富松作兵衛夢
『いつの世までも末永く』二話





「てか先輩、俺で遊ぶってどういう……あれ」

 振り返ったら、先輩の姿がなくなっていた。すぐ近くにいたはずなのにと不思議に思ったけれど、たぶんさっきの先輩女子を追い掛けて行ったんだろうと勝手に決めつけて、俺はしばらくの間一人で作業の続きをしていた。
 少しすると、廊下を走ってくる足音が近付いてきた。いなくなった先輩がなにかを抱えて戻ってくるところだった。

先輩、どこ行ってたんですか?」
「食堂だよ。富松ちゃん、糊作るよね。お昼ご飯の残りのお米もらってきたの」

 抱えてきたものを俺に差し出しながら、先輩は俺の隣に座る。手のひらほどの器に、米が小盛りになっている。確かに、糊を作んなきゃいけねぇって思ってたけど。

「え、わざわざ取りに行ってくれたんですか」
「富松ちゃん、糊持ってないみたいだったし。それに、ここから一度出ちゃうとまた入るの面倒でしょう?」
「……ありがとうございます」
「どういたしまして。私が作ってもいい?」
「あ、お願いします」

 慌てて道具箱の中から、糊を練る専用のへらと板を取り出した。俺からそれを受け取って、先輩は慣れた手つきで米を練り始める。
 しばらくその手つきを眺めていたけど、ああ俺も作業しねぇとな、と修理途中の戸板に手を伸ばそうとして、ふと思い出したことがあった。危うく忘れるとこだった。

「あの、先輩」
「ん? なに?」
「さっきの先輩方とのお話しなんですけど。俺、この戸板は先輩が壊したって聞いた気がするんですが」
「うん」

 俺の言葉に、先輩は手を休ませることもなく、あっさり頷いた。悪びれなく。

「どうせ女子生徒が壊したんだから、同じことでしょう? 私とあの子達は同じ学級だし、誰が壊しても富松ちゃんが直すことには変わらないし、それに説明するのも面倒くさいし」
「最後のが本音ですね」
「うん」

 あっさりとまた頷く先輩に、俺はこのひとらしいと思いながら、やっと手を動かし始めた。
 こういうところが、このひとはちょっと変だと思う。同級生の先輩達を庇ってるとか自己犠牲精神とかではなくて、説明が面倒くさいから、という理由だけで自分のせいにする。他人からの評価をあまり気にしていないと言えばいいのか、なんなのか。

先輩ってやっぱりなんか変ですね」
「褒め言葉に聞こえないのはなんでだろう?」
「褒めてねぇからですよ」
「ありゃ」

 ぺたぺたぺたぺた、米を練りながら先輩は楽しそうに笑う。それからちょっとだけ真面目な顔になって、俺を見た。

「ごめんね、富松ちゃん。いつも手間かけさせちゃって。私達が自分で修理出来たらいいんだけど」
「え? ……い、いえまぁその、これはほんとに俺の仕事ですし、こっちも三之助と左門がいつも迷惑かけてますし。……てか今回もすみません、あいつら悪気はないんですよ」
「あー。あの子達ってほんと的確に女子寮に迷い込んでくるよね。悪いんだけど、無許可で入ってきた男子はボコられても仕方ないとこがあるからね」

 先輩はちょっと困ったように苦笑する。今回の女子寮の風呂場破損は、前述した通りにあの迷子組の仕業だ。どういう偶然か同時に迷い込んだ女子寮で鉢合わせし、さらにそこを女子に見つかり、吹っ飛ぶ系の罠に掛かって二人して風呂場に落ちたらしい(昼休みだったので風呂に入っている女子がいなかったのが不幸中の幸いだ)。俺としては、むしろどうやったらそんな芸当が出来るのか聞きたいくらいだ。

「せめてこっそり入ってきてくれれば、見逃すことも出来るんだけど」
「いえ、ボコられるのは当然だと思います。俺らも男子寮に堂々と入ってきた女子を見て見ぬふり出来ねぇですし。……てかほんと今回はあいつらが悪いです、すみません……」

