中在家長次夢
『二度目の鼓動』
七話
「二日目」その二
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図書室から出た私は、ただぼんやりと学園内を歩き回っていた。部屋に戻ったら後輩の邪魔になってしまうし、さっきの今だから私と中在家君の両方を知っている人とはあまり顔を合わせたくない。夕食やお風呂も人が少ない遅い時間にしようと決めてしまうと、私の足は自然に人の気配が少ないほうへと進んだ。 共用場からは少し離れた、もう人がいない教室長屋の端。ここまで来ると、生徒達の賑やかな喧噪もあまり聞こえてこない。 ああ、高いところにのぼりたい。 そう思ったままに、私は縁側から柱と梁を伝い、屋根の上へとのぼった。 瓦の上に腰を下ろすと、さっきまではまだ少し聞こえていた人の声や気配も完全に消えて、ほっと心が落ち着いた。 日はもうほとんど沈みかけていて、空にはあちこちに星が浮かんでいた。まだ薄い色の月も、控え目に光り始めている。 両足を立てて引き寄せて、膝に顔を押しつける。小さく丸まった体勢をつくると、身体の力がふっと抜けた。ひゅう、と僅かに耳に届く風の音に、ゆっくり、息を吐く。 なんだか泣いてしまいそうだった。 私はもともとあまり落ち込むほうじゃないし、今までの人生を振り返っても、基本的には前向きな性格だと思う。なにかあって塞ぎ込むことがあっても、いつも人より早く回復できた。 だけどさすがに、今回のことには心の整理が全然追いつかない。 中在家長次。私が忘れている幼なじみ。 記憶のどこにもいないあのひとと、以前の私はどう接していたのだろう。周囲の人達に、今よりは親しい関係だと見られていたのは確かだ。だけど中在家君の私に対する接し方が、私を混乱させる。 決して冷たいわけではない。けれど温かいわけでもない。無関心。私にはそう見える。 無理して思い出さなくていい、と言われたことが、言われたとき以上に私の心を重くしていた。失った記憶を抱えたままでいるのはとても居心地が悪いから、私としては出来る限り思い出したい。せめて空白の記憶を埋めるために、私と中在家君がどういう風に接していたか、本人の口からも聞きたいのに。 仲が良かったのか。そうでないのか。そんな単純なことすら分からない。 幼なじみだからってみんな仲が良い、ということはないと思う。近所に住んでいるからって、長い間共にいるからって、誰も彼もが仲良しのはずがない。むしろ逆のことだってあるだろう。 それならそれで構わない。嫌われていたのだと確実に分かれば、嬉しくはないけれど、惑うことはなくなる。だけど中在家君は、私を完全に拒絶することもしないから。 ……頭でいくら考えても、今の私の中には答えがないのだ。自然に思い出せるのを待つか、中在家君に教えてもらうか。そのどちらかが出来なければ。 「…………」 しばらくの間ぼうっとしていたけれど、ふと気づいて、私は膝に押しつけていた顔を上げた。ひんやりと、頬を夜風が撫でる。気配。隠そうとはしていない後ろからのそれに、ゆっくりと振り向いた。 「……よっと! おお、思ったより高いな、ここ!」 「あれ、小平太?」 とん、と軽い身のこなしで屋根の上にのぼってきたのは、私のよく知る同年の男子生徒だった。 「よー、!」 小平太は私と目を合わせて笑うと、こちらに歩いてきて、私の隣に腰を下ろした。今まで外で走り回っていたのか、いつものようにあちこち泥だらけだ。 「なに、小平太どうしたの?」 「それは私の台詞だろー。晩飯前に走ってたら、が屋根の上にいるのが見えたから、なにしてんのかと思って私も来たんだ。自主トレしてんのか? バレーなら私も一緒にやるぞ!」 「んー。さすがに小平太みたいに屋根の上でバレーは出来ないよ。ちょっと考え事してただけ」 苦笑すると、小平太は「あー」と右に左に首を傾げ、それから「そっか」と頷いて、ごろんと後ろに仰向けに倒れ込んだ。 ざわっと少し強い風が吹いて、私と小平太の髪が揺れる。