| 『七松小平太』 | |
「うーん……」 実習概要の説明が終わり、さて誰を相手にしようかと考えながら、私はあてもなく学園内を歩いている。 手の中にあるのは、綺麗な包装紙に包まれたお菓子。 もう冷めてはいるけど、微かに香ばしい匂いのするビスコイト。 今日中にこれを男子生徒に渡して、なにかお礼をもらってこなくちゃいけない。頼みやすいといえばやっぱり同輩より後輩だけど、押しに弱そうな男子は競争率が高いだろう。でも、なによりこの勝負は早い者勝ちだから、誰にするにしろ素早く行動を起こさなくちゃ。 うん、と気合いを入れて、私はとりあえず男子生徒がたくさんいる忍たま長屋に行こうと足を向ける。走りだそう、というところで、ふと視線を感じて足を止めた。 ん? 少し先の共用廊下。こっちに向かって、ぶんぶんと手を振ってる人影がある。すぐに誰だか分かる。こへだ。私も軽く手を振り返すと、こへはひょいっと廊下から庭に下りると、一気に私の元に駆けてきた。 「ーーーーーーー!」 「わっ!?」 突進という二文字が似合うその勢いに、私は思わず避けるように身を引いてしまった。こへは私のすぐ目の前で足を止めて、「よー、!!」と明るく笑う。短距離とはいえかなりの勢いで駆けてきたのに、こへはまったく息が乱れてない。相変わらず凄いというかこれでこそ小平太だというか。 「どうしたのこへ。なにか私に用事?」 聞くと、こへはじーっと私を見下ろす。ちょっと探るような瞳で、悪戯っぽく微笑んだ。 「、今お菓子持ってるだろ」 「え、犬?」 「いい匂いがするー。それか? その袋か?」 「いや、確かにそうだけど。もしかしてあんな遠くから嗅ぎ分けたの? こへ、やっぱり犬?」 前々から人間離れしているとは思ってたけど、ここまで来るとほんとに尋常じゃない。 「犬じゃないぞ。私ちゃんとした人間だ」 「えー、嘘だ」 ためしに、こへに向かって「こへこへ、お手ー」と手を差し出してみたら、いきなりその手にがぶっと噛み付かれた。 「狂犬!? てか痛い痛い、こへ痛いって!」 「が私のこと犬とか言うからだぞー。甘噛みだからそんな痛くないだろ」 「人に手噛まれたのなんか初めてだからびっくりしたの!」 「私も人の手噛んだのなんか初めてだ! お互いお初だなー!」 「そうだね! きっと初めてで最後だねっ!」 ほぼ投げやりにそう言ってから、私はやれやれと手拭いでこへに噛まれた手を拭う。確かに甘噛みだったらしく痛みはなかったけど、普通の人間はそんな行動に出ないと思う。 「それでそのお菓子、のか?」 匂いで飛んできたのだから、気になるのだろう。こへはうずうずした様子で私の手の中のお菓子を覗き込む。 「ん……私が作ったのは確かだよ」 「授業か?」 「そう、くの一教室の調理実習でね」 こう言えば引くかなー、と私は思った。くの一教室の授業でお菓子を作って、それで中になにも入れないなんてあり得ないから。案の定こへもそれに思い当たったらしく、じいっと興味深げにお菓子を見る。 「じゃあ、これ中になにが入ってるんだ?」 「……なんだと思う?」 別にこへに対して嘘をつく必要なんかないんだけど、一応聞いてみる。こへは、うーんと首を傾げて、 「昔調理実習で作ったってにもらった汁粉には白玉の中に唐辛子が入ってたし、その前にもらった饅頭には下剤が入ってたし……」 「おー。こへ、よく覚えてるね」 何年も前のことなのに、こへが覚えてるなんてちょっとびっくりだ。いやむしろ普通の人なら、忘れたくても忘れられないかもしれない。けれどこへは素直に褒め言葉として受け取ったらしく、嬉しそうに「まあな!」と微笑んだ。 「どっちもまずくなかったし、下剤効かなかったしな!」 「うん。さすがにあの後申し訳なくて薬持って行ったのに、『へ? 下痢? なんで?』って素で聞き返されたのにはびっくりした」 こへ以外の男子はみんな厠とお友達になっていたのに。 