『10000回の不運の先に』
(善法寺伊作)


「なぁ、伊作。どうやったら、なにもない廊下ですっ転んで縁側から庭に落っこちてそのままの勢いで喜八郎が『自信作です』って豪語する特大のタコ壺に真っ逆さまに落ちた挙げ句に集中豪雨に見舞われて穴の中で遭難しかける、なんて芸当が出来るんだ?」
「…………不運だからだよ」

 あとこれは芸じゃないから。
 一気に状況説明してくれた留三郎にありがとうと礼を言う気にもなれず、僕は手早く雨に濡れた髪を拭う。放課後になって留三郎と共に男子寮に戻ろうとしたときに被った不運だ。まぁ留三郎と一緒だったのが不幸中……ならぬ不運中の幸いというやつなのだろう。留三郎が助けてくれなかったら、今でも穴の中にいたかもしれない。
「善法寺先輩、どうぞ。水汲んできました」
「ああ、ありがとう左近。ごめんね、仕事の邪魔しちゃって」
 衝立の向こうから顔を見せて、傷の処置用にと桶に張った水と医務室備品の手拭いを渡してくれる左近に苦笑すると、左近は「いいえ」と僕と同じように苦笑する。ぱたぱたとその隣に伏木蔵が並んで、「……はいー」と薬箱を差し出してくれる。
「ありがとう、二人とも。あとは自分でやるからいいよ」
「はい、なにかあったら言ってくださいね」
「……言ってくださいねー」
「うん、ありがとう」
 二人が委員の仕事に戻り、留三郎が察して医務室の入り口から見えないように衝立を立て直してくれる。それを確認して、濡れた上衣と腹掛け、それから袴を脱ぐ。細かな擦り傷はともかく、打撲が幾つかあるのが厄介だ。実技授業のときに苦労するだろうなと思いながら、水桶に手拭いを浸して絞り、手足を拭う。
「伊作、着替え持ってきてやろうか?」
「ん……いいよ、そんなに濡れてないからすぐ乾くと思うし。それより、背中見てくれないか? 目立つ傷があったら教えてほしい」
「あー……痣になってるとこがあるな。こことか痛くねぇか?」
「ちょ! 痛いに決まってるだろ!」
 あとこことこことここ、とぺしぺし叩かれるたびに、鈍い痛みが走る。どうやら背中も無傷とは言い難いらしい。
 やれやれと泥を拭き終えて、包帯と消毒薬を手にする。今日は医務室の番ではなかったのに、自身の怪我で来ることになるなんて今更だけど情けない。留三郎がなにも言わずに絞り直した手拭いで背を拭いてくれるのに感謝しながら、傷の処置を始めた。
「お前、他人よりも自分の怪我を治療する機会のほうが多いんじゃないのか?」
「そんなわけないだろ。どこかの用具委員長のほうがよく怪我作ってくるよ。……ああ、これ全治十日だな……」
 自分の怪我だと、他人のそれよりもなお見立てやすい。傷一つ一つの程度は軽いけれど、数が多いせいで全身が筋肉痛になったような重みを感じる。
「試験終わってすぐでよかったじゃねえか。怪我抱えて実技試験なんざ洒落にならんからな。……背中終わったぞ。俺でいいなら薬塗っとくか?」
「うん、ありがとう。ちょっと待って、打ち身用の塗り薬がここに……」
 と、薬箱の中身を出して目当てのものを探していると、衝立の向こうでぱたんと医務室の戸が開く音がした。誰だろうと反射的に意識を向けて、気配と足音ですぐに分かった。
 だ。
「あー……先輩ー……」
「ごめんね伏木蔵君、左近君。当番なのに遅れちゃって」
「いえ、大丈夫です。先輩が遅刻なんて珍しいですね」
 戸を閉める音と共に、が謝る声が聞こえる。……ああ、そういえばも今日当番だったんだっけ。
 医務室にいる理由が理由だけに見つかったらちょっと恥ずかしいなと思いながら、探していた薬を留三郎に手渡した。隠れているわけにも行かないし、声をかけなくちゃと思っていると、「あれ」とふいに左近が不思議そうな声を出す。
先輩、髪濡れてますけど、どうされたんですか?」
「うん、さっき雨降ったときになんか集中的に浴びちゃったの。あと、泥に足とられて転んじゃって」
 の言葉に、思わず苦笑した。ああ、もいつもの不運だ。
