鉢屋三郎夢
四話『好きな人』
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食堂のお手伝いをしたら、お礼にとおばちゃんにおまんじゅうをたくさんもらった。 蒸かしたてのそれは本当に美味しくて、私は長屋に帰る前にちょっと寄り道して、人気のない縁側でおやつの時間を楽しんでいた。 ここまで来る途中に匂いにつられてきた一年生にほとんどあげてしまって(最初一人にあげたらどんどん増えてきて、結果的に全員にあげたから)残りは少しだったけど、たくさんあると食べ過ぎてしまうから、これくらいで丁度いい。食べるのは大好きだけど、太りたくはないし。 食堂のおばちゃんは料理がとても上手だから、このおまんじゅうも本当に美味しい。皮はふわふわしてるし、こした餡は甘さがしつこくなくて丁度良いし、舌触りも抜群。美味しいものって、本当に偉大だと思う。 「ああ、。こんなとこにいたのかよ。なかなか見つからないからどこにいるかと……おい?」 しかもこのおまんじゅうには、真ん中によもぎの小さな葉っぱが飾られていて、見た目にもすごく可愛い。ご飯は味はもちろん見た目も大事だけど、その点おばちゃんの料理は申し分ない。これだけでも、この学園に入学して良かったと本当に思う。 「……おい、。聞いてんのか? 、こら」 私も料理は嫌いじゃないけど、おばちゃんの域にはとても届かない。ご飯を食べるのが大好きだから、作れたらもっと楽しいだろうと思うんだけど。料理の道って険しいなぁ。 「……聞いてないな、コイツ」 そうだ、おばちゃんに弟子入りしてみたらどうかな。そうしたら、このおまんじゅうの作り方だって教えてもらえるし。いいなぁ、こんな美味しいおまんじゅうを自分で作れたら、楽しいだろうなぁ。私きっと、自分のために毎日美味しいものを作ると思う。 「………………」 おまんじゅうを分けてあげた一年生の顔が浮かんでくる。みんなほわっとした顔でおまんじゅうを食べていて、それだけでもとても嬉しくなった。やっぱり美味しいものは誰かと一緒に食べたほうがずっと美味しいと思う。そうだ、友達の分も取っておいてあげて、部屋に帰って一緒に食べよう。こんなに美味しいおまんじゅうだから、きっと友達も喜んでくれる。うん、そうしよう── 「菓子にかまけて無視とは、いい度胸だ」 「ん!?」 ぐ、と息が詰まる。後ろから突然腕が回されて、首を軽く絞められた。咄嗟に空いていた左手で袖に隠していた暗器を取り出そうとして、その手も掴まれて阻まれた。背中に感じるのは明らかに他人のそれも男の身体で、何事かと肝を冷やしかけた時、低い唸り声が聞こえた。 「無視した挙げ句に反撃しようとは、ますますいい度胸だな……」 「……あ、あれ、三郎?」 いつの間に近くに来たのか、耳元でするのは三郎の声だった。よくよく見ると私の首を(まだ)絞め付けているのも、左手を掴んでいるのも、五年生の忍たまの着物を纏っている腕だった。 ホッとして、声のする左側に顔を向ける。そこにあったのはやっぱり……と言ってもほんとは雷蔵のだけど、いつもの三郎のそれで、その顔はなんだか苦々しげに歪んでる。 「どうしたの、三郎。いつの間に来たの?」 不思議に思って聞いただけなのに、三郎はますます不機嫌な顔になった。 「ずっと前からいた」 「え、嘘」 「なにが嘘だ。俺が何度お前に話しかけたと思ってんだ」 「……ほんと?」 「お前、もの食ってる時は思考が飛んでるだろ」 言いながら、三郎が私の右手を睨み付ける。そこにあるのは、食べかけのおまんじゅう。なるほど。 私はよく友達や家族に、ご飯を食べてるときに話を聞いてないと注意される。今も確かにおまんじゅうに夢中になってたから、なにも聞いてなかったのかもしれない。 「ごめん、全然気づかなかった」 ちゃんと謝ったのに、三郎は青筋を立てて、無言でまた私の首を絞め付けた。 「ちょ、息出来ないって三郎、ごめんってば!」 私の首に絡みつく腕を叩くと、ようやく三郎は力を抜いてくれた。でもまだ手は離してくれない。三郎はまるで先生みたいに、私を怒る。 