中在家長次夢
『二度目の鼓動』


十一話
「四日目」その一





 どんな夢を見ていたのかは分からないけど、泣きながら目が覚めた。
 まだ暗闇に包まれた、夜明け前。隣で眠っている同室の子を起こさないように、布団の中に潜り込んで涙を拭った。
 胸が痛い。呼吸が出来ないわけじゃないのに、溺れたときのように酷く苦しい。
 じわり、とまた涙が溢れ出た。
 足りない、と自分の声が幾度も頭の中で繰り返す。足りない。足りない。足りない。
 それは中在家君に関する記憶なのだろう。思い出したいと心から思うのに、本当にそうしていいか分からない。
 昨日中在家君に言われたことが、ずっと頭から離れない。最後の、別れを告げるような仕草も。
 私は、本当にあのひとのことを邪魔だと思っていたのだろうか。中在家君がいない世界に行ってしまいたいと本気で願って、そしてその通りにしたのだろうか。
 胸が軋む。
 隙間が空いたかのように酷い喪失感に、声を出さずに泣き続けた。

 どれほど来ないで欲しいと望んでも、その逆にどれほど早く来て欲しいと望んでも、時間は平等に流れ、確実に『明日』はやってくる。
 泣き疲れた後、私は誰かに泣き顔を見られないようにと暗闇の中布団を出て、一日の用意をして顔を洗いに行った。
 中在家君の記憶を失ってから、四日目の朝。私はまだあのひとのことを思い出せず、思い出していいのかすらも分からないままだった。


 朝の支度をすべて終えてしまっても、日が昇るまでは少し時間があった。
 中在家君の顔を見るのが怖いこともあって早くに向かった食堂は、まだ準備中だった。いつもは生徒達でいっぱいの食堂内も、今は誰の姿もなくがらんとしている。かまどに火を入れたばかりなのか、お勝手のほうから忙しく動き回る食堂のおばちゃんの気配と、ぱちぱちと燃える薪の匂いが流れてくる。
 どうせ暇なのだしと、無人の引き渡し口を迂回して、勝手場へと顔を覗かせた。
「おばちゃん、おはようございます」
「ん? ……あら、ちゃん。朝早いのねえ」
 忙しそうに朝食の用意をしていたおばちゃんは、私の顔を見てなぜか一瞬眉をひそめた後、すぐに笑って声をかけてくれた。
「ごめんね、定食はあと半刻くらいしないと出せないのよ。今はまだお湯を沸かしてるところだから」
「いいえ、早く目が覚めすぎたんです。なにかお手伝い出来ることありませんか? 友達も寝てるし、暇なので」
 それに、なにかしていたほうが気も紛れるから。お魚にお野菜に卵にお味噌にお米、たくさんの食材に囲まれたおばちゃんは、私の言葉に嬉しそうに顔をほころばせる。
「おや、いいのかい? そうだねえ、じゃあとりあえず水運んできてくれるかしら。お野菜洗うのに足りなくて」
「はい。桶一つでいいですか?」
「あ、ちょっと待ってて」
 おばちゃんは割烹着で手を拭って、外へと繋がる勝手口へと向かった。半分ほど戸を開けて、その向こう側へと声をかける。
「七松くーーん! ちゃんも一緒に行ってくれるって!」
「え、小平太?」
 よく知る名前に驚いた瞬間、「おー!?」と聞き慣れた声が勝手口の向こうから響いてきた。
「じゃあ、七松くんと一緒によろしくね。桶三つ分でいいから」
「あ、はい。分かりました」
 おばちゃんの言葉に頷いて、私は慌てて勝手口の外へと出た。途端おばちゃんの言葉通り、見覚えのある姿が両手に空桶を持って駆け寄ってくる。
「よっ! お前もおばちゃんのお手伝いか!?」
「うん。おはよう、小平太」
「おう、いい朝だな!」
 まだ日も昇っていないのにすごく元気そうな小平太は、にーっと私に笑いかける。朝早いのに全然眠そうな顔じゃないけど、いつ起きたんだろう。
「じゃあ、これ持ってくれるか? 桶五つあるから、お前二つなー」
 ほら、と当たり前のように手桶を二つ渡されて、私は自分の分と、そして小平太が持つ三つの桶それぞれに視線を向けた。なんで五つ?
「小平太。おばちゃん、三つでいいって言ってたよ?」
 一応訊ねてみると、小平太は『だめなのか?』という顔で首を傾げてみせる。なんとなく小平太の言いたいことが分かって、えーと、と私も首を傾げた。
「小平太、たくさん水運びたい気分?」
「たくさん水運びたい気分」
 こくこく頷く小平太に、じゃあしょうがないなと苦笑する。「よーし、行くぞー!」と歩き出す小平太に、私も手桶を下げて後に続いた。


