次屋三之助夢
『恋した理由』前編
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そのときの私は、とても虫の居所が悪かった。 原因は全部些細なことで、たまたま忍具の手入れ中に失敗して二の腕を怪我してしまったのを始まりに、食堂で狙っていた定食が私の目の前で売り切れてしまったり、雑巾がけをしていた小松田さんとすれ違いざま、派手に転んだ小松田さんの手から離れた雑巾が、顔面にまともにぶち当たったり。他にも連続してカラクリに引っ掛かるという保健委員のような不運に見舞われたり、一日の始まり、私が長屋を出た瞬間に狙い澄ましたように雨が降ってきたり。 一つ一つはそう大したものじゃなくても、積み重なることで私は次第に苛々が増してきた。なんてついてない一日なんだろう。苛々と一緒に、なんだか自分がとても惨めな存在に思えて、情けなくなってくる。 どんよりとした気分でようやく放課後を迎えた私は、食事と風呂をさっさと済ませて、もう今日は部屋に引きこもっていようと強く決意した。読書でもして寝るまでの時間を過ごそうと、図書室から借りてきた本を開いた、そのとき。 三之助が現われたのだ。 「あれ、今日はいつもに増して不機嫌っすね。前みたいに犬の糞でも踏みました?」 「うっさい、帰れ」 慣れた所作で天井裏から下りてきた三之助は、断りもなく私の隣に座る。まるでここが定位置だとでも言うように。 「ああ、腕に怪我してますね。それが不機嫌な理由ですか」 「知らん、帰れ」 「じゃあ、雨ですか。外すごいっすよ、雷が鳴りそうな勢いで」 もしかして雷怖いんすか? と、三之助がにやにやしながら私の顔を覗き込んでくる。苛々するので背を向けると、追い掛けてきてまた改めて顔を覗かれる。うっとーしー。 「あんたに関係ないでしょ、帰れバカ」 苛々してるときにこいつの顔を見ると、その苛々がどんどん酷くなる。強い口調で拒絶しても、三之助は意にも介さない。これまでだってずっとそうだ。だからますます腹が立つ。 三之助がこうして私にまとわりついてくるようになったのは、大体半年ほど前からだ。最初は食堂とか廊下とか共用場で絡まれることが多かったけど、最近は遂に部屋にまでやってくるようになった。 もともと私と三之助には、共通点がほとんどなかった。あると言えば私が用具委員で、委員の後輩である作兵衛が三之助と同室だということくらいだ。同じ学園で過ごしているのだから、三之助の顔と名前とその迷い癖くらいは知っていたけど、あるとき廊下で突然に私の進路を塞いで上から見下ろされたとき、さすがに何事かと驚いた。 三之助は六年男子にもひけを取らないほど身長が高かった。なんだこのでかいの私に喧嘩売ってんだろうか、となにも言わない三之助を睨み付けると、三之助は真顔で私に言った。ほとんど初対面の私にだ。 『先輩、俺の女になってください』 反射的に殴っていた。あ、だめだこいつ超やばい、と本能で察したからだ。 体格がいい三之助は私の拳を受けても少しよろける程度だったけど、まさか殴られるとは思っていなかったのだろう、呆気にとられた顔になった。変質者が次にどういう行動に出るかと警戒している私に、三之助はやがて堪えきれないように笑う。そして、 『俺、本気ですから。覚悟しててください』 そう言い残して、去って行った。 そのときにきちんとけじめをつけておくべきだったと、今更になってそう思う。三之助はそれから私の行く先々で姿を見せ、同じ言葉を繰り返した。『俺の女になってください』。それ以外の言葉を知らないのかという勢いでしつこかった。 その末に、こうして今のように部屋にまでちょくちょく来るようになった。帰れ、もう二度と来るな、と繰り返しても無駄だった。 今だって我が物顔で私の部屋を漁り、勝手にお茶を淹れている。誰が淹れていいって言ったのよ、と怒っても意味がないのは、今までの経験上明白だ。 「あんた注意不足なんですよ。この間も、用具委員会で思いっきり金槌で親指打ってたじゃないですか。はい、お茶ですよ」 「あのときは、ただ前の日が夜通しの実習だったから疲れてたの! もういいから出てってよ。今日はほんとに機嫌が悪いの」 「そうみたいっすね。でも俺は別にいいですよ。