「もうちょっと危機感持てよ。お前はな、食ってるときと寝てるとき無防備すぎるんだよ」 「三郎、心配してくれてるの?」 「呆れてるんだよ」 言った通りに、三郎が小さくため息を吐く。そして、ふと気づいたような顔になった。 「そういえばお前、そのまんじゅうどうしたんだ」 三郎が後ろからというか上からというか、私の顔を覗き込む。こんなに近くで三郎の顔を見ることはあんまりないけど、相変わらず完璧な変装だ。 「食堂のお手伝いしたらね、おばちゃんにもらったの」 「ふーん……誰かに餌付けされてんのかと思った」 「三郎は私のことを一体なんだと思ってるの……」 「犬猫みたいなもん」 「みたいなもん!」 あんまりな言葉に睨み付けると、三郎は楽しそうな顔になる。 「食うことと寝ることだけが趣味なんて、ただの小動物だろ」 軽くからかうように言いながら、三郎は言葉通り動物を可愛がるみたいにわしわしと私の頭を撫でる。その様子に、今更に少し恥ずかしくなった。首にも腕が回されたままだし、三郎はまだ怒ってるんだろうか。そうは見えないけど。 「そう言われたくなかったら、お前ももう少しまともに危機感をだな……」 「ねぇ、おまんじゅうすごく美味しいよ。三郎も食べる?」 「話逸らすなよ、こら。……ていうか、お前から食べ物取ったら、恨まれそうで怖いんだけど」 「そこまで意地汚くないよ。美味しいものはみんなで食べたほうが美味しいしね」 私の隣に置いてあるおまんじゅうの袋を指して勧めると、三郎は一度沈黙してから「もらう」と頷いた。 「うん、一緒に食べよ」 三郎が誘いに乗ってくれたことが嬉しくて私も頷いてから、私と三郎の間にしんとした沈黙が訪れる。私は、「えっと」と三郎の顔を見上げる。 「食べにくいし、離してくれる?」 「……ちっ」 言った途端に、つまらなそうに三郎が身を引く。首に巻き付いていた三郎の右腕も、頭を撫でていた左腕も、背中にあった三郎の体温も、一気に離れていく。三郎はなんだかすごく不満そうな顔をしていた。そんなに私の首を絞めるのが楽しかったんだろうか、嬉しくない。 「はい」 袋を差し出すと、三郎は無言で一つ取って食べ始めた。私も食べかけのまま持っていたおまんじゅうを食べ始めた。三郎と並んで、しばらくおやつの時間。 「ところで三郎、私になにか用だったの?」 「んー」 「……おまんじゅう欲しかっただけなの? あ、もしかして一年生にあげたの見てた? やだな、言えばちゃんとあげるのに」 「お前と一緒にするなって」 「じゃあ、なんの用?」 「呼びに来た」 「え、私を?」 「そ」 あっという間におまんじゅうを食べ終えて、三郎は人差し指で、少し遠くに見えている建物を指した。そこにあるのは、忍術学園に幾つもある倉庫の一つ。 「倉庫がどうかしたの?」 問う私に、三郎はどこからか倉庫の鍵を取り出して軽く指で回しながら、面倒くさそうに答えた。 「用具委員の手伝い。先生に言われたんだよ、くのたまから一人連れて、実在庫の確認しろってさ」 「用具委員、なにかあったの?」 倉庫の鍵を開けてと共に中に入ると、もう馴染んだ独特の鉄の匂いがした。 「最近、数が合わないことが多すぎるらしい。それで、吉野先生が徹底的に学園中の備品を確認して回ってるんだ」 「用具委員の手が足りないってこと?」 「そうらしい。だからあと一人誰か連れて、二人でこの倉庫の点検しろって言われたんだ」 「へー。……それで、なんで私なの? 整理が上手い子のほうがいいんじゃない?」 不思議そうに聞いてくるに、俺は備品管理書と炭を手渡した。受け取るに向けて、意識して呆れたような視線を送る。 「お前が一番暇そうだったからだよ」 まぁ、嘘なんだけどな。 「あ、なるほど」 は感心するように頷いてから、可笑しそうに笑う。 「確かに、多分私が一番暇だね。おまんじゅうも食べちゃったし、もうやることないし。じゃあ始めよっか、三郎!」 は簡単に納得すると、ぽんぽんと俺の肩を叩いて、「私こっちから数えるねー」と少し離れた場所で備品の確認を始めた。 あっさりと信じたに拍子抜けしつつ、素直すぎるのもどうなんだと思う。