| 『立花仙蔵』 | |
正直なところ、私にはまともに実習を受ける気などさらさらなかった。 もともと、進級出来るだけのギリギリの成績さえあればいいのだ。男子生徒にねだるなどと、考えただけでも頭にくる。 アホな男子生徒が毛虫より嫌いな私にとって、そのアホ相手に下手に出るなどほとんど寒気のする事態だった。色香で落とすだけならば楽に出来るだろうが、これも正直関わるのすらしたくない。面倒くさい。 他の女子生徒が足早に走り去っていくのを横目で見ながら、『私の分まで頑張って』と肩を小さくすくめる。ぽんぽんと菓子袋を放り投げながら、私は自部屋へ帰るために廊下を歩いていた。どうせだから、これは自分で食べてやろう。 「待って、さん!」 そのとき。後ろから私を呼ぶ声に気づいて、足を止めて振り返った。 「よかった、間に合ったのね」 「……山本先生。どうかなさいましたか」 振り向いた先には、先ほど教室で別れたばかりの山本シナ先生がいた。いつ見ても美しくて華やかな山本先生の佇まいに、私は少し顔を緩める。アホな男子は嫌いだけど、女性は好きだ。特に山本先生のような美人は大好きだ。 私が軽くその美しさに見惚れていると、山本先生は「あのね」と少し心配そうな表情で私の顔を覗き込む。 「さんのことだから、実習を放棄する気じゃないかしらと思って」 「…………」 一瞬、言葉に詰まった。バレバレだ。そりゃこれまでずっとお世話になってきたのだから、それくらいは察知されていて当然なのだろうけど。 「……その通りです。私がこの手の実習が嫌いなことはご存知でしょう、山本先生」 「ええ、知ってるわ。だから聞きに来たの。……あのねさん、出来れば今回の実習だけは受けて欲しいの」 「どうしてですか。この実習を放棄しても、私の点数は危なくないはずですが」 卒業出来ない事態は避けたいので、私は細かく出席日数と授業点数の計算をしていた。どちらもまだ足りているはずなのだが。 「それなんだけど……私がこの間あなたに教えた出席日数の計算、間違ってたの。今のあなたの出席日数だと、この実習を成功させないと卒業がかなり難しいわ」 ……え? かつん、と軽く頭を殴られた気がした。先生は本当に申し訳なさそうに、ごめんなさいねと謝りながら、私に出席簿を見せる。なるほど、確かに私の実技授業の出席日数が、基準値に僅かに足りない。そんなことは今までに一度もなかったけれど、先生が私を謀っているというわけでもないみたいだ。 「この実習を成功させてくれたら、実技授業の出席をあげられるから。嫌だろうけど、頑張ってくれないかしら」 「……分かりました」 やれやれとため息を吐く。面倒だけど、仕方ない。 「ごめんなさいね、さん」 「いいえ、私が真面目に授業を受けていないのが悪いので」 「先生、あなたには一番期待してるのよ。頑張ってね」 山本先生ににっこり微笑まれると、つられて僅かに笑ってしまう。私がたぶん六年間適当とはいえ学園にいるのは、この先生のおかげだ。 「……はい、山本先生。頑張ります」 山本先生に期待されたなら、やるしかない。 相手は、本当に誰でもよかった。たださっさと終わらせたかったから、楽そうな相手を物色する。 人気のない廊下を一人、見知らぬ男子生徒が歩いている。紫の装束。四年生か、と気づいて唇を笑みの形にした。年は若いほうがいい。五年生や六年生だと、後々面倒なことになるから。 気配を殺して男子生徒の後ろに立って、その腕を掴む。突然のことに動揺する男子生徒を、すぐ傍の空き教室に引きずりこんでほぼ無理矢理に押し倒した。 「っ! な……!」 まだ出来上がっていない男の身体に馬乗りになる。驚いた様子で私を見上げる男子生徒の顔に、やっぱり見覚えはなかった。けれど多分、相手は私のことを知っている。 「……先輩、ですか」 男子生徒は、驚きと戸惑いの混じった瞳で私を見上げる。この学園で有名人だという自覚のある私は、ゆるりと自分を入れ替えた。昔から叩き込まれてきた、くの一の最たる術。色の自分に。 「いきなりごめんなさい。驚いたわよね」 男子生徒の顔を覗くと、戸惑いに満ちた視線を向けられる。私はゆっくりと、男子生徒の身体に自分の身体を押し付ける。馬乗りになった腹から、胸元まで。