『田村三木ヱ門』


 なんで私は、こんなときにこんなことをしてるんだろう。


「潮江先輩、ここの学級費計算なんですけど……」
「ああ、前年比の出し方なら田村に聞け」
「え、私ですか?」
「人に教えるのも鍛錬のうちだ。さっさと左門に教えてやれ」
「団蔵、この数字読めないぞ、なんて書いてあるんだ」
「……いや左吉、それ数字じゃなくて備品名なんだけど……」

 目の前で忙しそうに委員会活動をしている会計委員達。いや、無論私もその一人なんだけど。

 ……どこで間違ったんだろう。


 私は、放課後になると同時に実習試験が始まったはずだった。
 特に相手は考えていなかったけど、まぁとりあえず気弱な男子にどんどん押せばいけるだろう、という発想で走りだしたら。

「なにアホみたいに走ってんだ、委員会始まるぞコラ」

 委員会に向かおうとしていた潮江先輩に見つかって、捕獲された。
 がし、と首根っこを掴まれて、ずるずると引きずられる。

「なーーーー!? なにするんですか潮江先輩! 私今大事な用で忙しいんですよ!」
「バカタレ、委員会以上に大事な用なんかあるか!」
「あるに決まってるじゃないですか、どこまで委員会バカなんですか!」
「じゃあなんだ、大事な用とかいうのを言ってみろ!」

 と、そこまで怒鳴り合ったところで気がついた。
 例えばだ。正直に「色の実習で、このお菓子を男子生徒に渡して、そのお礼をもらってこなくちゃいけないんです!」と言ったとしよう。
 潮江先輩はどういう反応をするだろうか。

 その一、「そ、そうか、実習なら仕方ないな、行ってこい」
 その二、「なら俺がもらってやる、礼なら俺の予備の十キロソロバンでも持っていけ!」
 その三、「色の実習だぁぁぁぁ!? ふざけんな、そんな軟弱な実習を仮にも会計委員にさせてたまるか!! お前らくの一は三禁をなんだと思ってんだバカタレぇぇぇぇ!」

 ……とりあえずだ。一はない。絶対に、ない。
 まずい、絶体絶命だ。私の自尊心が潮江先輩で手を打つなんて言語道断だと言ってるし、ただでさえ邪魔な十キロソロバンが二つに増えるのは遠慮したい。もちろん、暴れられるのはもっと勘弁だ。
 うぐぐぐぐ。
 押し黙るしか術がなくなった私を、潮江先輩は「はっ!」と鼻で笑って(はははは腹立つ!)、またずるずる引きずって行く。そのままぽいっと委員室に放り込まれて、……そして今に至る。
 もちろん幾度も逃げ出そうとしたけど、その素振りを見せただけで「たるんどるぞこらぁぁぁぁ!」と耳元で叫ばれた。いつも横暴な委員長だけど、今日はそれが特に酷い。
 潮江先輩がいつも以上に苛々している理由は、私にも分かっていた。最近委員会の仕事の進みが遅かった上に学園長先生の思いつきだとかで委員会が一週間休みになったりして、仕事がそれはもう尋常じゃなく溜まっているのだ。一応上級生である私もそのことは熟知しているし、これはまずいとも思っていた。
 だけど、だ。物事にも優先順位というものがある。
 文机に向かって計算をしまくっている今。

