綾部喜八郎夢
二話『落とす理由』後編





 もやもやもやもやしたまま、夜になった。
 そのせいで全然眠くならないので、明日に落ちてもらうための穴でも掘ろうかと、部屋を抜け出した。
 静まり返った長屋。今日は大分月の光が強くて明るいから、見回りの先生に見つからないようにと素早く庭に下りて、図書室に向かう。どこかで自主トレでもしている生徒がいるのか、遠くからギンギンとかいけいけどんどんとか聞こえてきたけど、いつものことなので気にしなかった。
 廊下を幾つか渡ったところに、図書室がある。にどこに落ちてもらおうかと考えながら歩いていて、けれどそれを考えながらも、昼間から引きずるよく分からない嫌な感じがまた湧き上がってくるのを感じる。
 僕はなにが嫌なんだろう。がどうして恋の話が好きなのかが気になって、それをみんなに尋ねて、結局よくは理解出来なかったけれど、それはが恋をしたいからじゃないかと、タカ丸さんが教えてくれた。
 それから、ずっと嫌な感じが続いている。

 ようは僕は、が恋をしたいっていうのが気に食わないんだろうか。
 本を読んで欲しくないと思うのと同じように、が好きなものが、嫌なんだろうか。

 なんとなく、分かりかけてきたような気がした。
 僕は『が好きなもの』が気に食わない。でも、それがなんなのかはとても気になる。
 それは……それは、もしかしたら。

 あと少しで分かるような気がして考えていたら、ふと視界の端に気づいて足を止める。
 食堂近くの庭に、僕が随分前に掘った穴がぽっかりと開いていた。確かきちんと目印をつけておいたから、誰か運の悪い生徒でも落ちたんだろう。あまり先生の目につくところにぽこぽこ穴を開けていたら注意されるから埋め直そうかと、そう思って近づいて。

「あ、綾部」

 穴の中を覗いて、唖然とした。
 結構深く掘ったらしいその穴の中にがいて、僕の顔を見て軽く目を見開いていた。
「……なにしてるの、。こんな夜中に」
「落ちました」
「うん、それは分かってるけど、なんで」
「なんでって……綾部さんが穴を掘るからですけど」
 いつものように、は僕をじとっと睨み付ける。
 突然のことに言葉を返せないでいると、は「うーん」と軽く伸びをした。こんな穴の中で本を読んでいたのか、開いていた本を閉じる。
「教室に本を忘れてたことに気づいて取りに行ったら、帰りに落ちたの。出るのが面倒だったから本読んでたら、こんな時間になっちゃった」
 もう真夜中だね、とは月の位置を確認して軽く笑う。その時には、僕もようやく落ち着きを取り戻していた。
「……これは、を落とそうとして掘ったんじゃないよ」
「うん、分かってる。綾部が近くにいるかと思って呼んだけど、出てこなかったし」
「一応、これには目印つけてたんだけど。また歩きながら本読んでたの」
「うん」
 頷かれて、そう、とだけ答えた。
 ずっとのことを考えていたから、思いも寄らぬところで会ったことに、僕は必要以上に動揺していた。でもはいつもと同じ様子で、本を持って穴の底から立ち上がる。
「一人じゃ出にくいから、手伝ってくれる?」
「……うん」
 が手渡す本を先に受け取って、隣に置いた。穴を覗いて、手を伸ばす。の手に触れる。その時、なにかよく分からない震えが走る。それを不思議に思いながら、震えのせいで離さないようにと、の手を強く掴んだ。
 も僕の腕を掴んだのを確認して、力を入れて引き上げる。
「わっ!」
 力を入れすぎたのか、穴の外に出た途端に、が声を上げて前に倒れそうになる。僕は咄嗟にを受け止めようとしたのに、の身体が僕にぶつかって、頬と頬が微かに触れたのを感じたその時、動けなくなった。
 背中が地面に叩きつけられる。痛む背中と、僕の上に倒れ込んでいる。柔らかくて、僕よりもよほど華奢なその重みに、頭に血が昇る。
「ん……いたたたた、ごめん綾部、大丈夫?」
 ゆっくりと僕から身体を起こして、は僕の顔を覗き込む。月明かりの下、見下ろされている僕にはの顔はよく見えなかったけど、その顔の近さと未だにすぐ傍に感じるの体温とに、どくん、と一つ鼓動が鳴った。
「ん? 綾部?」
「大丈夫」
 心配そうな顔つきのに、慌てて起き上がる。は「そう?」としばらく心配そうにしてから、立ち上がって本を拾い上げた。
「あ、でもよく考えたら綾部が掘った穴だもんね、これくらい別にいいよね」
 どこか楽しそうに笑って、はまだ座り込んだままの僕に手を差し伸べる。一瞬だけ躊躇して、それからすぐにその手を借りて起き上がった。
 手の温もりに、先程と同じ強さで鼓動が鳴る。柔らかいの手が離れるのが、惜しいと思う。
「ありがと、綾部。じゃあ私は部屋に戻るから。綾部は今からまた穴掘り?」
 ふわ、と軽く欠伸をして踵を返しかけるに、「うん」とだけ頷く。そう、とは軽く手を振って、「おやすみ」と僕に背を向けた。
「…………ん」
 咄嗟にそれを引き止めようとして、止める。もう大分歩いてしまっているに、届かないと知りながらも「おやすみ」と返した。