手を伸ばして、身を強張らせる男子生徒のその頬を包んで顔を寄せる。 「……な、なにか、俺に御用ですか」 「ええ。……私ね、あなたにお願いがあるの」 意図して、切なげな顔をつくる。やろうと思えば出来るだろうが、男子生徒は私を力任せに跳ね除けようとしない。この体勢だけでなにか期待しているのだろう、ちょろい。というかアホだ。 「な、なんですか」 「簡単なことなの。私、今くの一教室の実習でね、なにか男子生徒に物をもらってこなきゃならないの」 「物、ですか」 「ええ。相手は誰でもいいんだけど……私、出来ればあなたのが欲しい」 熱を込めて言うと、面白いくらいに男子生徒は反応した。顔を真っ赤にする。二回目だけど言おう。アホだ。 「も、物って、言われましても」 「なんでもいいの。帯とか、櫛とか。高くなくてもいい」 ゆっくりと、私は男子生徒の顔に自分のそれを寄せる。あと少しで鼻先が触れる距離まで近づくと、男子生徒が息を飲む。意図して胸を押し付けてやると、う、と視線を逸らす。 「ね……? お礼にはならないかもしれないけど、私の手作りの菓子ならあげられる。それで足りないなら、……好きにしてもいいよ」 「っな、……なにを」 「私のこと、好きにしていいよ」 その額に、柔らかく唇を落とす。それまで硬直していた私の下の身体が、もぞりと動く。額からゆっくりと、丁寧に口付けを落とす。目尻と、頬と、鼻横と。次に唇に触れるだろうところで、顔を離す。 私の下の男の体が身じろぎして、その腕が私の背に触れる。離れることを拒むように。 「いい……んですか」 「うん、いいよ。……あなたが私を手伝ってくれたら、……なんでもしてあげる」 背に回された腕が、探るように動く。ん、と鼻にかかる吐息を漏らしてみせると、その腕は私の腰元に下りた。 真っ赤な男子生徒の顔。けれど瞳は欲の色を映している。女を求める男の顔。一番無防備な、雄の弱点。失敗するとは思わなかったけれど、これほど簡単に嵌ってくれると逆に面白い。 色仕掛けはともかく、体を取引に使うのは明らかに違反だろう。けれどそのことを教師に吹聴出来るほどには、この男子も開き直れないはずだ。 にやけそうになるのを堪える。それじゃあ前払いに軽い口付けでもしてやろうかと思った、その時。 ──殺気を感じて背筋が震えた。 「っ!」 「先輩……? どうしました?」 突然身を起こした私に、男子生徒は戸惑った顔を向ける。そんなのに構っちゃいられない、反射的に立ち上がった瞬間、上から凄い勢いで人影が飛び降りてきた。 「!」 「ちっ、仙蔵……!」 長い髪を宙に舞わせながら、仙蔵は即座に私を見つけて間合いを詰める。しまった、油断した! けれど逃げ出そうとするより早く、仙蔵の腕が有無を言わさぬ勢いで私の肩を掴む。さすがに痛みが走って顔をしかめた。 「っ! ちょっと、離しなさいよ!」 「離すわけないだろうが。……おい、未遂か」 仙蔵は私を凄い勢いで掴んだまま、驚いて起き上がる男子生徒に鋭く視線を向ける。なにがなんだか分からない風の男子生徒を確認して、なにもなかったことを察したらしく、もうそちらに目もくれずに私を無理矢理肩に担ぎ上げた。荷物のように。 抵抗しようとすると、筋を違えそうなほどに腕をねじ上げられる。武芸は決して不得意ではないけど、本気になった男の力に正攻法では敵わない。怒りで頭が煮えるのを、どうにか冷静にと諭す。あとで万倍にも返してやる。 そのままどこをどう走ってどこまで移動させられたのかは、あまり覚えていない。仙蔵は空き部屋だか倉庫だか知らないけど、とにかく誰の気配もしない場所に私を放り込む。 放り投げられた私が身を起こしたときには、すでに仙蔵が戸を閉めて私の前に立ち塞がっている。逃げ場がない。渋々と、私は浮かしかけた腰を下ろす。 「……なにすんのよ。人の実習邪魔しないでくれる?」 「後輩女子に妙な願いをされるから、気になって来てみれば……」 「分かってるなら邪魔しないで。これ成功させないと単位がもらえないのよ」 「ならばなぜ私の元に来ない」 肩を強い動きで押されて、仙蔵の身体の重みがかかる。さっき男子生徒に私がしたものと逆で、今度は私が仙蔵に押し倒される。 くそ、腹が立つ。