 食堂はたくさん水を使うから、井戸もすぐ近くにある。釣瓶を交互に使って、私と小平太は空桶に冷たい水を満たしていく。
、朝早いなー。いつもこんなんか?」
「今日は早く目が覚めただけだよ。小平太こそ早いんだね」
「いつもはこんなに早くないんだけどな、さっきまで真夜中一人バレーやってたんだ」
「真夜中一人バレー?」
 一人でバレー。それバレーって言わないんじゃないだろうか。私の視線でその疑問を察したのか、小平太が「だって」となんだか拗ねたような顔になる。
「最初は文次郎と一緒にしようと思って誘ったんだけど、あいつ委員会の仕事が忙しいから一人でやれとかつまんないこと言うからさぁ」
「まー、そりゃそうだろうね」
「そんで代わりに仙ちゃん呼びに行ったんだけど、寝ろ阿呆って睨まれて、いさっくんにはお願いだから勘弁してって断られて、留三郎にはお前の壊したもん誰が補修すると思ってんだこの野生児が夜中くらいおとなしくしてろ、ってなんか正座させられて怒られた。だから私一人だったんだ」
 あーあー、と小平太はつまらなそうに口を尖らせる。私は頭に容易に浮かんでくるその光景に、なんだか少しほっとした。すごくいつも通りだからだ。
「てことは小平太、もしかして全然寝てないの?」
「いや、一刻くらいは塹壕の中で寝たぞ。あの中あったかくて気持ちいいんだ」
「小平太はほんとにいつも元気だね……、っと。よし、これで終わりかな」
 最後の手桶に水を注ぎ終えて、私は釣瓶を戻す。なみなみと水が満たされた、五つ並んだ手桶。そのうち二つに手を伸ばそうとすると、小平太がなぜかまた釣瓶を落として、水を汲み始める。
「小平太?」
「ついでだから、顔洗っといたほうがいいぞ。お前、起きてからあんまり経ってないだろ」
「え? 顔はちゃんと洗ったよ」
「そうか? でもなんかぼーっとしてるし、もっかい洗っとけよ。冷たい水は頭がすっきりするぞー!」
 ほらほら、と小平太が私の足元に手桶を置く。なんだか反論するのも面倒で、まあいいかなと桶の前にしゃがんだとき、私はふいに理解した。
 まだ日が昇りきっていない薄暗い中、水に映る自分の顔がはっきりと見えたわけじゃない。……でも、たぶんそうだ。
 私の目が、まだ赤かったんだろう。
 桶の水を両手ですくって、顔を洗う。ひんやりした冷たい水が、暑い季節じゃないのに心地良かった。ああそういえば、さっきおばちゃんが私の顔を見て一瞬だけ眉をひそめたのも、そのせいだったのかもしれない。
 特に目元を念入りに洗って、顔を上げる。ぽたぽたと滴る水を拭おうと手拭いを取り出そうとしたとき、すぐ傍で小平太の声がした。
「よし、私の手拭いを貸してやるぞ! こういうさり気ない気遣いが男としての点数を上げるんだぞって仙ちゃんが前に言って…………あれ、私手拭いどこやったっけ」
「あはは。いーよ小平太、私すぐ出せるから」
「あれ、失敗したぞ?」
 きょとんとしている小平太に微笑んで、私は自分の手拭いで顔を拭う。手拭いを仕舞って小平太を見ると、小平太は大丈夫だと言うように、笑って頷いてくれた。
「小平太も顔洗わない? 一人バレーやってて汚れてるでしょ」
「私はさっきちゃんと洗ったぞー。ここで下帯だけで頭から水かぶってたら、食堂のおばちゃんに会ったんだ」
「小平太は豪快だねえ」
「おばちゃんにも同じこと言われたぞ!」
 どうも褒め言葉として受け取ったらしく、小平太はふふーんと誇らしげに胸を張る。私は苦笑しつつ、顔を洗った手桶の水を流し、小平太がさっき汲んでくれた釣瓶桶から手桶へと水を入れ直した。
 小平太はただじっとそれを見つめていたけど、私が手桶を持ち上げようとしたとき、急に「なあなあ、」と声をかけた。反射的に顔を向けた私に、一言。
「長次はな、頭はいいけどばかなんだ」
「……え?」
 突然の言葉に固まってしまう私に、小平太の声が続く。
「私もばかだけど、長次は頭がいい分厄介なんだ。相手に気づかせないようにばかやるから」
 なにも言えないでいる私に、小平太が困ったように笑う。私の前に足を進めて、戸惑う私の顔を見下ろした。
「あのな。私、長次も好きだしも好きだ。だから二人には楽しそうにしてて欲しいんだ。よく分かんないけど、それってまずお前が笑ってないと駄目な気がする」
 私をじっと見る小平太の瞳に、私はようやく気がついた。さっき小平太は、バレーに中在家君を誘ったとは言わなかった。それは単に、小平太が昨日、中在家君のことを気にして部屋に戻らなかっただけではないのだろうか。
「小平太……」
「私な、やっぱりばかだから、どうしたら一番いいかわからないんだ。でも昨日一人でバレーやってるときに、が笑ってないと絶対無理だなって思ったんだ」
 小平太の顔は微笑んでる。でもその瞳は寂しそうだった。
 ああ。ばかなのは私だ。小平太はいつも通り元気? 違う。小平太も、私と中在家君のことをずっと気にしてくれていたのだ。小平太だけじゃない、伊作も、友達も、先生達も、きっと。
「だからな。そんな長次と同じ迷子みたいな顔しないで、笑ってくれ」
 そう言って私の頭を撫でてくれる小平太も、迷子みたいな顔をしてるのに。
 ……ありがとう。
 小さく呟いて俯いてしまう私の頭を、小平太の手が少し乱暴にがしがし撫でてくれる。ゆっくり顔を上げて小さく笑うと、小平太も嬉しそうに笑って、それからハッとなにかに気づいたように目を見開いた。
「あ! もしかして私、今男の点数ってやつ上がったか!? これのことなのか仙ちゃん!? よし、もっと笑ってくれ!」
「それより小平太、さっきからおばちゃんが、『随分遅いけど、二人ともなにやってんのかしら』って目でこっち見てる」
「うお、しまった!」
 小平太は慌てて私の頭から手を離すと、五つ並んだ手桶を一気に両腕で持ち上げた。
「あ、ちょっと小平太! いいよ、私も持つから!」
「大丈夫だ! 私よく体育委員全員抱えて走ってるから、こんなの余裕だぞ! 任せろ!」
「そんな事態がよくあるとか委員が可哀想すぎるんだけど、小平太ちょっと待って! そこで止まって!」
「大丈夫だ、私を信じろー!」
「いやだからちょっと、小平太!」
 小平太の腕を掴んで無理矢理引き止めて、私は小平太の足元を視線で指す。
「こぼれてる。水すんごいこぼれてる」
「お? ……おお!?」



