中在家長次夢
『二度目の鼓動』


十四話
「五日目」その二





 その後お昼まで二人で学園内をぶらぶらして、食堂でお昼ご飯を食べて、長次君の部屋へと戻ってきた。長次君は委員会の帳簿付けと自習をするからとまた文机に向かってしまったから、私も部屋の中で邪魔にならないように過ごすことにした。
 学園長先生に正式に許可を頂いたことだし、自分の私物を使いやすいように置き直したり、長次君に倣ってちょっと自習もしてみたり。さすがに休日だからか、いつもは騒がしくない六年長屋もがやがやとした人の気配があった。山から戻ってきた小平太がどたばた廊下を走る音や、庭で鍛錬しているらしい文次郎と食満のほとんど喧嘩かと思えるほどのやりとりや、それに対して「うるさいから余所でやれ」といらいらした様子の仙蔵の声やら、いろいろ。
 昼下がりを過ぎて夕方近くになると、さすがにその喧噪も少し落ち着いてきた。相変わらず長次君は黙々と文机に向かっていて、私はその隣で整理ついでに小物の手入れなんかをしていた。
 そのとき、とんとんと控え目に戸が叩かれた。
 私が反射的に立ち上がろうとするのを制して、長次君が筆を置いて腰を上げる。部屋の外で反応を待っているのだろう訪問者へと、戸を開けた。
「すみません、中在家先輩」
 訪ねてきたのは、雷蔵だった。長次君に頭を下げる雷蔵に軽く手を振ってみると、雷蔵はきょとんと長次君に目を向け、そしてすぐ理解したのか一つ頷いて、「こんにちは、先輩」と私にも頭を下げた。私には分からなかったけれど、たぶん長次君が「記憶が戻ったわけじゃない、押しかけてきただけだ」というような意味を言うか表情で伝えるかなにかしたんだと思う。
 雷蔵は委員会繋がりで、長次君との接し方には慣れてるんだろう。今度長次君の感情の探り方とか教えてもらおうか。
 そんなことを考えている私の前で、雷蔵と長次君は真面目な話をしていた。数歩離れているせいか、長次君の声はほとんど聞こえてこなかったけど。
「お忙しいところすみません、中在家先輩。少しお聞きしたいことがあったんですが…………ああ、そうです。自室でこの間の虫食い文書の補修をやってたんですが、状態が酷くて元に戻すのは難しそうなんです。でもあれ一冊しかないとお聞きしていましたから……あ、生物委員からは八左ヱ門に手伝ってもらってます。それと暇だからと三郎にも」
 幾度か長次君がなにかを言い、その度に雷蔵が頷いたり小さく答える。短いそのやりとりのあと、長次君がこちらを振り向いた。
「ん? なに、長次君?」
「……少し出てくる」
 ぽつりと言って、長次君は私に背を向けて雷蔵と一緒に部屋を出て行った。戸が閉まる前に雷蔵がもう一度ぺこりと頭を下げ、私ももう一度手を振って二人を見送る。
 微かな二人分の足音が、少しずつ遠ざかって行く。話の流れからすると、たぶん雷蔵の部屋に補修本の状態を見に行ったんだろう。一人になった部屋で何気なく長次君の机の上を覗いてみると、そこには開いたままの図書委員会の帳簿があった。綺麗な字で書かれた細かな物品名や予算と、その上に載っている押し花の栞。私は長次君が図書委員長だということを忘れてしまっていたけれど、長次君には図書委員がすごく似合ってると思う。机の回りにきちんと整頓された本の山や、いつも文机に向かっている姿を思い出してしみじみそう思っていると、ふいにまたさっきと同じく部屋の戸が叩かれた。
「長次? それとも、いるかな?」
 かけられた声は、よく知る同学年の生徒のものだった。伊作だ。
「伊作だよね? 私ならいるよー」
「あ、だけかな。開けてもいい?」
「どうぞ」
 戸の向こうから顔を覗かせた伊作は、片手に落とし紙を抱えた見慣れた姿だった。保健委員の仕事中なのだろうか。伊作は私の顔を見て、ほっとしたように微笑んだ。
、調子はどうかな? 顔色少し良くなってるね」
「うん、昨日はよく眠れたよ。ご飯もちゃんと食べてるし。……あ、ここにいること、学園長先生にも許可頂いて来たから」
 長次君の部屋で寝泊まりしたいから手伝ってほしい、と小平太に頼んだとき、伊作も同じ場所で話を聞いていた。だからきっと、心配して様子を見に来てくれたんだろう。
「らしいね。さっき新野先生からお聞きしたよ。……えっと、なにか困ってることとかない?」
「大丈夫。長次君最初は嫌がってたけど、もう諦めてくれたみたいだし。ちゃんと面倒みてくれてるよ」
「そっか。部屋も近いし、なにかあったらなんでも言ってね」
「うん、ありがとう伊作」
 お礼を言うと、伊作はにっこり微笑んで頷いて、それから「えーと……」ともう一度部屋の中を見回した。
「長次は外出中? 自主練かなにかかな」
「あ、委員会の仕事で雷蔵の部屋に行ったみたい。長くかかるかどうかは分からないけど」
「そっか……。大した用事じゃないんだけど、腕の怪我の具合、長く診てなかったから、戻ってきたらいつでもいいから診せに来てって伝えてくれる? 僕、この後は自分の部屋にいるから」
「うん、伝えとくね」
「じゃあね、邪魔してごめん」
 伊作は軽く会釈して、戸を閉めた。直後になんだかばさばさと紙が落ちるような音と「わぁー!」と小さな悲鳴が聞こえたけど、大事には至らなかったみたいだからそっとしておいた。
 伊作が去って行くと、さっきまで聞こえていた喧噪もいつの間にか止んでいた。そろそろ日も沈みそうだ。庭で騒がしくしていた食満と文次郎の気配も、廊下ダッシュ十本!とか叫んでいた小平太の足音もしない。騒がしいときとそうでないときの差が極端な長屋だなあと思いながら、私はまた改めて文机に身体を向けた。
 文机の上には、さっきまで手入れをしていた小物が転がっている。櫛とか飾り紐とか細々した化粧品とか……、それから長次君からもらった簪、とか。
 長次君の前で見るのはやめておこうと最後に残しておいたそれを、今ならいいだろうかと箱から出して手に取った。
 この間見たときも思ったけれど、とても丁寧な作りの綺麗な細工だ。薄桃色の珊瑚を下地に、青紫色の小さな花の装飾が散っている。たぶんこの花の形と色は、桔梗だ。
 手入れ用の布で、ゆっくりと磨き始める。もらったときのままか、もしくは一度か二度しか使っていないのだろう。脂の曇りもほとんどないし、埃も溜まってない。以前からこうしてこまめに手入れをしていたんだと思う。
 あともう少し長次君と共にいることに慣れたら、この簪をもらったときのことを聞いてもいいだろうか。それが駄目なら、幼い頃のことでも構わない。それも嫌だと言われたら、これからのお話しでもいい。私と長次君に関係ない、些細なことでもいい。
 長次君が寡黙なのは話すのが嫌いなのか苦手なのか分からないけど、その声を聞き取ろうとするのは私にとって苦痛じゃなかった。長次君は自分から話しかけないときも、私の話をきちんと聞いてくれるから。
 うん、やっぱり次のお休み、長次君が暇だったら外に遊びに行こうと誘ってみよう。
「次のお休みっていつだっけ……」
 誰もいない部屋で呟きながら、磨き終えた簪をそっと手の上に乗せた。箱に戻そうとして、その端に書かれた自分の字を見る。生まれ月に、長次から。……うん。きっといつか、これを書いたことも思い出せるはずだ。
 長次君が部屋に戻ってきたら、遊びに行こうと改めて誘ってみよう。今まで二人で一緒に行ったことのある場所とか聞いて。
 長次君はちょっと嫌そうにして、でもきっと頷いてくれるだろうから──