 これでいいのか?
 自分に問いかける。

 うん、いいわけがない。

「潮江先輩!」
「なんだ
「急用を思いついたので早退します」
「逃がすかバカタレぇぇぇぇぇ!」

 叫ぶと共に頭を殴られて、畳の上を転がった。

「よ、よくもやりましたねこのギンギンお化け……!」
「それだけ無駄口叩けるなら余裕だろう、とっとと手を動かせ」
「のわぁぁぁぁぁ!」

 あ、ば、れ、た、い。

 こうなったらもう、潮江先輩を倒すしかない。いくら男子生徒の人数が女子のそれより多いからって、後になればなるほど不利になる実習なのだ。やるしかない。漢字で正しく書くなら「殺る」しかない。ようしそうしよう、と腰元から苦無を取り出そうとして──
先輩、大丈夫ですか!? 怪我してませんか?」
 後ろから、三木の声が聞こえた。慌てて駆け寄ってくれたらしい三木は、私を抱き起こして心配そうに顔を覗き込んでくれる。
 おっ……? 私はその時、大事なことに気がついた。じっと三木を見上げる。
「どうしたんですか先輩、もしかして体調が優れないんじゃ…………せ、先輩?」
 じいーっと見つめ続けていると、三木は焦ったように顔を赤くした。
「な、なんですか、先輩」
 身を引こうとする三木を、がしっと捕まえる。そうだ。三木は四年生だ。上級生だ! そのことに今更に気づく。三木にもらってもらえばいい!
 その時私の頭は、とにかく実習のことでいっぱいだった。たとえば三木はもうもらってるんじゃないかとか、三木の意思を無視して私が押し付けちゃいけないだろうとか、そういうまともな考えに至らなかった。
 もしかしたら、潮江先輩に耳元でギンギン怒鳴られてちょっと頭が麻痺していたのかもしれない。「ばっかもーん! こんな単純な数式も解けんのかお前らはーー!」と潮江先輩が下級生を怒鳴りつけている今のうちに、三木にずいっと身を寄せた。
「三木、お願いがあるんだけど」
「な、なんでしょうか」
「委員会が終わるまで、なんだけど」
 たぶん、その時の私の顔は怖かったんだと思う。三木が顔を赤らめて身を引こうとするのに、私はますます身を寄せた。
「あ、あの先輩、ちょっと離れてください」
「いいから聞いて、三木。委員会が終わるまで……誰からもものをもらわないで」
「…………は?」
「とくにお菓子駄目。絶対駄目。お願いだから、もらいそうになったら断って!」
「…………は、はあ」
 言いつつ、さすがにちょっと酷いと思ったけど、私にはもうその手しか思いつかなかった。三木は目を点にしたまま、「分かりました……」と頷く。
「よし!」
 とりあえず、これで気になっていたことは一段落した。あとは、今目の前の仕事を本気で片付けるだけだ。
 すぐに文机に戻って、帳簿を開く。飛び込んできた数式を、とにかく全速力で計算し始めた。



 ……先輩、どうしたんだろう。
 委員会に来たときから、なにかに気を取られている様子で潮江先輩につっかかっていたのに、今は凄まじい勢いで仕事を片付けている。もともと先輩は本気になればすごく集中できる人だから、今はたぶん回りの物音もなにも聞こえていないと思う。
 ぽかんとしたままではいられない。私も先輩の隣、自分の席に戻って計算を始める。ソロバンを弾きながらも、さっきの先輩のよく分からない行動とお願いが気になる。
 お菓子、なんて。いったいなんのことだろうと不思議に思ったとき、先輩が計算し終わった帳簿を閉じて、次の帳簿に手を伸ばしていた。

 それから、半刻ほど経ってから。
「潮江先輩、厠に行ってきます」
 言いながら立ち上がると、潮江先輩はぎろりと、その視線だけで鬼でも殺せそうな勢いで私を睨みつけた。
「……三木ヱ門、お前ものように逃げる気か……」
「に、逃げませんよ! 本当に厠です!」
 さっき先輩が逃亡しかけたせいか、潮江先輩はそのことについてピリピリしているらしかった。潮江先輩が胡散臭そうに私と先輩に目を向ける。先輩はずっと集中したままで、私達の会話を聞いていなかったけど。
「まあいい、ならさっさと終わらせてこい。遅いと判断したらすぐに探しに行ってやるからな」
「は、はい……」
 その勢いに気圧されそうになりながら、私は慌てて委員室を出る。今日は大分仕事が溜まっているから、それで潮江先輩も苛々してるんだろう。私もこれは徹夜覚悟だと思っていたけど、先輩が物凄い勢いで本気を出しているから、もしかしたら今日は部屋で眠れるかもしれない。私も気合を入れて仕事を片付けないとな……と思ったその時。後ろから突然に声をかけられた。
「三木ヱ門!」
「ん……なんだお前か、なんの用だ」
 名を呼んだのは、同年のくのたまだった。くのたまは珍しく真剣な表情で、ずいっとなにかの袋を私に差し出す。
「これ、もらってくれない!?」
「は……?」
 明るい配色のその袋に、私は眉をひそめる。くのたまが持っているものだ、不審がるなというほうが無理だ。
「なんだ、それ」
「お菓子!」
「菓子……?」
 その言葉になにか引っかかるなと一瞬迷って、それからすぐに思い出した。先輩が、言っていた。

