善法寺伊作夢
『通り雨』四話
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久しぶりに、とても心地良い気分だった。 直前まで見ていた夢がゆっくりと消えていき、眠りと現実の曖昧な狭間で、僕の意識はふわふわと漂っている。起きようかなと思ったけれど、手足の動きが重しをつけたみたいに鈍くて、未だ休息を求めていた。 指一本動かすのも瞼を上げるのも億劫なほど、疲れていた。このまま心地良い気持ちのまま、もう少し眠っていたい。それを肯定するように、誰かの手が頭に触れる。二度、三度、その指は僕の髪と頬を撫でて、離れていく。最後に額にそっと柔らかいものが触れて、その優しい仕草は消えた。 誰だろう、とぼんやり思う。もしかしたらこれも夢かもしれない。こんなに疲れているんだから、起きているのか寝ているのか分からなくなってもおかしくない。 優しいひとの気配は、ゆっくりと僕から離れていく。ぎ、と僅かに軋む床鳴りには聞き覚えがあった。視界に、穏やかな光が入り込んでくる。あれほど開くのを嫌がっていた瞼が上がり、すぐに見えたのは白い布団だ。清潔で温かな、見覚えのある医務室の布団。少しだけ顔を上げてみると、視界の端に見慣れた衝立の色も映った。ああ、そうか。ここは医務室なのだろう。 ぱた、と板戸が開く小さな音がする。きっとさっき傍にいてくれたひとだ。その気配も、微かな足音も、覚えがある。間違いようもない、だって僕の好きなひとだ。ああ、そうだ。だからあんなに心地良くて……。 ……え? 気付いた瞬間、僕は一気に覚醒した。 「!?」 叫んでしまった直後、気配がざわっと揺れて慌てたように医務室を飛び出して行く。もはやなにか考えている暇などなくて、僕は掛け布団をはね飛ばして起き上がり、その後を追おうとして…… 敷布に足が引っ掛かって盛大にすっ転んだ。 「痛ーーーーーーーーっ!」 起き上がるために手のひらを畳に押しつけると、思わずまた叫びそうなほど鋭い痛みが走る。よく見れば、僕の手は包帯まみれだ。それだけじゃない、背中も足裏も右肘も同じようにじんじん痛んで、身体がまともに動かせない。 それでもようやく起き上がって衝立を押しのけて走り出そうとした瞬間、今度は足元にあった火鉢に足先をぶつけてまたひっくり返った。 ついでにいろいろなにかに当たってしまい、どんがらがっしゃーーん、と分かりやすい散乱音が弾け飛ぶ。当たり所が悪かったのか、どうも打撲していた箇所に直接ぶつけてしまったらしい。足首に絶望的な痛みが走り、力を入れた瞬間に身体が崩れ落ちる。 痛い。ものすごく痛い。ついでに情けない。 早く追いかけなければと、心は急いている。痛くても情けなくても仕方ない、歯を食いしばって起き上がろうとした、そのとき。 すぐ隣でひとの声がした。 「だ、大丈夫?」 「……あれ、」 心配そうな顔で僕を覗き込んでいるのは、さっき出て行ったはずのだった。はそこらを軽く片付けてくれて、僕に手を伸ばしてくれる。 「伊作君、傷口開いちゃうよ。起き上がれる?」 に手を貸してもらって、ようやくに起き上がってきちんと腰を下ろした。たぶん、さっきの惨状を聞いて戻ってきてくれたんだろう。ものすごく情けなくて恥ずかしかったけれど、でも、ほっとした。 はそのまま、なにも言わずに傷の具合を診てくれる。少し解けかけた包帯を巻き直してくれるのを見ながら、僕は自分がどうしてここにいるのかをやっと思い出した。 昨日実習が終わって学園に戻り、医務室に集まったときのことだ。みんなの手当てをしようとしたら、留三郎に突然『まずてめーの怪我治せ、あほ』と手刀を叩き込まれたのだ。そこから記憶は暗転しているから、今までずっと寝ていたんだろう。 の手が、僕の傷を確かめて行く。その手つきに迷いはなかったから、もしかするとが手当てをしてくれたのかもしれない。……さっきまで、傍にいてくれたみたいだったし。 急に、胸を締め付けられたような痛みが走る。の顔を、上手く見れない。は僕の手当てをしてくれた。でも、やっぱり僕から逃げようとしていた。