| 『竹谷八左ヱ門』 | |
孫兵が風邪を引いた。 熱はさほど高くなく、数日寝ていれば治る軽いものらしいが、さすがに布団から動けず医務室で寝かされているらしい。 その連絡を受けてまず一番に酷くないことに安堵したが、次にそれが示す事柄に気づいてぎょっとした。孫兵が動けないということは、つまり委員の手が足りなくなったということでもあるのだ。 もともと冬場はほとんどの虫達が冬眠するから世話は楽なのだけど、そうたかをくくって昨日、一年生達に『お前ら、明日は休んでいいぞー』と言ってしまったのだ。生物委員は命を預かる仕事だから、休みはほとんど一日もない。仕事の少ない冬場くらい、たまには一年生を休ませてやらなければという配慮だったのだが、その矢先にこれだ。勿論孫兵が悪いわけじゃないが、休みだと嬉しそうにしていた一年生達を呼び集めるのは可哀想だ。 ──しゃーないか。 たまには全部自分でやるのも悪くない。特に孫兵はその嗜好から危険な毒虫や毒蛇などの世話を一手に引き受けているから、多少任せきりにしてしまっている部分も少なからずある。上級生として、時折全体を把握しておくのも仕事の内だろう。 助っ人として兵助に来てくれるよう頼んだし、まあなんとかなるはずだ。急げば、ぎりぎり晩飯が食べられる時間には終わるだろう。 授業が終わり放課後になるやいなや、急いで飼育小屋に向かった。 とりあえず餌やりと掃除、それから次の餌の用意、ああそういえばもうすぐ繁殖期に入る奴が何匹かいたからそろそろ雄雌で離しておかないと……とこれからやることを考えながら、小屋の一つの鍵を開けようとした。 「竹谷……?」 突然に躊躇いがちに名を呼ばれて、反射的に振り向いた。その先にいた女子生徒に気づいて、一瞬持っていた鍵を落としそうになった。それから、ぱっと心が明るくなる。 「おー、。どうした?」 声をかけると、はほっとしたように微笑んで、俺のところまで駆け寄ってくる。。傍から見れば俺と多少仲の良いくのたま、という以上の接点は特にないが、とりあえず俺にとってはそれだけじゃない。簡単に言えば惚れた相手だ。 「ごめんね、委員会の仕事中に。……あれ。竹谷、一人なの?」 きょとんと、が辺りを見回す。は前の夏休みに実家が近いからと生物委員の手伝いをしてくれたので、委員達とも顔見知りだ。だから、俺一人でいることが不思議なんだろう。 「んー。あいつらちょっと遅れてくるんだ。授業が長引いてるらしいからな」 俺がそう言うと、はなぜか少し顔を曇らせた。 ……は、可愛い。惚れた欲目もあるだろうけど、実際男連中でくのたまで誰が一番可愛いかなんて話になったら、まず間違いなく首位に上ってくる。少し幼めの、なんというかこっちがすみませんでしたとつい謝りたくなるような、清らかな可愛らしさだ。 だから、顔を曇らせたその表情でさえ魅力的だ。こいつほんとに可愛いなーとどこか冷静に惚れた女を見ながら、俺は尋ねる。 「それで、どうした? 俺になにか用なんだろ」 「うん。……あのね、忙しいのに申し訳ないんだけど、ちょっとだけ時間もらってもいい?」 どこか不安げにに問われて、俺はすっぱりと今日晩飯を食うのを諦めた。委員の仕事も大切だけど、惚れた女だって大切だ。 「ああ、気にすんな。なんだ?」 そう答えると、はちょっと安心したように微笑んだ。それでもまだなにか不安なのか、俺の顔色を窺うようにそっと見上げてくる。 「あの、竹谷にお願いがあるんだけど」 「おう」 よし、なんでも言え。俺に出来ることならなんでも言え。笑って促すと、はどこからか小さな包みを出してきた。明るい配色の、綺麗な包み。 「これなんだけど」 「ん? なんだそれ」 「お菓子、調理実習で作ったの。あ、毒は入ってないから」 慌てて言われて、へえ珍しいと俺は思う。毒じゃないとすると、なんだ。 「じゃあ、下剤か?」 「ち、違うよ! そういうんじゃなくて──」 下剤でもないのか。毒でも下剤でもないとすると。 「……あ、じゃあ炸裂弾か! それともなんかの死骸とか」 「なんにも入ってないから!」 いきなり大声で遮られて、驚いた。思わず口を閉じると、はうう、とどこか泣きそうな顔で俺を軽く睨みつけている。うわ可愛い。じゃなくて、どうも言ってはいけないことを言ったらしい。 「……ごめんな。