鉢屋三郎夢
三話『失った想い』
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「さん」 授業が終わって長屋に帰る途中に引き止められて、私は廊下の真ん中で立ち止まった。振り向いた先には、今日は年齢の高いほうの山本シナ先生が、ちょこんと私を見上げている。両手にいっぱいの巻物を抱えながら。 「山本先生、私になにかご用ですか?」 視線を合わせるために軽く屈むと、山本先生は微笑んで頷く。上品で優しそうなおばあさんの顔。今日も山本先生の変装は完璧で、いつ見てもその凄さに圧倒されてしまう。 「ええ、申し訳ないんだけど、雑用を頼まれてくれるかしら? 忍たまの一年生の先生に、この巻物を届けて欲しいのだけど」 「あ、大丈夫です。今日は委員会活動もないですし、暇でしたから」 友達は用があるとかで授業が終わるとすぐどこかに行ってしまったので、私は本当に暇だった。男子の教室は用事がなければ足を運ぶことなんてほとんどないから、いい時間潰しになるだろうし。 「じゃあお願いね、さん。先生方は教室にいらっしゃると思うから、どなたでもいいからお渡ししてきてちょうだい」 手渡された巻物は、ずっしりと重さを感じさせるほどに多かった。バランスを崩すと落としてしまいそうになるのを、慌ててしっかりと抱え直す。 「分かりました。行ってきます、山本先生」 「ありがとう、さん。よろしくね」 手を振る山本先生に一礼して、私は廊下を歩き出した。 放課後を告げる鐘が鳴り響く学園内を、巻物を落とさないように気をつけて歩いた。すれ違うたくさんの生徒達は、委員会活動に向かっていたり、晩ご飯を食べるために食堂に向かっていたり、友達と連れ添って長屋へ帰ったりしていて、共用廊下はかなり騒がしい。 人が多い廊下を選んだのは間違いだったかもしれない。庭に下りたほうがいいかなと思い始めた時、後ろから足音が響いて、軽くぽんと頭を叩かれた。 「よう」 「あ、三郎」 「……なんだお前、その荷物」 隣に並んだ三郎は、私の姿を目にして、どこか嫌そうに顔をしかめた。なんでだろ。 「山本シナ先生からのお使いなの。忍たまの一年生の教室に届けて欲しいって」 「ふーん」 三郎はなんだか不吉そうに、私の姿を上から下まで眺める。その視線が示すことになんとなく気づいて、私はちょっとむっとした。 「……なに? 危なっかしいと思ってる?」 「致命的だと思ってる」 「そこまで!?」 思った以上の言葉に、私は足を止めてしまう。途端にちょっとバランスを崩して、慌てて荷物を抱え直した。三郎も足を止めて、『ほらな』とでも言いたげに、じとっとした視線を向ける。 「よく山本先生もお前に頼むよな……。すっ転んで巻物ばらまくのが目に見えてるのに」 「さ、さすがの私でもそんなことはしないよ」 「それ教材だろ。お前に教材託すなんて自殺行為としか思えないぞ」 「言い過ぎ! ……多分!」 これは怒ったほうがいいだろうと声を張り上げると、三郎は仕方なさそうに軽く肩をすくめた。私に片手を差し出して、 「持ってやるよ、ほら」 「え、……でも」 「俺も、どうせ今から日誌を書きにまた教室に戻らなきゃいけないんだ。ついでに一年の教室までついてってやるよ。……というか、防げる事故を防がなかったとなると、さすがの俺も自己嫌悪で落ち込む」 「一言多いよ、三郎は! 大丈夫です、私ちゃんとやり遂げるからね!」 「無理だ」 真顔で、三郎は言い切る。その口調があまりにきっぱりとしすぎていて、私は危うく『三郎の言う通りかも』と思いかけた。いやいや、駄目だ。 「だ、大丈夫。いつまでも人に頼ってたら成長出来ないし」 「……明らかに無茶なことをしようとするのもどうかと思うけどな」 全然信用されていない視線を向けられて、私はまたくじけそうになる。