 その後、小平太と食堂が開くまでおばちゃんのお手伝いをして、最初に出来たての朝ご飯を頂いた。
 この間委員会中に三之助がいなくなったとき私が一番に見付けたんだ、とか、そういや長次がいらないって言うからカステイラぜんぶもらって食ったんだけどすごく美味かった、とか、今日の宿題するの忘れてたけどまあいいか、とか、小平太とどうということもない話をした。
 私が知ってる話も知らない話もあったけど、ご飯を食べながら楽しそうに話す小平太の相槌を打っているだけで、私も気持ちが落ち着いて、目覚めたばかりのような苦しさは消えていた。
 お手伝いのお礼だと大盛りにしてもらったご飯を食べ終えた後、小平太は腹ごなしに走ってくると言い残して食堂を出て行った。
 食堂にはもうぽつぽつと早起きの生徒達が集まってきていたけれど、私は久しぶりに落ち着いた気持ちでゆっくりとご飯を食べ終えた。最近は中在家君と顔を合わせたくないからと無理矢理に早く食べたり、食欲がないことを理由に食事を抜いたりしていたから。
 ごちそうさまと手を合わせて、引き渡し口に食器を返しに行く。食堂内はそろそろ騒がしくなっていたけれど、その中にはまだ中在家君の姿はなかった。


