綾部喜八郎夢
二話『落とす理由』前編





 その日も私は、本を読みながら歩いていた。

 図書室から借りてきた本に視線を落としながら、ほとんど勘と僅かな視界の端だけに頼って、長屋への道を進んでいく。
 私は本が大好きだ。文字だけで構成される世界と、たくさんの新しい知識を頭に詰め込んで行くのが凄く楽しい。けれど本は古書であっても高いから、私みたいな子どもにはとても手が届かない。だから、私が手にする本はほぼ全てがこの学園の図書室から借りてくるもので、私は日参と言って良いほどに図書室の常連になっていた。
 本の形さえしていれば大抵どんなものでも読むけど、今日手にした本は私が一番好きな種類の本だった。大きな城のお姫様と、町民の青年との身分違いの恋物語。正直「そんなわけあるかい」と思ってしまう場面がないわけじゃないけど、現実にはないからこそ面白いというのも、本の素敵なところだ。
 恋に憧れがないとは言わない。いつかは私もこんな燃え上がるような恋を! ……とまでは全く思わないけど、人並みの恋というものは一度経験してみたかった。その人の傍にいるとドキドキするとか、告白されるときの幸福感とか。まぁ今は全然その兆しすらないけれど、と思いながら、長屋を下りて庭を何歩か歩き出した、その途端。


 ずぼ、どすん。


「………………」

 私はひとまず、自分を呪った。地面の上を歩くときは気をつけなければならないのだと理解していたのに、こうしてまた穴に落ちた自分の馬鹿さ加減を呪った。そして、張本人のはずの飄々としたあの男の顔を思い浮かべて、苛立ちが募る。ここ二日ほど落ちていなかったから油断した。とは言え、悪いのはあいつだ。明らかにあいつだ、私じゃない。
「綾部……!」
 呪詛を込めてその名を呼んでから、とりあえずいつものように読んでいた本に汚れがないかを確認する。大丈夫そうなのを確認してから、次は身体の具合を確かめた。この間、同じように穴に落とされて足首を捻挫したところなのに、またどこか怪我をしていたら……と思ったところで気がついた。
「あれ?」
 穴の底の感触がいつもと違う。剥き出しの地面ではなく、木の葉が少し積もっているのだ。そういえば、いつも程には身体が痛まない。
 木の葉はさほどの量じゃなかったから、完全に落下の勢いを消すことは無理だろうけど、それでも衝撃が大分マシになったはずだ。なんでこんなの敷いてあるんだろう、と首を捻っていると、上から声が降ってきた。