実際、昔からなにかと三郎に助けられているのは事実だった。でも、ずっとこのままではいけない。私ももう五年生だし、信用回復に努めないと。 私は気合いを入れて、無理矢理に余裕そうな笑顔を浮かべた。 「大丈夫だから、三郎はそこで見守ってて! 私が頼まれた仕事なんだし、なにが起こっても自分で解決しないとね!」 胸を張って、ほとんど無理矢理に余裕そうな笑みを浮かべて、はきっぱりと言う。 おーおー、無理してんな。 「そーか。じゃあ見守っててやるから頑張れ」 「任せてください!」 棒読みに言ってやると、は大きく頷いた。巻物をしっかりと抱え直して、落とさぬようと気を配りながら歩き出す。俺もその後に続く。昔から、こいつの考えていることは手に取るように分かる。ほんとにくの一教室の生徒なんだろうか。 「あ、先輩ー!」 数歩も歩かないうちに声をかけられて、はまた足を止めた。見ると、廊下の向こうで一年生が手を振っている。は組の夢前三治郎だ。にこにこした顔で駆け寄ってくる三治郎に、も「あ」と笑顔を浮かべる。 「三治郎君、こんにちは。久しぶりだね」 「ご無沙汰しています、先輩。鉢屋先輩もこんにちは」 「ああ。元気そうだな、三治郎」 後輩の挨拶に、俺も返す。三治郎は「はいっ」と頷いてから、少し不思議なものを見る目でを見上げた。 「……ところで先輩、そのたくさんの巻物、どうなさったんですか? お使いですか?」 「うん、そうだよ。一年生の忍たまの先生に届けて欲しいって頼まれたの」 「そ、そうですか。先輩……大丈夫ですか?」 「大丈夫だよ!」 の自信満々の答えに、三治郎はちらちらと俺に視線を向ける。『本当に大丈夫ですか?』と確認を取っているらしい。軽く首を傾げてみせると、三治郎がぎょっとする。 俺と三治郎の仕草には気づかずに、は「そうだ」と三治郎に声をかける。 「ね、三治郎君。ちょっと聞きたいことがあるんだけど」 「あ、はい。なんでしょうか先輩」 呼ばれた三治郎が、に足を進めてくる。が「あのね、今一年生の先生方って──」と言いかけた瞬間、つるり、と三治郎の踏み出した足が廊下の上を滑った。 「あ」 間の抜けた声を上げて、三治郎の身体が転びそうになる。 「三治郎君!」 は慌てて三治郎に手を伸ばそうとして、自分の手が塞がれていることに気づいてほんの一瞬戸惑った。しかしすぐに手の中のものを投げ出して、三治郎の身体を抱え込む。 どすん。ばらばらばらばらばら。 ……結論から言えば、の行動は人としては正しいものだった。に支えられて、三治郎はまったくの無傷で済んだ。三治郎は来るはずの衝撃に閉じていた目を怖々と開いて、に庇われたことに気づいて、そして辺りの惨状にも気づいて、目を見開いた。 「わ! す、すみません先輩! 僕のせい……うわ!!!」 「あっ! わ、わ!」 謝っている途中で、また三治郎が転びそうになった。どうやら今度は、がばらまいた巻物に足をとられたらしい。三治郎がにしがみついていたので、今度は二人して倒れそうになる。さすがに見ていられず、の腕を掴んで二人を支えた。 「なにしてんだ、お前達」 「さ、三郎。ありがとう……」 「うん。……で、お前なにか俺に言うことはないか」 なにを言われたのかすぐに察したらしい。はハッとした後、きょろきょろと廊下の端や庭にまで転がった巻物を見て、その惨状に軽く頬をひきつらせた。未だ抱えている三治郎の頭をぽんぽんと撫でてから、ようやく意を決して俺に向けて頭を下げた。 「ごめんなさい。運ぶの手伝ってください」 「おう。……だから言ったんだよ」 「あの、鉢屋先輩。明らかに僕のせいで、先輩は悪くないと思うんですけど……」 自分の責任だからと一人で巻物を集めているを申し訳なさそうに見て、三治郎が俺の顔を窺う。 