それはつまり、と僕の関係があの日からなにも変化していないということだ。 留三郎にとっとと謝れと言われたけれど、僕もそれしかないと思っていたけれど、いざとなるとやっぱり怖い。謝ろうとしても、はまた僕から逃げてしまうかもしれない。 「……あの、」 ずっと黙っているわけにはいかない。勇気を出して、に話しかけた。 「今まで、僕の傍にいてくれたの?」 「…………うん」 の手が、僕から離れる。はもう心配そうなものじゃない、無表情にと努めてるみたいな顔だった。その唇が、ぽつりと動く。 「……最後かもしれないって、思ったから」 「最後、って、なにが?」 「後で食満が来るって言ってたよ」 は僕の問いに答えることなく、俯いて立ち上がろうとする。その腕を、咄嗟に掴んだ。 「待って! ……ごめん、その……は、話を聞いて欲しいんだ」 この前みたいに泣かれてしまったら。逃げられてしまったら。そう思うと、鼓動が一気に速くなる。は僕に掴まれた手と僕の顔を見て、それからまた腰を下ろしてくれた。 「……うん。私も、伊作君に言わなくちゃいけないことがあるの」 は座り直して対面に正座すると、僕と目を合わせた。僕よりも少し視線の低いその目元は、微かに赤くなっていた。泣いたみたいに。 「……」 「ごめんなさい」 名前を呼んだ途端、の頭が下げられる。思いもしなかった言葉に、僕はどうすればいいか分からず押し黙る。はなにも言えない僕の前で、ゆっくり顔を上げた。 「私、伊作君に失礼なことしたよね」 「えっ……」 「せっかくくれようとしたものを受け取りもしないで、いきなり泣いて逃げて。ごめんなさい」 その謝罪がこの間のことだということは分かっていたけれど、まさかから謝られるとは思わなくて、正直どうすればいいのか分からなかった。だって、僕から謝る気満々だったから。 はそれきり、口を閉じてまた俯いてしまう。その手が、膝の上でぎゅっと握り締められていた。 「……謝るのは、僕のほうだよ」 は理由もなく怒る子でも、泣く子でもない。と出会った一年生のときから数えて、今年で六年目。僕が覚えている限り、はいつも穏やかに笑っていた。そういられるように努めていた。そのを追い詰めて泣かせてしまったのは、間違いなく僕のはずなのだから。 留三郎に言った通り、なぜが僕から逃げたのかは分からない。でも、このままにしておくのは絶対に嫌だ。きちんとと向き合って、話がしたかった。たとえ許してもらえなくても。元の関係に戻れなくても。 「。僕のこと、怒ってくれても蔑んでくれても構わないから」 が逃げて行ってしまうことを考えたら、そんなことはなんでもなかった。 「だから、僕の話を最後まで聞いてくれる?」 は少しの間僕の言葉を噛みしめるように時間を置いて、それから小さく、頷いてくれた。 「うん。聞くよ」 「……ありがとう」 ほっとして、緊張に強張っていた身体から少し力が抜けた。でもこれからが本番だ。土下座でもなんでもして謝ってこい、という留三郎の言葉が今一度頭を過ぎる。そうだ。謝って、きちんと理由を聞かなくちゃいけない。 「僕、怒ってくれても蔑んでくれても構わないからって、言ったよね」 「……うん」 「その、すごくすごく申し訳ないんだけど、僕……実は」 はじっと、ただ静かに僕を見ている。だけど膝上の手が、またぎゅっと強く握り締められていた。言わなくちゃいけない。気合を入れて頭を下げた。 「ごめん、教えてください!」 「え?」 「ずっと考えてたんだけど、がどうして泣いたのか分からないんだ。僕がなにかしちゃったんだってこと以外、なにも……、ごめん、だから、教えてください!」 しばらくの間、返事はなかった。おそるおそる頭を上げてを見ると、はなんだかきょとんとした顔をしていた。それから少し僕から視線を逸らし、一度、二度、瞬きをする。 「私ね、伊作君に悪気がないことは分かってたの」 「え……?」 は笑っていた。見慣れた優しいものではない、なんだか吹っ切れたみたいな寂しそうな笑顔。 「伊作君が、悪気があってしたんじゃないことは分かってるの。