「あ、きた」
 いつものように、私が落ちた穴を覗き込むモグラ男、綾部喜八郎。感情の読み取りにくい顔は、これまたいつも通りに端正に整っていて、それにもむかっ腹がくる。
「また落ちたんだね」
「ええ、綾部さんのせいでね」
「さっきから見てたけど、本読みながら歩くのは危ないよ」
「落とした張本人が言っていい台詞じゃないと思うんだけど! ……てかあんた、やっぱり落ちるの分かっててどっかで待機してるでしょ!」
 叫んでから、私はやれやれとため息を吐く。本当に正直に言うと、もう私は綾部が掘った穴に落ちるのに慣れていた。非常に悔しいことながら、今では前と比べて大して腹も立たない。人の順応性って上手く出来てるなぁとしみじみ思う。……慣れてどうする、とも思うけど。
「あ、ねぇ綾部」
「なに?」
 見上げる私に、綾部が首を傾げる。私は下に敷いてある木の葉をぽんぽんと叩きながら、「これ、なに?」と尋ねた。
「なにかの罠? は! もしや上から火種を落として焼き芋よろしく私を焼いてしまおうと……なわけないし」
「うん、違う」
 さすがに穴に落とされまくってる私でも、そこまで綾部が非情だとは思っていない。穴に落とすという所業以外で、綾部は基本的に私を傷つけようとしない。いや、普通の人は穴にも落とさないんだけど。
「じゃあ、これなんなの?」
「……が、この間落ちた時に、言ってたから」
「なにを?」
「いつもいつもお尻痛いって。だから」
「……は?」
 あっさり言ってのける綾部に、私は首を捻る。穴に落ちるときは大抵無防備だから、綺麗に着地出来ることなんてまずなくて、ほとんどお尻から落っこちることになる。だからお尻が痛いのは当たり前で、どこかでそんなことを言っていても少しもおかしくない……んだけど。
「それで、痛くないようにって?」
「……うん」
「へぇ」
 なんか、普通の人らしい配慮に驚く。綾部でも人が嫌がることは気にするんだ。お尻が痛くないことは確かに良いことだし、これに関しては綾部に感謝……じゃなくて。今ちょっと感動しかけたけど、これ明らかに間違ってる!
「そもそも『落とさない』って選択肢はやっぱりないんですね、綾部さん!」
「…………」
 気づかれた、とでも言うように、綾部がふいっと視線を逸らす。うおおお腹立つ!
「あ、しかもよくよく考えたらこれ、私専用の穴ってことよね!? あんたやっぱ私を狙って落とそうとしてるじゃない!」
「うん、そうだよ」
 言い切った! ……言い切った!!!!
 綾部は今更なにを言ってるんだろうとでも言いたげな、不思議そうな顔になる。
「前に言ったよね、を穴に落とさないようにするのは無理って」
「ああ、言ってたね。信じたくないけど確かに言ってたよ、うん……」
 なんで綾部は私をこうも執拗に落とすのか。本人は分からないなどと言ってるけど、単に私は『穴に落ちやすい』(本を読みながら歩いてたりするからだ)、私のことがそういう意味で気に入ってるからだと思っている。私はあんたの玩具かい。
「……いいや。綾部ちょっとどいて、出るから」
 まぁ、綾部になにを言っても仕方ない。怪我をしないようにと配慮してくれただけでも良しとしなければと、私は穴の底から立ち上がる。今回の穴はさほど深くなくて、私一人でも簡単に出られそうだった。
「あ、綾部これ持ってて」
 穴の中から、本を手渡した。出るときに邪魔になるし、汚したら本に申し訳ない。
 私が差し出した本を受け取って、綾部は穴から身を引いた。穴の縁に手をかけて、私は一気に外に出る。
「……よっと」
 穴から出て、軽く装束の汚れを落とす。太股についてきた木の葉をたたき落としてから、本を返してもらおうと綾部を見た。
「ありがと、綾部。もういいよ」
 私が手渡した本をじっと見つめていた綾部は、私の声にようやく気づいたように「ん」と顔を上げて、私に本を差し出した。
「はい」
「ありがと」
「……は、本当に本ばっかり読んでるよね」
「ん? まぁね、好きだもん。……あ、あー……そうだ、あんたそういえばわけ分かんないこと言ってたね……」
 思い出して、顔をひきつらせた。少し前、綾部は執拗に私を穴に落としつつ、妙なことを言っていた。『僕ね、あんまりに本を読んで欲しくないんだ』とかなんとか。その理由も分からないと綾部は言っていたけれど。
 ……ほんと、わけが分からない。
「その本、面白い?」
「うん、私は好きだよ。本は大抵なんでも読むけど、こういう話は特に好きかな。読んでて楽しいし面白いから」
 綾部が本の話に乗ってくるなんて珍しい。驚きつつ、私はちょっと嬉しくなる。たとえ綾部が相手でも、自分が好きなものを話すのは楽しかった。
「ふうん……」
「そういえば綾部は本読まないの? 面白いのに」
 問うと、ん、と綾部は微かに首を傾げた。それから、沈黙。
「ごめん。あんたに穴掘る以外の趣味があるわけなかった……」
 納得する。んじゃそろそろ帰ろうかと背を向けかけた時、綾部が私を呼び止める。

