいに、先輩が声を上げた。と思ったら、その顔が瞬く間にかあっと赤くなる。そしてそのまま、先輩は勢いよく立ち上がろうとした。 「きゃっ!」 途端、掴んだままだった僕の手が邪魔をして、先輩はバランスを崩して尻餅をついた。ハッと気づいて、僕は慌てて先輩の手を掴み直す。先輩は真っ赤になった顔で、じたばたと僕から逃れようと暴れてる。 「あ、あの、先輩?」 「ごごごごごめんなさいごめんごめんごめんなさい、離してください! 恥ずかしいから見ないでください! 隠れさせてください!」 「な、なんですか急に、駄目ですよ! ていうか、明らかにあなたより僕のほうが恥ずかしいじゃないですか!」 「もうやだ穴に入りたい、畳返ししてもいい!?」 「いいわけないじゃないですか、大体なんで先輩が恥ずかしいなんて……ちょっ、先輩、危なっ……!」 「え、……わっ!?」 きっかけはどうあれ、つまり先輩は僕の不運に巻き込まれただけなのだと思う。立ち上がって逃げようとしては僕に引き止められることを繰り返していた先輩は、急にふらりと足を滑らせた。たぶん痛む片足を庇った結果だ。立ち上がりかけていた体勢を崩したことで、身体が前のめりに倒れかける。 僕は咄嗟に先輩を受け止めたけれど、運悪く僕も足を滑らせて、まともに後ろに倒れ込んだ。 しかも倒れた先には、巻き終えた包帯を入れていた桶を置いていた。倒れ込む僕の肩に当たって、桶が勢いよくひっくり返る。僕と先輩の上に大量の包帯がぱたぱた降ってきて、桶がごろごろと転がり、最後に僕の頭にがこんと当たって、ようやくに止まった。 「っ痛……」 まともに打った背中と腰、桶にぶつけた肩が痛む。思わず漏らした声に、僕の上に乗る体勢で一緒に倒れた先輩が、慌てたように声を上げた。 「さ、左近、大丈夫? ごめんね?」 「いえ、たぶん悪いのは僕ですし……」 咄嗟とはいえ、先輩一人受け止められないのは情けない。それに視界の隅に映る、ころころころころ解けていく包帯の山も、その情けなさを増長させる。せっかくたくさん巻いたのに。 はあ、と一つため息を吐いてから、とりあえず僕は上にある先輩の肩に手を回した。起き上がれないように。それに気づいて、うわ、と焦った様子で先輩がじたばたし始めるけど、少しすれば静かになった。諦めたように、先輩が身体の力を抜く。そしてぽつりと。 「……左近、足首と二の腕とお腹と太股と首が痛いです……」 「ああ……そうでしょうね……」 僕は怪我がないからまだいいけれど、先輩は包帯だらけの満身創痍に近かった。少し動くだけでも痛むだろうに、倒れ込んだりすればそれはもうあちこち痛みが響くだろう。ぽんぽんと、思っていた以上に軽い身体の、その背を撫でるように叩くと、先輩はさらに諦めたように僕に体重を預けてきた。 先輩はなにも言わず、僕も身体の痛みが消えるまで、少しの間ぼうっとしていた。先輩の体温がものすごく近くにあることは、あまり考えないようにした。考えてしまうと、後々悔やむことになりそうだったから。 「先輩」 「……なに?」 先輩は、もう逃げる素振りを見せなかった。身じろぎせず、その声もただ静かなだけだった。 そろそろいいか、と僕は思った。先輩の背に回していた手を、そっと戻す。 「出来れば、早めに返事をもらえますか」 「……うん?」 「はっきり言ってもらえたほうが、嬉しいです」 希望は持っていない。ごめんなさい、と一言もらえれば、それでよかった。後は、先輩がこれからも医務室にちゃんと通ってくれるなら、もうなにも言うことはない。 でも、先輩はすぐには答えてくれなかった。やっぱり言いづらいのだろうかと僕も強くは言わないでいたら、少ししてようやくに先輩が口を開いた。 でもそれは、僕が想像していたような言葉ではなくて。 「あのね、左近。私すぐに怪我するの」 「え? ……あ、はい。知ってます」 「よく転ぶし、池にも落ちるし、熱も出すし、虫にも刺されるし」 「ああ、はい。そうですね」 「そんなに成績よくないし、この間怪我して授業見学した分、追試も受けたし」 「……はい?」 「美人じゃないし、将来有望でもないし、実家もお金持ちじゃないの」 「はぁ。……あの、先輩」 「よくどこになにを置いたか忘れちゃうし、掃除も料理もあんまり上手じゃないし、それに私、年上だよ」 「…………先輩」 「それでも」 ぎゅっと、先輩の手が僕の腕を掴む。肩口に顔を埋めて、先輩は一呼吸分置いてから、言葉を続けた。 「それでも、……左近の傍にいてもいい?」 ──左近ちゃん、私が医務室に行くといつもいてくれるよね 昔から、そう言って先輩はよく笑ってた。僕はそれを聞いていつも怒ってた。あなたが怪我をするからいけないんです、と。 でも本当は、僕は先輩が怪我をしそうな日には当番でなくても医務室にいたりしたから、ある意味当然のことだった。くの一教室で実技試験がある日とか、同学年での男女合同実習の日とか。 