『潮江文次郎』


 委員会が終わって委員室から出ると、すでに日はどっぷりと沈んでいた。
 溜まっていた仕事を夢中で仕上げていたせいで、すでに食堂が閉まっている時間になっている。まぁ、これも鍛錬の一環だと思えばなんでもないが、さすがにまともに一日動いた後での空腹は少し辛い。どうするか。いやどうしようもないのだが。
 ともあれ部屋に戻って少し休憩するかと、時間が遅いせいで誰もいない縁側を歩いていると、突然に声をかけられた。

「文次郎」
「ん?」

 女の声に振り向くと、すぐ傍の庭の草場から、ひょい、と軽い動きで人影が飛び出してきた。ほとんど音の響かない足取りで縁側に上がってくるのは、見知った同学年のくのたまだった。
 。いつもならば印象深い長い黒髪は、今は闇のせいでその白い肌のほうがよく目立つ。睨めばかなりの眼力だろうはっきりした瞳と、同年の奴らとくらべて大人びた女の顔。俺はこいつが嫌いではないが、いつでも会いたいという相手でもない。怪訝に思って、俺に近づいてくるを見る。
「どうした、こんな夜遅くに」
「こんばんわ、文次郎。委員会の帰り?」
「ああ、そうだ。お前はなんなんだ、まさか庭で寝てたんじゃないだろうな」
 草場から出てきたことをそう言うと、はきょとんとしてから、軽く笑った。
「まさか。暇だったから偵察する練習してただけ。気配感じなかったでしょう?」
「ならもっと人通りが多いところでやったらどうだ」
「そうだね」
 今度からはそうする、と軽く笑って、は俺の前で足を止める。しん、と静まり返る。
 どこかいつもとは違う空気に、俺はまた怪訝に思う。なにか言いたいことでもあるのか、はじっと俺を見つめている。俺はこいつのまともな視線が少し苦手だ。目が大きいせいだかなんだか知らないが、とにかく見透かされているような、落ち着かない気分になる。
「……なんだ、俺に用か?」
「うん」
 問いかけると、はあっさりと頷いた。どこからか包みを取り出してみせる。
「これ、誰かにもらった?」
 言われて、視線を向ける。小さな、手に乗るほどの包み。女子どもの喜びそうな、明るい色の紙と紐だ。見覚えはないが、予想はつく。
「なんだそれは。中身は菓子か?」
「そう、お菓子。放課後からみんなが配ってるんだけど、知らない?」
「知らん。今日は委員室にこもりきりだったからな」
「じゃあ、あげる」
 ぽいっと無造作に放り投げられたそれを、反射的に受け取ってしまう。一見変哲もない菓子袋に、嫌な予感がした。
「……なんだ、これは」
「だから、お菓子。文次郎にあげる」
「あほか。くの一教室の連中が作ったもんなんか、食えるわけないだろう。散々毒だのなんだの食わしておいて」
 呆れて返そうとしたとき、の視線とぶつかった。いつもの明るいものではなく、どこか訴えるような真摯な視線。

「毒なんて入ってないよ」

 その視線と、珍しい真剣な声音に、俺は身体の動きを止めた。
「私が作った。なんにも入ってない。……でも、信じないなら食べなくてもいいよ」
 言葉に詰まる。普段ならば、『お前の手作りならさらに怪しいだろうが、食えるわけあるか』と投げ返しているだろうが、今日は少し様子が違う。なんというか……気のせいかもしれないが、断ると傷つけるような気がする。
「……分かった、信じる。今日は晩飯食ってないからな、夜食にでもしてやる」
 仕方なしにそう言うと、はほっとしたように微笑んだ。その顔に少し心が揺れかけたが、はすぐにいつもの楽しそうな顔になった。「あのね」と菓子袋を軽く視線で指す。
「それ持ってたら、男の沽券が守られるかもしれないよ」
「は? どういう意味だ。なに言ってんだ、お前」
 わけがわからん。軽く睨みつけると、は俺のすぐ目の前まで足を進めてきた。
 けれど俺の質問に答える気はないらしく、まったく違うことを口にする。
「ねえ文次郎、苦無持ってる?」
「ん、あぁ」
「一本貸してくれる?」
 手を差し出されて、なんとなく反射的に渡してしまう。は俺の苦無を受け取って、重さや大きさを確認するようにしばらく検分した後、ぽつりと言った。
「ねぇ、これもらってもいい?」
「……は? 俺の愛用の苦無だぞ。なんでお前にやらなきゃならん」
 取り返そうと手を伸ばすと、は一歩下がってそれをかわし、またじっと俺を見つめた。その視線が苦手な俺は、思わず手を引いてしまう。
「じゃあ、明日まで待つから。明日になっても返して欲しかったら、言って」
 本気でわけが分からん。さっきから不可解なこいつの行動に、俺はさすがに顔をしかめる。
「……お前、さっきからなんか怪しいぞ。なに企んでんだ」
「文次郎はね、情報収集が足りないからモテないのよ」
「喧嘩売ってんのかお前」
 やれやれと呆れるようなため息を吐かれて、半眼になる。はさっさと俺の苦無を仕舞うと、からかうように微笑んだ。
「ごめんごめん。文次郎ギンギンに忍者だもんね。モテるとかモテないとか興味ないよね、三禁だもんね。顔フケてるもんね」
 このアマ。さっき傷つけるかと思ったことを後悔した。こんな女が傷つくもんか。
「うるせえ。俺は鍛錬で忙しいんだ、お前らみたいに浮かれてねぇだけだ」
「はいはい、ごめん。もう戻るから。じゃあね文次郎」
「あー、とっとと戻れ。俺も帰る」
 じゃあなとに背を向ける。数歩足を進めたとき、ぽつり、との声だけが僅かに届いた。