 だんだんと立場がなくなってきた。直接的には俺のせいじゃないけど、無関係とはとても言えねぇ。それにあいつらのことをよく知ってる同年や先輩女子は、寮に迷い込んできただけなら外まで誘導して穏便に帰してくれることも多い。無意識だろうが無自覚だろうが方向音痴だろうが、どう考えても悪いのはあいつらだ。
 ここでようやく、さっきはちょっと委員達の前で先輩にきつい言い方をしすぎたなと反省した。先輩がどう思っていようと、壊したのも先輩じゃなかったわけだし。どうせ今謝っても先輩はそんなのどーでもいいよって言うだろうけど、せめて委員の奴らには本当のこと言っておかないとな。

「それで富松ちゃん、三之助と左門の怪我は大丈夫だったの?」
「へ? ああ」

 風呂場に屋根から落っこちて、さすがのあの二人も無傷では済まなかった。かと言って決して酷い怪我でもなかったけれど。

「あいつらならぴんぴんしてますよ。ちょっと打ち身作ったくれぇでしたから、午後の授業もふつーに出てましたし。……まあ、これで壊したものも自分らで直すなら、俺も文句言わねぇんですけどね」
「あの二人すごいもんね。走るのすごく早いし。捕まえようとしても、追いつけないとき多いんだよね」
「そうなんですよ、あいつら委員会で無駄に体力つけてますからね。せめてもっと足が遅くてかつ体力がなかったら、簡単に捕まえられるってのに……!」

 日頃の苦労が一気に溢れ出してきて、つい強い口調で言ってしまう。俺が下級生の頃は、あいつらも上級生になればましになるだろうと思ってたけど、五年になった今でもその兆しはまったくない。昔と違って、ちょっとの間はほっといても生きてるだろう、と思うようにはなったけど。

「あんま愚痴みたいなこと言いたくねぇんですけど、せめて自分の部屋から教室くらいまでは一人で辿り着けるようになって欲しいんですよ。毎日毎日捜して捜して追い掛けて捕まえて……その分、こっちも走るのは早くなった気がしますけどね……」
「富松ちゃん」
「はい?」

 ふいに、ずっと聞こえていたぺたぺたという音が消えた。先輩が糊作りの手を止めて、俺に顔を向ける。のんびりとした、いつもの声で。

「富松ちゃんはさ。もし私が左門や三之助みたいに迷子になったら、捜してくれる?」
「嫌です」

 間髪入れずに即答した。なに言ってんだこのひとは。

「俺はあいつらだけで手いっぱいなんですから、先輩までそんな不吉なこと言わねぇでください。俺、迷子を捜すのが好きなわけじゃないですからね」
「あはは、そりゃそうだよね。ごめんね」
「そうですよ。だから迷子になるなんてやめてください。捜すの大変なんですから」
「うん、そうだよね。……迷子にはならないでおくね」
「ぜひお願いします」

 先輩が迷子なんて、想像しただけでも骨が折れそうで嫌な予感しかしねぇ。このひとがまともな迷子になる気がしないしな。

「んー。富松ちゃん、これでどうかな。大分練ったけど、使えそう?」
「あ、ありがとうございます。有り難く使わせてもらいます」

 糊が入った器を受け取ると、先輩はうーんと伸びしながら立ち上がる。そして少し赤くなりだした太陽を見て、「よし」と小さく頷いた。

「富松ちゃん、私そろそろバイトに行くね。あとのこと頼んでもいいかな」
「あ、はい。分かりました」

 そういえば、さっきも同級の先輩達と、バイトがあるとか言ってた気がする。

「今日はなんのバイトですか?」
「お花売りと子守だよ! 赤ちゃんの世話しながらお花売ると結構儲かるんだー。くの一の腕の見せ所だよね。疲れた心に癒しの一輪。恋仲の方にどうですか、お母様にいかがですか、お部屋に飾ると雰囲気が明るくなりますよー。あ、富松ちゃん十本くらい買わない? 綺麗なの取り置いといてあげるよー」
「じゅ、十本ですか……」
「冗談だよ。じゃあ、またね」