「それで、結局その菓子、なにが入ってるんだ? 食っていいか?」 「こへ、欲しいの?」 「ああ、欲しいぞ! くの一はみんなそうだけど、もお菓子作るの上手いしな! 中になに入ってても私食べるぞ!」 そんなこと思うの絶対にこへだけだ、賭けてもいい。でもこのお菓子にはなにも入ってないし、そういう意味では私も罪悪感を抱かなくていいんだけど。 それでも私は、こへに頼むのは躊躇いがある。 たとえばこれは実習でなにかお礼をもらってこなきゃならないんだと素直にお願いしたら、こへは『絶対に』すぐ頷いてくれる。頷いて、私の好きなものをなんでもくれる。それが分かってるからこそ、安易にこへに頼りたくない。 「じゃあこへ、私と追いかけっこしようか」 「ん? 追いかけっこ?」 「うん。私これ持って逃げるから、私を捕まえたらこへにあげるよ」 「……ふーん」 こへは少し考えるような表情になったあと、にっと微笑んだ。 「じゃあ、百数えるまで待つ! すぐ終わってもつまんないだろ!」 「うん、じゃあ私、逃げるからね」 「おー。頑張れよー!」 楽しそうなこへに頷いて、私はお菓子を仕舞って走る準備を始めた。 「じゃあ……お先にっ」 地面を勢いよく蹴って、最初から全力で駆けだした。どうせ私が本気になったところで、こへとの追いかけっこで私が敵うはずがない。でも仮にも自分から言い出した勝負事でやすやすと負けるのは癪だし、こへに対してきちんと筋も通したい。 一直線に門に走って、外に出ようとする。学園内じゃだめだ、山に行かないと絶対に振り切れない。 小松田さんが運良くいないのを確かめて、素早く塀を乗り越えて裏山に向かった。 「追いかけっこ、な」 山へと向かったらしいの遠ざかる気配を探り続けながら、小平太は数を数えようともせずにその場でしばし待った。 手持ち無沙汰にこきこきと手首を鳴らし、そろそろいーか、との去った裏山に目を向ける。 「悪いな」 すっと目を細めて、小平太はもういないに言う。 「私、毒でもなんでも、お前のものを他の男に渡す気ないんだ」 ────うそっ! 裏山に入ってすぐ。瞬く間に近づく気配に気づいて、本気で驚いた。最初から負けるのが前提の勝負だけど、まさかこんな短時間で追いつかれるなんて想像もしなかった。 私は女で、そこまで足が速いわけじゃない。こへは男で、それも男子生徒の中でもずば抜けて身体能力も体力もある。けれど人間である以上は限界があるはずなのに、いくらなんでも早すぎる。大体私は気配を消して山の中を走っているのに、こへの気配は的確に私の方向へと近づいてくる。なに!? なんで!? このままあっさり負けるのは悔しい。必死に速度を上げようとしたけど、もともと全力だったからこへの気配からは逃げられそうになかった。いっそ隠れようかと思った瞬間、しゅん、と風を切る音が耳に響く。同時に私を易々と追い越していく、黒い影。 その影──こへは私の少し前で足を止めると、くるりと振り返る。慌てて足を止めて逃げようとする私にこへの腕が伸びてきて、ぐっと腰に絡み付いて引き寄せられた。 「つかまえた、」 「……は、はやすぎ……」 急に立ち止まったこともあってどっと疲労が襲ってきて、私はこへの腕の中に倒れ込んだ。ありゃ、とこへは私を支えながらその場に腰を下ろす。 「な、なにうそ、し、しんじられない、こへやっぱいぬ……うー……」 「しんどいなら話すなよー。つか本気出したかー? 私これでも手抜いてたんだぞ」 「うーそーだー……」 そんな人間いるわけない。やっぱりこへは人間じゃないんだ、いけどん人間とかそんなんだ。ぜーはーと乱れた息を整えていると、こへが楽しそうにぽんぽんと背を叩いてくれる。ここまで圧倒的に力の違いを見せつけられると、さすがに悔しい。 ようやく呼吸が治まって身を引くと、こへはじーーーっと私を見る。仕方なしにお菓子を出して、はい、とこへに手渡した。 