鉢屋三郎夢
一話『初恋』





「お前、あの先輩が好きだろ」

 突然の三郎の言葉に、思わず箸を取り落とした。食器に当たって机の上を転がるそれを目で追うことも出来ず、私はかちんと固まってしまう。
 食堂でなんとなく三郎と一緒になったので、なんとなく一緒に昼食を食べているときだった。数十秒経ち、ようやくほんの少しだけ回復して、私は転がった二本の箸を拾い上げた。対面の席に座っている三郎に、恐る恐る目を向ける。
「……どうして分かったの?」
「アホだなお前。あの先輩って誰のことだって切り返せよ」
「はっ!」
 自分の失態に頭を抱えると、三郎は呆れたように私を睨む。
「……それで隠してるつもりかよ。ばればれなんだよ、お前」
「カ、カマかけただけ? それとも本当に誰か分かってるの?」
 身を乗り出して、三郎に小声で尋ねる。三郎は酷くつまらなそうな顔で、ひょい、と食堂の隅を箸で指した。その場所には一つ年上の先輩達がいて、何人かで賑やかに食事をしている。三郎が指しているのは、その端にいる、一人の先輩。
「…………な、なんで」
 ついさっき三郎にアホだと言われたことも忘れて、私はまた肯定してしまう。三郎はちらりと私を見て、それから無言で食事を再開した。
 かあっと顔が赤くなっていくのが、自分でも分かる。
 三郎の言う通りだった。私は、あの先輩が大好きだった。きっかけはあまり覚えていないけれど、いつ会っても笑顔で『』と声をかけてくれるその先輩に、気づけば初めての恋をしていた。先輩の姿が見えると鼓動が高鳴ったし、名前を聞くだけでも胸を締め付けられるみたいな切なさに襲われたし、勿論今だって……同じ食堂にいるというだけで、ご飯を食べることよりも先輩のほうが気になっていたのは確かだ。でも。
 でも、私があの先輩を好きなことは、まだ親友にだって言ってないのに。どうして三郎には分かったんだろう。それを尋ねようとした時、ぽつりと三郎の声が響いた。

「やめとけよ」

 ぴしゃり、と。私の身体は冷水を浴びせられたように固まった。三郎は興味がないと言わんばかりの無表情で、私のほうを見もせずに続ける。
「あの人、他に好きな人がいるだろ」
「………………」
 胸が、軽く軋む。
 それも、三郎の言う通りだった。私が恋をしている先輩には、好きな人がいる。先輩を好きになってすぐにそのことに気づいたくらい、先輩はその人だけを見ていたから。
 ぎゅう、と箸を握る手に力を込めた。
「うん……知ってるよ」
「……やめとけよ」
 もう一度、なんの感情もこもってない声で、三郎が繰り返す。私は俯く。たくさんの喧噪に混じって聞こえてくる先輩の声が、いつもは嬉しいのに、今は少し悲しい。
 がたん、と音がして、顔を上げる。いつのまにかご飯を食べ終わった三郎が、盆を持って立ち上がっていた。じっと問うように向けられる視線に、私は咄嗟になにかを言おうとして、けれどなにを言えばいいのか分からず沈黙して、──それからようやく、一言だけを返した。
「……でも、あの先輩が好きなの」
 三郎はしばらく沈黙してから、「そうか」とだけ言って、それ以上なにも言わずに食堂を出て行った。一人残された私は、箸を握り直して、食べかけの食事に目を落とす。
「……好きなの」
 ほんの小さく、繰り返す。
 三郎に好きな人が知られたという羞恥よりも、やめておけと言われた切なさのほうが、ずっとずっと心を占めていた。







 があの先輩を好きになるよりも、俺がを好きになるほうが早かった。
 先だから後だからと言うつもりはない、単に事実としてそうだった。
 あの先輩に好きな人がいることにが気づいたのと同じで、俺もを見ているだけでがあの先輩に想いを寄せていることを知った。先輩の好きな人と、先輩と、と、俺と。くだらない、四人並んだ片想いの連鎖。
 恋をした女は綺麗になるとか言われるが、はむしろ暗い顔で落ち込むことが多くなった。もともとのんびりとした性格で明るいほうだったのに、眩しそうに先輩を見ているのはいつも最初だけで、その顔はたちまち悲しげに変わる。は想いを知るとほぼ同時に、その恋が届きにくいことを知ってしまった。だからなのだろう。先輩への想いと共に、想いの届かぬやるせなさと、先輩の想い人に対する嫉妬と、そしてそんな暗い感情を抱く自分に対する嫌悪にまみれて、笑顔を見せることが少なくなった。
 叶いもしない恋など捨ててしまえと、何度も思った。別にのためを思っているわけじゃない。俺はのことが好きだから、他人に恋するを見るのが嫌だという、ただそれだけのことだった。
 けれど、食堂で一緒になったときも、実際に口にするつもりはなかった。口にすればが酷く傷つくと、そのくらいは理解していたからだ。
 それでも、目の前にいる俺のことなど二の次で先輩を気にしているの様子に、腹が立った。なんであの先輩なんかを好きなんだと、そう嫉妬の感情が浮かんだ瞬間、言葉を吐いていた。