「……ん、なに?」
 綾部はほんの一瞬押し黙り、それからすぐに首を横に振った。
「やっぱりいい」
「……あ、そう。んじゃね綾部」
 軽く手を振って、私は今度こそ綾部に背を向ける。最近、綾部はこういうことが多くなった。名前を呼んで、そしてすぐになんでもないと首を振るのだ。変なの。
 綾部に関しては本当に分からないことだらけだなと思いながら、私は続きを読もうかと脇に抱えていた本を取り出す。歩きながら本を読むと危ないときちんと理解していても、続きを読みたいという思いのほうが強いのだから仕方ない。……だから穴に落ちるんだと分かっちゃいるのに。
 そういえば、綾部はなぜかこの本をじっと見つめていた。なにか引っかかるところでもあったんだろうかと表紙を見ても、ただ簡潔に『恋草子』と書かれているだけだ。……綾部も本を読めばいいのに。
 そう思いつつ、頁をめくる。そして、さっきの続きを読み出した。








 恋って、なんだっけ。

 さっき穴に落ちたばっかりなのに、また本を読み始めているが去っていくのを見ながら(あっちにも掘っておけばよかった)、僕は首を捻る。の持っていた本、恋なんとか。別に恋という単語自体が分からないんじゃなくて、それが面白いということが分からない。もともと僕は本を読まなくて、は逆に本しか読まないから、価値観が違っていて当たり前だけど。
 が去った方向と反対、忍たま長屋に歩き出す。
 恋。恋。恋……?
 並べれば並べるほどにわけが分からなくなってくる。でも気になる。が、好きな本だと言ったからだろうか。
 はしょっちゅう穴に落ちてくれるし、落ちた後にはぷりぷり怒りながら僕を呼んでくれる。それが妙に楽しくて張り切るから、はまた僕の掘った穴に落ちて、ますます怒ることになる。
 自分でも、よく分からない。を落とすのは楽しい。が掘った穴の中にいてくれるのがとても楽しい。もちろんはいつも怒っているからすぐに出てしまうけど。それでもが落ちているときは、よく分からないけど変に楽しいし嬉しい。

 に穴に落ちて欲しい。
 に穴の中にずっといて欲しい。
 に本を読まないで欲しい。

 その三つを『どうしてなのか考えてみる』と僕はに言った。実際考えてはいるけど、前の二つは『なんとなく楽しいから』っていう答えにしかならなくて、最後の一つは全然分からない。
 うーん。
 今一度考えてみてもやっぱり分からず、僕はそれに微かに居心地の悪い思いを抱く。を落とすのがとても楽しくても、はその答えが欲しいと言っていた。だから一応ずっと考えているのに、ちっとも答えが出ないのは、少しだけに対して悪いなと、そう思う。
 そして、
 ──恋。
 また新しく増えた『分からないこと』に軽く首を傾げる。は本が好きで、そして恋の話が特に好きで。
 だからってなんで気になるのか、それはやっぱり分からないけど、気になるものは気になる。
 ……まぁ、答えが出ないなら仕方ない。明日もに穴に落ちてもらおう。いつものように、そういう結論に行き着く。
 どこで落ちてもらおうかな、やっぱり図書室の前かな。そんなことを考えながら、僕はたどり着いた自分の部屋の戸を開いた。
 部屋の中には、同室の滝夜叉丸が文机の前に座っていた。手入れでもしていたのか、一本の棒手裏剣をじっと眺めている。後ろ手に戸を閉めて、僕は部屋の中を進む。
「……ん、なんだ喜八郎か」
 ちらりと滝夜叉丸がこっちを見て、そしてすぐにまた棒手裏剣の検分に戻る。考え事でもしているのか珍しく静かな滝夜叉丸に、僕はなんとなく声をかけた。
「ねぇ、滝夜叉丸」
「なんだ」
「恋ってなに?」

