中在家長次夢
『二度目の鼓動』


十五話
「五日目」その三/「六日目」





 慌ただしく時間が過ぎて行った。
 気づけば日はとっくに落ちてしまい、夜半過ぎになっていた。薄暗い部屋の中、ゆらりと小さな灯りが揺れる。
 部屋にいるのは、私を合わせて二人だけ。けれどそれ以外にも、部屋の外にはあからさまに複数の気配があった。ほとんど物音はしないけれど、その微かに感じとれる殺気立った気配が、私にこれは現実だと伝えている。
 ここは、長次君の部屋でも私の部屋でもない。
 教師長屋の、山本シナ先生の部屋だった。

「五日前の夜のことよ。外門を調べていたら、侵入者がいた形跡があったの」

 目の前で、山本先生はじっと私を見つめている。そのいつ見ても綺麗な面立ちは、今は少し曇っていた。
「学園内に異常がないことは、私達教師で調べたわ。侵入されたらしい、という他には、なにも不審な点はなかったの。あなたが記憶を失った以外は」
 私は、ゆっくりと自分の膝の上へと視線を落とした。正座した足の上に乗せている手。その右手首には、白い包帯が幾重にも巻かれている。強く捻った手首は、手当てをしてもらった今もじんじんとした痛みと熱を持っていた。
「……あの夜のことは、あなたではなく中在家君に確かめるべきだったわ。あなたが混乱していたことは分かっていたのに」
 記憶を失った次の日。あの夜なにをしていたのかと山本先生に訊ねられた私は、部屋で寝ていたと伝えた。だから、だ。
 謝ろうと口を開けようとした瞬間に、喉が軋んだ。手首と同じように、首元にもぐるぐると包帯が巻かれている。かさついた布の感触。手首とは違って痛みはあまりないけれど、声を出そうとすると身体が少し強張ってしまう。
 あの後すぐに先生達が駆けつけてきて、長次君は医務室に、私は手当てを受けながら先生方に事情を話した。学園長先生が私にここにいるようにと指示した後のことは、私もなにも知らない。
「私の落ち度よ。きちんと中在家君とあなたの両方から詳しく話を聞くべきだったわ。……本当にごめんなさい」
 私が謝れないうちに、先生が先にそれを口にした。山本先生は一度深く息を吐いて、私に改めて視線を向ける。
「あなたは私が守ります。……窮屈だと思うけれど、しばらくここにいてちょうだいね」


 急にいろいろなことが起こって、頭がぼんやりとしていた。あの男とのやりとりは、先生達にすべて話した。ただひとつ、簪についてだけは長次君にもらったものだと言わなかったけれど、あとはすべて。
 中在家長次から情報を引き出せ。そうあの男の言葉を口にした瞬間、先生達の間にざわりと戸惑いの波が広がった。眉をひそめ、顔を合わせて、学園内部か、いや忍務だろう、と囁き合う。
 上級生になれば、授業の一環で簡単な忍務を請け負うこともあるし、実際に城や民家へ忍び込む実習もある。私も今までに幾度か受けたし、そこで見聞きした情報で、知っていれば誰かが得をするだろうものもある。私達は忍になろうとしているのだから、先生達がまずそこを思いつくのは当然だし、私もそうなのだろうと思っている。
 おそらく長次君が知っている情報を欲して、楽に御しそうな私から聞き出そうとしたのだと、先生達はひとまずそう結論づけた。でもあの忍者がどこの勢力のもので、中在家君のどんな情報を欲しているかが分からなければ、手の打ちようがほとんどない。
 私は以前あの男と会っているはずだ。けれどそれを忘れている今、私が話せることはとても少なかった。学園長先生も他の先生達も私に無理に思い出させようとはせず、しばらくは一人にならないようにと、山本先生に私を預けた。
 戸の前や部屋の周りには、幾人かの先生達の気配がした。時折ざわついた喧噪も聞こえてくる。山本先生の部屋は綺麗で落ち着いていたけれど、今の私は自分がなにをすればいいのかも分からず、ただ所在なく俯いていた。
 捻った右手首が、鈍く痛む。でも、長次君はもっと酷い怪我だったのだ。ほとんど会話も交せぬままに離れてしまい、今どうしているのかも分からない長次君のことばかりを、私は繰り返し考え続けていた。