前々からいつもいつも思ってるが、くのたまのくせに猜疑心がなさ過ぎだろう。 「……まぁ、いいか」 けれど正直なところ、追求されても困る。に言ったように、『暇そうだから』などという曖昧な理由で相手を決めたわけじゃない。 にーしーろーはのじゅー、とまるで小さく歌うように、は在庫を数えている。その声音には、面倒な仕事を押しつけられたことを不満に思う感情はない。それに安堵している自分がいる。少なくとも二人きりになるのを嫌がられてはいないのだと、ただそれだけの事実で。 だから。 好きだから。 それが全ての理由だが、本人に直接言えるわけがない。 少し離れたところにいるに、視線を向ける。は楽しそうに、手裏剣を数えている。 俺も足元に転がる箱を引き寄せて、備品の確認を始めた。後ろから聞こえてくる小さな数え歌に、時折自分の仕事を邪魔されながら。 「ねー、三郎。三郎って、好きな子いないの?」 「──は?」 それは、作業を始めてから、程々に時間が経った頃だった。 最初は近くにいたが、今は積み上げられた忍具の向こうにいて、姿自体がほとんど見えない。それでもかけられた言葉の衝撃は強く、内容を理解するのに数秒かかった。 「……なに言ってんだお前」 ようやく答えた俺の言葉に、は慌てた様子で言葉を付け足す。 「あ、ごめん。だってちょっと退屈だから。軽くお話しするくらいだったら、そんなに邪魔にならないでしょ?」 そういう意味じゃねーよ。 大体、なんでわざわざそんな話題を選ぶんだ、この鈍感。 「それで三郎、好きな子いないの?」 はわくわくする声で繰り返す。なんだ、その期待に満ちた声は。 俺は姿の見えないの声に少々落ち込みながら、手に持っていた忍び刀を箱に戻した。 「どっちだと思う?」 そう返すと、向こうで「……うう」とまるで変なものを食べたようなうなり声が聞こえた。次いで、不満そうに。 「三郎、ずるいよ」 「別にずるくないだろ、なんでお前にそんなこと言わなきゃいけないんだ」 「やだな、ただの興味だよ」 「そーか、興味か」 ただの興味だから嫌なんだよ。 少しふて腐れた俺の声をどう解釈したのか、「もー、照れないでよ三郎」とは見当違いのことを言う。あーほ。 「んー、そうだなぁ、三郎の好きな相手かー……」 沈黙していると、はさっき俺が言ったことを考え始めた。うーんうーんと唸りながら、 「どっちかなぁ。……好きな人がいるってのはあんまり想像つかないんだよね、三郎って。……でもいないっていうのはつまらないし……」 「あのな……」 つまらないってなんだ、つまらないって。 「だから、いたらいいなー、と思います」 「……ふーん」 本当に興味本位で聞いてやがる。人の気も知らないでと思いつつ、もともと期待するのは間違いだと知っていたから、この程度ではさほど傷つかなかった。 「それで、どっちなの、三郎」 「言わない」 言うか、あほ。 冷たく返すと、は、んん、と考え込むように沈黙を持ってから、 「それは……いるってことかな?」 と、期待半分、恐る恐る半分に聞いてくる。 普段鈍感なくせして、こういう時だけ鋭い。いないと言ってやれば良かったかと思ったが、信じられたらそれはそれで腹が立つ。とりあえず無視していると、は「そっかそっか」と勝手に納得し始めた。……頭が痛くなる。 けれど、俺の様子からこの話を続けるのは良くないと思ったのか、「あ、そうだ、この間友達が言ってたんだけどね」とは話題を変える素振りを見せた。ホッとしたその時、の声が続けられる。 「三郎は、その好きな人に一番望むことってなに?」 ……変わってねえ。むしろしたくない話題としては先程よりも上だ。俺の様子には気づかずに、は楽しそうにしている。 「この間ね、女子で集まって、恋人に望むことってなんだろうって話をしたの。みんな『甲斐性』とか『お金』とか『かっこよさ』とかだったけどね。三郎はどう? やっぱり男の子って、女らしい子が好きかな?」 とりあえずお前にはそんなもん求めてねーよ。心の中だけで返して、深くため息を吐く。 他人の恋路を語るのは楽しいが、自分のそれだと楽しくもなんともない。