「それで、一度寮に帰って水浴びと着替えしてたら遅くなっちゃったの。ごめんね」
「……先輩はー、タコ壺には落ちなかったんですかー……?」
「タコ壺? ……えーと、今日は昼休みにしか落ちてないけど、どうして?」
 伏木蔵の問いに、がきょとんとした声で答える。衝立の向こうで見えないけれど、じいっと左近と伏木蔵がこちらに視線を向けているのが分かる。極めつけに、背に薬を塗ってくれている留三郎が、ぼそりと後ろから囁いた。
「……似たもの夫婦」
「う、うるさいよ留三郎!!」
 思わず叫んでしまって、気づいたときには遅かった。ちょっとの沈黙を置いて、が「あれ、伊作君?」と名前を呼ぶ。仕方ない。含み笑う留三郎から塗り終えた薬入れを受け取って、衝立の向こうに声をかけた。
「うん。ちょっと怪我しちゃってね。留三郎に手伝ってもらって傷の処置してるんだ。……あ、大した怪我じゃないから心配しないで」
 なら気にしてくれるだろうからと付け足したけど、の気配が戸惑ったものに変わる。案の定、
「怪我って、どこに? 大丈夫?」
 すごく心配そうに聞いてくれるから、ああ怪我なんて言わなければよかったなと後悔する。とは言っても、嘘を吐いてもきっとすぐにばれてしまっただろうけど。
「うん、ほんとに大丈夫だよ。ただの擦り傷だから……」
「嘘吐けよ、全身青痣だらけのくせに。相手だからってかっこつけんな」
「ちょ、留三郎! なに言って──!」
 慌てて否定しようとしたけど、そのときにはすでにが衝立のすぐ傍まで近づいてきていた。僕がなにか言う前に、真剣な声で。
「伊作君、私に診せてくれる?」
「あ、いや……、ほんとに大した傷じゃ」
「診せてくれる?」
 繰り返されて、一瞬迷った後頷いた。僕と同じかそれ以上に、は他人の怪我に対して敏感だから。断ったら、たぶん今度は実力行使になってしまうだろう。それはそれで大人気なくて情けない。
「うん、分かったよ……。でもちょっと待って」
 声をかけて、ゆっくり立ち上がる。上はともかく、さすがに下帯姿は見せられない。まだ濡れているけれど仕方ない、手早く袴を穿いていると、留三郎が横からじっとなにか言いたげな視線を送ってきた。
「……なに、留三郎」
「いや、似たもの夫婦なのにそんなことに気ぃ使うのかと思っただけだ」
「だーかーらー!!!」
 夫婦とか! 似たもの夫婦とか言うな! が困るだろ!?
 留三郎に小声で詰め寄っていると、後ろから「もういいかな?」とが尋ねる。慌てて留三郎から離れて、その場に座る。一瞬怪我のことを忘れて無茶な動きをしたせいか、ずきっと下半身に鈍い痛みが走った。
「伊作君……?」
「ん、うん、もういいよ。……留三郎、の前で変なこと言うなよ」
「へーへー」
 明らかに適当な返事の留三郎を睨み付けたとき、が衝立の向こうから姿を見せた。僕と留三郎に挨拶するように微笑んで、それから僕の身体に目を向けて眉をひそめる。足は袴で見えないだろうけど、特に腕は頭を庇ったせいで傷が多いから。
「……どうしたの、こんなにたくさん」
「あー……いやその……」
 正直に理由を言ったところでは呆れたりしないだろうけど、やっぱり情けない。言葉に詰まってると、留三郎が代わりに答えた。僕の前に座るに、ただ一言。
「ただの不運だ」
「…………うん」
 確かに、それ以上に的確な言葉はないけどね……。
 思わずそのまま肯定してしまったけれど、は「そう」と小さく頷いただけだった。手を伸ばして、僕の傷を診るために腕に触れてくれる。その途端予想していなかった冷たさが伝わって、思わず反射的にびくりと震えた。
「あ、ごめんね。さっき水浴びしてたから……」
「雨に降られて転んだんだったか? お前も大概不運だよな」
「うん。怪我しなかっただけマシだね」
 留三郎の言葉に苦笑しながら、がそっと傷を診ていく。さっき左近と自身が言っていた通りに、の髪は濡れている。水が滴るほどじゃないけど、しっとりと水気を含んだ髪にちょっと鼓動が早くなる。
「食満も一緒だったんだよね? どこか怪我してない?」