 運んできてもらった夕食を食べた後、今日はもう身体を休めなさいと山本先生が仰った。部屋の隅には、予備の分だろう布団がいつの間にか敷いてあった。私のためのものだ。
 眠気はなかった。けれど、このまま俯いていてもなんにもならないだろう。……でも。
 返事をしない私に、山本先生が心配そうな視線を向ける。慌てて、ようやくに顔を上げた。
「山本先生、あの、……長次君は」
 躊躇いがちに口にすると、山本先生は少しの間を置いて、それから小さく頷いた。
「状況から見て、危ないのは中在家君よりもあなたなの。でももちろん、中在家君にも先生達がついています。心配しなくても大丈夫よ」
 安心させる声と微笑。だけど、私が聞きたかったのはそのことじゃなかった。
「長次君に、会いたいんです」
 怪我の具合はどうだろうとか。謝らなくちゃとか。ずっと考えていたら、会いたくてたまらなくなった。先生達が私を心配してくださっていることはきちんと理解していても。
「…………そうね」
 まるで子どもみたいな言葉にも、山本先生は笑わなかった。ただ少し、すまなそうに眉を下げただけ。
「ごめんなさい、さん。今は夜中だから駄目よ。明日になれば、昼間の間少しなら会わせてあげられる。約束するわ。……だからそれまで待ってちょうだいね」
 山本先生の手が、そっと私の手に触れる。伝わってくる温かな温度に、私は小さく頷いた。


 結局、その夜は一睡も出来なかった。
 布団に入ってもやっぱり眠気は訪れず、布団の中でずっと身を丸めて考えていた。
 どろりと、泥のように心が重かった。幾度試みても、なに一つとして思い出せない。あの男のことも、長次君のことも。
 繰り返し繰り返し、あの男の言葉や、血に濡れた長次君の姿が頭を過ぎる。私が覚えてさえいれば、長次君が血を流すことはなかったのに。
 どうして、私は忘れてしまったんだろう。以前の私は、長次君の心と体の両方を傷つけてまで、長次君を忘れたかったのだろうか。それになんの意味があったのだろうか。
 それを思うと、酷く悲しくてたまらなかった。
 
 そして、長次君の部屋に残してきて拾うことも出来なかった、あの簪のことを、一晩中考え続けていた。















「全生徒に告ぐ。これより、授業や食事以外では出来る限り自室から出ないように。日が沈んだ後は、自主練や委員会活動、また私的な外出は禁止する。単体行動は極力避け、特に夜間は必ず二人以上で行動すること。就寝時間以降は、厠以外では決して無断で部屋の外に出てはいけない。なにかあればすぐに教師に報告すること。以上、解除通告を出すまで厳守とする」

 突然に下された学園長先生からの厳しい指示に、生徒達は怪訝に思いながらも従った。下級生は今度はどんな思いつきかはたまた訓練かと首を傾げ、上級生は厳戒態勢の教師達になにかを感じ取り、それぞれに思惑を巡らせた。

 雲が陰って月すらも見えない、とても暗い夜だった。





























 次の日、空は一日中曇っていた。
 私は、起きてからずっと山本先生の部屋にいた。指示された自習をする私の傍には、入れ替わり立ち替わり、授業のない手が空いた先生達がいてくれた。私は今、流行り風邪で療養中ということになっていると、食事と湯を運んできてくれた小松田さんに教えてもらった。
 夕方になり、授業終了の鐘が鳴ってから少し経った頃だった。山本先生が部屋に来て、ついていらっしゃい、と外に連れ出してくれた。昨日の約束、長次君に会わせてもらえるのだと察して、嬉しいと思うのと同時に、同じ分だけ心が重くなった。
 昨日からずっと、いくら考えても思い出せない。私が『忘れてしまった』その内容も、『なぜ忘れたのか』という理由でさえも。
 覚えていれば、あの男がどの手の者なのか、ずっと前に分かっていたはずなのだ。つまり、長次君があんな酷い怪我をすることもなかったのに。
 ぽたぽたと畳の上に散っていた赤色。来るな、と私に叫んだ、初めて聞いた長次君の鋭い声。拾えなかったあの簪。