……本当だよ」 「……、ごめん、なんのことか」 「ねぇ、伊作君」 は少しだけ僕へと身を寄せた。それから、真っ直ぐに僕の顔を見る。 「伊作君は、まだ私のこと、好きでいてくれてるの?」 「え? ……まだっていうか、僕はずっと君が好きだよ」 今度はこっちがきょとんとする番だった。だってそんなこと、考えるまでもないことだから。は小さく頷いて、言葉を続ける。 「私、ちゃんと全部話すよ。だから伊作君も私の話を聞いてくれる?」 「……うん、もちろん」 緊張に少し身体が強張る。きちんと聞いて謝ろうと、心を決める。 も躊躇うような間を持ったあと、意を決したように口を開いた。 「私ね、見ちゃったの。……この間のお休みのとき、伊作君、町に出掛けてたよね」 あ、と。脳天に衝撃が走った。次いで、血の気が一気に下がる。 「私もそのとき買い物に行ってて、伊作君を見かけたんだけど……」 微かに震えているの声に、僕は打たれたように固まった。 「あの女の子のこと……、伊作君は好きなの?」 の誕生月を知ったのは、ずっと前だ。昔からが好きだった僕は、それにかこつけてなにか贈りたいなと思っていたけど、いきなり僕から贈ったらが気にするかなとか悶々考えてしまって、毎年時期を逃してしまっていた。 でも晴れて恋仲になれたのだから、もうそんな躊躇をすることもない。今年こそはとはりきって、僕は随分前から準備を始めた。とはいえ贈ることに躊躇はなくなっても、僕は仙蔵みたいに女の人との接し方に慣れているわけじゃない。女の人の……というか、の好みがどんなものかよく分からなくて、とりあえず女の人に人気の小物屋を巡ることから始めてみた。 そのときに顔見知りになったのが、あの女の子だった。 女の人用の帯や装飾品を中心に売っているお店の娘さんで、愛想がよくて話しかけやすかった。自分のあてにならない感覚よりお店の人に聞くのが一番だと思って、接客をしてくれたその子に、恋仲の子になにか贈りたいんだけどと相談した。 あれこれ教えてくれたけれど、一度では決められなくて、僕は町に出る度にその店に通ってなんにしようかと吟味した。あまりいいお客じゃなかっただろうけれど、その子はいつも嫌な顔をせず親身になっていろいろと勧めてくれた。その中に、あの飾り紐もあった。今女の人の間でとても人気で、質も良くてお勧めですよと言ってくれたけれど、やっぱり一度では決めかねて幾度か通った挙げ句、ようやくにそれに決めて購入した。 そのとき、僕の相談にずっと乗ってくれていたその子に、好きですと告白された。 幾度も足を運んだと言っても、僕は客でその子は店のひとだ。店の品以外のことでそう長く話した覚えはないし、無論店以外で会ったこともない。告白されたこと自体が迷惑ということではなかったけれど、僕にはがいるし、なにしろそもそも恋仲の子にあげるからと相談していたはずだし、この手のことにさほど経験もないしで、正直に言うとかなり対応に困った。 困惑した僕の様子に、その子は笑って言ったのだ。じゃあ、あなたのことは諦めるから、一度だけ私と恋仲らしいことをしてください、と。 今思うに、あの子は特別に僕のことを好いていたわけではなかったのだろう。もしかしたら、恋人に贈る品一つも決められない優柔不断な僕をからかいたくなったのかもしれない。とにかく上手いあしらい方が分からなかった僕は、ずっと相談に乗ってくれた恩もあって、その子に言われるまま頷いてしまった。 一度きりだと言われたから、手を繋いで逢い引きの真似事をして、不意を突かれて口付けまでしてしまった。罪悪感がなかったわけじゃないけれど、とするそれとは全然違っていたし、僕の頭の中はそのことよりもが受け取ってくれるかどうかということでいっぱいで、その他のことは正直どうでもよかった。その子に付き合った時間は、特に楽しくもなかったし、酷く不愉快でもなかった。 一刻ほど戯れに付き合った後、またお店に来てねと笑顔でその子は帰って行った。気付くともう日が暮れかけていて、僕は慌てて学園へと戻ったのだ。 なにはともあれ、ずっと悩んでいたへの贈り物を手に入れることが出来たから、僕はそれが嬉しかった。