まるで私がこいつの女のような言い分も、全部。 「なんであんたのところに行かなきゃならないのよ」 「お前は私が惚れた女だからだ」 「私は、あんたなんかに惚れてない」 身をよじって仙蔵の手から逃れようとしても、その拘束の力はぴくりとも緩まない。ち、本気か。 「……なぁ、。私は別に、お前がどの男に菓子を渡そうが、構わないんだ」 「だから、……それなら邪魔しないで」 少し気力がなくなってくる。押さえつけられる手が痛い。仙蔵は、もしかしたら私の色よりも女らしいかもしれない色気で、私の顔を覗き込む。 「だがな、他の男に迫るのを許すほど寛大な男にはなれない」 「私はあんたのものじゃない」 「それでも私はお前が好きだ」 ぜんぜん話が通じない。まあ、それ自体は前からだ。だからこの男には関わりたくないのに。 小さくため息を吐く。 「……あんたさ、同じことばっかり言ってて、飽きないの?」 皮肉っているつもりだった。いつからか、仙蔵は私に愛だの恋だのを囁くようになった。女には困っていないはずだから、どうせ男嫌いだと有名な私を遊戯感覚で落とそうとしているだけだ。それが分かるからこそ、私はこの男の言葉に耳を傾けない。 「飽きる? なぜ。私はお前が好きなんだ」 一生言ってろ、と吐き捨てたくなる。仙蔵は、黙った私に顔を近づける。その視線に、さっきの男子生徒と同じように欲がひそんでいるのを見て、私は嫌になる。男なんてみんなそうだ。女の身体だけしか見てない。 「……どういう取引よ」 「ん?」 「さっき口が滑ったけど。この実習が成功しないと、私は単位がもらえない。……それを知ってて脅してるんでしょう」 「なぜ、私がお前を脅さなければならない」 「それが目的のくせに」 目を細めて、すぐ傍にいる男を睨みつける。そこらの男と身体を重ねることなど、私はもうなんとも思わない。けれどこの男は嫌だ。中身のない甘い言葉ばかり囁く、この男だけは。 「……抱かせろっていうなら、断る。あんたの相手はしたくない」 「私が嫌がる女を手篭めにすると思うのか?」 「嫌がる女を無理矢理押し倒してる男に言われたくない」 私の言葉に、仙蔵は「……なるほどな」と案外素直に頷いた。とは言っても、結局身を引こうとはしない。 「なぜそんな取引が必要なんだ。後輩に聞いた。菓子だけ私に渡せばいいんだろう」 「……欲しいの、もしかして」 「ああ。好いた女の手作りなら」 「あんたは、そればっかりね」 だんだん面倒になってきた。この男に付き合うのは、すごく疲れる。話が通じないし、腹が立つし、……嫌になる。 「」 仙蔵の瞳が、私を覗き込む。その綺麗に整った顔は、私の前で歪むことはほとんどない。それにも腹が立つ。 「あんたは、いっつも……」 仙蔵は、いつも。 好きだとか、愛してるだとか、口先だけの言葉ばかり。この男ならどんな女だって落とせるだろうけど。絶対に思惑通りになどなってやらない。 「ああ、そうだ。……私は、お前が好きだよ」 今も、耳元で囁かれる甘い言葉。うんざりとする。甘い言葉は嫌いだ。そんなもの私にだって出せるから。 仙蔵の気配と、熱と、重みと、戒められた手に込められる力。幾人もの男達に乗られてきた私にも、それが特に女に慣れているものだと分かる。面倒くさくなると共に、諦めの気持ちが強くなる。もう、いい。 「……分かったわよ」 言葉と共に、私は身体の力を抜く。それを察したのか仙蔵の手の力が緩んで、私はようやく解放される。 私はとっとと菓子を取り出して、仙蔵に押し付ける。 「ほら、あんたにあげる。それでいいんでしょう?」 「……いいのか」 「なにを今更」 なぜか戸惑った風に菓子袋をまじまじと見つめる仙蔵に、軽く鼻で笑う。渡さなきゃいつまでも、あの寒気がする甘い言葉を囁き続けるくせに。 「……ほら、聞いてるんでしょう。礼になるものちょうだい」 「ああ」 頷く仙蔵に、軽く身構える。私の身体で返そうなどと言い出したら股間を蹴り上げるつもりだったけど、仙蔵は普通に懐を探って、小さな包みを差し出した。 「……なにこれ、紅……?」 「変装用に買ったのだがな、私には似合わん色だから使っていないんだ。たぶんお前には似合うだろう」 言われて色を確認すると、なるほど私好みの色だった。