 一日は、始まってしまえば早く過ぎる。今日は野外実習で昼食もお弁当だったから、学園に戻ればもう夕方になっていた。帰り際に山本先生が調子はどうかしらと聞いてくださって少し話をした後は、とりあえず部屋に戻ろうかと渡り廊下を歩いていた。
「あ、せんぱーい……」
 突然に、声と共にぺとり、と小さく腰元になにかが触れて、私は足を止めて振り返った。声の音からして下級生だろうと思ったのだけど、後ろにはそれらしき生徒は誰もいない。あれ、と思った次に、「こっちですー……」と今度はくいくいと前から腕を引かれた。
「ん? ……ああ、ごめんね。後ろにいるのかと思っちゃった」
 引かれるままに前を向いて、ようやくに声の主と目を合わせた。一年の怪士丸だ。授業や忍務中じゃないから気を抜いていたということもあるけど、前々からこの子の気配はちょっと読みにくい。この子というか、一年ろ組の生徒というか。
「ふふー……かくれんぼの成果ですー……」
「かくれんぼ? ああ、下級生は授業でもよくやるよね。気配を絶つ練習になるし」
「いいえー……ろ組のみんなとお墓でかくれんぼするんですー。楽しいですよー……」
「わあ、おはかかー」
 どんよりと楽しそうに、怪士丸が微笑む。想像してみて、可愛いようなちょっと不気味のようなでもやっぱり可愛いような、不思議な光景につい返事が棒読みになってしまった。
先輩もどうですかー? 斜堂先生もときどき一緒にしてくださるんですよー……」
「うーん……そうだね、考えておこうかな……」
 にこにこーと薄暗い笑顔。苦笑して怪士丸の頭を撫でると、怪士丸はまた薄暗く微笑んでから、「あー……」と間延びした声を上げて、改めて私をじっと見上げた。
「すみません……先輩にお聞きしたいことがあったんですー……」
「ん、なに?」
「あの、さっきですね、不破先輩にお会いしたんですけど……」
「雷蔵?」
「なんだか先輩をお探ししてたみたいでー…………あ、うしろ」
「え?」
 ひょい、と後ろを指差されて振り向くと、まさにそのとき、すぐ傍の曲がり角から勢い良く飛び出してきた人影が、私の顔を見るや否やこちらに駆けて来た。
先輩っ!」
「雷蔵……?」
 一瞬どちらか迷ったけど、たぶん話の流れからすると、鉢屋でなく雷蔵なのだろう。
 あまりに丁度良く現れた雷蔵は、私の傍に駆け寄ってきて、ほっと安心したように微笑んだ。怪士丸が私と雷蔵の顔にきょろきょろと視線を向けて、「じゃあ、ぼくはこれで失礼しますー……」と去って行こうとする。
「あ、ま、待って怪士丸。えっと、雷蔵が私を探してて、それを教えてくれたんだよね? ありがとう」
「え、怪士丸も先輩を探してくれてたのかい? ありがとう、怪士丸」
「いいえー……ご飯を食べに行く途中で先輩を見つけただけですからー……ではー」
 ぺこりぺこり、と私と雷蔵に頭を下げて、怪士丸は渡り廊下の向こうへと駆けていく。その姿が見えなくなってから、私と雷蔵は顔を合わせた。
「……えーっと、雷蔵、私に用事? だいぶ探してくれたのかな」
「あ、はい。い、いえ、探したという程は探してないんです。もしお見かけ出来たらお話ししたいなと思ってたくらいだったので……。……あの、先輩、お忙しくなければ少しお時間頂いてもいいですか?」
 ふっと顔を真面目なものにして、雷蔵が私に訊ねる。それで大体分かった気がして、私は小さく息を吐いてから頷いた。今の状況で雷蔵がこんな風に言うのは、きっと中在家君のことだろう。
「うん、大丈夫。ここじゃないほうがいいよね?」
「はい、ありがとうございます」
 雷蔵は生徒達の行き交いが激しい渡り廊下をちらりと見回して、それから歩き出す。それに続いて、私も足を進めた。
 渡り廊下から庭に下りて、あまり人がいない場所へと移動している途中、私と雷蔵はなにも話さなかった。なんだか緊張しているみたいに雷蔵の気配が強張っていて、世間話をするような雰囲気じゃなかったからだ。
 少し歩いて、普段使われていない予備の教室長屋にたどり着く。人の気配がほとんどなく掃除当番程度の手入れしかされていないその長屋の縁側に、二人並んで腰掛けた。
 雷蔵はしばらくの間どう切り出そうかと悩む顔つきでいたけれど、ようやく言葉が決まったのか、「あの」と私に顔を向ける。けれど私も顔を上げて目を合わせた途端、雷蔵はまた慌てたように俯いてしまう。