「おー! ほんとにくれるのか、ありがとな!」 「さすがに嘘はつかないよ……勝負は無謀すぎたけど」 嬉しそうな顔をしてるこへに、どうしようかなとちょっと迷う。ほんとはお礼をもらわなきゃいけないんだけど、私が最初に話を持ちかけたときはそのことを伝えなかったし、今言うとそれはそれで不公平かなー、という気もする。 とはいえこのまま実習放棄というのも避けたい。結局はこへに頼ることになっちゃったなと反省して、私はさっそく袋の紐を解いているこへに向けて口を開いた。 「ねえ、こへ。あのね、これほんとは実習なの」 「知ってるぞー。男子生徒に渡してくるんだろ。……お、甘いなーこれ」 「え……って、なにもう食べてんの、毒入ってたらどうするの!」 「致死毒入ってたらは止めるだろ。あ、でもほんとになにも入ってないな。針くらい覚悟してたのに」 「口の中痛くなるから針とか言わないでよー! てかそれで躊躇なくかっこむってどういう神経!?」 普通にもりもり食べてるこへに、私は思い切り引いてしまう。まさか忍務のときもそんな警戒心薄いわけじゃないよね!? なんかもうすごく心配なんだけど! 「でさー、」 相変わらず手を休めずにお菓子を食べながら、こへは私に視線を向ける。 「私はになにを渡せばいいんだ?」 う。ちょっと気まずくて、私は咄嗟にこへから視線を逸らしてしまう。 「……それも知ってたの」 「うん。だからにもらいにきた」 「誰かに聞いたの?」 「んー。滝夜叉丸が、女子が菓子配る実習してるって言っててな。礼になんか寄越せって巻き上げられそうになったって。だからに頼めばくれるかと思って」 「あぁ……そっか滝夜叉丸君か……」 こへとは同じ体育委員だし。彼も誰かに標的にされたのだろう。 「『菓子と言ってもあいつらが配る物ですから油断は出来ませんが』って言ってたけどな」 「だから、それで躊躇なくかっこむってこへおかしくない……? 今更だけど、なんにも入ってないよ」 「うん。美味いぞ、!」 「そう……」 満面の笑みで褒められて、ちょっと恥ずかしくなる。ビスコイトなんて、誰が作っても致命的に失敗しない限りは程々に食べられるものなのに。 「それで、なにが欲しいんだ?」 なにが欲しい……? 手を止めてじっと私を覗き込むこへの顔は真剣で、私は言葉に詰まる。こへから欲しい物、なんて。 「……なんでもいいよ」 「なんでもじゃわかんないぞー、」 「……ほんとに、なんでもいいんだけど……」 櫛? 簪? 紅? 帯? きっとどんなものを挙げても、こへはその通りのものを買ってくれる。多少高くても無理して買ってくれる。 だからこそなにも言えずに俯いてしまう私に、こへはぽん、と私の頭を軽く撫でる。 「なぁ、。そのお礼って、今日中に渡さなきゃ駄目か?」 「ううん、七日以内に回収すればそれでいいって……」 「じゃあ、私が選んでいいか? 明後日の休みに町に出るから、その時なんか買ってくる」 私はちょっとホッとした。私が挙げたものをそのまま買ってきてもらうよりも、こへが選んでくれたほうが嬉しい。本当になんでもいいけど、なにを買ってきてくれるのかと思うと楽しみだし。 「……うん。ありがとうこへ」 迷惑かけてごめんねと続けて言いそうになったとき、こへがぺし、と私の口を大きな手で塞ぐ。言うなという意思に気づいて小さく頷くと、こへは軽く笑って手を離してくれた。 「んじゃ帰るか! 学園まで競争な! 負けた方が今日の晩飯おごるってどーだ?」 「さっきの勝負してなかったら受けてたかもね。明らかに勝てない賭けには乗らないよ」 「じゃあ私四つ足で走ってやろうか」 「むしろこへはそっちのが早い気がする」 「塹壕掘りながらとか」 「それでも勝つ気しないのってなんでだろう」 「なんだよつまんないなー、じゃあ……あ、?」 「お先にーーー! 門の前に先に着いたほうが勝ちねーー!」 「なーー!? あー、ちょっとずるいぞーー」 後ろから聞こえてくる声に、私は軽く微笑む。