 ゴン。

 鈍い音がしたと思ったら、滝夜叉丸が文机に頭を打ち付けていた。そのまま震える手で起き上がり、握っていた棒手裏剣を机の上に置く。そして、どこか恐る恐る、僕に視線を向ける。
「い、今お前なんて言った、喜八郎」
「恋ってなに?」
「…………」
 繰り返すと、滝夜叉丸は顔をひきつらせて軽く身を引いた。
「お、お前、悪いものでも食べたのか? それとも熱があるのか?」
 どういう意味だろう。
「分からないなら別にいいよ」
「ま、待て! 分からないなんて言ってないだろう! 成績優秀の私にかかれば、愚問もいいところだ。い、いいか喜八郎、恋というのはだな」
 そこで一瞬押し黙ってから、滝夜叉丸は一度息を吐いた。ほんの少し顔が赤くなっているのを見て、意外に思う。もしかして照れて上手く言えないんだろうか。いつもうんざりするほど、うるさくてうるさくてうるさくてうるさいのに。
 でも一応言う気はあるらしい。滝夜叉丸は少し躊躇った様子で、続けた。
「恋は、だな……。まぁ一概には言えないが、その、相手が傍にいたら胸が高鳴るとか、会ってないときでもずっとそいつのことを考えているとか、こっちを好いて欲しいと思うとか、そういう感情のことだろう」
「……うん」
 それくらいなら、いくら興味のない僕でも知ってる。でもそれだけじゃ足りない。どうしてが恋の話を好きなのか、分からないから。
「滝夜叉丸、恋って楽しい? 面白い?」
 重ねて問うと、滝夜叉丸は眉をひそめた。先程まで照れた様子だったのが一変して、どこか渋い表情になる。やがて滝夜叉丸の口から出たのは、少し苦々しげな声だった。
「楽しくて面白い恋、な。ないとは言わんが、そうではないことのほうが多いと思うぞ。幸せなものもあれば、悲しいものも辛いものも多い。ま、それら全部引っくるめて恋、と言うんだろうがな」
「ふうん……」
 気のない返事をすると、滝夜叉丸がじろりと僕を軽く睨む。
「なんだ喜八郎、せっかく答えてやったというのに。お前、恋をしているのではないのか?」
「え? ……なんで」
「なんでって……じゃあなぜ私にそんなことを聞いたんだ」
 尋ねられて、迷う。別に素直に『が恋の話が好きだって言ってたから、恋ってなんなのか気になった』と言っても構わないんだけど、正直説明するのが面倒だったので、さっさと首を横に振った。
「別に。なんとなく」
「ほー、なんとなく、ね……」
 どこか意味ありげな視線を向けた後、まぁいいか、と滝夜叉丸は肩をすくめて、文机に向かう。と、ふと思いついたように笑った。
「……そうだ喜八郎」
「なに?」
「三木ヱ門のアホが庭で石火矢と戯れてたぞ、あいつに聞いてみればいい」
「…………なんで?」
「石火矢に恋してるアホだ、参考になるんじゃないのか」
 それを言うなら滝夜叉丸だって戦輪に恋してることにならないかと思ったけれど、僕はふうんと頷いて立ち上がった。
「じゃあ行ってくる」
「ああ。だから私にはもう聞くなよ」
 どこか引きつった微笑みで見送る滝夜叉丸に、僕は頷いて部屋を出た。


 部屋を出て少し歩いただけで、三木ヱ門の居場所はすぐに分かった。
 いつものように連れ歩いている石火矢を、庭の端で楽しそうに手入れしている姿が目に入ったからだ。
 庭に下りて、三木ヱ門の元へと向かう。三木ヱ門は近づく僕には気づかないのか、鼻歌交じりに石火矢を丁寧に磨いている。
「……三木ヱ門」
「ん? ……なんだ喜八郎か。私はユリコの手入れで忙しいんだ、なにか用か?」
 明らかに言外に『ユリコとの時間を邪魔するなよ』と含ませている。確かにこの執着は恋に近いのかな、と僕は滝夜叉丸の言葉を思い出す。
「聞きたいことがあるんだけど」
「なんだ。手短に言えよ」
 三木ヱ門は急用でないことを察したのか、こちらに視線も向けずにユリコの手入れに戻った。きゅきゅっとユリコの砲身を磨く三木ヱ門に、僕は尋ねる。
「恋ってなに?」

