| 『10000回落とされる』 (綾部喜八郎) |
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どすーーーん、と。お決まりの衝撃が身体を襲う。 また喜八郎の穴に落とされた。 「………………」 私はとりあえず、抱えていた本にかかった砂をいつものように手早く払う。本に汚れがないか確認して、その次に自分の身体に異常がないかを調べる。 足……大丈夫。手……大丈夫。 お尻も腰も背中も、衝撃以上の痛みはない。 あまりに慣れたことなので、ここまでは全て反射的な行動だ。 とにかくまずは被害が最小であったことに安堵して、それからすうっと息を吸った。 「喜八郎ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!」 「なにー?」 だ、か、ら。 「なにーじゃないわよ!!!」 叫ぶ前に掴んでいた小石を全力で投げつけると、穴を覗き込んでいる喜八郎は表情も変えずに、いとも容易く弾いてみせた。しかも弾かれたその小石がぺしんと私の頭に跳ね返り(意図的か?)、ただでさえのいらいらむかむかが急上昇する。 ようし、真剣勝負だ。 「喜八郎さん、ちょっとこっちに降りてきてくれませんか。……てゆーか殴らせろ」 「、なに怒ってるの?」 きょとんと小首を傾げる仕草が憎らしいほどに可愛らしくて、ますますますます腹が立つ。顔が良ければ全て許されると思ったら大間違いですよ。 「どうしてとはまた不思議なことを言いますね、喜八郎さん。どうして? ……ど、う、し、て、じゃないでしょうがーーーーーーー!」 叫ぶと同時に再び小石を投げつけると、喜八郎は今度は余裕の動きで避けてみせた。ふわっと舞う髪をすり抜けて、小石は穴の外に吸い込まれていく。 「ちょっと、なんで避けるの!?」 「……またに当たったら可哀想だと思って」 「ほほー? つまり、穴に落ちる私は可哀想だと思わないんですね? そうなんですね!?」 ぎゃーぎゃー叫んでいる私に、喜八郎は無言で腕を差し伸べた。……確かに、このままここで叫んでいてもしょうがない。仕方なしに一度口を閉じて喜八郎の手を借りて──腹が立つからちょっと爪を立てて掴んで──私はようやく穴から出た。 「それで、喜八郎さん。なにか言い訳があるなら今のうちに聞きましょうか」 私は穴の隣に正座して、抱えていた本を懐へとしっかり仕舞う。今後の喜八郎の発言によっては、少し暴れることになるかもしれない。 「言い訳? どうして?」 「うん。とりあえず座りましょうか」 言葉と視線で促すと、喜八郎はきょとんとしつつも素直に私の前に座る。穴の隣で向かい合う、私と喜八郎。傍から見たらきっとすごく変な光景だけど、躾は悪いことをしたときにすぐやらないと意味がない。 私と喜八郎は恋仲だ。たまになんでこんなわけの分からない男が好きなんだろうと自分が不思議になるけど、とにかく私は喜八郎が好きだし、喜八郎も基本的には私を大切にしてくれていると思う。けど。 「私、喜八郎と約束したよね? 穴に落とすのは、」 「一日三回まででしょう?」 「じゃあ、どうして今日に限って五回落とすわけ……?」 すぐに三本の指を立ててみせる喜八郎を、身を乗り出して睨み付ける。 喜八郎は他人を穴に落とすのが大好きだ。それは知っているけど、いつもいつも落とされていたらこっちの身が保たない。だから私を狙って落とすのは一日三回まで、ということで合意していたのだけど。 さっき四回目に落とされたとき、喜八郎は「ごめん、数え間違えてた」と謝ったから、まあそういうときもあるだろうと私も許した。でもその後にまた落とされるとか、いくらなんでも分かってやってるでしょ、この穴掘り小僧いい加減にしろ! ……ということを口早に言うと、喜八郎は大人しく私の話を聞き、もっともですと言うようにこくこく頷く。その一応は反省したように見えなくもない姿に、私は逆に疑問に思う。そもそも、喜八郎が私を穴に落として反省するなんてまず有り得ない。 なにかおかしい。 じと、と探る視線を向けると、喜八郎はぱちぱちと瞬きをする。