 ──でも、あの先輩が好きなの。

 の返事に、そうだよな、と俺は静かに納得した。納得すると同時に、言いようもない苛立ちが襲った。好きな気持ちが捨てられるなら、それほど容易いことはない。
 俺も、と全く同じだった。本当に好きな相手には振り向いてもらえない。それがどれほど辛いのか、俺はよく知っている。



 それからしばらくして、の恋には決着がついた。
 あの先輩は好きな人に告白して、そしてその想いを受け止めてもらった。
 何年越しかは知らないが、先輩の恋は見事に実った。

 そして、の恋は呆気なく散った。

















 私は、泣く場所を探していた。
 先輩に恋人が出来たと噂で聞いたとき、分かっていたはずなのに、私はそれが現実でないことを必死に願った。けれど噂は本当で、照れくさそうに二人で微笑む先輩達を見て、私は自分の恋が全部終わったことをようやくに認めた。
 分かっていた。ずっと分かっていた。先輩が想っていた人は、優しいくのたまの先輩で、私はその人が先輩のことを嫌いじゃないことも知っていた。先輩が告白さえすれば、その想いが実るだろうことも、ずっとずっと知っていた。
 それでも、私は縋った。どうか私にも機会があるようにと、その低すぎる可能性に縋った。
 どうか先輩が失恋しますようにと、そんなことすら願うほどに!
 大好きな先輩の、その不幸すら願うほどに!
 泣きたかった。だけど友達にも、先生にも、誰にも見られたくなかった。
 学園の隅、木立の中。人気のないそこにようやく辿り着いて、私は崩れるように木の根に座りこんだ。安心させる緑の匂いに、ほっと息を吐いた。その時、

「だから言っただろ、あの先輩はやめとけって」

 突然にかけられた声に、びくりと震えて顔を上げた。次の瞬間音もなく木から飛び降りてきたのは、三郎。私は唖然と目を見開いて、三郎を見上げた。
「なんで……三郎、ここにいるの」
 三郎は私の隣に座り込みながら、相変わらず、前と同じつまらなそうな視線を向ける。
「ふられた奴の顔を見に来た」
「ふられて、ないよ」
 震える声音で返すと、三郎は「そうだな」と頷いた。
「お前、告白してないもんな。ただ単に、あの先輩に恋人が出来ただけだよな」
 淡々とした三郎の言葉は、事実だからこそ今の私には痛すぎるものだった。なにも言えない私に、三郎は目を細めて言ってくる。
「良かったな、告白する手間が省けて。先輩もお前をふる手間が省けて一石二鳥だろ」
 その言葉が、さらに私の心を抉る。喉元にせり上がる感情を押しとどめるために、ぐっと拳を握り締めた。なんで、そんなことを言うんだろう。
「三郎は、私を笑いに来たの?」
「いや。言っただろ、お前がどんな顔してんのか見に来ただけ」
「一緒でしょ」
「……そうか?」
 私は三郎から目を逸らして、俯いた。なんで、三郎は私を追い詰めるようなことを言うんだろう。いくら私があの先輩のことを好きだと知っていたからって、そっとしておいてくれればいいのに。
「お前だってこうなることは分かってたんだろ? 予想出来たことなのに、よくそんなに傷つけるよな」
 けれど三郎の言葉は続けられて、私にまた突き刺さる。言葉を詰まらせてなにも言えない私を軽蔑するように、三郎は短く息を吐く。やれやれと小首を傾げて、
「そもそも、そんな感傷に浸る時間なんて無駄だと思わないか? 元々望みは薄かったんだし、実際お前の恋は終わったし、また始まる見込みは全くないし」
「三郎は、私のなにを知ってるの!? 私が傷つくのを見るのが、そんなに楽しい!?」
 思わず叫んだ私の声は、震えていた。
 そのことが悔しくて、今まで必死にこらえていた涙が出そうになる。普段なら思いもしないけれど、殴ってやろうかと手を振り上げると、三郎は「血、昇りすぎ」と冷ややかに言って、私の手を掴んだ。
「は、離して!」
「嫌だ。なんでお前に八つ当たりされなきゃならないんだ。むしろこっちがしたいくらいなのに」
「言ってる意味が分かんないよ! 私が失恋して、三郎に迷惑かけたっていうの!?」
「……じゃあ、先輩の顔にでもなってやろうか? そっちに八つ当たりすればいいだろ」
「そんなこと言ってないでしょ! しょうがないじゃない、私は先輩が……」