「ありがとう、文次郎」

 またわけのわからんことを。
 なんなんだと振り向いたが、その時にはすでにの姿は消えていた。





 ※※※


 部屋に戻って戸を開けた瞬間、中にいた仙蔵が露骨に顔をしかめた。
「……なんだ文次郎、貴様ももらってるのか。世も末だな」
「はぁ? どういう意──……仙蔵、なんでお前まで持ってるんだ」
 部屋の中で寝転がって本を読んでいる仙蔵の隣には、見覚えのある菓子袋がある。さきほどに押し付けられたものとまったく同じ、いや紐の色は違うが、ほとんど同じだ。
「なんだ、理由も聞かずに奪ってきたのか? ……くの一教室のやつらの実習だ。手作りの菓子を渡す代わりになにかをもらってこい、らしいぞ」
「……それ、本当か?」
 俺の問いに、仙蔵は呆気にとられた表情になる。
「なんだ、本気でなにも聞いてなかったのか」
 仙蔵が謀っている様子でないのを確認して、俺は渡された菓子袋に視線を向ける。実習だ? あいつはそんなこと一言も──と、ふと気づく。そういえばは、『みんなが配っている』と説明していたが。
「安心しろ、毒は本当に入ってないらしい。……それにしても本当にお前まで持っているとはな。誰にもらった?」
「もらったんじゃねーよ、無理矢理だ」
「まぁ、いいんじゃないか。やつらのせいで、人気のある男子は追いかけ回されて大変らしいからな。そのおこぼれだと思え」
「……なんで人気があると追いかけ回される」
 問うと、仙蔵は明らかに『この鈍感が』という見下した視線を寄越した。むっとする。
「いいか文次郎。礼にものをもらってこい、だ。分かるか、好いた相手からなにかもらえるかもしれないんだ。片恋している女子が、それを見逃す手はあるまい?」

『それ持ってたら、男の沽券が守られるかもしれないよ』

 仙蔵の言葉の後、の声が蘇る。
 あれはそういう意味だったのかと、しばし唖然とする。しかし、あいつは、なぜ俺に。
「よかったな、文次郎。お前にも懸想している女子がいるということだ」
 にやにやと笑う仙蔵の顔に腹が立つ。アホか、そんなわけあるか。あの女が俺を好いているわけがない。どうせ誰にも渡せずに仕方なしに押し付けただけだ、決まっている。
「それでお前、なにを礼にやったんだ」
「……やってねえよ。苦無を奪われた」
 チッと仙蔵が舌打ちする。
「この唐変木が、ヘタレが、お前なんぞ一生童貞でいればいい」
「うるせぇ! あいつがなにも説明しないのが悪い!」
 正直ヘタレと言われても仕方ないかと思ったが、それでもやはりなにも言わなかったが一番悪い。素直に言えばこっちだって話くらい聞いたものを。
「くそ」
 それを聞いた後では、今更になって返せとは確かに言いづらい。あの苦無、一応気に入っていたものなんだが。
 仕方ない、くれてやるかと諦める。まぁ、実のところ、あいつに素直に頼まれたところで、女にやれるようなものはなにも持っていないのだが。
 それでも、なんだ、あいつが望むなら別に髪飾りの一つや二つ買ってやっても……と思っていると、仙蔵の呆れた声がかけられた。


「今更遅いだろうが。本当にヘタレだな、お前は」
「うるせぇ! 人の顔色読むんじゃねぇよ!」





 ──とりあえず、今度町に出たらなにか見繕ってくるか、と。

 が最後に言った言葉を思い出して、渋々とそう思った。








 終