 ひょいっと縁側から地面に下りて、先輩は俺に軽く手を振る。はい、と頷こうとして、なぜか無意識に「あの、先輩」と引き止めていた。

「ん? なに?」
「あ。……えっと……」

 じーっと。お互いの視線が交わる。きょとんとしている先輩に、なんでもないですよと首を横に振った。

「気をつけて行ってきてください、先輩」
「うん、頑張って稼いでくる! 富松ちゃんもよろしくね、次期用具委員長様をこき使って悪いけど」
「やめてくださいよ。俺も食満先輩みたいになんでも直せたらいいんですけど、まだまだですから」
「直せてるよ。私ずっと見てきたから分かるもん。じゃあね!」

 手を今度は大きく振って、先輩が出入り口に駆けていく。何気なく言われた最後の言葉に、ちょっとびくっとした。先輩は、たまになんでもない風に気になることを言うから、タチが悪い。

「お部屋に飾ると雰囲気が明るくなりますよー、な。……うちの部屋に置いても誰も世話しねぇからなあ……」

 先輩が花を売ってるところを想像しながら、俺は改めて戸板に向かって作業を始めた。
 先輩は、大抵の空き時間はアルバイトをして過ごしている。それは単なる小遣い稼ぎじゃなくて、きり丸とほぼ同じ境遇だからだ。先輩には親兄弟も親戚もおらず、後見人もどこか遠いお寺のお坊さんらしい。聞いたことはないけれど、きっと天涯孤独の理由もきり丸とあまり変わらないのだろう。そんなに珍しい話でもない。
 ただ一つきり丸と違うのは、学園長先生から授業料の半分を卒業してから払うという恩情を受けていることで、そこまでせっぱ詰まった働き方はしてねぇみたいだけど。
 先輩は、あまりひとと深く関わりたがらない。かと言って徹底的に離れようともしない。たぶん、常にその境界線上にいるように心がけている。
 それはもしかしたら、先輩の境遇が理由の一端なのかもしれない。かもしれない、なんて言葉でも、部外者の俺が勝手に決めつけてはいけないんだろうけど。
 出会ってすぐは全然分からなかったけれど、先輩は自分の負の感情を滅多に表に出したがらない。
 性格は昔も変わらずあんな掴み所のない感じだったけれど、何年も前に一度だけ、俺は先輩が泣いているのを見たことがある。誰にも見つからないように、人気のない学園の端っこで。寂しい、悲しい、そう全身で表してるみたいな苦しそうな泣き方だった。
 今でも俺は気が利くほうとはとても言えねぇだろうけど、下級生の頃なんてもっと酷くて、泣いてる女の人を前にしてどうしていいか、全然分からなかった。
 だから俺は、俺に泣いてるところを見つかって唖然としてる先輩に、ものすごく配慮不足な言葉を投げつけた。そりゃもう、今思い出しても酷いなという一言を。

先輩の泣いてる顔、すごく気持ち悪いからやめてください。夢に出てきそうです』

 泣きやんでください、と素直に言えばよかったのに。もし俺が泣いてるときに誰かにこう言われたら、意味を考える前にもっと泣きたくなる。
 今更反省したところで過去はやり直せないわけだし、先輩はそのとききょとんとして、ただ一言『そうだね』と言って無理矢理にちょっと笑ってくれた。それから俺は先輩が泣いたところを見たことはないし、先輩が寂しい、悲しい、と口にしたところも一度だって知らない。
 それでも時折、先輩の泣き顔を思い出す。もしかしたらまたどこかで一人で泣いてんじゃねぇか、誰にも苦しいって言えずにいるんじゃねぇか、そう思う度に胸が痛くなる。
 先輩にとっては、俺の心配なんか余計なことかもしれない。先輩は今とても幸せで、あのとき以来一度も泣いてないのかもしれない。もし今でも苦しんでいたとしても、俺に心配されても嬉しくないかもしれない。
 それでも俺が勝手に先輩のことばかり考えているのは、同情しているとかではなくて、単に俺が先輩をただの『先輩女子』だと思っていないからだ。
 素直に言えば、惚れてるから心配だ、という一言だけで済む。もう何年も前から分かってたことだから堂々と言える。あのちょっと変なひとが俺はすごく好きだ。