怒ったあんたも嫌いじゃないですし」 「あんたはどうあれ、私はよくないの!」 くそ、どんどんどんどん腹が立ってきた。 三之助のなにが気にくわないって、俺の女になれとかいきなり言う非常識さや、しつこくまとわりついてくるのも勿論だけど、一番は私を玩具にしか思っていないことだ。 三之助はあまり表情を変えない。真顔でいきなり俺の女にとか言われても、どん引きはしてもときめきなんかするわけがない。これで頬を赤らめていたり緊張しながら『好きです』と言われていればまだしも、こいつは逆に私をバカにする発言をしたりするのだ。こんなやつ信用出来るか。 大体、こいつは私の部屋に来てもごろごろするだけだ。抱きたいような素振りも見せなければ手を繋ごうともしない。これで恋愛対象に見られていると自惚れられるなら、それは大した女だ。 「苛々してもいいことないっすよ。まあ、あんたいつも苛々してるけど」 「誰のせいだと思ってんのよ、空気読めないあんたのせいでしょ。身体ばっかでかいくせして、中身がそれに伴ってなさすぎなのよ」 「ああ、先輩は自分より身長が低い男のが好みですか。それとも幼年好みとか?」 「あんた以外の男が好みよ」 いい加減限界に思えてきた。こんなやり取りしてもなんの生産性もない。もういやだ。苛々すると同時に、気持ちがどんどん落ち込んでいく。私なにしてんだろ。朝からなんにもいいことないし、三之助には絡まれるし。もう本を読む気にもなれなくて、少し乱暴にそれを放り出し、畳の上に寝転がる。ふて寝してやれ。 「先輩。図書室の本に八つ当たりしてもしゃーないですよ。図書委員に怒られるだけです」 「だって、あんたに八つ当たりしても意味ないじゃない……」 「なんでですか。別に俺、先輩に八つ当たりされてもいいっすよ。むしろ嬉しいです」 真顔で、三之助が上から私を覗いてくる。いつものように、緊張の欠片もなく、淡々と。 ああ、そう。 気づけば、嗤うように微笑んでいた。身体を起こして、三之助を見上げる。じっと私を見下ろす三之助の瞳は、無表情に近い。初めて会ったとき、俺の女になれとかわけのわからないことを言った、あのときと同じ。 「なにそれ。あんたが私を好きだから?」 「そうです。俺があんたを好きだから」 その言葉を耳にした瞬間、動いていた。 右手を振り下ろす瞬間、それより先に三之助の手が遮った。三之助の頬を張るはずだった手は、手首を掴まれて動きを止める。私の手を離しながら、三之助は呆れたように嘆息する。 「八つ当たりするときは今からするって言ってくださいよ。気構え出来ないですから」 「なにが好きよ、バカらしい。どうせ全部嘘のくせに」 「はい?」 「俺の女になれ? 好きだ? ガキのくせして女からかってんじゃないわよ。いい加減にして」 「…………はい?」 三之助は一瞬きょとんとしてから、悩むように首を捻る。なんだか初めて年相応の三之助の顔を見た気がして、可笑しくなった。ああ、もう嫌だ。 「すんません、よく意味がわかんないんすけど」 「私、もうあんたの相手をするのに疲れたの。あんただって、好きでもない女の癇癪には付き合いたくないでしょ。もう終わりにして」 三之助は、私の真意を探ろうとするようにじっと視線を向けてきた。それから、すうっと気配が変わる。いつもみたいになに考えてるか分かんないものじゃない、寒々しいものだ。あ、もしかして怒ってんだ。 「俺が、ほんとはあんたのこと好きじゃないって言いたいんですか」 感情を抑えているような三之助の低い声に、私は身を乗り出してその顔を睨み付ける。 なにを今更、そんなこと。 「その通りでしょ。初対面で好きって言われてどうやって納得しろっての? 私はそれまであんたと話したこともなかったのに」 「それは──」 「大体、好きだって言うなら私のどこが好きなのよ。美人じゃないし成績もよくないし性格だってこんなだし、今日なんか朝からいいことないし。それでもあんた、私のことが好きって言えるの」 三之助はなにかを言おうと口を開きかけて、それから言う言葉が見つからなかったのか押し黙った。 ああ、ほら、やっぱりそうじゃない。 こいつは私のことなんか好きじゃない。 「出て行って」 もうやだ、疲れた。 私と目を合わせようとせず、黙ったままの三之助から身を引く。 