「いーんだよ。なにが起きても自分で解決するとか言ったのはあいつなんだ」 俺が言っても、三治郎は「でも、僕が転んだせいですし……」と眉を下げる。まあ、それはそうか。 「気にすんな。大体、この廊下は昨日小松田さんが油こぼして、滑りやすくなってたんだ。お前が転ばなくても、どうせ結果は同じだ」 「し、知ってたんですか、鉢屋先輩」 「うん。には言うなよ」 まぁ、単に失敗したを助けて、こっちの株を上げてやろうというだけの作戦だったのだが。 「鉢屋先輩って……いじわるですね……」 「あいつからかうと面白いんだよ。なんでもかんでもこっちの思うとおりになるから」 「はぁ、そうなんですか……」 俺の本音に、三治郎は同情した目つきでを見て、そして次に俺に複雑な視線を向ける。歪んでるとでも思ってるんだろう。その通りだ。 さすがに多少落ち込んだ様子で巻物を集めているの背中には、先程とは違って哀愁が漂っている。はこっちが煽ると高い確率で乗ってくる単純な性格で、今までそれでよく失敗しているのに、また同じことで引っかかる。まぁ、それを分かっていて利用する俺も俺だが。 「……これで全部かな」 「先輩、これ転がってました」 「あ、ありがとう!」 いつの間にか通りすがりの後輩に手伝ってもらいながら、ようやくは仕事を終える。先程よりも慎重に歩きながら、こっちに戻ってくる。 「三郎、よろしくお願いします」 しゅんとしたが、俺に巻物を差し出してくる。 「ああ。……いいからもっとよこせ、さっきの二の舞が目に見えてる」 「い、いいよ! 半分は持つから!」 慌てるから、ほぼ無理矢理に七割方奪う。はしばらく戸惑っていたが、先程の失態が身に沁みているのだろう、結局は俺の言うとおりにした。 「あの、僕も手伝います」 まだ責任を感じているのだろう三治郎に、俺は軽く首を横に振る。 「いい。過信してたこいつが悪いんだ」 「その通りです……。ごめんね、三治郎君」 ありがとう、と微笑むに、三治郎はそれ以上はなにも言わずに引き下がった。ちらりと俺に、『先輩、ちょっと可哀相ですよ』という視線を向けたが、気づかなかったふりをした。 「じゃあな、三治郎」 「またねー」 「あ、はい先輩方、さようなら」 と俺が背を向けると、慌てて三治郎も手を振り返した。二人で歩き出し、は三治郎に振っていた手を下ろす。 「下級生にまで迷惑かけちゃった……」 「だから、最初から人を頼れ」 「返す言葉もありません……」 しょぼんと落ち込んでいるに、さすがに少し罪悪感が浮かぶ。三治郎じゃないが、あまり落ち込ませたままにしておくのは俺としても楽しくない。 「教材ぶちまけただけでそんなに落ち込むなよ。自分の弱点を把握できたんだから、良い経験になったと思え」 「……私、なんか弱点だらけのような気がするんだけど」 正直、それはそうだなと思うが、肯定するほど俺も非情じゃない。 「そんなことないだろ、誰でも弱点とそうでないところがあるんだよ」 「三郎にも、弱点があるの? 弱みがある三郎なんて想像つかないんだけど」 意外そうに、が俺を見上げてくる。そう切り返されるとは思わず、反応が一瞬遅れた。 「……あるの?」 返事をしない俺の様子に、今度は興味津々に、が顔を覗くように身を寄せてくる。 「こら、離れろ。前向いてないとまた落とすぞ」 「あ」 俺の言葉に、慌ててが身を引いて前を向く。 「学習能力がないのもお前の弱点だよな」 「重ね重ね返す言葉もありません……。でも、あと少しだから頑張る」 しかしさっきよりは気分が浮上したらしく、は気合いを入れて前へ進む。たかだか教師のお使いに気合いを入れているに子どもかお前はと苦笑しつつ、俺は内心、先程の質問を綺麗さっぱり忘れたの素直さに感謝していた。 