『とくにお菓子駄目。絶対駄目。お願いだから、もらいそうになったら断って!』

 ……もしかして、このことなんだろうか。
「ね、もらってよ三木ヱ門! これ実習の試験なの!」
「試験……? なんの」
 問うと、くのたまは早口で、このお菓子を渡してなにか礼をもらってくるのが試験なのだと説明した。男子一人に対して一つしか渡せないのだ、とも。

 ……ああ。
 それで、先輩がすごくそわそわイライラしていた意味が分かった。

「悪い、他をあたってくれ」
「え、なんで!? もう誰かにもらった?」
「いや」
「じゃあいいじゃない! 毒なんて入ってないよ!」
「約束したから」
「へ? やくそく?」
 同年のくのたまは『なんだそりゃ』という表情をして、それから説得する時間が惜しいと思ったのか、「じゃあいいや!」と一言言って、凄い勢いで走り去って行った。
 そうか、先輩は実習だったんだ。だからあんなに挙動不審だったんだなと今一度思いながら、私は厠にたどり着いて戸に手を伸ばす。
 つまり先輩は早く実習を終わらせたかったんだ。そりゃそうだろう、試験があるのに委員会に拘束されてるなんて、気がかりで仕方ないだろうから。
「…………あれ」
 その時私は、ようやくに気がついた。先輩が私にさせた約束に。
 ということは、つまり。
 ──先輩は、私にくれようとしてるんだろうか。
 そう思って、かあっと頭に血が上った。




 
「さ、最後の一冊、出来ました……」
 墨が乾いたのを確認してから、帳簿を閉じる。潮江先輩に手渡す指が震えていて、さすがに疲れたなと思った。
 すでに日はどっぷりと暮れていた。明らかにもう食堂が閉まってお風呂の湯が抜かれている時間だ。就寝時間までにはまだ少しあるとは言え、さすがに放課後から今までずっと集中していたので、疲労が濃い。ソロバンを弾き続けていたので、右手の指が痺れている。
「……まあ、いいだろう」
 ざっと目を通して、潮江先輩が帳簿を返す。それを安堵して受け取り、処理済みの帳簿の山の上に置いたとき、ようやくに下級生達の姿がないのに気がついた。部屋の中にいるのは潮江先輩と、それから私の隣で計算を続けている三木だけだ。
「左門達はどうしたんですか」
「終わる目処がついたから先に帰らせた。……お前、なにも聞いていなかったのか」
 潮江先輩の不審げな顔に、むっとする。こっちは必死で集中してたのに。
「気づきませんよそんなの……。それで、残ってる仕事ください」
「三木ヱ門がやっているので終わりだ。……お前、どうしてそのやる気をいつも出せないんだ」
 呆れたように、潮江先輩が私の処理した帳簿の山を顎で指す。確かに自分でもよくやったと言ってやりたい量だったけど、潮江先輩のそれよりはちょっと少ない。
「……私、もともと計算嫌いなんですよ。会計委員だって、誰もやりたがらないからクジで負けて、それからずっとだし……ていうかせめて褒めてください!」
「なにを腑抜けたことを。普段から出来ることをやっていないだけだろうが、お前は」
「褒めて伸ばすという言葉を知らないんですか先輩は!」
「お前はそれ以上伸びないだろうが。将来性のある下級生と一緒にするな」
 ああああ腹が立つ。いっそ一戦交えてやろうかと思ったとき、隣から声が上がった。
「潮江先輩、終わりました」
「おう、に渡せ。おい、確認してやれ」
「お願いします、先輩」
「あ、うん」
 三木から受け取って、帳簿を確認し始める。その間に、三木は少し疲れた様子で机の上を片付けだした。
「潮江先輩、本当に今日の仕事はこれで終わりですか?」
「ああ。……ま、遅れていた分は取り戻せたな」
「そうですか」
 ほっとした様子で、三木が私の机にも手を伸ばす。帳簿を確認していたので少し身を引くと、三木も自然に私の机の上を片付けてくれる。
 三木が私の墨や筆を直してくれて、机の上が綺麗になったとき、私も確認を終えた。
「うん、大丈夫。三木、計算早くなったね」
「はい、ありがとうございます」
 嬉しそうに微笑んで、三木が帳簿を戻しに行く。それを見届けてから、潮江先輩は文机の前から立ち上がった。
「じゃあ、俺は先に戻る。ご苦労だったな、お前ら」
「ええ、まあ本当に。潮江先輩もお疲れ様でした」
「お疲れ様でした」
 私と三木で、それを見送る。ぱたんと小さな音を立てて戸が閉められて、私はようやく仕事から解放されたんだとほっとした。
「…………あれ」
 三木がまだてきぱきと山と積まれた帳簿を直してくれている横で(今更だけど私なにも手伝ってない)、私はなにか引っかかる思考に首を傾げた。私、なにか、すごく大切なことを、忘れてる気が。