「雷蔵。話って、中在家君のことでしょう?」
 なんだか少しもどかしくてこちらから問うと、雷蔵はあからさまにびくりと反応した。それから、深く息を吐く。
「……はい、そうです。あの、こうしろって言われたわけじゃないんです。ただ、先輩にはお話ししておいたほうがいいと思いまして……」
「……なにを?」
「あの、中在家先輩からお聞きしたんです。先輩は、中在家先輩のことを忘れてらっしゃると。……そうなんですよね?」
 躊躇いがちな雷蔵の言葉に、私はきょとんとした。そのことだろうなとは思っていたけれど。
「中在家君が、雷蔵に直接言ったの?」
「はい。一昨日、先輩が図書室に本を返しに来られたときのことです。先輩がお帰りになってから、教えてくださいました」
「……そうなんだ」
 きっと雷蔵は私と中在家君のことを不審に思って、それで私に問い質しに来たのだろうと思っていたんだけど。
「あの……、すみません。謝るのもおかしいかもしれないんですが、本当なら僕が聞いてはいけないことだったかもしれないのに」
「ああ、それは別にいいの。面倒だから隠してるだけだから」
 黙ってしまった私の反応に誤解したのか、雷蔵が慌てて謝る。でも実際、私はそれについてはさほど気にしていなかった。雷蔵は誰彼構わず吹聴したりしないだろうし、私としても少しくらい知ってるひとがいてくれたほうがほっとする。……でも。
「中在家君、なんでそんなこと言ったんだろう……」
 ぽつりと呟いた言葉に、雷蔵が少し戸惑った顔になる。
 昨日の様子から見ても、中在家君は他人に簡単に言うような感じじゃなかったんだけど。やっぱりあのひとがなにを考えているのか、私にはよく分からない。
「あの……先輩」
「なに?」
先輩は……その。本当に、中在家先輩のことを忘れてらっしゃるんですか?」
「うん。理由もね、分からないの。目が覚めたら、中在家君のことをぜんぶ忘れてた」
 雷蔵は信じられないという顔で私を見ていたけど、その視線を向けられることにはだいぶ慣れていたから、私はただじっと、自分の足先に咲いている小さな花を見下ろしていた。
 この花の名前も、隣に座っている後輩の名前も、私はきちんと覚えている。なのに。
 どうしてなのだろう、と幾度も繰り返した問いが頭に回る。私はどうして、中在家君のことだけ忘れたのだろう。
「あのね、雷蔵」
「はい?」
「私、よく分からないの」
 じっと花を見下ろしながら、私は自分の膝に肘を乗せて頬杖をつく。
「雷蔵も知ってるよね。私とあのひと、恋仲だったんだってね。それが信じられないっていうわけじゃないの。中在家君が悪いひとだとも思わない。……でも分からないの」
 大切にされていただろうこと、愛されていただろうこと、今もきっと疎まれていないだろうこと、それはきっと間違いじゃない。だから尚更、あのひとのことを思い出したいと思うのに。
「分からないって……なにがですか、先輩」
「中在家君は、思い出さないほうがいいって言うの。忘れたのはきっと、俺のことが邪魔だったからだろうって」
 昨日の中在家君の言葉を思い出して、胸が少し痛む。
「私ね」
 ふわりと風が舞って、足元の花が小さく揺れた。 
「……どうすればいいか分からないの」
 雷蔵の気配が強張った後、数瞬沈黙が落ちた。それからそっと、雷蔵の手が私の背に触れる。
 顔を上げると、雷蔵の瞳とかち合った。労りに満ちた、けれど真面目な瞳。
先輩。さっき、中在家先輩のことを『なんでそんなこと言ったんだろう』って仰ってましたよね」
「……うん?」
 一瞬戸惑ったけれど、中在家君が私のことを雷蔵に話した、と聞いたときのことだろう。
「あの後中在家先輩は、僕に仰ったんです。『がどこかで俺のことで戸惑っていたら、助けてやってくれないか』と。……僕には、中在家先輩が考えてらっしゃることのすべては分かりませんし、どうして先輩が中在家先輩を忘れたのかももちろん分かりません。でも僕は」
 それまで私の背を撫でていた雷蔵の手が、ふいに止まる。
 続けられたのは、迷い癖なんてないみたいにはっきりとした、強い言葉。
「でも僕は、今の先輩方よりも、仲が良くていつも一緒にいたお二人のほうが、好きです」