俺にだって弱点はたくさんある。致命的なほど大きなものも。ただ、がそれを知らないだけだ。特にには知られないように隠してきたし、もし気づかれたら、多分今の立場が逆転する。 「……お前だよ、ばか」 「ん? 三郎、なにか言った?」 「別に、なにも」 そうやって大事なところは聞き逃すところも、全部含めて。 「着きました。何事もなく!」 「あの短距離でもう一度なにかあったら、むしろ驚くぞ俺」 三郎は呆れてるけど、私は本気で嬉しかった。だってあれほど三郎に見得を切った直後に失敗したし、これでまたなにかあったら、ますます三郎に頭が上がらなくなってしまう。 目の前にあるのは、一年生の教室の長屋。すぐ隣の運動場ではわーわーと生徒達が走り回っていて、とても賑やかだ。 「ここまででいいよ。三郎も用事があるんでしょ?」 「……大丈夫かよ、浮かれてると転ぶぞ」 「今度こそはやり遂げてみせますから!」 強く言い切ると、三郎は「そーか」と巻物を返してくれた。うん、あとは一年生の教室に行くだけだし、大丈夫。 「まぁ、そう言うなら頑張れ。俺は五年の教室にいるから、なんかあったら呼べ。からかいに行ってやるから」 「手伝いにではなく!?」 「それが嫌なら頑張れよ」 「か、必ずやり遂げてみせます」 頷くと、三郎は軽く笑った。そのままじゃあなと歩き出そうとするので、思わず「三郎!」と声をかける。 「ん、なんだ」 「あの……手伝ってくれてありがとう。ごめんね」 三郎はいつも口はあんまり良くないけど、昔からよく私の手伝いをしてくれる。礼を言うと、三郎はどこか複雑そうな顔をした後、「別に」と一言だけ言って、去って行った。 ……照れてるのかな。 「ん、行こう」 言われた通り、浮かれないように慎重に長屋に足を踏み入れる。中では下級生がぱたぱた走り回っていてちょっとびっくりしたけど、「廊下を走るなーーー!!」と委員長らしい生徒の声でぴたりと大人しくなった。と思ったら、またすぐに騒がしくなる。下級生って元気だなぁ。 「……あれ、先輩。どうされたんですか?」 その騒がしい下級生達の中から一人、顔なじみの生徒が私に駆けてきた。 「あ、虎若君」 「その巻物、届けに来られたんですか?」 「うん、そうなの。どなたでもいいんだけど、先生いらっしゃるかな?」 さっき三治郎君に聞けなかったので尋ねると、虎若君は頷いて上を指す。 「はい、一年は組の先生方でしたら、まだお二人とも教室にいらっしゃいますよ」 「そっか、ありがとう。行ってみるね」 「それじゃあ先輩、また!」 「うん、またね」 虎若君はぺこりとお辞儀をすると「虎若、なにしてんだー、先行くぞー」と友達が呼ぶ方に駆けて行った。ぱたぱたぱた、騒がしい一年生の足音と気配。その間を通り抜けて、一年生の教室がある三階へと上がり、目的地へと足を進めた。 「失礼します」 一年は組、と書かれた教室は、掃除の真っ最中だった。掃除当番らしい何人かの一年生と、それを指導している山田先生。そして、黒板を消している土井先生。 「お、か。どうした?」 手を止めて振り向いてくれる土井先生に、私は抱えてきた巻物を軽く持ち上げた。 「山本先生から頼まれて、お持ちしました。ここに置いてもいいですか?」 「ん、山本シナ先生から? ……ああ、こちらからお貸しした兵法の教科書か。ありがとう、そこに置いてくれて構わないから」 「はい、分かりました」 巻物を手近な文机の上に乗せて、私はほっとする。途中三郎に大半持ってもらっていたのに、少し重くて手が疲れていた。 「伊助、庄左ヱ門。悪いが、掃除が終わったらこれを資料室に持って行ってくれるか?」 「はい、土井先生!」 「分かりました!」 