 一瞬、思考が追いつかなかった。
 反射的に出来た行動は、手の上に乗せていた簪を握り締めることだけだった。
 気付いたときにはもう畳の上に引きずり倒されて、喉笛に硬い指が触れていた。馬乗りの状態で私を押さえ込んでいるのは、たぶん男。忍装束の。
 抑えられた気配には、けれど微かに漏れ出る、獣じみた殺気があった。
「な──……っ!!」
 声を出そうとした瞬間、喉に痛みが走った。肺からの空気が声になる前に、喉笛でそれを潰される。
 覆面姿のその男に見覚えはなかった。体格や鋭い瞳には幼さがない。たぶん私より十は上だ。
 まずい。咄嗟に簪を握った手を動かそうとすると、そちらを見もせずに空いた手一本で手首を打たれ、激痛に力が入らなくなった。痺れる手で簪をもう一度握ろうとしたけど、指の感覚がなくて動いてくれない。
 教師じゃない。生徒であるはずもない。抜き打ち試験のわけがない。
 なぜ。
 どこから入ってきたのかさえも分からなかった。触れられるまで、気配すら感知出来なかった。鋭く私を睨み付ける瞳が、身を乗り出して近づいてくる。男の眉間には深い切り傷があった。見下ろされる体勢ではよく見えなかったけれど、その傷がまだ塞がっていないのが分かる。
「な、……っ」
 なに、と。言葉になる前にまた喉笛を押された。咳き込まないぎりぎりの痛み。呼吸がしにくい苦しさに、視界がじわりと緩んだ。未だ痺れる指先で、必死に簪を探す。伊作は部屋にいると言っていた。大きな物音を立てれば、きっと気付いてくれるはずだから。
 けれどそれを制すように、ゆっくり、喉を掴んでいないほうの男の手が、私の首筋に伸ばされる。
 冷たい感触。刃物、だ。
「……ここに居れば安全と踏んだのか。見習い風情が舐めた真似を」
 覆面の奥から、くぐもった声が響いた。低い男の声。だけど、分かるのはそれだけだ。
「…………」
 だれ、と声にならない吐息が漏れる。男は冷たい瞳で、ぐっと刃物を押し当てた。まだ刃は立てられていないけれど、ひんやりとした感触に背筋が震える。
「…………っ」
「誰だ、か? 阿呆か。忘れた演技でもしていれば、俺がお前を見逃すとでも思ったか」