「はっ!!!」
「な!? 先輩!?」

 突然叫んだ声に、三木がびくっと身を震わせる。
 振り返る三木に返事も出来ず、私は咄嗟にその場から立ち上がった。
 ──実習!
 委員会の仕事が片付いたからと安堵している場合じゃない。そうだ。私は実習中だったのだ。
 そしてすぐに、なぜ今まで忘れていたかを理解した。私は三木にもらってもらえばいいと、そう無理矢理約束させたから!
「……うわ」
 今更ながらに、自分のしたことに気づいて顔をひきつらせる。
 いくら焦っていたからって、後輩に有無を言わさず実習の手伝いをさせようとするなんて、それどんな先輩だ。明らかに横暴だ、潮江先輩となにも変わらない!
先輩……? どうなさったんですか」
「三木!」
 心配そうに駆け寄ってきてくれた三木の両肩を掴んで、どす、とその場に無理矢理座らせた。唖然としている三木の前に私も腰を下ろす。
「せ、先輩……?」
「三木……聞きたいんだけど。私、『誰からもお菓子をもらわないで』って言ったよね?」
「あ、はい」
 三木はなぜかちょっと顔を赤くして、俯いた。私は掴んだままの三木の肩を軽く揺する。顔を上げた三木を、下から覗き込む。
「誰かに言われた? もらって欲しいって頼まれた? ……わ、私と約束したから、受け取らなかったり……した?」
 おそるおそる聞く。たとえば三木が誰からも頼まれなかったなら、それならちょっと安心出来る。
 でも、もし、
「……はい。同級生に頼まれましたけど、断りました」
 うわーーー!
 ぐさ、と罪悪感に胸が痛む。どうしよう。
「ごめん」
「え? ……なにがですか」
 きょとんとする三木の顔に、ますます胸が痛くなる。どうしよう、三木がその子から欲しかったりしたら!
「……ごめん……」
「い、いや、先輩、意味が分からないんですけど!」
 俯く私に、慌てて三木が逆に私の顔を覗き込む。私は三木の肩から手を下ろす。ああ、ちゃんと説明して謝るしかない。
「あのね三木……私ね、今日イライラしてたの、実習のせいだったの」
「あ……はい、知ってます。同級生に頼まれたとき、聞きましたから」
「そっか……。ごめんね」
「いえ、あの……ですから、どうして先輩が謝るんですか」
 ああ、どうしよう。言うのはちょっと抵抗がある。嫌われるかな。でも……仕方ない。
「あのね……私、三木にもらってもらおうと思って、あんな約束させたんだけど」
 言いながら、持ってきた菓子袋を取り出す。
「はい……それが……どうかしましたか」
 三木は一度お菓子に視線を落として、それから私に視線を戻す。私は深呼吸をして、気合を入れる。
「誰からもらうかなんて、それは三木が決めることだよね。ちゃんと説明もしてなかったのに、無理矢理約束させてごめんね。……ちょっと焦ってて、私」
 今更ながらに後悔が沸き起こる。そうだ、あの時ちゃんと説明すればよかったのだ。三木にだって選ぶ権利はあるのに。
「…………いえ。先輩が謝ることはないと思いますが」
 そこまで言ったのに、三木はまだ不思議そうな顔をしている。その様子に、ほんの少し苛立った。三木だって、私の言ってる意味くらい分かってるくせに。私が委員会の先輩だからって、そこまで気を使う必要なんてないのに。
 ……私が委員会の先輩だから。そのことに、なぜかグサリと傷ついた。
 でも、今は私が傷ついている場合じゃない。
「だって三木、他の子にも頼まれたのに、私との約束があったから断ったんでしょう? ……だから、私とあんな約束をしなかったら──」
「いいえ」
 え? 三木の否定の言葉に、私は口を閉じる。だってさっき言ってたじゃない、と言いかけたとき、三木はちょっと微笑んだ。
「確かに先輩と約束してましたから、断りました。でも私は……二人に同時に頼まれたら、先輩からもらってましたよ」
「…………え」
先輩は、それを悔いてらっしゃるんでしょう?」
 なんだか言い含めるみたいに、三木は言う。まるで、勘違いしている子どもを優しく諭す大人みたいに。そこに後輩としての三木を見いだせなくて、私は軽く困惑する。
 いつも私の中で可愛い後輩である三木が、……今は私よりもずっと年上みたいに見えたから。
「……でも、三木、私は」
 それでも続けようとした私の言葉を、三木はすぐに遮った。
「もう一度言います。たとえ誰から頼まれても、私は先輩から欲しいです。……だから、先輩が謝ることはないですよ」
 近い視線。優しい三木の顔。