中になにが入ってるのか当てろってことかと思って」 「そんなの、わざわざ竹谷に頼みに来たりしないよ……」 しょぼん、とどこか気落ちしたようにが言う。そりゃそうだ。茶化したつもりはなかったが、どうやら傷つけてしまったらしい。 「ほんと悪い。俺、勘違いしてた」 慌てて謝ると、はハッとなにかに気づいた顔になってから、悔やむようにちょっと俯いた。 「ううん……私達、いつも男子にそういう態度取ってるもんね。ごめんなさい」 なぜかお互い頭を下げ合う。いや、はそんなことはしないんだけど。 「えっと……それでね。これ、中になんにも入ってないし、その……たぶん美味しいと思うから」 ぎゅっと気合を入れるように、は菓子が入ってるらしい袋を俺に見せる。 「もしかして、お前の手作り?」 それに気づいて、ちょっと動揺した。正直、毒が入ってても欲しい気がする。 「うん。ごめんね、あんまり形はよくないけど、ちゃんと味見もしたから」 しかも俺にくれようとしているような流れに、さらに動揺した。 夢か? 幻か? 三郎か? 「……竹谷? どうしたの?」 「い、いや。それで、その菓子がどうかしたのか」 不思議そうなの顔。いくら三郎でも体格までは誤魔化せない。その華奢で女らしい体つきは、少なくとも絶対に三郎じゃない。 かなりの期待を抱きながら、それでも平静にと努めて聞くと、はちょっとはにかんだように笑う。 「うん。これね、……もしよかったら、竹谷、もらってくれない?」 ──夢か幻か三郎か。はっきり言って、もうどれでもよかった。 「もらう」 「え、いいの?」 俺の即答に、は少し驚いたように聞き返す。 「俺にくれるんだろ?」 「うん。……あ、でもちょっと待って竹谷! 話聞いて!」 「分かった」 「あのね、これくの一教室の実習でね、それで」 「分かった」 「それで、このお菓子のお礼、なにかもらわなきゃいけないんだけど……」 「分かった」 「嘘! 絶対話聞いてないよね!? お願いだから、ちゃんと聞いて!」 「聞いてるってば」 一刻も早く欲しいという理由だけで即答しまくったのを、は適当に返事をしたと思ったらしい。ちゃんと全部聞いて即答したんだけど。実習でも対価が必要でもなんでもいいのに。 「ほんとに? お礼もらわなくちゃいけないんだけど、聞いてた?」 「聞いてた。なんでもやるから、俺にくれ」 業を煮やして手を差し出すと、は一瞬俺の様子に気圧されたようにして、それからおずおずと俺に菓子を渡してくれた。なんだか心配そうな顔で。 「……竹谷、もしかしてすごくお腹空いてるの……?」 俺、お前の中でそんな認識か。 まあどうでもいいやと、に渡された菓子をすぐに仕舞った。 その俺の様子がすごく不思議だったらしく(俺の気持ちにもし気づいていたら、不思議でもなんでもないはずだけど)、はまじまじと俺の顔を窺ってから、それからほっと微笑んだ。嬉しそうに。 「……ありがとう。実習だったからちょっと緊張してたの」 「お前、こんなんで緊張するのか」 思わず言ってしまうと、がきょとんとする。もしかしてこいつ、自分の容姿にさほど自覚がないのだろうか。俺は確かにに惚れているけど、こいつならどの男に渡そうとしてもまず断られないだろうに。 まじまじを見ていると、はちょっと拗ねたようにする。 「そりゃ緊張するよ。お礼もらってこなきゃいけないんだし。……そう、それで、お礼なんだけど」 「ああ。お前、今なにが欲しい?」 「……え?」 「礼ってなんでもいいんだろ? 欲しいものやるよ」 な、と笑うと、はかちんと固まった。……なんか悪いことでも言っただろうか。 この実習は、ようは男にどれほど貢がせられるかということだろう。なら、別に変なことは言ってないはず……だけど。 「……俺、またなんか勘違いしたか」 「そ、そんなことないけど! でも、なにかいらないものでいいの。欲しいものをわざわざくれなくても」 「なに言ってんだ。女から手作りの菓子もらって、はいそーですかって適当なことできるか。大体これ授業なんだろ」 「……そうだけど……いいの?」 「いいって言ってるだろ。なにが欲しい?」 再度尋ねると、はほんの一瞬言葉に詰まって、それから口早に言った。 「か、髪紐! 赤色のがいい」 「……ああ、分かった」 頷くと、は照れたように微笑んだ。髪紐は高いものじゃない。色まで指定してくれるのは、たぶん俺が迷わないようにだ。