まだまだ視線を向け続けると、喜八郎は今度は少し癖のある髪を揺らして首を傾げる。 その様子に、なんとなくだけど分かった気がした。 「喜八郎……あんた、もしかしてすごく機嫌いい?」 喜八郎はなにを考えているか分からないときが多いけど、変な行動を取るときは(まぁいつも変と言えば変なんだけど)、大抵機嫌がとてもいいか悪いときだ。私もこいつとの付き合いは程々に長い。今、喜八郎は無表情でちょこんと大人しく正座しているのに、その頭の上に『♪』とるんるんした記号が飛んでいる気がする。 「喜八郎さん?」 「……機嫌、悪くはないよ」 ず、とまた顔を覗き込んで睨み付けると、喜八郎は僅かばかりに微笑んで頷く。 間違いなく上機嫌だ。 「吐きなさい」 「……なにを?」 「なんで機嫌がいいのか吐きなさいよ」 「……を穴に落としたからだよ」 「目ぇ逸らして言ってんじゃないわよ。なにか他にも理由あるでしょ? じゃなきゃ、ここまであんたが機嫌いいわけないじゃない」 喜八郎の両肩を掴んで逸らした視線を戻させると、喜八郎はしばし間を持った後、やんわりとした手つきで肩を掴んでいた私の腕を離した。 「僕はに嘘を吐かないから、本当にその通りだよ」 「いいから一から十までとっとと全部吐きなさい。私を穴に落とすのなんて日常茶飯事もいいとこでしょうが」 半眼になって言うと、喜八郎はまたしばし考えるような間を持った。喜八郎が私に嘘を吐かない、というのは確かに私が知っている範囲でその通りだ。でもそれ以上に、喜八郎は極端に言葉が足りないときがある。怪しい行動をしたときはきちんと説明させないと、後々酷いことになる。経験上。 「……うーん」 喜八郎は迷うように首を捻って、それからちらり、と私を見た。 「、怒らない?」 「……怒るようなことしてたら、怒るに決まってるでしょうが。それとも、なに? 私が怒るかもしれないことを機嫌よくやってんの、あんた」 「違う。でもはときどき、照れる代わりに怒るから」 あっさり言われた言葉に、一瞬言い返す台詞が思いつかずに口ごもってしまった。これではいけないと思い直して、無理矢理に口を開く。 「そ、それは、聞いてみなきゃ分からないでしょう」 喜八郎はもう一度「んー」と考える時間を持った後、意を決したのか真っ直ぐに私を見る。 「分かった。言う」 突然の真面目な雰囲気に、どきっとした。真剣な喜八郎に気圧されて、思わず膝の上の自分の手をぎゅっと握る。そ、そういえば私が照れるとかなんとか言ってたし、私が気づいてないだけで喜八郎はなにか私のために…… と胸をどきどきさせながら喜八郎の言葉を待っていたら、喜八郎は珍しく恥ずかしそうに頬を朱に染めて、ぽつりと言った。 「さっきので百回目……なんだよね」 ……はい? 「…………なにが百回目?」 意味が全然分からない。素で聞き返す私に、喜八郎はまたぽつりと言う。 「……と恋仲になってから、を穴に落とすのが」 そして、羞恥に耐えきれなくなったように、ふいっと私から目を逸らす。 ………………ほう。恋仲になってから、私を落とすのが百回目と。 「誰が照れるかぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!」 「ほら、そうやって照れ隠しに怒るから……」 「純粋に呆れてるだけですけど!?」 拗ねたように言う喜八郎に、思いきり叫ぶ。なんだ、その穴掘り小僧基準は!! 「百回目だからなんだって言うのよ! つまり私が百回落とされましたってだけでしょ!?」 ああ、数字にするとますます腹が立つ! ……ん、まてまて? ということは……、 「喜八郎。てことは、今日私が五回も落とされたのは」 「百回目が待ちきれなかったから、つい……」 「その頬染めた乙女みたいな顔やめなさいよ、似合いすぎて腹立つ!!」 しかも全然嬉しくない! 「大体喜八郎、あんたなんで私を穴に落とした回数なんて数えてんのよ!」 「毎日日記にそれだけ書いてるから」 「に、日記!? あのね、そういうのは付き合い初めの女子が口付けの回数とかでやるもんでしょ!?」 「……、そんな可愛いことしてるの?」 きょとんと言われて、不覚にも顔が真っ赤になった。