 私が覚えてさえ、いれば。

「中在家君は、あの部屋よ。私は屋根の上にいますから、終わったら呼んでちょうだいね。なにかあったら大声を出すか、矢羽音か、これで合図して」
 山本先生が視線で委員会室の一つを指し、私に呼び子を手渡した。
「申し訳ないけれど、あまり長い時間はあげられないわ。日が沈むまでの間だけで、我慢してちょうだいね」
 私が返事をする前に、山本先生は言った通りに屋根の上に消えて行った。廊下にいる私にはその姿は見えないし、気配もほとんど感じられない。
 もう日は沈みかけていた。完全に宵闇が訪れるまで、あと半刻もないだろう。
 山本先生に教えて頂いたその部屋は、図書委員会の委員室だった。
 逸る心と躊躇する心。ゆっくり息を吸って、吐いて。部屋の戸に手をかけた。


 長次君の周りには、たくさんの本があった。いつも、この人は本に囲まれている気がする。和綴じ、巻物、紙をただ紐で雑に縛っただけのもの、他にもたくさん乾いた紙に囲まれて、長次君はそこにいた。
 たった一日離れていただけなのに、酷く懐かしい思いがした。
「……?」
 長次君が私を視界に捉えて、僅かに目を見開いた。戸を閉めて、私は長次君へと足を進める。部屋の中には他に誰もいなかった。長次君と私の二人きり。会えたことが嬉しくて、けれどその分、申し訳ない思いで心が埋め尽くされた。
「長次君」
 長次君が怪我を負ったはずの左肩は、装束に隠れて見えなかった。だけど、長次君の左手は力なく膝の上に置かれているだけだ。きっと、動かすと痛むのだ。
「なぜ、ここに」
 長次君の前に膝をつくと、小さな長次君の声が落ちた。それすら、なんだかすごく懐かしい気がする。
 長次君は焦りを帯びた顔で、私の肩に触れる。弱く、戸の方向へと押し戻すような仕草。
「長次君……」
「俺では、お前を守ってやれない。……戻ってくれ、
 その声は、私を厭うものじゃない。確かに、心配してくれている声音だった。長次君の目が、私の右手首と首元に向けられて、悔やむように伏せられる。
 今なら分かる。長次君は私を大切にしてくれている。前の私だけじゃない。今の私も。
 長次君からは、傷薬用の薬草の強い匂いがした。昨日は気づかなかったけれど、こめかみに近いところと左手の甲にも、抉ったような傷跡がある。
 私を庇って、出来た傷だ。
、……頼む。先生のところに戻ってくれ」
 懇願するような長次君の声に、視界がゆるりと揺れた。
「少しで、いいから。一緒にいて」
 まだ涙は流れていないはずなのに、泣き声みたいな声だった。身を寄せても、もう長次君は私を拒絶しようとはしなかった。
「ごめんなさい」
 口にした途端に、涙が零れた。ああ。私、泣いてばかりのような気がする。泣き虫なほうじゃなかったのに。
 だけど長次君の顔を見たら、その声を聞いたら、止まらなくなった。溢れ出した感情が、涙と一緒に流れ出す。
「ごめ、んなさい」
 分からない。どうして忘れたのか分からない。思い出したい。思い出したいのに。
「……。どうして謝る」
 長次君の手が、私の頬に触れた。大きな、少し乾いた手。この手を傷つけたのは、私だ。
「私が覚えていれば、あなたは怪我しなかった」
 涙を拭ってくれていた指の動きが、止まった。指が私の背に触れて、そっと引き寄せられる。引かれるままに長次君の肩に顔を埋めて、私は声を殺して涙を流した。
「……お前はなにも悪くない」
 長次君の声が、耳元でする。小さくて低い、固い声。
「悪いのは俺だ、
「……なに、が」
「先生方に聞いた。俺が知るなにかのために、お前は利用されただけなのだと」
 殺されたくなければ、中在家長次から情報を引き出せ。
 私があの夜そう脅されたのは、きっと間違いないのだろう。
「それは……」
「ならば、お前が記憶を失ったことも、昨日怪我を負ったことも、すべて俺のせいだ。すまない。……、すまなかった」
 私を抱く長次君の指は、微かに震えていた。その、掠れた声も。
 長次君は悔やんでる。そして恐れてる。ああたぶん、私に嫌われることを。
 また涙が溢れ出した。
「すまない、……」
 繰り返される謝罪の言葉。ゆっくりと長次君の左手が動いて、私の右手首をそっと包む。傷ついた箇所同士が触れて、温かな長次君の体温と一緒に、悲しい感情が流れ込んできた気がした。
 どう言えばいいのだろう。どう言えば、ちゃんと伝えられるのだろう。
 私は長次君が悪いなんて思っていない。悪いのはきっと以前の私。