……こいつ、容姿もいいのに性格もいい。さすが俺の惚れた女だなと、自分の手柄じゃないくせに嬉しくなった。 「明日の夕方、餌の買出しに町に行くから、明後日に渡してもいいか?」 「うん、全然問題ない! ……ありがとう、竹谷」 「いや。……なぁ、」 ん? と小首を傾げるに向けて、軽く笑った。 「俺、女になにかもらうのも、なにかやるのも初めてだ。……ありがとな」 「……っ!」 言った瞬間、の顔が朱に染まる。それからゆっくり、ちょっと躊躇いがちに微笑んだ。 「うん。……ほんとにありがとう、竹谷」 「じゃあ、俺委員会の仕事があるから」 またな、と小屋の鍵を取り出してに言うと、ん、とはちょっと迷った顔つきになった。もしかしてまだ俺に用があるのだろうか。正直すごく幸せな気分だったので、もうなんでも付き合う、こうなったら今日は晩飯どころか寝なくても構うもんかと覚悟しかけたとき、が少し困ったように微笑んだ。 「竹谷、嘘なんでしょう?」 「……なにが?」 言われた意味が本気で分からず問い返すと、はゆっくりこっちに近づいてくる。じっと、俺の顔を見上げて。 「委員の子が後から来るなんて、嘘でしょう?」 なんで。絶句してしまったことで、肯定になってしまった。即座にそんなことないと言えばよかったのに。 「さっきね、ここに来る前に一平君に会って、竹谷はどこにいるか聞いたの。……お休みなんでしょう、一年生」 「……ああ。でも嘘じゃない。今はそんなに仕事もないし、孫兵だっているし──」 「孫兵君は、医務室だよね?」 ──う。なんでそこまで知ってるんだ。 焦る。このままではまずいと思うのに、ごまかせそうな言葉が出てこない。は、別に嘘を吐いたことを怒ってるわけじゃないだろう。単に……俺の意図を見抜いてるだけだ。 「私、手伝うよ」 「いい。お前、生物委員じゃないだろ」 「でも他の人よりは知ってるよ。……ね、手伝わせて」 ああそうだ、分かってた。さっきも言ったがこいつは性格が良いから、困ってる人間を放っとけないんだ。だから隠そうとしていたし、……なにより情けないところを見せたくなかったのに。 「竹谷だって、私が困ってたら助けてくれるでしょう?」 ね、とは微笑む。そりゃそうだ。俺はこいつのことが好きだから、なんでもしてやりたい。でもこいつはそうじゃないし── 「竹谷……駄目かな」 じっと。俺を見上げているの瞳が柔く揺れる。不安そうな、気落ちした表情。ぐさっと罪悪感がこみ上げてくる。そんな顔すんな! と叫びたいのを堪えて、嘆息した。……正直、申し出自体は有難いし、と長く一緒にいられるならそれはそれで幸せなことに違いはない。 「……分かった。悪い、手伝ってくれるか」 「うん!」 ぱちん、とは軽く両手を叩き合せて、満面の笑みを浮かべた。その至近距離の笑顔に、否応がなしに心を奪われる。 「私、どこをすればいいかな!? 孫兵君のところ!?」 「あ、馬鹿、毒関係には近づくな! ウサギとネズミから頼む!」 「うん分かった!」 小動物の小屋の鍵を差し出すと、は幼子のように楽しそうな顔でそれを受け取り、「じゃあ、終わったらまた聞きに来るねー!」と駆けて行った。 ぱたぱたとが去って行ってから、うわ、と今更ながらに顔が赤くなる。なんであいつあんなに可愛くていい奴なんだろう。さすが俺の惚れた女だともう一度思いながら、小屋の中に入って、俺も手早く仕事を始める。 ……ということはだ。今日長い間一緒にいることができて、お礼を明後日に渡すから、その時も会える口実がある。俺、もしかしてものすごく幸せ者かもしれないなあ、とすごく嬉しくなる。惚れた女に実習とはいえ手作りの菓子もらって、そのお礼を渡せて、しかも委員の仕事を手伝ってもらって。なにより二人きりというのがいい。小動物の世話は頼んだし、俺は先に孫兵の管轄を終わらせて、まだ手伝ってくれるなら一緒に馬小屋に── とそこまで浮かれた気分で考えていると、こちらに駆けて来る足音に気づいた。だろうか。どうしたのかと立ち上がったとき、ばしんと強い勢いで小屋の扉が開く。 「悪い八左ヱ門、遅くなった! 当番がなかなか終わらなくて、ごめんな」 ……ああ、そういえばそうだった。 走ってきたせいなのか、なんかいつもより顔が真っ赤な兵助に、俺は反射的に手を払っていた。 「すまん兵助、お前もういいや」 「え!? 来た途端に、なに!?」 終 |