「……お花、か」

 花は癒しだと、先輩は言っていた。それが本当ならば、バイトだとしても花に囲まれていれば、先輩の気持ちも少しくらいは楽になるのだろうか。それならいいんだけど。
 いや、つーかその前に、これをさっさと修理することが一番癒しだよな、たぶん。あと風呂も。
 急に現実に戻って、俺はやれやれと気持ちを切り替える。
 ただ考えてても仕方ねぇ。先輩が俺を用具委員として認めてくれているなら、その仕事をきちんとするのが一番だ。

「よし、直すか」

 金槌を握り直し、目の前の補修作業に集中した。









 風呂場の修理まで全てが終わったのは、日が沈んでからだった。思っていたよりは早く終えることが出来て、ほっとした。委員達から連絡がなかったということは、大きな問題事が起こらなかったということだろうし。
 屋根の修理も終わったし、洗い場用の井戸の壊れた釣瓶も繋ぎ直した。これで、明日から女子寮の風呂場が使えるはずだ。

「さて、後片付けしてとっとと戻るか。早くあいつら手伝ってやりてぇし。……あと、ここにずっといるのって怖いしな。百害あって一利なしっつーか」

 修理道具を箱に直しながらぶつぶつと呟いていたら、突然に後ろから「そうよねぇ」と声がした。

「わっ!?」
「ご機嫌よう、富松君。わざわざこんなに怖いところまで修理に来てくれて、本当に悪いわねぇ」
「や、山本先生……ど、どうも……」

 驚いて振り返ると、年を取っ……お年を召されたほうの山本先生が、にこにこと優しそうな笑顔で俺のすぐ後ろに立っていた。やばい、頭の中が真っ白になる。一人きりだと思って完璧に気ぃ抜いてた! 聞かれた! 聞かれちまった!

「す、すみませんでした! 怖いってのはその、言葉の綾っていうか、その」
「いいのよ。くの一は男性に恐れられてこそ一人前ですからね。……あら、綺麗に直してくれたのね。ありがとう」
「い、いえ、とんでもねぇです。あの、一応全部直しましたけど、まだ漆喰乾いてねぇんで、使うのは明日以降でお願いします」
「ええ、分かったわ」
「じゃ……じゃあ俺、委員の仕事がまだ残ってるんで、もう戻りますね!」
「あらあら。忙しいのにほんとにごめんなさいね。なんの利もないこんなに怖いところまで、わざわざ来てくれて」
「うぐ」

 にこにこと、山本先生は見た目は完璧に優しそうな笑顔を向ける。や、やっぱり怒ってるんだろうか。それとも単に俺をからかってるんだろうか。どっちにしても後々のことを考えると、弁解しておいたほうがいい。

「ち、違うんですよ、女子寮に来るのは利がないなんて思ってねぇですよ! 罠がたくさんあって避ける練習にもなりますし、友達に『お前英雄だな』って尊敬されますし、それとその……えっと……あ、そうだ、今回なんてほら、女子寮の風呂の修理じゃないですか。俺ら男子が女子寮の風呂に入るなんてまず無理ですから、あの、そういう意味ですごくいい経験になったと言いますか、役得だなーなんて……あはは……」
「あら。それなら残念だけど、さんはいつもバイトで遅くなるから、ここじゃなくて教員用のお風呂を使うことが多いのよ。あっちのほうが湯を抜く時間が遅いから」
「あ、そうなんですか。そりゃほんとに残念…………って、うわああああああああああ!!!!!!!!!」

 頭抱えて絶叫した。なんで? なんでばれてんだ?
 くの一ってひとの心が読めるのか? つまり俺の思考は全部筒抜けなのか? もしかして俺が下級生の頃寝小便しそうになったことも知ってたりするのか? や、やべえ、やっぱり女子寮になんて来るんじゃなかった……!
 がたがたと震える俺の前で、山本先生は何事もなかったかのように、相変わらずのにこにこ笑顔を浮かべている。ちびりそうなほど超怖い。
 こ、こうなったらもう逃げるしかねぇ。俺に残された道はそれだけだ!