 どうして私はそんなことをしたの。
 長次君がこんなに傷つくと分かっていたはずだ。
 もしかしたら怪我をするかもしれないことも分かっていたはずだ。
 それなのにどうして忘れたの。

 俺が邪魔だったのだろう、という長次君の言葉が今更に蘇る。
 私は邪魔だと思ったのか。脅されるような原因を作った長次君を邪魔だと思って、だから忘れてしまったのか。

 ──私は、このひとを心から疎んでいた?

「……。もう戻ってくれ。頼む」
「長次君……」
「お前が傷つくところを見たくない」
 なにか言わなくちゃいけないと思うのに、あなたは悪くないと言いたいのに、欠落した記憶がそれを阻む。
 ゆっくり、長次君が私の頬を引き寄せる。近い距離で目を合わせて、長次君が初めて、優しく笑ってくれたような気がした。
。来てくれて嬉しかった」
「──……っ」
 その言葉に、ふいに不安が身体中を襲った。私に触れる長次君の指は、まるですぐ消えてしまうものに触れているように頼りなくて、私を見るその瞳は、まるでもう会えないものに向けられるような悲しい色をしていた。
 嫌だ。そんなこと思わないで。お願いだから。
 長次君、まだ一緒にいてくれるよね。お前の好きにしろって言ってくれたよね?
「……ぜんぶ、終わったら」
 確かな約束が欲しかった。力の入らない手で、長次君の腕を掴む。
「そうしたら、あなたのことを覚えていた私のこと、教えてくれる?」
「…………
「一緒に遊びに行こう。家にも帰ろう。私が忘れた思い出ひとつひとつ、ぜんぶ同じことをして、元通りになろう」
 いっそ思い出せなくてもいい。長次君を疎ましく思った私が本当にいたのなら、そんなのいらないから。
 また溢れ出した涙と共に、心の奥底から感情が溢れ出す。
 どくん、と。一つ大きく鼓動が鳴った。

「……私は、長次君のことが好きだよ」

 そうだ。きっとこれが、ずっと忘れていた、一番大切なものだ。
 私は、長次君が好きなのだ。

























 求婚したあの日の夜。
 になにが起こったのかは俺は知らない。もう知る術はないのかもしれない。
 けれど確かに、は意味があって俺を忘れた。
 忘れなければならない理由があった。
 俺のせいで。

 一番傷つけたくないものだった。出来るなら幸せなものだけで包んでいてやりたかった。誰の目にも触れさせず、温かく柔らかな場所に閉じこめておきたかった。

 が出て行ってすぐ、部屋の外で小さく気配が動いた。俺とそれぞれについている、先生方の気配だ。
 大丈夫だ。きっとは、先生方が守ってくださる。俺が傍にいるよりもずっと上手く。


 が大切だった。愛していた。幸せになって欲しいと心から願っていた。
 それは真実だと今でも確信は出来る。だからこそ。


 俺がにとって毒になるのならば。
 いっそ本当に、最初からいなかったものになればいい。

 たとえあいつが、それを望まないでいてくれても。



 それで全てが終わるのならば。















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