 ガン。

 次の瞬間、三木ヱ門がユリコの砲身に思いきり頭を打ちつけていた。辺りに響く、鐘の音にも似た高くて鈍い音。
 それから、しばらく沈黙が続いて。
「……ねぇ。痛くないの?」
「い……痛いに決まってるだろうが、いきなりなにを言うんだ喜八郎!」
 がばっと顔を上げて、三木ヱ門が叫ぶ。その額はくっきりと赤くなっていて、見た目にも痛そうで気持ち悪い。
「ユ、ユリコ、ごめんな! 痛かっただろう!? く、くそ、喜八郎、お前なにが目的だ!」
 まるで僕が悪いみたいに、三木ヱ門は僕に詰め寄る。
「真面目に聞いてるんだけど」
「どこが真面目だ! 喜八郎、お前ユリコに謝れ!」
 三木ヱ門には謝らなくていいのかな。そう思いながら、僕は繰り返した。
「真面目だよ。……恋ってなに?」
 再び尋ねると、三木ヱ門は嫌なものでも見たかのようにうっと身体を引いた。恐る恐る、僕の顔を窺って、
「な、なにか悪いものでも食べたのか、喜八郎。それとも風邪か? 体調悪いんだろう?」
 なんでみんな同じ事を言うんだろうか。
「言ったよね、真面目なんだけど」
「そ……そうか。だがな喜八郎……その」
「分からないならいいよ、別に」
 口籠っている三木ヱ門を遮る。答えてくれる気もない相手になにを言っても無駄だろう。けれどその僕の言葉に、三木ヱ門は突然に黙り込んだ。ゆっくり、その目が細められる。気配が変わる。
「ああ、分からないな。恋がなにかなんて、私には分からない」
 声音が急に固くなったので、僕は三木ヱ門に背を向けるのを止めた。三木ヱ門は僕から顔を逸らすと、どこか憎々しげに、どこか自嘲気味に、軽く鼻で笑う。
「それが分かれば、誰も苦労なんてしないだろうさ。馬鹿らしいほど嫉妬して、一人だけで舞い上がって、一人だけで落ち込んで」
「三木ヱ門は、恋を知ってるの」
 聞くと、三木ヱ門は肩をすくめた。ユリコの砲身を軽く撫でながら、
「言っただろう、知らないさ。お前に偉そうに説明出来るほどにはな」
 けれど多分、僕よりは知っているんだろう。まだどこか固い三木ヱ門の気配を不思議に思いながら、僕は滝夜叉丸にした質問を三木ヱ門にも振る。
「じゃあ、三木ヱ門。恋って楽しい? あと、面白い?」
「……は?」
 三木ヱ門は拍子抜けした顔になった。しばし考える素振りを見せてから、今度はどこか醒めたような顔になる。
「そんな恋があってたまるか。……そりゃあ、人それぞれかもしれないけどな、普通はそれだけじゃないものだ。傷ついたり、悲しんだり、苦しんだり」
 滝夜叉丸も三木ヱ門も、ほとんど同じことを言う。じゃあが言ってたのはなんなんだろう。単に恋に関する『本』だから、楽しくて面白くて好きだと言ったんだろうか。
「それで、喜八郎。お前は誰に恋してるんだ?」
 また突然に、三木ヱ門の気配が変わる。今度はからかう色のそれに、僕は眉をひそめる。
「……なんで?」
「なんでって……じゃあお前、どうして恋のことなんか聞いたんだ」
「気になったから」
「だから! どーして気になったんだ!」
 なにかムキになって僕にずずずと迫ってくる三木ヱ門に、少しだけ面倒くさくてどう答えようかと悩んでいたら、ふと後ろからこちらに近づいてくる足音が聞こえてきた。
「やあ。二人とも、なにしてるの?」
「た、タカ丸さんっ!」
 突然の他人の乱入に、三木ヱ門が慌てたように僕から少し離れる。
「こんにちは、二人とも」
「こんにちは」
 いつもほわほわとしているタカ丸さんに、僕は軽く頭を下げた。タカ丸さんは僕と三木ヱ門の微妙な空気を察したのか、不思議そうに首を傾げている。