 すとん、と。その言葉が、私の中へと抵抗なく落ちてきた。

 ──私、長次も好きだしも好きだ。だから二人には楽しそうにしてて欲しいんだ
 ──だからな。そんな長次と同じ迷子みたいな顔しないで、笑ってくれ

 朝にそう言ってくれた、小平太の言葉と共に。
 
「…………」
「あ。す、すみません! 違うんです、今のお二人は嫌いとかそういう意味じゃなくて、あの、ただ僕が知ってる先輩方の姿がそうだったので、それでそっちのが落ち着くなっていうだけで、決して変な意味はなくてその、すみません!」
 突然に慌てた様子で謝る雷蔵に、私は苦笑して首を横に振った。
「いいよ、だって本当のことでしょう?」
「いえ、その。す、すみません」
「ううん。……ありがとう」
 身体を起こすと、背に触れていた雷蔵の手が離れた。男のひとの、だけど中在家君のそれよりは少し小さな手。昨日触れた中在家君の手を思い出しながら、私は雷蔵を見上げる。
「ねぇ雷蔵。雷蔵の目から見たものでいいから、教えてくれる? 以前の私は、中在家君と一緒にいて楽しそうだった?」
「あ……はい、もちろん」
 どうして忘れてしまったのか。それは今の私には分からない。いつまでも分からないままかもしれない。でも。
「私は、幸せそうだった?」
「はい、とても。……僕にはそう見えました」
「そっか」
 雷蔵は、今度も強い言葉で肯定してくれた。
 幸せ。お前の幸せを願っていると、中在家君は言ってくれた。ならば今の私は幸せなのだろうか。中在家君のことを覚えていた私と比べて、今の私は満たされているのだろうか。
 ああ、そうだ。
 私はそのときようやくに、自分がどうしたいのかをはっきりと理解した。
先輩……?」
「雷蔵。私ね、やっぱり中在家君のことは思い出せないし、あのひとの思ってることはよく分からない」
 ゆっくりと腰を上げて、座っていた縁側から立ち上がる。
「でも、自分のことなら分かるし、思い出せるよ」
 生まれ月に、長次から。私の字で箱に書かれていた簪。
 もらったとき、私は嬉しかった。嬉しかったのだということははっきりと覚えている。
 以前の私は、中在家君の傍にいたのだ。強制されたわけじゃなくて、自分で選んで。
「ありがとう、雷蔵。そうだよね、どうして忘れちゃったのかは分からないけど、私はきっと中在家君が好きだったんだと思うよ。それだけで充分だよね」
先輩……」
 あのひとの言葉を信じていいのか分からないなら、私は『今の私』を信じる。
 私は中在家君のことを思い出したい。思い出せないなら、せめてそのための努力をしたい。そうだ。
 戸惑った顔をしている雷蔵に、私はもう一度「ありがとう」と礼を言った。
「私、ちょっとやってみる」


















 通りすがりに体育委員から居場所を聞いて、夕食時で賑わっている食堂へと飛び込んだ。
 食事をしている生徒達をざっと確認して、その中に探していた顔を見付けて大きく名を呼ぶ。
「小平太!」
「ん? おお、どーした? 朝と違って元気そうだな!」
「あ、
「よう、お前も飯か?」
 小平太と同じ机を囲む食満と伊作が、私の顔に視線を向ける。中在家君は、いない。食満と伊作に返事もせず、私は小平太の傍へと一直線に駆け寄る。
「お願い、小平太。手伝ってほしいことがあるの」
「お?」
 開口一番に切り出す私に、小平太は不思議そうに食事の手を止めて、それからにっと笑う。
「なぁ、。それを手伝ったら、これから私一人でバレーしなくてもよくなるか?」
 ゆっくり、息を吐いて、私は机に手をついて身を乗り出して、小平太の瞳を見つめる。
「分からないけど、もし駄目だったら、私が一緒にしてあげる」
 私の返事に、小平太は満足そうに「そうか」と頷いて、突然に勢い良く立ち上がった。机の上に食べかけの定食を置いたまま、嬉しそうな楽しそうな、小平太らしい表情で。
「よし分かった! なんでも言え!」















 →十二話「四日目」その二