が喜んでくれるかどうかは分からないけど、なんだか今悩んでることも含めてすごく恋仲らしいなあと、片想いが長かったせいもあって、軽く舞い上がっていたのだと思う。 学園に戻ったときの僕の頭の中からは、もうあの女の子のことはほとんど消えていた。ただ少しの罪悪感だけを残して。 完全に忘れていたわけじゃない。留三郎に『後ろ暗いことがあるのか』と言われたときに一瞬浮かんだくらいには、良くないことをしてしまったと思っていた。だけどまさかが見ていたとは思いもしなかったし、の様子がおかしいことと結びつけようとしなかった。きっと今までのに対する僕の行動とか言動とか、そこに原因があると思っていたから。 自分でも分かるほどに、顔面から血の気が失せていく。視界が暗くなったような気さえした。 だってそれは、どう考えても……僕がを裏切ったことにしかならない。 「あれは伊作君だよね? それとも違うひと……?」 僕の様子で確信したように、は悲しそうな目で僕を見る。が僕から逃げたことや、それでもきちんと手当てをしてくれたことや、今目の前にいるの目元が赤いことや、それが全部僕に突き刺さってくる。 競り上がる自責の念に堪えられず、僕は咄嗟にその場に手をつき、頭を下げた。 「本当にごめん!」 謝った後で、はっと気付く。これじゃまるで、意図して浮気したみたいだ。慌てて弁解しようとすると、それより先にの声が落ちた。 「伊作君、あの子のことが好きなの?」 「嫌いです!」 「え?」 顔を上げて、と目を合わせる。咄嗟に嫌いと言ってしまったけれど、別に好きでもなんでもないんだから嫌いでも間違ってない。 「嫌い、なの?」 「き、嫌いとか好きとかじゃなくて、全然興味がないっていうか……」 「興味のないひとと口付けしたの?」 の声は責めるようなものじゃなかったけれど、消え入りそうにか細かった。 「違……、いや、それは違わないんだけど、でも」 説明しようにも、上手く言葉が出てこなかった。本意でなかったことは確かだけど、してしまったことは間違いない。 黙ってしまった僕に、はぽつりと口を開く。 「……伊作君はさっき、私のこと好きって言ってくれたよね。それは嘘? 本当は、あの子のほうがずっと好き?」 「違う!」 そのことだけは、誤解されたくない。身を乗り出して、の腕を掴む。が咄嗟に身を引きそうになるのを逆に引き寄せて、「違うよ」と繰り返した。 「、君が見たのは確かに僕だし、そのことについての言い訳はしないよ。でもお願いだから、これだけは知ってて欲しいんだ。僕は、君だけしか好きじゃない!」 たとえもうに嫌われてしまっていても、それだけは確かなことだ。 「女の子を好きになったのも、一緒にいて欲しいって思ったのも、だけなんだ。君が僕のことを好きって言ってくれたとき、本当に嬉しかった。君がずっと傍にいてくれたらすごく幸せだって思ってた。……今もだよ。僕は君一人しか愛してないし、一緒にいたいって思ってない」 「……伊作君」 「僕は、君のことが好きなんだ」 もう一度告白するように想いを伝えると、は少しの間を置いて、僕が掴んでいた腕を外す。拒絶されたかと思ったとき、の手が包帯まみれの僕の手を取った。両手で包み込むように握って、ゆっくり撫でてくれる。緊張に冷えていた手が、じんわりと温かくなった。 「私も、伊作君のことが好きだよ」 の声は優しくて、でもまだ少し震えていた。 身体から少し力が抜けた。一つ息を吐いて落ち着かせて、改めてを見る。視線を返してくれるの顔をきちんと見て、最初から全部話し始めた。 「……君に、贈り物をしたかったんだ」 変な言い訳にならないように、極力冷静に、嘘偽りなく話した。あの子との関係も、どうして逢い引きしてしまったのかも、全て。 は口を挟まず、ただ静かに聞いてくれた。ずっと僕の手を握りながら。 最後まで話し終えると、は躊躇いがちに口を開いた。 「……あの子の飾り紐は、伊作君があげたものではないの?」 「え?」 「私に、伊作君がくれようとした飾り紐。