 ──どくん。と。私の鼓動が大きく鳴った。

 なに、それ。
 かあっと顔に血が集まっていく。三木も今更に自分が言ったことに気がついたのか、ちょっと慌てた様子になる。
「あ、いえ、変なこと言ってすみません。でも嘘じゃないですから。だから、先輩が私でいいなら、私にください」
 照れたように、柔く微笑む三木。その顔をなぜかまともに見ていられず、私は視線を逸らしてしまう。なんでいきなり、そんな優しくてかっこいい男の人みたいな言い方するんだろう。三木、ずるい。
 でも、同時にすごくほっとした。私は三木のことを可愛い後輩だと思っているし、慕ってくれてることが嬉しい。だからもし今回のことで幻滅されたりしたら嫌だった。後悔の念が強かったのは、三木に悪いことをしたという思いと同時に、嫌われたくなかったからだ。
「……うん。ありがとう、三木」



 先輩は、ちょっと照れたように私にお菓子を差し出してくれる。即座に取り上げてしまいそうになるのを、必死で自制してそっと受け取った。
「それ、作ったのは私だけど、毒入ってないから。心配しなくてもいいよ」
「あ……はい、聞きました」
 先輩の手作りだったら、たぶん毒が入っていても食べるだろうなと私は思う。だって私は先輩のことが好きだから。
 先輩はようやく安心したのか、いつもみたいに微笑んでくれる。それが嬉しくて、私もほっとした。
 ……本当のところ、すごく不安だったのだ。先輩が変な勘違いで遠慮して、私にくれなかったらどうしようか、と。同年のくのたまから話を聞いた後は、もうずっとそのことしか考えていなかった。委員会が終わったら、先輩からもらえる。だから早く終わらせたい、と。
「……でも三木、ほんとによかったの? 私が先輩だからって気遣わなくていいんだよ?」
 まだ不安なのか、先輩が聞いてくる。こういうとき、私は上手く言えなくていつも少し困る。先輩が好きだからいいんです、と正直に言えないから。
先輩こそ、私でよかったんですか。誰か……その、同学年の先輩とか、……あ、潮江先輩とか」
 最後に出した名前に、先輩が顔を引きつらせた。ばん、と左肩に先輩の右手が置かれる。睨むように鋭い先輩の瞳が近づいて、身を固くした。なんか、まずいことを言ってしまったらしい。
「三木……それは本気で言ってるのかな?」
「え……、はい。だって──」
 先輩と潮江先輩は、仲がいいから。いつも喧嘩腰だしお互いよく手を出すけど、それは対等な関係みたいで、私はずっと羨ましいと思っているから。
「三木。言っとくけど」
「は、はい」
「私は潮江先輩よりずっと三木にもらってほしいからね!」
 …………う。
 どうしよう。その言葉だけでも嬉しい。
 先輩はやれやれと私の肩から手を離すと、明後日の方向に「ソロバンが礼とか冗談じゃない」「人をものみたいにずるずる引きずって」とよく分からないことをぶつぶつ呟いてる。
 でもそういう風に悪態がつける関係も羨ましいんだけどな……と思ったとき、ふと気がついた。
先輩」
「ん、なに?」
「あの……これのお礼なんですけど」
「……あ」
 先輩は、虚を突かれたような顔で私に視線を戻す。
「そっか、そうだね。お礼もらわなきゃいけなかった」
「なにがいいですか?」
 聞くと、先輩はちょっと困った顔をする。たぶんまた、後輩に押し付けただけじゃなくて礼まで巻き上げるのは申し訳ない、と思ってるんだろう。……むしろ私は、先輩になにか渡せるほうが嬉しいのに。
「……使ってないものとか……ああ、女装用の小物とか、なんでもいいよ」
 案の定、先輩は「なんでもいい」と言う。どうしようかと思っていると、ふいに先輩の顔が楽しそうになった。
「そうそう、ねだってこいって言われてるんだよね」
「え?」
「これ、ほんとはお菓子渡して、それと釣り合うようなものをねだってこい、って言われてるの。……だからちょっとねだってみる」
 にこっと先輩が笑う。反射的に身を引こうとするより早く、先輩が私に身を寄せる。
 すうっと近づく、先輩の気配。空気が変わる。いつもの先輩じゃない、薄く上気した頬と、僅かに濡れた瞳と。……すごく女らしい気配に、ぞくっとした。