「三之助。聞こえたでしょう、出て行って。……二度と私に話しかけないで」 私の言葉に、三之助はのろのろと立ち上がる。そして、 「……俺は」 再びなにかを言いかけ、けれどまた口を閉じた。その顔を睨んだままの私に、三之助は初めて私の視線から逃げるように目をそらし、そして静かに部屋を出て行った。 「………………」 なんだか本当に、一気に疲れた。私はゆっくりとその場に寝転がり、足を引き寄せて丸くなった。 これで三之助は私のところに来なくなるだろう。振り回されることもなくなるのだ。楽になる。 もう眠ってしまえと思ったとき、視界の端に三之助が勝手に淹れた湯飲みが見えた。手を伸ばして湯飲みを掴み、一気にお茶を飲み干す。湯飲みを畳の上に戻し、また小さく丸まって目を閉じた。 外は大雨が降っている。勢いも風も強い、嵐のような雨だ。ついていない一日の始まり、私が長屋から外に出た途端に振り出した豪雨が、そのままずっと続いている。 長雨の季節ではないのに珍しい。もしかしたら台風が近いのかもしれないと、農家の出の友達が言っていたのを思い出す。 一刻ほどは寝ていたのだろうか。ぼんやりする頭で、私は畳から起き上がる。その途端にぴかぴかと外が光り、続いて少し遠くから轟音が響いた。三之助が言っていたように、雷が鳴り始めたのだろう。 「先輩、失礼します!」 突然に、勢い良く部屋の戸が開いた。驚いて振り返る私の視線の先、部屋の外には、焦りを帯びた表情の後輩、作兵衛の姿があった。ここまですごい勢いで走ってきたのか、ぜえぜえと肩で息をしながら、作兵衛は私の部屋を素早く見回した。誰かを捜しているように。 「作兵衛、どうしたの。女子寮に無断で入ったら説教だけじゃ済まないよ」 「先輩、三之助知りませんか!?」 私の声を遮って、作兵衛が叫ぶ。その名前に、身が固くなった。またどうせあのあほは迷子になってるのだろう。三之助がよくここに来ていることを、同室の作兵衛は知っているからだ。幾度か、滝夜叉丸先輩が探してるんですとか、先生が呼んでるんですとかで三之助を連れ戻しにきたときがあった。そういえば、『なんでかあいつ、先輩の部屋に行くときはあんまり迷わないんですよね』と嬉しくないことを言っていた気もする。 ともあれゆっくり息を吐いて、動揺が表に出ないように努め、首を横に振る。 「知らないよ。一刻くらい前にはいたけど、出て行ったから」 「どこに行くか言ってませんでしたか!?」 「……ううん、聞いてない」 三之助との会話を思い出しても、これからどこに行くとか、そんな言葉はなかったはずだ。 私の答えに、作兵衛の顔はあからさまに落胆した。未だ荒い呼吸で、くそ、と吐き捨てる。それがあまりに深刻そうだったから、さすがに私も気になって、立ち上がって作兵衛の元に足を進めた。 「どうしたの。三之助がまたいなくなったってだけでしょう?」 「そうなんですけど……。すみません先輩、本当に三之助がどこに行ったか知りませんか? ここ出たときなにか変な様子だったか、そういうの、なにか……」 どくん、と嫌な予感が身を襲う。変な様子だったって、それは。 「ねえ作兵衛、三之助がいないだけなんでしょ? ならきっと学園のどこかでまた迷って──」 「外、に」 作兵衛が口を開いた。ざあざあと、雨が地面を叩いている。嵐に近い大雨。 「三之助、外に出て行ったらしいんです。でもこの雨ですよ!? 月も見えないしあいつすぐ迷うし、雷鳴ってるし! それにあいつ」 背筋が小さく震えた気がした。 『出て行って』と、私が言った。私が。 「それにあいつ、山の中に走って行ったって、小松田さんが言ってたんです。こんな大雨の中に!」 ぴしゃん、と。 私と作兵衛を、雷の光と音が叩いた。 三之助はもう五年生だ。体格も良いし、忍者見習いだし、体育委員だし、体力や持久力も人並み以上にあるだろう。大雨が降る山の中にいても、簡単に遭難したりはしないはずだ。 けれどそれは、きちんと防寒具や道具やそれなりの用意をしたときの話だ。 今はまだ春を待つ季節で、夜は凍えるように寒い。そんな気温の中、しかもこの雷雨の中、あの迷子癖のある男が無事かと聞かれたら、私にはとても答えられない。 三之助が出て行くのを見た小松田さんは、三之助の様子がどこかおかしかったと言っていたらしい。