それは先輩に会いたいからで、僕が先輩を好きだからで、だけど絶対に叶わないと思っていたから、ずっとずっといつまでも表に出そうとしなかった。 本当はすごく好きだったのに。謝らせるんじゃなくて、僕の隣で笑っていて欲しかったのに。 「────先輩」 僕はこのとき、ようやくに知った。 自分がどれほど、先輩が好きなのかということを。 すごく嬉しい。 どくん、と鼓動が鳴り響く。すぐ傍に先輩がいるということを改めて認識して、身体中が熱くなる。同時に、今まで心の奥に抑えていた感情が、一気に堰を切ったように溢れ出した。 自分の上の重みが、柔らかくて温かくて……すごく愛おしい。 ああ、駄目だ。なにが駄目なのかよく分からないけど、このままくっついていたら絶対に駄目な気がする。 一度離れて、冷静にならないと。 「先輩、あ、あの、どいてください……」 「え……? 左近どうしたの?」 「どうしたって……いやあの、いいですからとにかくどいて……」 焦った僕はあたふたと先輩を押しのけようとしたけれど、身体が熱っぽいせいか手に力が上手く入らない。先輩が心配そうに僕の顔を覗こうとするから、さらに焦って頭がぐるぐるぐるぐるしてくる。 「──っ……」 「左近……? どうしたの?」 顔が近い! 顔が! 無理。駄目だ、もう無理だ。 自分でもよく分からない感情が、ついに爆発しそうになったそのとき、突然にぱたんと医務室の戸が開いた。 「しつれいしまーす……薬草の水やり終わりまし…………たー……?」 いきなり入ってきた人影に、僕と先輩の動きがぴたりと止まる。ついでに僕達を見た人影も、驚いたように動きを止めた。 絶妙のタイミングで現われたのは、薬草園の当番に行っていた伏木蔵だった。伏木蔵はいつもの暗い顔できょとんと僕達を見た後、すすすすすす、とそのままの体勢で後ずさりをして医務室を出て、ぱたんと静かに戸を閉めた。 そしてすぐにまた戸を少し開き、顔だけを覗かせて首を傾げる。わくわくした暗い表情と、わくわくした暗い声。 「すごいえきさいてぃんぐー……?」 「……違う! 不運だ!」 おかげで、手に力が入るようになった。先輩を抱えて、勢いよく起き上がる。先輩が「うひゃっ」と変な声を上げたけれど、この状況だから申し訳ないけど無視をした。 「えー……? じゃあ、すごいスキャンダルー……ですか?」 「なんでスキャンダルになるんだよ!」 先輩を無理に引き剥がして、伏木蔵に怒鳴る。伏木蔵は「そーですかー……」と分かったのかそうでないのか適当に頷いて、戸を改めて開いて中に入ってきた。あちこちに転がっている包帯と僕達を見て、「あー……」と薄暗く微笑む。 「分かりましたー……すごいふうんですねー……」 「だからそう言ってるだろ! ……あ、す、すみません先輩」 「あたたたた、う、うん……大丈夫。あ、包帯ばらばらになっちゃったね」 「もぉー……だめですよ左近先輩、医務室で包帯ぷれいなんて、あまりにも似合いすぎですー……」 「お前、分かった上で言ってるだろ……」 転がってしまったたくさんの包帯をひょいひょい拾い上げながら、伏木蔵は僕と先輩のところにやってくる。先輩はなんだかふっと顔を緩めて、僕と目を合わせて微笑んだ。どくん、と、忘れていた鼓動がまた鳴り響く。 「あ、あの……すみませんでした。先輩、どこか痛んだりとか……」 「ううん、ほんとに大丈夫だよ。あ、私も包帯巻くのお手伝いするね」 えへへ、とちょっと照れたような顔の先輩に、かあっと頭に血が昇る。はーい、ほうたいでーす……と伏木蔵から解けてしまった包帯を受け取る先輩から、それを慌てて奪い取った。 「あれ?」 「だ、駄目です。先輩は包帯巻くの下手ですから」 「そうなんですかー……?」 「あはは、私不器用だからね。……じゃあ、えっと……邪魔しちゃいけないからもう帰るね」 「先輩、手当てじゃないんですかー……? 包帯いっぱい巻いてますけどー」 「うん、これはさっき左近に手当てしてもらったの。ありがとう、左近」 じゃあまたね、と先輩が僕に向かって軽く手を振る。僕はそれを視界の端だけで見ながら、俯いたふりをして声を上げた。手元はくるくると、忙しそうに包帯を巻きながら。 「先輩」 「ん? な、なに?」 「……あ、あとで、もう一回傷の様子見ますから、お部屋で待っててください」 「…………うんっ」 嬉しそうな先輩の声と共に、ぽたんと医務室の戸が閉まる。ゆっくりと遠ざかっていく先輩の気配に、ほっと身体の力が抜けた。 ……ああ、なんだかまだ頭が混乱してる気がする。 今までの、嵐みたいに勢い良く過ぎていったいろいろなことを思い出して、また顔が赤くなりそうになる。それを誤魔化すように、僕はただただ包帯を巻き続ける。伏木蔵の薄暗い好奇心旺盛な視線を、出来る限り受け流して。 この包帯を巻き終えたら。 頭を整理して、もう少し落ち着いたら。 ……そうしたら今度は、先輩にちゃんと向かい合って、言おう。 素直じゃない僕でよかったら。 ずっと傍にいてくださいって。 終 |