「ほほほ、ごめんなさいね富松君。反応が楽しくてついからかっちゃったのよ。あらあら、ちょっと待って。一人で帰ると危ないわよ。もう迎えが来るはずだから」
「む、迎えなんていらねぇです! ひとりで帰れま──」
「山本先生、お呼びですか? あ、富松ちゃん。もうお風呂の修理終わったの?」
「ぎゃーーーーーーーーーーーーー!」

 口から心臓が飛び出るかと思った。
 突然その場に現われたのは、もちろん先輩だった。先輩はきょとんとした様子で、飛び退いた俺と山本先生とに視線を向ける。

「富松ちゃん、なんか踏まれた蛙みたいな声出てるけど、どうしたの? おーい、富松ちゃん? なんで浴槽の中に隠れるの?」
「ごめんなさいねさん。ちょっと先生、富松君のことからかいすぎちゃったみたいなの。……ああ、これを返そうと思ってたの。大事なものなのに、貸してくれてありがとう。とても綺麗な装飾ね」

 俺が浴槽の中から恐る恐る外を窺うと、山本先生がなにかきらきらした紐みたいなものを先輩に手渡しているところだった。先輩は「いえ」と小さく微笑んで、それを素早く首に巻く。ここからじゃよく見えないけど、たぶんいつも先輩が付けている首飾りだ。一度見せてくれたから覚えてる。あんまり見たことねぇ造りで、素人の俺から見てもすごく丁寧な細工のやつだ。先輩はなにも言わなかったけど、たぶん誰かの形見か大切なものなんだろう。
 いつもは装束の下で見えないけど、たまに先輩が中着だけでいるときなんかは目に入る。まぁ中着だけのときなんて、すげえ暑い日とか風呂入る前にしか見ることねぇけどな。
 ……ち、違う! 風呂入る前も入った後も入ってるときも見たことねぇ! 見たことねぇですからね!

さん、このあと手が空いてたら、富松君を送って行ってくれるかしら? ついでに謝っておいてくれると嬉しいんだけど」
「分かりました。でも山本先生、富松ちゃんはあんまりいじめないでくださいね。女子寮に来てくれなくなっちゃいますよ」
「そうよね、ほんとにごめんなさい。……じゃあね富松君、覗くお風呂は選びましょうね」
「ぎゃーーーーーーーーーーーーーーー!」

 最後の最後にまた笑顔でトドメを刺して、山本先生の気配が消える。もーやだよー女の人こわいよー。

「富松ちゃん?」

 先輩が不思議そうな顔で、浴槽の隅で丸まってる俺を覗き込んできた。その様子は本当にいつもの先輩のものだ。だから聞かれてない、きっと聞かれてない聞かれてない大丈夫、と自分に言い聞かせて動悸を静めようとする。

「ねぇ富松ちゃん、出ておいでよ。そんなとこで丸まってても楽しいことは起こらないと思うよ」
「……そうですね」

 ようやく落ち着いてきて、先輩の言うとおりに浴槽から出た。なんかものすごく情けねえ……。てかくの一ちびるほど怖ぇ……。しつこいけどほんと怖ぇ……。

「富松ちゃん、道具箱片付けていい?」
「あ、ありがとうございます。……てかあの、先輩、バイトだったんじゃなかったんですか?」
「うん、バイトだったよ。さっき戻ってきたら、友達が山本先生が呼んでたよって教えてくれたの。富松ちゃんのことかなと思ってお風呂場に来たら、ちょうど二人がいたから。…………あー、えっとね富松ちゃん。先生もみんなも男子をからかうのが大好きだから、つい遊んじゃうんだよ。悪気はあるけど悪意はあんまりないから、気にしないでまた女子寮に来てね? ……ってこれ逆効果かな?」
「あ、あはははは……いえ、大体のことは前々から分かってたつもりでしたから、大丈夫ですよ……」