止めようとしたけれど、とにかくちょっと外に行くの一点張りで、そのまま無理矢理に出て行った、と。 先生達は、最悪の状況だと判断するまでは外に探しに出るなと言ったらしい。だから作兵衛や同年の生徒達は、学園内を探していた。もう三之助が帰ってきていて、学園内で迷子になっていればいい、という希望を持って。 作兵衛は、失礼しました、と悲痛な顔で私に一礼して、すぐにまた走っていった。そのまま女子寮を探すつもりなのだろう。 『出て行って。二度と私に話しかけないで』 お前のせいだ、と誰かに囁かれた気がした。 背中に冷たいものを押し当てられたように、ぞくりとする。ああ、そうだ。私のせいだ。 三之助が一体なにを考えて、この悪天候に外へ出たのかは分からない。でもそれはきっと、私とのあのやり取りのせいだ。 じわじわと、心の奥底から後悔が溢れ出す。三之助に言ったことに嘘はない。全部本当のはずだけど、それでも、無茶なことをさせた原因はきっと私だ。この豪雨の中一人きりで、準備もしないで山になんて。 まとわりつく三之助が鬱陶しかった。好きだ好きだと嘘ばかり繰り返すのに腹が立った。 ──だけどこんなことになるなら、一生口にしなければよかった。 震える手で戸を開けて、私も自分の部屋を出る。 途端耳を打つ、凄まじい轟音と雨の音。一瞬照らされた光を頼りに、女子寮の庭に駆けだした。 三之助を見付けることは出来なかった。 女子寮の中や、共用場や、訓練場や、闇雲に探し回っても、三之助はいない。時間が経つにつれて雷は遠ざかり、雨の勢いもましになったけれど、それでもまだ雨は冷たく、月や星はまったく見えず、好天気とはとても言えなかった。 雨に身を晒したせいで、身体中が震えて仕方ない。風が吹くたびに、剥き出しの二の腕が寒さの痛みを訴えた。 遠くから幾度となく、作兵衛や先生達が三之助を捜している声が聞こえた。あの声が聞こえているうちは、三之助が見つかっていないということだ。 夜も更けてきて手足の冷たさが尋常でなくなってきたとき、通りすがりに三之助の友達の保健委員、三反田に見つかって、先輩はもう部屋に戻ってくださいと叱られた。 確かに私一人が増えたところで、三之助を見付けることは出来ないだろう。だって私は、あれほど三之助にまとわりつかれていたのに、三之助が行きそうなところも、迷い込みそうなところも、何一つとして知らないのだから。 忍術学園は広い。たとえ三之助が学園内にいるとしても、たった数人ではとても全てを捜しきれない。だけど私が三之助のことを知ろうとしていれば、もう少し手伝えたかもしれないのに。 今日一番重くなった心を抱えて、自分の部屋に戻る。無論そこに三之助がいるはずもない。油に火を移して部屋の中を照らしてみても、誰の姿もない。三之助が居た痕跡は、三之助が私にと勝手に淹れたお茶の湯飲み、それだけだ。 濡れて汚れた装束を脱ぎ、身体を拭いて夜着に着替えた。布団を敷いてその中に潜り込むと、冷え続けた身体から力が抜ける。でも、眠気なんて欠片もない。身体が動いていない分、ただぐるぐると頭の中に嫌なことだけが巡り続ける。 「ど、うして」 布団の中に吸い込まれた自分の声は、あまりに情けないものだった。なぜ、どうして、三之助がいるなら聞きたかった。でもいない。いつも鬱陶しいくらいに傍にいた男が、今どこにいるのかも分からない。 三之助に振り回されるのが嫌だった。それは確かだけど、傷つけばいいと思ったことはない。 好きでもないなら傍にいて欲しくない。嘘の言葉ばかり繰り返さないで欲しい。ただそれだけだったのに。 雨の音が、部屋の中まで聞こえてくる。布団を頭から被っても、酷く耳につく。ざあざあ、ざあざあ、遠くで鳴っている雷の音も一緒に。 三之助。 布団の中で、名前を呼んだ。胸奥から、堰を切ったようにどっと複雑な感情が溢れてくる。 三之助。三之助。三之助。繰り返して名前を呼ぶ。そのたびに複雑だった感情が入り混じり、一つのものとして形を変えた。それはずっと私が理解していたもので、だけど認めたくなかったこと。 ぎゅっと、身を縮めた。 三之助。ごめんなさい。私は、 私はただ── ことり、と。 雨の音に混じって、小さな音がした。 →後編 |