| 『10000本の枝毛?』 (竹谷八左ヱ門) |
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日が昇りきっていない、薄暗い早朝。 長屋の他の部屋からはまだ人の起き出す気配もなく、しんと冷えた空気が身を包む。 ふわ、と一つ欠伸をして、八左ヱ門は掛け布団を払って起き上がる。寝起き特有の気だるさに小さく頭を振って目を覚ましてから、身繕いをしようと布団の端に手を伸ばす。昨日の夜取り払ってそのまま放り出していた髪紐を掴み、結い上げようと頭に手を伸ばしたとき、くい、とその髪を軽く引っ張られた。 「……ん? どうした、」 首を後ろに向けると、八左ヱ門と同じくまだ夜着姿のが、八左ヱ門の髪を一房手に取っていた。は「あのね」と膝を伸ばして、八左ヱ門と視線を合わせる。 「八の髪、梳いてもいい?」 そんなことでわざわざ了解など取らなくてもいいのに。こちらの反応を窺う表情のに、八左ヱ門は軽く微笑む。 「おう、好きにしろ」 「ほんと? ありがとう」 は嬉しそうに笑うと、制服の装束の中から櫛を取りだして、八左ヱ門の髪にゆっくりとその歯を入れる。 まだ早朝、時間にはかなりの余裕がある。邪魔にならないようにと、八左ヱ門は布団の上に座り直しての好きにさせる。 「俺の髪なんか梳いて楽しいか?」 「うん。八の髪は素直だから、櫛を入れるとすぐ綺麗になるしね」 の少し弾んだ声に、いや明らかにお前の髪のほうが綺麗だろうと思いつつも、それを口にすると照れるに違いないので、心中で思うだけに止めた。時折髪同士が絡み合って櫛の歯が引っかかると、の指が丁寧にそれを一本一本解いてくれる。 「ねえ八、最近はタカ丸さんになにか言われない?」 「いや、会うたびに説教される。髪への冒涜だとか、髪だって身体の一部なんだよとか」 「タカ丸さんは髪結いさんだもんね…………あ、枝毛。切ってもいい?」 「ああ」 ぱちんぱちん、と鋏の音がする。の指が髪を梳く感触が心地よくて、八左ヱ門は目を閉じる。の手つきは、本当に生まれたての赤子に触れるような優しいものだ。タカ丸が怒るような酷い髪なのだから、そんなに気遣わずに乱暴にやってもいいと毎回思うのに、はいつも痛まぬように、傷つけぬようにと労って梳いてくれる。 それが、嬉しい。が自分のことを大切だと思ってくれているような気がするから。 の指が触れる度に櫛通りが滑らかになって行く自分の髪に、八左ヱ門はふと気づいてを振り返った。は八左ヱ門の髪を手に取ったまま、「どうしたの?」と八左ヱ門の瞳を見上げる。 「……あのさ。俺の髪、綺麗なほうが好きか」 「え……どうして?」 「お前よく梳くじゃん、俺の髪。そっちのがいいか」 重ねて問うと、は不思議そうに言う。 「もしそっちのが好きって言ったら、八は手入れをしてくれるの?」 「する」 「……どうして?」 「お前に嫌われたくないから」 「…………」 あっさりと答える八左ヱ門には一瞬きょとんとしてから、軽く微笑んで櫛を置き、八左ヱ門の背に身を寄せる。 「?」 「……私は、八が八でいてくれるなら、どんなあなたでも構わないよ」 の手が首元に触れる。そっと髪がかき上げられて、うなじに優しく口付けを落とされる。 くすぐったさと気恥ずかしさに、顔に血が集まっていく。慌てて顔を前に向けると、は後ろから八左ヱ門に腕を回して、その肩に顎を乗せて頬を寄せる。 「それにね、八」 「ん……?」 「八はタカ丸さんにも髪結いをお願いしないのに、私には触らせてくれるでしょ? ……それがちょっと嬉しい」 「お前、無茶苦茶可愛いな」 素直に言った言葉に、は照れたのかびくっと身を引こうとする。すかさず回された腕を掴んでそれを阻むと、ちょっと焦ったような気配の後で、はゆっくり身体の力を抜く。の手を取って自分のそれと合わせながら、八左ヱ門は小さく笑う。 「髪だけじゃなくて全部持っていけ」 合わせた手のひらで、その小さな手を握り締める。 「俺の全部、お前にやるよ」 「よう。早いな、お前ら」 八左ヱ門が食堂に入ると、すでに同年の三人は机で朝食を摂っていた。 「……おはよう、八左ヱ門」 「……お前が遅いだけだろ、八左ヱ門」 「……八左ヱ門、早く食べたほうがいいぞ。遅刻する」 なぜか微妙な間を置いて言う三人を不思議に思いながら、八左ヱ門は軽く肩をすくめる。 「起きたのは早かったんだけどな、ちょっと準備に手間取ったんだ」 「知ってるよ」 「知ってる」 「知ってる」 異口同音に言われて、なんで知ってるんだと八左ヱ門が三人を見回しても、友人達は八左ヱ門をじっと見つめるだけでなにも答えない。まぁいいかと食券を引き換えに行く八左ヱ門に、三人は半眼でそれを送る。 「……まーた部屋に連れ込んだな、あいつ」 「八左ヱ門の髪、すごく綺麗になってるもんな」 「あいつ、自分から髪の手入れしないからな……毎回彼女に髪梳いてもらってるなんて容易に想像できるんだけど」 「さんも八左ヱ門も気づいてないんだろうね……すごく分かりやすいのに」 「ていうか、最近頻度多くないか」 「やめなよ三郎、さすがに失礼だよ」 ぼそぼそと言い合う三人の元に、朝食の盆を持った八左ヱ門が帰ってくる。三人にじとーとした視線を向けられて、八左ヱ門は「なんだ?」と軽く首を傾げる。その拍子に丁寧に梳かれた髪がさらりと肩から滑り落ちて、三人は一斉に舌打ちした。 「お前なんか枝毛だらけになれ」 「ほんと朝からいい加減にしろ」 「八左ヱ門はもう少し周りを見たほうがいいよね」 「はぁ!? なんなんだよ、なんで朝から駄目出し!?」 終 |