「わざわざありがとうな、」 「山本先生に、よろしくお伝えしてくれるか」 土井先生と山田先生が、揃って声をかけてくれる。私は「はい」と頷いて、物珍しそうに巻物に駆け寄る一年生達に視線を向けてから、教室を後にした。 良かった、無事に終わった。それだけのことなのに嬉しくなる。ほっと肩の荷が下りたようで、私は心持ち軽い足取りで長屋を出る。浮かれた気分のせいで、三郎にこのまま「ちゃんと終わったよ!」と報告しに行こうかと思ったけど、冷静に考えたら明らかに仕事の邪魔になるので、寸前で思いとどまった。 相変わらず下級生達がたくさんいる廊下を抜けて運動場を横切ろうとすると、先程見たように運動場にはたくさんの生徒達が集まっていて騒がしかった。それぞれ鬼ごっこをしたり自主トレをしたりでとても楽しそうで、私も友達が暇だったら遊びたかったな、と思いながら歩いていて……ふと気づいて、足を止めた。 浮ついていた気分が、瞬時に消えた。 運動場の一角に集まっている、男子生徒。他の集団のそれとは違う、背も高くて体格も良い、六年生の先輩達。 ──微かに、胸が軋むのを感じる。 「……先輩」 かつて本当に好きだった、私が失恋した先輩の姿が、そこにあった。 「……ねぇ三郎。なんか嫌な予感がするんだけど……」 と別れた後に教室で当番の日誌を書いていると、まだ居残っていた雷蔵が、すぐ近くの運動場を眺めながら俺を手招きした。 「ん? どうした、雷蔵」 もしやか。またぶちまけたかと、淡い期待を抱いて腰を上げる。性格悪いな、俺。 「いや、先輩達がそこに集まってるんだけどさ……」 ほら、と促されて、雷蔵の隣に並んで窓から運動場を見下ろした。下級生達がたくさんいる運動場の一角に、雷蔵の言う通り、六年生の先輩達が集まっている。なにをしているのだろうと耳を澄ませると、近距離なのと先輩達の声が大きいので、すぐに聞き取れるほどの会話が届いてきた。 「よし、留三郎! バレーしようぜ!」 「なにかと思えばバレーかよ。小平太、お前ほんとに力があり余ってるんだな」 「なんだよ、放課後にみんなでやろうって約束したじゃないか。なぁ、伊作、長次」 「うん、そうだね。ほら留三郎、たまには一緒に遊ぼうよ」 「なーにしてんだ、お前ら。もうすぐ委員会だろうが、油売ってていいのかよ」 「あ、文次郎」 「……うちは、休みだ」 「体育委員も休みだ! 文次郎も一緒にバレーやろうぜ!」 「アホいうな、どうせまたボールを破裂させて終わ──っ痛ぇぇぇぇ! てめぇ、狙って投げたな!」 「文次郎文次郎、ぱーす!」 「……分かった、望み通りに相手をしてやる。死ねぇぇぇ小平太ぁぁぁ!」 「明らかに運動するかけ声じゃねーだろ……しゃーねー、備品を壊されるよりマシだ、俺もやろう」 「ちょっと小平太! ボール上げすぎだよ、取れないよ!」 「行くぞ文次郎、小平太アターーック!」 「だから取れねーつってんだろうが小平太! 加減しろ!」 「なんだお前達、文次郎をシメるなら私も手伝うぞ」 「……違う、仙蔵。バレーだ」 「……ね。ちょっと嫌な予感がしない?」 不安そうな雷蔵の声に、なるほどと頷く。あの先輩達は、いざというときは頼りになるが、いざというとき誰も止められない面子でもある。あのまま喧嘩に発展して委員長委員会がかり出されるような事態になったら面倒だ。周りには下級生達もたくさんいることだし。 「まぁ、今止めるのは無理だろ。放っとくしかないな」 「そうだね……あ、これから兵助と自習するんだけど、三郎もそれが終わったらどう?」 「いい。気になるからもう少し見ていく」 「そう? 危なそうになったら呼んでね、手伝うから」 じゃあね、と雷蔵は教室を出て行き、俺は「ああ」と生返事をしてそれを送る。 