「ああ。俺は立て続けに不運に襲われる伊作を見てただけだからな」
「……はあ。今度から見物料取って委員会費の足しにしようかな……」
「きり丸に言えば乗ってくれるぜ、きっと」
 からかう留三郎とくだらない会話を交わす間に、の少し冷たい手が僕から離れた。そのまま自然に、は僕の腕の手当をするために薬と包帯とを取り上げてくれる。
「伊作君、足のほうは?」
「足はさっき自分でやったから大丈夫だよ。背中も留三郎にしてもらったから」
「うん、分かった」
 頷いて、は慣れた手つきで僕の傷を一つ一つ丁寧に処置してくれる。僕の腕に触れているからか、の冷たい手にも少しずつ体温が戻ってくる。それがなんだか、少し嬉しかった。
「伊作君、この怪我はどうしたの? 傷の具合から見ると、穴に落ちたのかな」
「そう、喜八郎が掘ったタコ壺にね。ちゃんと目印つけてあったらしいんだけど、縁側から庭に落っこちたせいで見えてなかったんだ」
「あ、さっき言ってたのそのことだったんだね。私も昼休みに薬草園の手入れしてるときに落ちたよ。お日様の位置確認してて、下を見てなかったから」
「……まあ、僕の場合はもし目印が見えてても避けられたかどうか疑問だけどね」
「ああ、それよくあるよね。用心縄に気づいたのに足を止められなくて引っかかるなんてしょっちゅうだから。……これ昨日のことだけどね」
「昨日は食堂の手伝いで魚捌いてるときに猫に引っかかれたなあ」
「この手の傷、もしかしてそのときの? 爪痕の形してるね」
「うん、そうだよ。猫って本気になると痛いよね」
「……なぁ」
 といつものように話していると、それまで黙っていた留三郎が突然に口を挟んだ。視線を向ける僕とを交互に見て、それから怪訝そうに顔をしかめる。
「……なんでお前ら、そんなに不運なんだ?」
「………………」
「………………」
 僕とは無言で顔を見合わせてから、もう一度留三郎に視線を戻した。
「保健委員だから」
「保健委員だから」
 異口同音に言うと、留三郎は「……そーだな」と呆れ顔になる。そしてさらに呆れたように、
「それ分かっててなんで保健委員やってんだよ、お前ら」
 留三郎の言葉に、は何も言わずに微笑んだ。まあ、は将来薬師になるって夢があるからなんだけど。
「……よく言うよ。下級生の頃から、委員会決めのときにいつだって僕に保健委員を押しつけてたくせに」
 委員会も上級生になれば、長く所属していた委員会をそのまま継続するほうが楽だし、他の委員に迷惑をかけることもない。それもあって今までなし崩し的に保健委員なんだけど……一年生の一学期、あの委員会決めの会議のときにもし保健委員じゃなかったら、もしかしたら僕は不運じゃなかったのかなと、たまに思う。
「まぁ、保健委員でも不運でもない伊作なんか想像つかないけどな」
 からかうように笑う留三郎にちょっとムッとしつつも、実際その通りだと自分でも思うのだから仕方ない。
 ……それに、
「私は、伊作君が六年間保健委員でいてくれて嬉しいよ。だからずっと一緒にいられたんだし。不運でもいいの」
 隣からの声に視線を向けると、が微笑みながら「ね?」と僕の顔を覗き込んでいた。
 ……そう。僕にとってもそれが大事だから。
「お前ら、ずっと不運でいるつもりかよ」
 ますます呆れた様子の留三郎の言葉に、僕とはもう一度顔を見合わせる。
 少し前に、に聞いたことがある。『僕は卒業しても不運かもしれないよ』と。そのときは『それは私もだよ』と言ってくれて、……それから今みたいに優しく微笑んで、


「ずっと不運ってことは、今までと全部同じってことでしょう?」
「それはつまり、幸せってことだろう?」


 あのときと同じようにの後に続けると、留三郎は酷く嫌そうな顔になった。なにかを言おうとして言えないようなそんな仕草を繰り返し、それから最後にはやれやれと。


「ご馳走様」


 そう言って、その場から立ち上がって医務室を出て行った。









 終