 でもまさか、俺的に最上級の秘密さえもばればれだったとは思いませんでしたよ……。
 とりあえず、先輩はさっきの山本先生と俺とのやりとりに本当に気づいていない様子だったので、俺の頭はようやくまともになってきた。とにかく、油売ってねぇで早く戻ってやらねぇとな。
 散らばった道具類を先輩と片付けて、女子寮の風呂を出る。さすがにたくさんの生徒が戻ってきていて、長屋は来たときよりもずっとざわざわしている。うう……女子の巣窟……さっきの今で少し警戒しながら、先輩と出口に向かう。
 先輩はいつも以上の怯えようの俺に、のんびりした口調で「そういえばね」と口を開いた。

「さっき学園に帰ってきたときにね、用具委員の子達に会ったよ。もうちょっとで終わるんですーって言ってたから、富松ちゃんが戻る頃には丁度いいんじゃないかな」
「え、ほんとですか。あー、じゃあ今日は久しぶりにちゃんと帰らせてやれるかも……」
「ん。最近忙しかったの?」
「いや、いつもと一緒っちゃ一緒なんですが、六年が試験中なんですよ。それで田村先輩と滝夜叉丸先輩が競って自主練してまして、それに比例して備品が壊れてるって感じで。それだけじゃねぇですけど」
「あー。それでタカ丸さんが、『今、寮の厠が使えないから不便なんだよねー』って困ってたんだ」
「ほんと、せめて壊すなら用具委員が修理しなくていいとこにして欲しいんですけどね……それか自分で直すとか」

 またぶつぶつ愚痴ってたら、すぐにくの一教室の出口に着いた。来たときと同じように、先輩が戸を開ける。

「富松ちゃん、許可証だけもらっとくね。山本先生に返しておくから」
「あ、すみません。お願いします」
「うん。じゃあ代わりにこれあげるね。お礼にならないかもしれないけど」

 許可証を受け取った先輩は、今度は俺になにかを差し出した。
 宵闇の中でもはっきりと鮮やかな、紫色の一輪の花だった。

「カキツバタだよ。今が丁度旬なんだ。一本だけ売れ残っちゃってね、捨てるの勿体ないから持って帰ったの。疲れた心に癒しの一輪、いかがですか?」
「あ、……ありがとうございます」

 思わず受け取って礼を言うと、先輩はにっこり笑う。

「いえいえ、ギブアンドテイクだよー」
「ギブ……え?」
「私ね、この花が好きなんだ。綺麗だし、結構いろんなとこにこっそり生えてるし。富松ちゃん、知ってる? 裏々々山にね、カキツバタがたくさん生えてるとこがあるの。あんまり人が通らない池の近くだから、取り放題だよ。私、そこでぼーっとするのが好きなんだ。この子もそこから取ってきたの」
「……えっと、つまりそこのカキツバタを摘んで商売に?」
「うん、そうだよ。元手タダの商売ほど美味しいものはないよねー。あ、今の話は他のひとに内緒ね?」

 楽しそうに笑って、先輩はどうぞと戸の向こうに俺を促す。差し出された、先輩が持ってくれていた道具箱を受け取り、女子寮の戸から外へ出た。

「おやすみなさい、富松ちゃん。また明日ね」
「はい。おやすみなさい」

 ぱたん、と女子寮の戸が閉まる。そして、先輩の小さな足音がゆっくり遠ざかって行く。
 右手の中の紫色の花をちょっと見てから、俺も踵を返して用具倉庫まで駆けだした。
 さっきまで散々女子寮は怖いと怯えていた気持ちが、安易なことに綺麗さっぱり消えていた。いや、今でももちろんすげえ怖いんだけど、それよりも嬉しいって気持ちのほうがずっと強い。
 俺は花のことなんてよく分かんねぇし、普段はそんなに興味もねぇけど。

「まず、花瓶の代わりになるもの探さねぇとな……いや、その前に掃除か。部屋きたねぇんだよな、三之助とか泥まみれで帰ってくるし」

 やっぱり、好きな女の人からなんかもらうって、嬉しいよな。きっと俺だけじゃなくて、誰でも。
 明るい月の光が、用具倉庫を照らしている。こっちに気づいた後輩達が、「富松せんぱーい」と手を振ってくる。花を潰さないようにそっと握って、後輩達に駆け寄った。





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