もう、教室には誰も残っていない。俺だけしかいない教室で、大勢生徒達が集まっている運動場を見下ろして。 六年生の先輩達、その中の一人に視線を向けて──微かに、身体が強張るのを感じた。 あの先輩を見るときは、いつだってそうだ。嫉妬の、どす黒い感情が湧き起こる。 ──が想っていた、そして失恋した今も多分まだ想っている、あの先輩。 仕方ないと理解していても、先輩に直接的な恨みがなくても、あの人が憎い。幸せな恋をしつつも、知らずにの想いを拒絶しているあの人が。 いくら想っても返されぬ俺とは違う。俺が望むものを当たり前に持ち、そしてそれに気づいていない、あの人。 出来る限りの隣にいて、いくらに好かれようと捻くれた行動を取っても、結局俺はそれを手に入れることが出来ないのだから。 やりきれない。嫉妬で煮える頭を冷やそうと、窓から離れようとした、その時。 「……」 もう仕事は済んだのだろうか。今は手ぶらで、運動場の片隅で。 あの人をじっと見つめているが、視界に入った。 先輩。 ふいに目に入った、先輩の姿。 たくさんの生徒達の喧噪の中でも、先輩の声は不思議とよく聞こえた。 変わらぬ笑顔は胸に沁みて、私の心はゆっくりと、あの頃の感情を呼び覚ます。 一つ年上のあの人に、私は初めての恋をした。 大好きで、あの人以外誰も目に入らなくて、毎日先輩を想っていた。けれど先輩には恋人が出来て、私の恋は届くことなく終わった。 「……──先輩……」 小さく、先輩の名前を呼んでみる。 私の想いに最後まで気づかなかった先輩は、きっと私が今名前を呼んでも、前と同じように笑顔で振り向いてくれるだろう。どうした、と私の大好きだった笑顔で、私の頭を撫でてくれる。 ──ああ、でも。私はもうそれを望まない。 あれほどに大きかった先輩への想いは、今はもう僅かにしか残っていない。 あんなに好きで、先輩のことを想って泣くことを繰り返したあの日々も、少しずつ、遠くなっていく。 ただ、失恋した時の辛さが、悲しさが、絶望だけが、しっかりと残り続けたままで。 好きな人がいる人を、私はもう絶対に好きにはならない。 いくら願っても決して届かない、行き場のない想いを抱えるのは辛くて、途方もなく悲しくて、それを思い起こすだけで私は泣きそうになる。 私はきっと、もうすぐ先輩への想いを忘れる。それを寂しいとも悲しいとも思わず、最早この胸は痛むことがなくて。 ただ、失恋した悲しさだけが、重石のように残ったままで。 それでも、恋したことを悔いたりはしない。 あの時私に初めての恋を教えてくれた先輩、あなたが本当に好きでした。 ありがとう、先輩。 どうか幸せな恋をしてください。 それは、私にとってのけじめだった。 先輩に向けて、伝わらないと知りながら感謝して。 そして全てを振り切るために、私はその場に背を向けた。 まだ、あの人のことが好きなのか。 先輩を見つめ続けるに、苛立ちが募る。 ついさっき会ったは、失恋したことなんて全部忘れたような顔をして、俺はあいつをからかって、は簡単にそれに引っかかって、最後まで気づかずに「ありがとう」なんて礼まで言って、俺が昔から知ってる、俺が見つめ続けていただった。それなのに! ……それなのに、あいつはまだ引きずっている。ずっとずっと、あの先輩を想っている。 俺ではなく、あの先輩を。ずっと、あの先輩だけを。 今までだってこれからだって、あの人はお前のことなんか見てないんだ。絶対に、お前の想いには気づかないんだ。 だから全部忘れてしまえばいい。もうお前は傷つかなくていい。悲しまなくていいんだ。だから忘れてしまえばいい! ──なぁ、。俺はお前が好きなんだ。 お前は俺なんか欠片も望んでいないと、知っていても。 終 →四話『好きな人』 |