あの女の子も同じもの、持ってたように見えたから」 「…………へ? 同じものを持ってた?」 間の抜けた声になってしまった。無理矢理思い出してみると、確かにあの子は簪から帯からいろいろ装飾品をつけていた。だけどそれが全く同じものかと言われると、自信はない。 「ごめん、よく覚えてないんだけど……。あの飾り紐はその子の働いてるお店で買ったものだから……」 宣伝の一つで、お店の人がお勧めの品を身につけてみせるのはよくあることだ。そういえば勧めてくれたときに、『私も同じの持ってるんですよ。可愛くてお気に入りです』と言っていたような気もする。 それを伝えると、はぎゅっと僕の手を握る。 「伊作君、怒らないで聞いてくれる?」 「うん?」 「私、伊作君が私とあの子に同じものを贈ったんだと思ってたの。あの子が喜んだから、私にもついでにくれたのかなって」 「ち、違うよ!? さっきも言ったけど、君だけに贈ろうと思って、それで」 「うん」 それまで手を包んでいたの温もりが、すぐ傍にあった。柔らかなの身体が触れて、背にその腕が回される。咄嗟にこちらからも手を伸ばして抱き締めると、は一層僕に身を寄せた。 「私……、伊作君が別れたいって言ったらどうしようって悩んでたの」 「、ごめん」 「私以外の女の子、伊作君が好きになったらって……」 「ごめん」 言葉を詰まらせて、は僕の肩口に顔を埋めた。震える身体を、強く抱き締める。 今更ながらに、強い罪悪感が沸き上がる。は僕を好きだと言ってくれた。すごく嬉しかったのに、僕はそれがどういう意味なのか、本当はよく分かっていなかったのかもしれない。未だに、僕だけがを好きなのだと思っていたのかもしれない。 僕がもしの立場に立っていたら、ものすごく傷つくのは分かり切ったことなのに。 「ごめん。もう絶対しない」 「本当……?」 「約束するよ。絶対、しない」 が顔を上げて、少し僕から身を引いた。の目はちょっと潤んでいたけど、笑ってくれていた。の頬に指を伸ばすと、も僕の頬に手を伸ばしてくれる。自然に、額同士が触れ合った。 「……本当にごめん、」 「うん、もういいよ。伊作君が私のことだけ好きでいてくれたら、それでいいの」 近い距離で目を合わせて、は優しく許してくれる。安堵と共に、を傷つけてしまった罪悪感に胸の奥が締め付けられる。ごめん、と幾度も謝り、が、いいよ、とその度に頷いてくれるのを繰り返し、どちらからともなく微笑み合った。 「伊作君。あの飾り紐、もらってもいい?」 「え? い、いいよそんな……。そうだ、また新しく買ってくるから、なにか欲しいものがあったら教えてくれるかな。あ、なんなら二人で買いに行こう。次の休みにでも」 そもそもを傷つける原因になったものだし、そのままに渡すのは気が引けた。きっぱり捨ててしまって、に好きなものを選んでもらったほうがいい。そうだ、最初からそうすればよかったんだ。 「ううん、あれがいいの。伊作君が悩んで買ってくれたものでしょう?」 「そうだけど……」 「来年から一緒に買いに行こう。どっちの贈り物でも」 ね、とが笑う。僕は一瞬だけ迷って、それから頷いた。が言ってくれたように、が喜んでくれるだろうと、悩み抜いた末に選んだものだということは間違いない。がその僕の気持ちを大切にしようとしてくれたこと自体が、とても嬉しかった。 僕がを好きなことも、が僕を好きになってくれたことも、こうして二人で共にいられることも、すごくすごく幸せなのだと、今改めて思う。だからもう、を傷つけるようなことはしない。絶対に。 「伊作君」 額が触れ合った体勢のまま、が僕の名前を呼ぶ。なに、と応えると、は少し躊躇いがちに僕を見上げた。 「あの……お願いがあるんだけど」 「うん、なに?」 は一度口ごもってから、ゆっくりと言った。 「あの、口付けしてくれる?」 「え」 「……あの子より長く、してくれる?」 どく、と鼓動が鳴った。まずい。さっき青ざめたのと逆に、今度は顔に血が集まっていく。も少し照れて赤くなっていたけど、たぶん僕のほうが酷いだろう。 口付けが初めてなわけじゃない。深く触れ合ったこともある。