大きな犬の尻尾みたいな小平太の髪がなびくのをじっと見ていると、空を見上げたまま小平太が口を開く。 「なぁー」 「なに?」 「月、出てるなー」 「そうだね、今夜は三日月だね」 言われて、私も空を見上げた。細い月が、さっき見たときよりも輝きを増して浮かんでいる。なんとなく慣れで頭の中の星図と照らし合わせていると、隣からまた「なぁー」と名を呼ばれた。 「ん? なに、小平太」 「ごめんな」 「……え?」 唐突な謝罪に、きょとんとした。思わず小平太を見下ろすと、小平太は「よっ」と身体を起こし、私と視線を合わせる。珍しい、少し真面目な面持ちで。 「、ごめんな。私、あのときよく分かってなかったんだ」 「……あのとき?」 「昨日だ。私、お前に嫌なことばっかり言っただろ」 じっと、私の顔を見る小平太の目。その言葉でようやく、昨日私が中在家君を忘れてしまったとき、小平太が酷く怒っていたことかと理解した。どうして忘れたんだ、嘘じゃないのかと、小平太は私に幾度も強く言葉をぶつけていたから。 でも、私にもその気持ちはよく分かる。私がもし小平太の立場だったらと考えると、仕方ないと思えるから。 「……そんなの、怒ってないし気にしてないよ」 実際気にしていなかったからそう言ったのに、小平太の少し硬い表情は変わらず、私を見つめたまま、また口を開く。 「私な、ばかなんだ」 「え?」 「考えるの苦手だから、お前の気持ちとか全然分かってなかった。ずっと、長次が可哀想だとしか思ってなかったんだ。でもお前だって、思い出せないって辛いんだよな」 「……小平太、もしかしてそれを謝りにきてくれたの?」 「ああ。朝から探してたけど、お前全然見つからなかったから。ほんとは、今もずっと探してたんだ」 あっさり頷く小平太に、私はなんだか嬉しくなった。小平太のこういう真っ直ぐなところが、私は好きだ。 探してくれたけど見つからなかったというのは、単に私が中在家君を避けていた結果なのだろうから、申し訳ないけど。 「だから、ごめんな」 「うん。私もごめんね」 「ん? なんでが謝るんだ」 「……なんとなく」 「そっか。じゃあ、これで終わりな!」 「うん」 にっと嬉しそうに微笑む小平太に、私も微笑み返す。もともと気にしていなかったことだけど、山本先生のときと同じで、その心遣いに気持ちが少し楽になった。 そしてその次に、今の状況を改めて思って、今度は気持ちの違う場所が重くなる。 「あのね、小平太」 「ん?」 私は覚えていないけれど、小平太は中在家君と同室だ。小平太はきっと、私達のことをよく知っているのだろう。私は屋根の上に座り直し、身体ごと小平太に向き直る。 「教えて欲しいことがあるの」 「なんだ?」 私に倣って、小平太も私に身体を向けてくれる。小首を傾げる小平太と視線を合わせ、私はずっと悩んでいたことを口にした。 「あの……中在家君は、私のことが嫌いなの?」 「……は?」 言った途端、小平太が間の抜けた声を出す。さっきみたいに「うーん」と首を右と左に傾け、それから珍しく困ったような面持ちで言う。 「なんでそう思うんだ? 長次がお前に、お前なんか嫌いだって言ったのか」 「そうじゃないけど……じゃあ、嫌われてはいないけど、そんなに仲が良くなかったとか?」 小平太の眉がひそめられる。なんとか理解しようとして出来ないような顔で唸った後、はーーーーっと大きなため息が漏れた。 「あのな。私やっぱり考えるの苦手だから、そのまんま言うぞ。長次がお前を嫌いなはずないだろ」 「でも……」 「なんでそんなこと言うんだよ、だいたい……あー……えーと、もしかして、長次のことが怖いのか? 長次確かにあんまり喋らないけど、いい奴だぞ」 「そうじゃなくて……」 いいひとか、悪いひとか、そう聞かれたなら、中在家君はたぶんいいひとなのだろう。私はあのひとになにもされていない。暴言を吐かれたことどころか、睨まれたことすらないのだから。 ただ、分からないのだ。望まれているのか、そうでないかすらも。 「じゃあ……中在家君と私は仲が良かったの?」 