「三木」

 頬に手を伸ばされる。私はもう身動き出来ない。甘えたような先輩の声が、私の脳内に響く。

「ねぇ、三木。おねがい」
「……はい」
「三木のお財布、私にくれる?」
「どうぞ」

 ──反射的に渡してしまった。

「三木。冗談に乗らなくていいからね」
 呆れたような瞳で、先輩が私に財布を返してくれる。すみません、すごく引っかかってました。
 いつもよりずーっとずーっと色気のあった先輩の仕草がすぐに頭から消えてくれなくて、心臓がばくばく音を立てる。でも先輩はそれに気づいていないみたいで、もう元の先輩に戻って「うーん」と首を捻って悩んでいる。
「ほんとになんでもいいんだけど……どうしようかな」
「……あの、なにか、欲しいものとかないですか?」
 一応聞いたけど、先輩はやっぱり軽く首を横に振る。
「さすがにそれを自分で言うほど厚顔無恥じゃないよ。……あ、そうだ」
 ぱちん、と先輩が手を叩く。ちょっと嬉しそうに、私を振り向く。
「三木、かやくご飯好きでしょ?」
「は、はい?」
 突然の問いに、よく分からなくて反射的に聞き返してしまう。先輩は私の言葉を肯定と取ったのか、微笑んで続ける。
「あのね、この間友達が、かやくご飯が美味しい定食屋さんが出来たって言ってたの。……だから、そこで奢ってくれる?」
「………………え」
 一瞬、言われた意味が分からなかった。先輩が言った言葉を頭の中で繰り返してみる。
 それは、もしかして、逢引き、とかそういう。
「……三木? 駄目かな」
「いえ! 何杯でも何食でも!」
「あはは、やだな、私そんなに食べないよ。……うん、じゃあ三木、それでお願いしてもいい?」
「はい!!」
 やばい、どうしよう。これ本気で逢引きじゃないか。かあっと頭に血が上っていく。嬉しい。
「三木、いつなら空いてるかな? 出来れば早いほうがいいんだけど」
「い、いつでも空いてます!」
 むしろ空けます! 今からだって余裕です!
「じゃあ、一番近い日でいいかな? 明後日の休み、私と一緒に行ってくれる?」
 にこにこ、先輩が嬉しそうに言う。その微笑みは、あくまでも『可愛い後輩』に向けるもので、決して好いた男を誘うような顔じゃない。でも、それがなんだ! すごく嬉しいんだから、そんなの今はどうでもいい!
 だから、私はすぐに頷いた。今はいい。この幸せだけでいいから。


「……はい、先輩! 楽しみにしてます!」








 終