でもなんだか、こんな場面でそんなことを言われるのは、そう、……すごく可愛くて、抑えが効かなくなりそうだった。 「……うん」 それだけを返事にして、の頬を撫でる。近かった顔をもっと寄せて、鼻先が触れ合った。 の目がゆっくり閉じる。 あとほんの少しで唇が重なる、そのとき。 「おい伊作、起きてるかー!」 すぱーん、と勢いよく戸が開く音と共に、空気をぶち壊す侵入者が現われた。 びくっとの身体が震え、反射的に身を離しそうになる。その頬を引き寄せて、少し無理矢理に唇を重ねた。急いて歯が軽くぶつかってしまったけれど、その柔らかな感触はすごく心地良い。あの女の子と交わしたものと決定的に違う。それはきっと、僕がを好きだからだろう。 衝立の向こうから、ばたばたと足音が聞こえてくる。唇を強く押しつけ、舌先だけのそれと一瞬絡め、ぎりぎりで離れた。 「よ、伊作。……なんだ、起きてんのか。叩き起こしてやろうと思ったのに」 「思ったより元気そうではないか、保健委員長」 衝立を押しやって、留三郎と仙蔵が姿を現す。その顔がどちらもにやにやしているから、邪魔してやったという確信があるのだろう。殴りたい。 「二人ともすごく邪魔なんだけど、帰ってくれない?」 「んなこと言っても、もう朝飯食いに行かないと授業間に合わねぇぞ。寝てたいんならそう伝えるけど」 「……いや、起きるけどさ」 「ごめん仙蔵、ちょっと手伝ってくれる?」 はもう何事もなかったかのように、仙蔵の手を借りててきぱきと僕の寝具を片付けている。恥ずかしがってる様子も特にないのは、女の人のほうがこういった場面に強いからなのだろうか。 僕も留三郎の手を借りて、夜着から忍装束に着替えた。今日は昨日の実習を考慮して実技の授業はないはずだ。座っていられないほどひどい怪我じゃないから、休むつもりは最初からなかった。……でも、あと少しくらい遅く来てくれてもいいのに。 「ていうか、どうして仙蔵もいるんだい?」 「ああ、俺が呼んだだけだ。俺だって無傷じゃねぇからな、お前が起きなかったとき、一人で部屋まで運ぶのは大変だろ」 至極当然のことを言ってるように見えて、留三郎はどこか愉しそうだった。僕の知らないなにかがあるのだろうけれど、今追求したところで絶対に言わないだろう。 「んじゃ、食堂行くか。久しぶりに温かい飯が食えるな」 「、お前はまだ医務室に残るのか?」 「ううん、一度部屋に戻るよ。手伝ってくれてありがとう、仙蔵」 「いや。……留三郎、私が代わろう。お前も足に怪我をしてるだろう」 「おう、頼む。不運発動して二人揃ってすっ転びたくねぇからな」 僕を支えてくれていた留三郎と代わって、仙蔵が手を取ってくれる。一人でも歩けることは歩けるんだけど、絶対に大丈夫だと断言出来るほどじゃない。その申し出はありがたかった。 仙蔵に先導してもらって医務室を出ようとしていると、後ろでが留三郎に声をかけているのが耳に入る。 「食満、昨日はありがとう。伊作君が夢遊病なんて知らなかったよ」 「いや、それも昨日限りで治ったみてぇだからな。よかったよかった」 「……二人とも、なんの話だい?」 「ほら行くぞ伊作、前を向いていないと蹴躓くぞ」 「あ、ごめん」 仙蔵に腕を引かれて廊下に出ると、すぐに留三郎とも続いて医務室から出てきた。は「それじゃあね」と軽く手を振って、僕らとは反対方向、女子寮のほうへと歩き出す。 その後ろ姿を、思わず引き止めていた。 「!」 「ん? なに?」 振り返るの姿に、さっきまでの悲しそうにしていたの顔やあのとき僕から逃げた泣き顔が重なってしまう。ぐっとお腹に力を入れて、口を開く。 「愛してるよ!」 勢いづいて大声で叫んでしまい、留三郎が目を点にして、隣の仙蔵が、く、と噴きだした。今気付いたけど、廊下の先に医務室に向かってきたのだろう新野先生もおやおやという顔で立っていた。でも今はそんなことに構っちゃいられない。僕はが好きだ。そのことなら、誰に知られても構わない。 はきょとんとして、それからゆっくり微笑んだ。嬉しそうに。 「私も愛してるよ、伊作君!」 終 |