この男に嗜好を把握されているのは腹が立つけれど、まぁ、まともなものであるだけマシだ。 「それじゃあ、これで実習終わりだから。もういいでしょ、どいてよ」 腕の拘束を解かれたと言っても、仙蔵はまだ私の前にいる。立ち上がりかけた私を、仙蔵は無言で腕を掴んだ。今までの拘束するためのものじゃない、引き止めるための。 「……なんなのよ」 もう用事は終わったはずだと睨みつけると、仙蔵はあまり見られない真剣な面持ちで私を見据えた。静かな声音で吐かれた言葉は、固い。 「頼むから、もうああいうことはするな。忍務ならばともかく、必要以上に自分の身を使うな」 「あんたにだけは、言われたくない」 なにを言うかと思えば、そんなくだらないことか。 「お前がそうするのは、嫌なんだ」 「……それ、嫉妬だとでも言いたいの」 「ああ、たぶんな。だけどそれだけじゃない、お前のことが心配なんだ」 「寝言なら寝て言って」 仙蔵に掴まれた腕を乱暴に振り払って、今度こそ立ち上がる。仙蔵はもうなにも言わない。私もなにも言わない。振り向かずに、戸を開けて外へと出た。 ──好きだ、と。 仙蔵が挨拶みたいに繰り返す言葉は、いつまでも耳につくから嫌になる。 頭から追い出そうとすればするほど、あの腹の立つ、私が一番嫌いな男の声が響く。 仙蔵から渡された紅を、手のひらにしまいこむ。 早く先生に報告に行こう。それで、さっさとこれを化粧箱に放り込んで、忘れよう。 そうしなければ、いつまでも。 あの声音と視線が、私の中に染み付くから。 ※※※ 文次郎が私と同じように菓子を持っているのを散々からかったら、さすがに怒ったのかギロリと睨みつけられた。 「……おい、仙蔵。お前は誰に押し付けられたんだ」 「押し付けられたなどと。お前だって喜んでいるくせに、文次郎」 「うるせぇ! 誰からもらったんだと聞いてるんだ!」 「だ」 告げると、文次郎は面白いほどに固まった。顔をしかめて、「んなわけねぇだろ」と吐き捨てる。 「なんの冗談だ。あの男嫌いのくの一が、この手の実習に本気になるわけないだろうが。後輩に色香で迫って目標達成と共にポイだ。決まってる」 鋭い。まあ、九割方その通りだったのだが。 「なんとでも言え。山本先生が確認に来れば事実だと分かるだろう」 「……本当なのか」 「ああ。あっちから『もらってください』と頼まれたわけじゃないことは、確かだがな」 文次郎は理解できないという風に顔をひきつらせて、私が持つ菓子袋を不審そうに見る。 「大体、それ食えるのか? あの女が作ったもんだぞ。教師が入れるなって言ってもあの女なら毒入れるだろ」 「構わんな、毒には慣れている」 「お前……本気なのか」 絶句した文次郎に、薄く微笑む。どちらかと言われれば間違いなく本気だが、そう素直に伝えたところで、この唐変木が私の助けになるわけでもない。 「……あの手の女をモノにする過程が楽しいんだ。お前には分からんだろうがな」 「本気で分かりたくねぇ。お前は趣味悪いんだよ、どう考えてもあの女はヤバイだろ」 「あれでなかなか可愛いところもあるんだがな」 「それ絶対にお前にしか見えてねぇよ」 文次郎は、おそらく真理を口にする。ふむ。つまらない男だとばかり思っていたが、そうでもないのかもしれない。 「で。あのヤバイ女になにをやったんだ」 「礼か? 紅だ。あいつに似合うと思って前々から買っておいたものだ」 「用意周到にもほどがあるな、オイ。お前、いつか女に後ろから刺されるぞ」 「それがなら望むところだが」 「本当にそう言って死んでいったら尊敬してやるよ」 では、尊敬してもらおうか。 文次郎の言葉に、胸中だけでそう返す。声に出さないので、それみたことかと思ったのか、文次郎は「けっ」と私から視線を逸らす。 本当に。たとえばあいつが嫉妬でもしてくれたら、笑顔で死んでやってもいい。 それほど焦がれていても、幾度そうだと囁いても、届きはしない想いだが。 の菓子袋をじっと眺めていると、やれやれと文次郎の声が響く。 「……本当に物好きだな、お前は」 「バカがつく鈍感男には言われたくない」 「な……!? この野郎!」 それでも。 いつかこの想いが届くことを望むくらいは。 私にも許されていると信じたい。 終 |