 ──忘れる?

 その言葉に、頭の中がぎしりと軋む。忘れ、る。
 私は、目の前の男を知らない。絶対に、知らない。『今の私』は。
 じわじわと、焦りが身体に広がって行く。

「あのときは邪魔が入ったが、今からでもまだ間に合うかもしれん」

 この声も、鋭い瞳も、私は知らない。知らないはずなのに。

「もう時間がない」

 私を睨み付けるその視線。今まで抑えていた殺気がぞわりと溢れ出て、私へと叩きつけられる。




「殺されたくなければ、中在家長次から情報を引き出せ」




 え?


 どくん、と。体内が震えた。
 ──中在家長次。
 長次、君。

 空白の衝撃のあと。押しつけられていた刃が立てられ、引きつるような痛みが走った。
 じくり、と熱さが喉元を焼く。男の瞳が、さらに鋭さを増して私へと迫った。
 どうする。どうすれば。どう答えれば。私は。

「……答える気はないか」

 また僅かに、刃が押し込まれる。首筋に温かさが伝っていく。まだ致命的なほど深くは切れていない。痛みもさほどない。でも。

 男の手が私の喉元から離れ、額へと伸ばされる。獰猛な、獣のようなその瞳が、私を見据えて。


「ならば、お前を人質にとるのもいい手かもしれないな」














 突然に、目の前をなにかが横切った。私へと身体を乗り出していた男が、弾かれたように身を引く。逃げなければと咄嗟に起き上がった瞬間、肩を掴まれてさらに後ろへと勢い良く突き飛ばされた。
 その手が誰のものかを知って、目を見開く。一度、二度、部屋の中で鋭く響く金属音。叩きつけられた畳の上から身を起こすと、首元から流れ出た血が、ぽとりと下へと落ちた。顔を上げた途端、視界の中にも血の色が爆ぜた。赤色。ほとんど反射的に苦無を取り出し、駆け寄ろうとした瞬間、

「来るな!」

 即座に、怒号に近い声が叩きつけられた。
 ……長次君。
 長次君が手にしているのは、縄標だろうか。私が起き上がるまでの間に切り結んで負ったのか、長次君の左肩からは血が流れ落ちていた。赤色。
 駄目だ。長次君の実力はよく知らないけど、あの男は明らかに玄人だ。私が加勢しても、きっと勝算はない。人を呼ばなければ。伊作。小平太。食満。文次郎。仙蔵。……先生。
 すとんと、握り締めていたはずの手から苦無が落ちた。手首を打たれたときの衝撃で、まだ指が上手く動かない。せめてもと声を張り上げようとしたけれど、喉元に痛みが走って吐息にしかならなかった。なん、で。
 焦りに、ぞわりと背筋が震えた。
 やめて。
 声にならない声で、長次君に叫ぶ。やめて。逃げて。逃げて!
 逃げて!!!