「ちょっと待て。その前に、なんでお前長次のこと中在家君なんて呼ぶんだよ。お前にとっては知らない奴だから呼びにくいかもしれないけど、そんなの変だろ。長次はなにも言わないのか」 「……え。だって、中在家君がそう呼べって言ったから」 「は? お前、ずっと昔から長次のこと呼び捨てだったぞ」 怪訝そうな小平太の言葉に、胸の奥が、みし、と軽く軋むのを感じる。 ああ、まただ。また、あのひとのことが分からなくなる。 「……呼び捨て? 私、長次って呼んでたってこと?」 「そーだぞ。長次、なんでそんなこと言ったんだろうな。あ、一度そうやって呼んで欲しかったんじゃないのか?」 小平太はなんだかおかしそうに笑うけれど、私にはとてもそうは思えなかった。どうしてわざわざ、前と違う呼ばせ方をするのか。そんなの、私にはただ一つの理由しか思いつかない。……そう。 「じゃあ私、やっぱり中在家君と仲が良かった?」 「さっきからの言ってることがよく分かんないぞ。そんなの当たり前じゃん、一昨日だって夜にこっちの部屋に来ただろ」 「……そうなの?」 「ん? あ、そっか。長次のことだから覚えてないんだよな。あー、ややこしいなー。えーとだな、そうだ、お前は一昨日の夜、長次と一緒にいたんだ。私は委員会の夜間マラソンで部屋にいなかったけど、『朝まで帰ってこないでくれ』って長次に言われてたし」 なんかあいつ珍しく必死だった、とうんうんと頷く小平太の言葉に、私は違和感を覚える。 「一昨日の夜……」 違和感。それがなんなのかと考えて、少しして気がついた。一昨日の夜、私が中在家君を忘れてしまった前の夜。私はずっと自分の部屋で寝ていたのだと思っていたけれど、あれは『部屋の外に出た記憶がない』というだけだ。よくよく考えれば、私の頭の中には『部屋にずっといた記憶もない』。 ……そうだ。中在家君と一緒にいたから、それごと忘れてしまったのだ。 「なんだ? どうした?」 「ん……ううん。あの、つまり私、よく中在家君の部屋に遊びに行ってたの? あ、本を借りに行ったりとか?」 「遊びって……なに言ってんだよ」 にやにやと、なぜか急にからかうような表情になった小平太の言葉に、私は一瞬、呼吸を忘れた。 「恋仲が夜中に相手のとこ行って、そんですることなんて一つじゃん」 みしり、と。また胸の奥が軋む。分からなくなる。また、分からなくなる。 「恋仲……? 私と中在家君が? 幼なじみだっただけじゃなくて?」 信じられない思いで問う私に、小平太が「あれ?」と目を丸くする。 「もしかして長次、そのことお前に言ってないのか? 長次もばかだなあ、一番大事なことだろ」 な、と小平太は同意を求めるように、私に笑顔を向ける。明るい、裏なんて絶対ない、なんだか嬉しそうな顔。 「お前と長次は、恋仲なんだ。一昨日の夜はな、お前は長次に会いに来たんだ」 恋仲。 恋仲。 恋仲。 そのたった二文字の単語が、私の頭の中に埋め尽くされる。 恋仲。……恋仲。私と、中在家君が。 「…………あ」 ──ふと。頭の中に、唐突にあることが思い出された。差し出されたそれと、受け取った私。 私の記憶の中には、やっぱり中在家君はいない。でも。 「ごめん小平太、私部屋に帰るね」 「お、どうした?」 不思議そうな小平太の視線を感じながら、立ち上がる。どくん、と鼓動が鳴り響く。 屋根の端へと足を進め、そのまま勢いよく地面に飛び降りた。足裏が砂の感触を踏みしめたとき、上から「!」と声が響く。 振り向いて見上げると、屋根の上から、小平太が私を見下ろしていた。私に真っ直ぐ届いてくる、真剣な声と視線。 「あのな。長次、昨日の夜吐いてたみたいなんだ。ほとんど寝てもいなかったし、今日も一日ずっと迷子みたいな顔してた。私な、それ見て思ったんだ。長次がこんなに苦しんでるのに、お前が辛くないわけないって」 小平太の言葉の意味を、今の私は理解出来ない。本当のことなのかも分からない。……それでも、どくどくと、血の巡りが早くなっていく。 「、時間がかかってもいいから、長次のことを思い出してやってくれ。