やってないけど! 面と向かって可愛いとか言うな! 「やってないわよ! だ、だから、そういうのを野郎がやっても嬉しくないっていうかなんていうか、せめて恋仲になって百日目とかならともかく、えーと」 「……まぁでも、僕にとっては大事な記念だから」 すっぱりと私の言葉を切り捨てて、喜八郎は私に身を寄せる。突然に近づいた喜八郎の顔に、身体の動きがかちんと止まる。そのまま顎を引き寄せられて、柔らかな喜八郎の唇が私のそれに落ちる。不意打ちだったせいで、まったく抵抗できなかった。 少し啄むように触れた後、唇はすぐに離れた。口付けのせいでさらに真っ赤になっている私の顔をじっと見て、喜八郎は柔く微笑む。 至近距離のまま、そっと囁かれる言葉は、 「僕に百回落とさせてくれて、ありがとう」 そしてまた一つ、触れ合うだけの口付けが落ちた。 「……いやいや、やはりなにかおかしい気がするのですが」 口付けで削ぎ落とされたのか、瞬く間に気合いのなくなった私の頭を、喜八郎が嬉しそうに撫でる。 あー……もうなんでもいいや。 「とりあえず、明日からは一日三回に戻るんだよね?」 それだけ確認出来ればいいや……、という気分で聞くと、喜八郎はあっさり「うん」と頷く。 「大丈夫、ちゃんと明日からは約束守るから」 「それはどうも……」 はー、とため息を吐く私とは対照的に、喜八郎はとても楽しそうにしている。ぽんぽんと相変わらず玩具にするみたいに私の頭を撫でながら、 「次は千回目で、その次は一万回目だね」 「……はい?」 「をたくさん落としました記念」 「や、分かってるけど……ってかその記念やめようよ……」 千回? 一万回? そりゃ確かに、百回の次に大きいと言えば千回で、その次は一万回なんだろうけど。 ざっと頭で計算してみる。一日三回落とされるとして、雨の日とか外に出ない日とかも適当に考慮すると一年で千回、てことは十年で一万回のわけで。 「……十年後?」 十年で一万回。十年後は遠い気がするけど、それよりも十年後には『一万回』というとてつもない数字になるのかと思うと、そっちのほうに衝撃を受けた。 「は、僕が十年後にの隣にいないと思うの?」 私がちょっとげんなりしていたのを違う意味にとったのか、喜八郎が今日初めて不満そうな顔をした。……一万回も相当だけど、でも十年という年月もほどほどに長い。 「や、そうじゃないけどね……」 私は喜八郎が好きだし、喜八郎も私を好きでいてくれるのは分かる。でも、たった百回穴に落とされるくらいの間しか、私と喜八郎は一緒に過ごしていない。男も女も、心変わりは世の常だと、経験はしていないけど噂では聞く。 ……ああ、心変わりされるのもするのも嫌だなあ。 私が曖昧な言葉しか言わなかったのが気に食わなかったのか、喜八郎はすっと目を細める。 少し強い口調で、 「僕は、死ぬまでの隣にいる未来しかいらない」 「……喜八郎さん、ちょっと早まりすぎじゃないですか」 嬉しいというよりやや唖然として言うと、喜八郎は不思議そうな顔になった。 「どうして? は僕とずっと一緒にいるのが嫌?」 「……嫌じゃないよ」 「じゃあそういうことで」 決まった、と喜八郎はさっさと立ち上がり、私に手を差し伸べる。 喜八郎の手を反射的に握ると、そっと優しい動きで立ち上がらせてくれる。それは、いつも穴に落ちた私に伸ばされる腕と同じもの。 たまに、掴み所のない飄々としたこの男がいつか私に飽きるのではないかと、不安になることがある。 それでも喜八郎は今は確かに私を好きでいてくれて、十年後も……そして死ぬまで私と一緒にいたいと言ってくれている。ならば、私はその喜八郎の言葉と、自分の想いを信じるだけだ。 「だから、一生僕の穴に落ち続けてね、」 手を繋いだまま言われた言葉に、即答は出来なかったけど。 少し時間を置いて頷くと、喜八郎は嬉しそうに微笑んでくれた。 穴に落とされる云々は不本意だけど、もう仕方ない。 だって私は、結局喜八郎のことがとても好きなのだから。 このときの言葉が喜八郎なりの求婚だったと私が気づいたのは、それから五百回ほど落とされた後だった。 終 |