先に走り出したからって私が勝てるはずがない。なにしろさっきはあれほど待ってもらっても完敗だったんだから。 これは私が気にしないようにと、こへが出してくれた妥協案だと分かってる。私がこへに晩ご飯をおごる。だから礼に買ってくる物のことは気にするなと、そういうことだ。 ──その気遣いは嬉しいけど、私は本当にいつまでもこへに甘えてばかりだと、少し自分が嫌になる。それでもおごるという建前があれば、今日はこへと一緒に夕食が食べられる、それが楽しみだとも思ってしまう。 ……ともかく。負けるのが分かっていても、これは勝負だ。手を抜くのは私の自尊心が許さない。こへに勝つ気で本気で頑張ろうと、出来る限りの早さで山の中を駆け続けた。 ……そろそろ行くか。 の気配が山を下りていくのを感じながら、ぎりぎりで勝てるよう速度を調節して走り出す。 たぶん私がこうしようとしてることなんて、は全部分かってるんだろう。私は馬鹿で、はいつも私のことばかり気にしているから。 ごめんな、。 の気配が近づいてくる。謝らなくちゃいけないのは私なんだ。お前を惑わせていると分かってるのに、私はお前を離してやれない。 木々の向こうに、の小さな背中が見える。何年も前から見てきたそれは、ずっと小さなままで。 今しかない、届かない距離はここまでだと悟って、私はその背中に囁く。届かないと知っているからこそ。 ──私は、今でもお前が好きなんだ。 二日後のお休みの日。夕方になってこへが一包みのお菓子をくれた。それは美味しそうなお団子ですごく高そうなものにも見えなかったから、私は素直に喜んでこへにお礼を言って、実習報告のためにくの一教室へと向かった。 山本先生にこれをもらいましたと現物を確認してもらってから、よかったらどうぞと先生にお裾分けした。 それから部屋に帰ろうと廊下に出たら、近くにいた後輩女子が私の持つお団子の包み紙を見て、すごい勢いで駆け寄ってきた。 「せ、先輩……! そのお団子、どうしたんですか……?」 「え? 実習のお礼にって男子からもらったんだけど……」 「すごい! これ、今並ばないと買えない人気のお団子なんです! ……あ、あの、先輩……」 きらきらきらきら、と子犬みたいな瞳を向けられて、反射的に「あげようか?」と問うと、後輩はぱあああああっと顔を輝かせた。 「いいんですかっ?」 「うん、たくさんあるし。……はい」 「ありがとうございますーーー! このお団子屋さん、今すごく評判で、取り置きも受け付けてないからなかなか手に入らないんです。私いつも頑張ってるんですけど、並ぶのが遅くて個数制限かかっちゃって一本か二本しか買えなくて……こんなにたくさんあるの初めて見ました!」 うっとりした瞳でお団子の包みを眺めてから、後輩は「本当にありがとうございますー!」と嬉しそうに私に頭を下げて、廊下を走って行った。 ……そっか。 やっぱり、そうなんだ。 こへはすごく何気なくくれたけど、きっと悩んでくれたんだ。なにがいいか、出来れば価値のあるものをって。今みたいに誰かが教えてくれなかったら、私はきっと美味しかったっていう感想しか言えなかったはずだ。でもきっと、こへはそれでいいと思ったんだ。 結局私はこへに甘やかされてばかりで、気遣ってもらってばかりで。 休みの日なんてこへは大抵自主トレか、そうでなかったら女の子と遊んでるのに。せっかくの休日にこんなことに時間使って。 こへ。小平太。 なんだかもうどうしていいのか分からなくて、私はとにかくお団子を抱えたまま走り出して、男子寮のこへの部屋に駆け込んだ。 声もかけずに戸を開けると、きょとんとしたこへと無表情の長次の視線が私に向けられる。 「ん? どうした、」 「これ……もらったお団子、一人じゃ食べきれないから」 いつものようにごめんねと言う代わりに、こへに向けて微笑んだ。 「だから、一緒に食べよ?」 終 |