しかも順調ではないのだから、尚更だ。やるせなさと腹立ちに、頭がすっと冷えていく。 ほんの一瞬、このまま叩きつけるように想いをぶつけてしまおうかと、そんな考えが頭を過ぎる。多分は驚くだろう。そして、怯えられるか、逃げられるか、嫌がられるか、それともあっさりと断られるのか。 容易に思いつくのは、否定的な展開ばかり。当たり前だ、には、──もう失った恋とはいえ、想う相手がいるのだから。 「……」 「ん、なに?」 脳天気なの声。 俺は、お前が好きなんだ。けれどそれを伝えても、届かないと知っているから。 一度目を閉じて、そしてゆっくりと開く。自分がなにを言おうとしているのか、そしてそれをがどう感じるのか、十分に理解した上で口に出そうとしていた。 「なら、お前はなにを望むんだよ、好きな男に」 「私? 私はね……、…………その」 言いながら気づいたのか、は口籠もった。の好きな男、俺はそれを知っているから。 それでも、聞いておいて自分が言わないのは不公平だとでも思ったのか、はことさらに明るそうな声を無理矢理に出した。 「そ、そうだね。私はね、優しくしてくれたら嬉しいかな」 「ふーん……じゃあさ、」 俺は、がいる方向に視線を向けて、今までずっと言わなかった言葉を吐いた。 「お前、先輩に優しくしてもらえなくて残念だったな」 「────っ!」 空気が、軋む。姿が見えなくても分かるほどに、の気配が強張った。 はまだ数ヶ月前に、ずっと好きだった先輩に失恋した。その先輩には恋人が出来て、想いを伝えることもなく、の初恋はそれで終わった。 時間が経ったとはいえ、それはにとって未だに引きずり続けている、辛い過去だ。……辛い過去だと分かった上で、俺は口にした。 「あ……。そ、うだね」 ぽつりと、の声が落ちる。 「ごめん、三郎。色恋のことなんて、聞かれたくないこともあるよね。……軽い気持ちで聞いて、ごめんなさい」 頭を下げる気配がする。 さすがに言い過ぎたかと、罪悪感が浮かぶ。これはただの八つ当たりだ。がまだあの先輩を好きなのも、俺の想いが上手く行かないのも、のせいではないのに。 けれど同時に、いっそもっと深く傷つけばいいのだと、相反した感情がせめぎ合う。先輩へのあの失恋がまだにとってそんなにも辛い過去だったなら、つまりはまだ先輩を強く想っていて、俺は決して報われず、──今度は俺が傷つく番なのだから。 ごめんなさい、と繰り返し謝っても、三郎の返事はなかった。 血の気が引いた。手に持っていた手裏剣を取り落としそうになって、慌てて箱に戻す。ほんの少し指先が震えていて、咄嗟に両手を合わせた。 怒っているだろう三郎が、怖かった。……怖い以上に、申し訳なかった。 私が執拗に尋ねたから、きっと三郎は気分を害したのだ。最初から嫌そうにしていたのに。それも本当にただの興味本位だったから、尚更に後悔が強かった。 三郎の顔が見れないから、ますます不安だった。ちゃんと顔を見て謝ろう、と立ち上がりかけた時、 「悪かった。……怒ってないから気にすんな。もう謝らなくていい」 三郎のぶっきらぼうな声が響く。 反射的にごめんなさいとまた謝りそうになって、慌てて呑み込む。けれど同時にホッと肩の力が抜けた。三郎はきっとまだ気分を害したままなのに、私を気にしてそう言ってくれたのだ。 「………………」 なにか言わなきゃ。でもなにを言えばいいだろう。謝るなと言われて安堵したのに、謝らなくていいならなにを言えばいいのか分からない。ぐるぐると混乱して焦り始めた時、三郎がぽつりと言った。 「教えてやるよ。……好きな女に望むこと」 「え?」 思いもよらぬ言葉に、驚く。三郎の声はとても真剣で、まるですごく重大なことを打ち明けられる気になった。 「い、いいよ三郎、だって嫌なんでしょう……?」 慌ててそう言ったけれど、三郎は私の言葉を遮り、一気に続けた。 「俺のことを好きになってくれたら、それだけでいい。……それ以上望まない」 そう言って、三郎は口を閉じる。 ……それは。まるで、三郎には片恋の相手がいるのだと、そう言ったも同然の真摯な言葉だった。 