 ──頭に血が昇る。
 触れた頬と頬、受けたの身体の重み、重ねた手、それを思い出すだけで頭が変になる。近かったの顔も、声も、気配も、体温も、全部、僕を変にする。


 ──好きだからだ、のことが。


 理解した瞬間、身体の中に風が通り抜けたみたいに、分からなかった全部が塗り替えられた。


 が好きだから、穴に落としたかった。
 そうするとは僕を呼んでくれて、怒ってくれて、少しでも話が出来るから。

 が好きだから、穴の中にいて欲しかった。
 そうすればその時だけは、が僕のものになってくれたような気がするから。

 が好きだから、『の好きなもの』が嫌だった。
 それがあると、邪魔だから。が僕を見てくれないから。



 恋。



 自覚はほんの一瞬だった。今まで疑問だったことが瞬く間に解けて、僕には一つだけの事実が残る。

 が好きなんだという、それだけの事実が。

「…………」
 頭に血が昇ったまま、軽く拳を握る。
 僕を変にするの全部が、身体に染みついて離れない。欲しいと、そう願う想いが離れない。

 恋ってなんだろう。

 数刻前まで悩んでいた自分に、軽く苛立ちが募る。
 滝夜叉丸と三木ヱ門が言っていたことが、正しかったのだと今更に思う。


 僕はが好きで、恋をしていて。


 の全部が、欲しくてたまらない。





























 放課後、いつものように庭の木の下で読書をしていたら、ざわっと木が揺れた。
 なんだろうと見上げると、ひらひらと木の葉が舞い降りてきた。同時に、よく知った気配が隣に下りてくる。
 いつものようになにを考えているのか分からない、無表情の穴掘り小僧。
「あれ、綾部」
「……、また本読んでるの?」
「うん、いつも通り。昨日ぶりだね、綾部」
 昨日の夜偶然に会ったことを指して言うと、綾部は軽く頷いて私の隣に座る。その時、綾部から土の匂いがしないことに気づく。昨日だって私と別れてから掘っていたはずなのに、あの後お風呂に入ったんだろうか。でも綾部に限って、今日の朝から今まで掘らないなんてあるだろうか。それを珍しく思ってじろじろ見てたら、綾部は綾部でじっと私の手元を見つめていた。それが私の読みかけの本だと気づいて、首を傾げる。
「なに? あ、綾部もこれ読む?」
 冗談交じりにそう言うと、即座にふるふる首を横に振られた。自分でも冗談のつもりだったのに、即答されるとちょっと腹が立つ。このやろー。
「面白いのになぁ……」
、前読んでた本、もう読んだの?」
「ん? どれのこと?」
 どの本を指してるか分からなくて尋ねると、綾部はほんの少し逡巡した素振りを見せてから、「恋、とかなんとか」と呟いた。
「ああ、あれね。うん、読んだよ。昨日の夜もね、綾部に会う前に読んじゃったから、教室に本取りに行ったの」
「面白かった?」
「ん……まあね」
 ああいう本は、先が見えているからこそ面白い。想像通りの大団円で、つまりは安心して読める本だから。
「ふーん……」
 自分で聞いたくせに、どこかつまらなそうに、綾部はふいっと視線を逸らす。
「どしたの、綾部?」
「別に……」
「なに、もしかしてなにか怒ってるの?」
 土の匂いがしない綾部も珍しいけど、なんとなくでも感情が分かる綾部はもっと珍しい。私が怒らせたのだろうかという焦りよりもずっとそれに驚いて、まじまじと綾部の顔を覗き込む。
「……怒ってないよ」
 綾部は私を見て呟くと、また顔を逸らして俯いた。……確かに、自分の言動を思い出しても、怒らせるようなことはしなかったと思う。もともとなにを考えているのか分からない男だけど。
「そっか」
 ならいいや、と私は読んでいた本を閉じて隣に置いた。それに綾部は軽く驚いたように、私に視線を向ける。
「本……読まないの?」
「え、だって綾部がいるじゃない」
 いくら私でも、人が隣にいるのに本を読んだりしない。今日の綾部はどこか変だし、それにちょっと興味が湧いていたということもあったけど。
「……そう」
 ぽつりと呟いて、綾部は結局また俯いた。やっぱり珍しい。いつもなら、もっと勝手気ままに見える男なのに。
 気になる。とは言え、男の顔を何度も覗き込むのもどうかと思う。でも気になる。ちらちらと綾部の顔を窺っていると、ふいに綾部がこちらを向いた。
「……ねぇ、
「なに?」
「僕ね、分かったんだ。どうしてを穴に落としたいのか」
「ん」
 ほんの一瞬考えて、ああ、と思い当たる。そういえば私は、綾部が私を狙って穴に落とすことを『楽しいから』なのだと決めつけていたけど、本人は理由が分からないと言っていて、さらにそれを『考えておく』と私と約束していたのだ。すっかり忘れてた。
 でもどうせ綾部のことだから、ろくでもない理由に違いない。私はさほど期待もせずに、綾部の顔を見つめ返して、尋ねた。
「で、なんなの?」
「…………」
 綾部は何秒か沈黙すると、やがて視線を逸らして上を見た。それから、ぽつりと。