「なにしてたの? ユリコちゃんの手入れ?」
「そ、そうだったんですけど、喜八郎が変なこと言い出したんですよ」
「変なことってなに?」
 僕に向かって尋ねるタカ丸さんに、僕は口を開く。答えてくれる人は多いほどいいから。
「タカ丸さん、恋ってなんですか?」
「き、喜八郎、お前まさか、手当たり次第に聞いて回ってるのか……!」
 なぜかびっくりしたように、三木ヱ門が顔をひきつらせる。うるさいなぁと思っていると、タカ丸さんがかあっと顔を赤くした。そして、えへへ、となぜか照れる。
「恋かぁ……喜八郎君、大人になったんだねぇ……」
 まるで自分事のように恥ずかしそうにしているタカ丸さんに、僕は無言で首を横に振る。
「あれ、違うの?」
「違うって言い張るんですよ、こいつ」
「ふうん、それじゃあただの憧れかな? でもどっちにしても、恋を意識するようになったら大人だと僕は思うなー」
 にこにこほわほわ幸せそうに、タカ丸さんは笑う。それから、ちょっとだけ真面目な顔つきになった。
「恋がなにか、なんて哲学的だね。でも好きになる感情なんて人によって違うだろうし、『これだ』っていう答えはないんじゃないかな」
「……そうですか」
「うん。でもまぁ、そうだね、喜八郎君もきっと人を好きになったら分かると思うよ」
「今知りたいんです」
 僕がそう言うと、タカ丸さんは腰に手を当てて宙を見た。うーんとタカ丸さんが考えてくれている隣で、三木ヱ門がユリコを連れてゴロゴロ移動している。「邪魔が入ったなユリコ、二人きりになれるところに行こう」とかなんとか言いながら。僕ももう三木ヱ門に用はなかったから、すぐにタカ丸さんに視線を戻した。
「タカ丸さん、一つだけ教えてください」
「ん? なに?」
 恋のことを聞くと、みんな人それぞれだとか一概に言えないだとか言うので、聞いても無駄かもしれないなと思い始めていた。だから、あと一つだけ、がどうして恋が好きなのかだけ、知りたかった。
「恋って、楽しいものですか? 面白いものですか?」
「……誰かが、そう言ってたの?」
 聞いた途端に、聞き返された。どう答えれば良いのか迷ってると、タカ丸さんは苦笑する。
「面白い恋も、楽しい恋も、きっとあるだろうね。でもね、人を好きになる感情は、楽しいことばかりじゃないよ。自分を好きになって欲しいとか、自分だけのものにしたいとか、誰かに取られちゃったらって悩むとか、たくさんの嫌なことと一緒だから」
「じゃあ、どうして恋が好きなんでしょう」
 が、とは言わなかったけれど、タカ丸さんはなにかを察したみたいだった。ほんわり笑って、頷いた。
「きっとそれを喜八郎君に言った人は、恋がしてみたかったんだろうね」
 恋が、してみたい。
 そのタカ丸さんの言葉が、僕の中で揺れる。恋がしてみたい。が。
 その意味を理解しようと考えていると、役目は終えたと言わんばかりにタカ丸さんが「それじゃ頑張ってね」と一度笑って去って行った。その後ろ姿に、ありがとうございますと言うことも頭を下げることも出来ず、僕はただ考え続ける。

 は恋をしたい。
 恋。恋。恋。

 好きな人がいるのが恋で、自分だけのものにしたいって思うのが恋で、傍にいたらどきどきするのが恋で、会ってない時でもずっとその人のことを考えているのが恋で。
 よく分からないけど、胸がざわざわする。嫌な感じ。ぶつけようのない怒りみたいな、そんな複雑な気持ち悪いものが湧き上がってくる。


 は、恋がしたい。
 恋がしたい。
 恋──


 ──それって、どういうことなんだろう。








 →二話『落とす理由』後編