なにかを言おうとして、でもやっぱり言葉が出なかった。さっきは三郎の言葉から好きな相手がいるんだと勝手に決めつけたけど、こうして三郎の口から改めて言われると、なんだかよく分からない複雑な思いになった。三郎は、好きな人がいるんだ。 三郎の好きな人。想像がつかなくて、困った。 好きな人。どんな人だろうか。やっぱり可愛い子なんだろうか。女らしい子なんだろうか。 好きな人の前だと、三郎はどうなんだろう。とても優しいんだろうか。照れてお話出来ないんだろうか。 ……そんなことを、考えていたのに。 どうしてか胸が痛くて、私はやっぱりなにも返事が出来ずに俯いてしまった。 「──もういいだろ。さっさと終わらせて帰ろうぜ、」 三郎の声音が元に戻る。私はそれにすごく安心して、大きく息を吐いた。いつもの三郎に戻ってくれたことが、本当に嬉しかった。 「お前、あとどのくらいだ?」 「あ……えっと、手裏剣はあと三箱で終わりだよ。三郎は?」 「俺は今やってるので終わりだ。ほんと面倒くさいぞこれ、今度用具委員に文句言ってやる」 ぶつくさと言いながら、三郎が作業を再開する。 私は改めてホッとしてから、さっき取り落としそうになった手裏剣を今一度掴む。ぐるぐる、頭の中にまだよく分からない複雑なものが渦巻いているのを無理矢理に無視して、作業を続けた。 「あ、もう夕方だね」 「ああ。随分長い間中にいたんだな」 ようやく実在庫を全て調べ終えて倉庫から出たときには、大分時間が経っていた。扉に鍵をかける三郎の横で、はうんと伸びをする。 「在庫の狂い、どうだった?」 の問いに、三郎は記録用紙の束を手に「それほどでもないな」と肩をすくめる。 「そっか、良かった」 三郎は、さきほどのやりとりがなかったかのように、本当にいつも通りだった。許してくれたのだろう。まだ少し気にしていたは、それが嬉しくて微笑む。 「じゃあ、先帰っててくれ。俺は吉野先生にこれ提出してから長屋に戻るから」 「一緒に行くよ」 「いや、いい。俺一人で事足りるから。お前も疲れただろ、部屋に戻って休めよ」 「そう? ……じゃあ、お願いね」 このままあっさりと三郎と別れてしまうことになんとなく物足りなさを感じつつ、けれどそれがどうしてなのかよく分からず、はとりあえず頷いた。赤い夕陽を見上げてから、三郎に視線を戻す。 「私、部屋に帰るね。お疲れ様、三郎」 「ああ」 軽く手を振ると、三郎が頷く。倉庫と三郎に背を向けて長屋に戻ろうと歩き出した時、また三郎の声がかけられる。 「なぁ、」 「ん? ……なに?」 呼ばれて振り向くと、三郎は軽く微笑んで、 「面倒な仕事、押しつけて悪かった。──手伝ってくれてありがとうな」 「ううん、どういたしまして。気にしないで、ほんとに暇だったから」 じゃあね、とはもう一度手を振って、再度長屋に向けて歩き出す。三郎にお礼を言われたことが嬉しくて、気持ちが上向きになっていた。 かと思えば、さきほど知った三郎の想い人のことが軽く頭をかすめて、なんだか自分でも分からないが複雑な気分になる。 三郎があんなに好きな相手ってどんな人なんだろう。学園の人なのかな。それとも三郎の家の近くの人かな。それとも…… 頭がぐるぐるする。でもどうしてなのか分からない。 不思議に思いながらも、長屋に戻るまで、はずっとそのことを考えていた。 「暇そうだったから、じゃないんだ」 の姿が消えてから、呟く。「お前だから誘ったんだ」と続ける。でもそれを本人に直接言えるほどには、やはりまだ思い切れない。 嫌われるのが怖い。避けられるのが怖い。想いを否定されるのが怖い。自分の恋が怖いものばかりで占められていることに、正直ぞっとする。 なんでまだあの人なんか好きなんだ。いいから俺を好きになれ、早く! この自分の感情は、きっとがまだあの先輩に向けているだろう想いと同じだ。やりきれない。なんであんな女をこんなにも好きなんだろうか。 苦悩とやるせなさに襲われながら、それでも以外を好きになりたいとも思わない、自分の一途さに呆れた。 頼むから、俺を好きになってくれ。 それだけが、に望むことだった。 終 →五話『小さな予兆』 |