 ああ駄目だ、爆発してしまう。頭の中の冷静な私がそう判断する。
 だけど胸中から溢れ出した激情は、そのまま声になって滑り落ちた。

「あのひとが、ずっとずっと、大好きだったんだから!」

 思いのままに叫んだ瞬間、涙が零れた。途端に、悲しさが一気に溢れ出す。大好きだった。でも届かなかった。好きと伝えることすら、私には出来なかった。
「す、好きだったのよ! すごく好きだったの!」
「……うん」
 情けなくて涙を拭おうと目をこすっても、涙は次から次へと流れた。近づく気配。三郎の手が、私の肩を柔く抱く。子どもにするような、優しい仕草。その手の温かさに、また涙が零れた。
「私なんか相手にしてくれないだろうってことは分かってた! でも好きだったの! 先輩を見てるだけでも幸せだったの!」
「うん」
「言ったよね、好きな人がいるっていうのも分かってた! でも、それでも、もしかしたらいつか私のことを見てくれるんじゃないかって!」
「うん」
 ぽんぽん、と、三郎の手が私の背中を軽く撫でる。いつの間にか伸ばされたもう片方の手は、私の頭に触れている。
「す、好き。好きなの! 先輩が大好きなの! な、のに、なんで、私じゃ駄目だったんだろう……!」
 苦しさのあまりに吐露した感情に、私は気づく。そうだ、私は、大好きな先輩の大切なものにはなれなかった。それが、酷く悲しかった。

「うん、知ってる。お前がどれだけ先輩を好きなのか、知ってる」

 三郎の声が、耳元で囁かれる。

「俺は知ってるよ」

 そう続けられて、堪えきれなくなる。嗚咽が喉の奥からせり出してきて、私は感情のままに言葉を吐き出した。ありがとう、と。三郎の温もりにしがみついて、思い切り泣いた。
















「で、でもね、好きだって気づいてくれなくてもいいけど、全然、ちっとも、気づかないのって酷くない? 確かに告白は出来なかったけど、結構一緒にいたりとかしたんだよ」

 ……なんでこんなことになったんだろうか。
 さっきまで子どもみたいに俺にしがみついていたは、ひとしきり泣いたら少し気が済んだのか、腫れたままの赤い目で、延々と俺に愚痴をぶつけてくる。ほとんど、悪酔いしている中年親父と変わらないしつこさだ。
「先輩も鈍感にも程があるっていうか……お、女に恥かかせるなんて駄目だよね?」
「あー、分かった、分かったからお前、いい加減にしろ」
 優しく慰めようなんて欠片も思っていなかったが、愚痴を聞かされるとも思わなかった。さすがにうざったくなってそう言ったものの、余計に火に油を注ぐ結果になってしまった。悪酔いしたは、むっと俺を軽く睨み付ける。
「ちょっと、三郎になにが分かるの? 私の胸の痛みはこんなもんじゃないんだからね!」
「どうせ、あってないような胸だろうが」
「み、見たことないのにセクハラ発言しないでよ。そもそもね、先輩の恋人が完璧過ぎるのがおかしいの。美人で成績優秀で気立てがいい? そんなの全然勝ち目ないよ、どう考えても私じゃ無理」
「まーな。容姿十人並みで成績平凡で鈍くさくて寝ることと食べることが趣味で、おまけに胸もないお前なんて相手にもならないだろうな」
「胸胸ってしつこいよ三郎! あんなの脂肪の塊だよ? 年食ったら萎むもんなんか、最初からなくて正解なの!」
 うっかり自分が貧乳だとバラしつつ、は「せ、先輩のバカ。でもまだ大好きなんだもん、先輩が大好きなの……!」と地面に向かって告白している。
 その言葉に、分かってはいても微かにまだ傷つく。惚れた男に想いも告げられず、一人で悩んで失恋して傷ついて、……なんで俺はこんな不器用で鈍感な女が好きなんだろうかと、ほんの少し自分が憐れになった。
 けれど、俺はこいつに惚れている。
 容姿十人並みで成績平凡で鈍くさくて寝ることと食べることが趣味で、まぁ、胸がなくても。
 それでもからかうと面白いし共にいれば楽しいし退屈しないし、俺以外の男に泣かされているのを見ると本気で腹が立つし、つまりこいつは俺にとっては無茶苦茶可愛い女だと、惚れた弱みでそう思う。
 ……だから、他の男になんか渡さない。



「なぁ。お前、これが初恋?」
 相変わらずぐだぐだと愚痴を零すのを遮って問うと、はなにを言われたのか分からないように、きょとんとした。
「……うん。多分、初恋」
「ふうん。じゃあ、良かったな」
「……なにが?」
「初恋は実らないんだってよ」
 俺の言葉に、はぱちりぱちりと瞬きをしてから、まだ意味が分からないと言いたげに、首を軽く傾げた。
「三郎、なにが言いたいの?」
 まだ涙が少し残るの瞳が、じっと俺の顔を見つめている。
 。俺の、惚れた女。

「だから……次は上手く行くんじゃないか?」



 早く、俺に恋をすればいい。




















 終

 →二話『木陰』