 ──たぶんその間は、ほんの一瞬のことだった。
 長次君が部屋に入ってきて、私を後ろに突き飛ばして、男と切り結んで肩を怪我して、来るなと叫んで。
 男は確かに玄人に見えた。不意を突いたはずの長次君が即座に反撃を受けたのだから、相当な手練れであることは間違いない。
 だから、逃げるか人を呼ぶしかない。そうしないと長次君が危ない。お願いだから逃げて、と。再び言おうとした瞬間だった。

「…………っ」

 私にはあれほど近づいて来た男が目を鋭く細め、長次君の視線を避けるように顔を背けた。そしてそれ以上手を出すことなく、長次君が開け放したままだった戸から飛び出して行く。
 部屋の中の空気が強く動く。逃げた男に、長次君は一瞬追うかどうか迷う気配を見せて、それから私を振り向いてそれを止めた。長次君が縄標を下ろすと、左腕を伝ってぽたぽたと鮮血がこぼれ落ち、畳に赤色を散らしていく。
 長次君。
 呼んだはずの声は、やっぱり音にはならなかった。
 怪我は酷く痛む筈なのに、長次君は眉をひそめもせず、座り込んだままの私へと真っ直ぐに足を運んで、目前で膝をついた。伸ばされた長次君の指が、まだ熱さを訴える喉へと触れる。
「痛むか」
「…………大、丈夫」
 ゆっくりと息を吐くようにすると、声はようやく出てくれた。私の喉なんかより、長次君のほうがずっと痛むはずなのに。
「他に怪我は」
「ない、よ。長次君、はやく止血しないと」
「そうか」
 長次君はぽつりと安堵したように言って、そして、
 突然に私を抱き締めた。
 強い力。でも私のことを気にしてくれていると分かる力。伝わってくる長次君の体温と気配に、張り詰めていた気がどっと緩んだ。

「おい、どうした!?」
「長次!?」

 ざわざわとした気配。音を聞きつけた生徒達が部屋へと駆けてきた。長次君が私を抱く腕を緩め、私も部屋の外へと視線を向ける。
「賊だ」
 短い長次君の答えに、六年生達が顔を強張らせる。まず食満と文次郎が一瞬視線を交差させて、まだ微かに残る気配を追った。続けて部屋の惨状をじっと見ていた小平太が無言でその後に続き、部屋の中と私と長次君それぞれをざっと見回した仙蔵が、「先生に報告してくる」と言い残して部屋を出て行く。
 最後に伊作が長次君に駆け寄って、すぐさま肩の止血を始めた。
「長次、すぐ上衣脱いで。肩縛るから。は? 怪我してない?」
「喉だ。先に診てやってくれ」
「喉? ……ああ、少し深く切れてるね。声は出せる? うん、出せるなら無理しなくていいから、手拭いで傷押さえてて。少し待っててね」
 伊作に言われたとおり、渡された手拭いを喉に当てて、邪魔にならないように長次君から身を引いた。肩口で止血する伊作の手が動くたびに、長次君が小さく息を吐く。
 どくどくと、手拭いの薄い布越しに、自分の喉元の早い脈打ちが伝わってくる。今更ながらに、身体が小さく震えだす。畳の上に点々と落ちる血の跡と、鈍い痛みを訴えてくる右手首。寸前まであったあの男の鋭い瞳と声を思い出すだけで、血の気が引いた。
 危害を加えられそうになったことへの恐怖、それだけじゃなかった。

 ──私が忘れているのは、長次君のことだけじゃない。

 頭ががんがんと、揺さぶられるように痛む。
 なにを忘れた?
 なぜ忘れた?

『殺されたくなければ、中在家長次から情報を引き出せ』

 あれは、どういう意味なのだろう。
 
 頭の痛みが酷くなる。身体から力が抜けそうになる。貧血のときのように視界が暗くなっていく。

「……っは、…………」

 苦しさに息を吐いたとき、畳の上に投げ出していた右手に、そっと温かさが触れた。伊作の手当を受けている長次君の手が、私の指先を柔く包む。顔を上げると、長次君は私としばし目を合わせた後、ゆっくり、違う場所に視線を向けた。
 長次君の赤い血が飛び散る、畳の上。

 そこに無造作に転がっている、薄桃色の簪。

 私の手に触れ、ただじっとそれを見つめている長次君に、なんだか涙が出そうになった。痛む右手で私も長次君の手に触れ、目を伏せる。
 ばたばたと、騒がしい気配がこちらへと駆けてくる。
 仙蔵が呼んだ先生達か、それとも長屋の近い五年生か。
 その足音を聞きながら、震え続ける指で長次君の手を握り返した。















 →十五話「五日目」その三/「六日目」