「好きだから──かな」

 ほほう。意図に気づいて頬をひきつらせた途端、案の定、綾部が言葉を続ける。
「……を、穴に落とすのが」
「そのまんまじゃない」
 冷ややかに睨むと、綾部はほんの僅かに微笑んだ。このやろー。
「ま、いっか。どうせそんなことだろうと思ってたしね」
 すぐに諦める。そうだそうだ、この男はこういう男だった。なんかいつもと様子が違うから油断してた。
「……落ちるの、そんなに嫌?」
「嫌だって言っても絶対落とすでしょ、あんた。いいよもう、天変地異だと思って諦めるから」
 明日から本を読みながら歩くのはやめようかなーとちょっと思って、あ、無理だ、とそれも諦めた。本を読むのは私に完全に染みついた習慣で、それをやめるのはまず無理だ、うん、無理。多分気をつけてても、無意識にしてしまうだろう。
 ふー、とため息を吐く。綾部が、まだ微かに笑ってる気配がする。しつこい。もしかしてこの男、単に私をからかうのが好きなだけなんじゃないだろうか、そう思い始めた時、ふいにぽつりと綾部が言った。
「ねぇ、。僕以外が掘った穴に落ちないでね」
 きょとんとしてから、言葉の意味に気づいて顔をひきつらせた。なに言ってんのこいつ。
「どんな歪んだ独占欲よ」
「本気なんだけど」
「そうでしょーとも」
 こいつ、どれだけ私の落ちっぷりが気に入ってるんだ。少しは腹も立つけど、これだけ落ちろ落ちろ言われてればいい加減に慣れもする。
「分かったから、あんたも呼んだらすぐ来てよ。穴から出るの面倒くさいから」
 暗に『あんたが落としてんだから助けろ』と多少皮肉って言っているのに、さすがに今更そんな皮肉は通じないらしく、綾部は無視するように黙ってしまう。……ま、いっか。
 綾部に穴に落とされまくってても、何度言っても止めようとしなくても、挙げ句の果てに僕以外の穴に落ちないでとか言われても、私は腹が立ちつつも綾部を嫌いにはなれなかった。綾部に関しては本当に分からないことだらけなのに、私はなんとなく、この男と一緒にいるのが気に入ってるのかもしれない。
 土の匂いがしなくても、綾部の気配が確かに隣にある。それが妙に落ち着く。なんにも喋ってないのに、気まずくない。不思議だなぁと思っていると、綾部がふいに口を開く。
 微かに聞こえるような、小さな声で。

「……必ず行くから」

 なんのことかと首を捻って、ようやくさっきの答えなのだと気がついた。なんでそんなに答えるのが遅いんだろう。
 思いながらも、ほっとする。昨日の夜、呼んでも綾部が来ないのが妙に不安だったから。いつも傍に待機してるくせに、なんでここにはいないんだろうって。
 だから、私は嬉しくなって微笑んだ。

「うん、待ってるね」




















 終

 →三話『好きだと一言』前編