それがもし出来なかったら、せめて長次の傍にいてやってくれ。……あいつはな、お前のことが好きなんだ」 恋仲。 反射的に頷こうとしてしまい、寸前で躊躇い、私はただ小平太を見上げた。小平太は返事が出来ない私に困ったように笑って、目で『行ってくれ』と言う。 私の頭は、たぶん今までで一番、混乱していた。分からない。小平太の言うことも、中在家君が言っていたことも、なにが正しくてなにが間違っているのか、今の私には分からない。 けれど、以前の私は、そのすべてを理解していたはずなのだ。 「ありがとう、小平太」 背を向けて、自分の部屋へと走り出した。 「あ、おかえりなさい先ぱ……先輩?」 声をかけてくれる後輩に返事も出来ず、私は足早に部屋の中に駆け込んで、そのまま一直線に押し入れへと向かう。二段造りの押し入れの下側、布団の隣に置いてある私の行李を引き出して、乱暴に蓋を外して中を覗く。 下着の替え、外出用の小袖、夏用の薄い敷布、それらすべてを外に出して、行李の奥に仕舞っていた小物入れを取り出した。 紅、白粉、眉墨などの化粧品、学園に入った祝いにと父に買ってもらった飾り紐、友達と市に行ったときに揃いで買った塗り櫛、これも、それも、すべて覚えている。 その中で一つだけ、真新しい簪があった。まだほとんど使っていないのか、新品同然にきらきらしてる。若い女の人用の、薄桃色の珊瑚の装飾。丁寧な作りの、一目で高いものだと分かるものだ。 ……覚えている。誰かから手渡しでもらったことは覚えている。 すごくすごく嬉しかったことも覚えている。 だけど、それが誰だったのかが思い出せない。 「っ……」 ぎゅっと簪を握り締めると、細かな装飾が手に食い込んで、鈍い痛みを感じた。でもそれよりも、今は混乱した頭と心のほうが痛い。 ああ本当だ。そうなんだ。 中在家長次。 拒絶することなく、押しつけることもなく、ただじっと私を見つめていた、あのひと。 ──思い出さなくていい あの言葉が頭を回る。無理して思い出さなくていい、と。 簪が入っていた箱には、短い文字が書いてあった。小さく、確かに私の字で。 『生まれ月に、長次から』 ──私は。どうして忘れてしまったのだろう。 「先輩……? あの、どうなさったんですか?」 恐る恐るかけられた声に、ゆっくりと顔を上げた。戸惑った表情で、心配そうに顔を覗き込んでくれる、同室の後輩。 「あのね、教えて欲しいの。私、恋仲の相手がいるの、知ってる?」 「え……中在家先輩がどうかしましたか」 後輩は躊躇いもなく答える。うん、そうなんだろうね。それに間違いがないのはもう分かった。 「私ね、二日前にこの部屋にいた? いなかった?」 突然の問いに、後輩は怪訝そうにちらちらと私を見ていたけれど、えっと、と思い出すように目を瞬かせる。 「二日前って……お休みの前の日ですよね? いつ頃のことですか」 「夜、かな」 「あ、それでしたら先輩、お風呂から上がった後、中在家先輩のお部屋に行くって出て行かれたじゃないですか。次の日までお戻りにならなかったと思いますけど……それがどうかしましたか?」 「ん……そっか」 「先輩、中在家先輩と仲良いですもんね。あ、その簪、中在家先輩からの贈り物ですよね。わざわざ福富屋さんに頼んで取り寄せてもらったっていう。いいなあ、すごく綺麗ですね」 ──恋仲。 ああ、そうなのだ。 今までの中在家君の様子からは、とてもそうとは思えなかった。だけどその反面、すごくしっくり行く気もする。 あのひとが、私と距離を取っているかのように思えた理由。 きっと『前の私』は、あのひとに愛されていたのだろう。 今の私ではなくて。 「あの先輩……どうなさったんですか?」 「……ううん、なんでもないの。ありがとう」 ようやくに、簪を握り締めていた手を開く。震える指で箱へと直し、散らかしてしまった行李の中身を元に戻した。 欠落した記憶。穴が空いたかのような喪失感と、胸の痛み。 私が忘れてしまったすべて。 取り戻したいと、強く思った。 →八話『三日目』 |