中在家長次夢
『二度目の鼓動』


十六話
「七日目」その一





 ぱちん、と大振りの鋏が音を立てる。畳に敷いた反故紙の上に、切り落とされた茎がころりと落ちた。
 朝からずっと、小雨が降っていた。じくじくと沁みるような湿った空気。微かに屋根を叩く雨音が、自習をしている私の耳に断続的に届く。
 学園長先生のお達しのせいか、いつもは騒がしい学園内も随分ひっそりしているように感じる。私は今日も先生達以外には会っていないから、余計にそう思うのかもしれないけれど。
 一昨日のように精神的にとても辛いわけではなかったけれど、身を包む無力感に、相変わらず心が沈んでいた。時間が流れるのが酷く遅くて、ただぼんやりと、開いた教科書を見つめていた。
 午後になって、山本先生がお部屋に戻ってきた。くの一教室の庭で育てている、色とりどりの花をたくさん抱えて。
「お花……?」
「綺麗でしょう?」
 思わず漏れた言葉に、山本先生はにっこり微笑む。
 少し雨粒に濡れている花々を、山本先生は一本一本丁寧に拭い、処理をしていく。花の隣に用意されているのは、幾種類もの剣山と、綺麗な焼き色の小さな鉢。
「華道の教材ですか?」
「ええ、そうよ。四年生のお花の授業で使う見本なの。さんも手伝ってくれるかしら」
 促されて、先生の隣に腰を下ろす。痛む右手ではなく左手で鋏を受け取り、見栄えと日持ちがいいように、不要な茎を切り落としていく。
 どこにでも生えている野草もあれば、手入れが難しい高価な花もある。花は、どれも綺麗だ。利き手ではないからゆっくりと一本一本の処理をしていると、心にかかった靄が少し晴れてくれた気がした。
さんは、華道の授業は少し苦手だったわね」
 ぽつりと、笑うような山本先生の声。昔のことを思い出して、私も笑った。
「そうですね。少し、じゃないかもしれません。私が生けると、すぐに花が枯れてしまうから」
「よく言っていたわね。お花は生け花じゃなくて、押し花にするほうが綺麗なんですよって」
「ええ」
 苦手だから負け惜しみで、ということもあったのかもしれないけど、私は実際、昔からよく押し花を作っていた。押し花を栞にしたものや飾り紙も、幾つか持っている。紅葉の葉とか、白詰草とか、朝顔とか。
 ぱちんぱちん、とぎこちなく鋏を動かす私と、慣れた手つきで花を生けていく山本先生。山本先生の生け方は、丁寧で綺麗だ。
「好きな花を綺麗なまま手元に置いておきたいなら、押し花のほうがいいかもしれないわね。生花はどうしても枯れてしまうから」
 そう言って、山本先生は手に持つ花の花弁をそっと撫でる。山本先生のように美しければ、きっとどんな花でも似合うだろうけれど。
「山本先生は、どんな花がお好きですか?」
「そうね、私は華やかな花が好きよ。棘があるものや、毒花と呼ばれるものが特に好きね。誰よりも美しく、悪辣であれ。くの一みたいでしょう?」
 にこりと微笑んで、山本先生は今度は私にと視線を向けた。
さんは、どんな花が好きかしら?」
「……そうですね……」
 手を動かしながら、少し考えた。
 花はなんでも好きだけど、特別に好きな花というものは思いつかない。けれど会話を打ち切りたくもない。なにか適当に答えようかと口を開こうとしたとき、ふいに脳裏を掠めた花があった。
 簪。
 紫色の小さな花弁。
「……桔梗」
 長次君からもらった、あの簪。呟くような私の答えに、山本先生は一度手を止め、それから頷いた。
「桔梗。……そうね、あれは無垢で優しい花だわ」
 山本先生はそう頷いて、手にする生花を剣山へと生けた。
 そして、ぽつりと。
「──変わらぬ愛情、ね」
「………え?」
 思わず聞き返したけれど、声が小さかったのか、山本先生には聞こえなかったみたいだった。ゆっくりと、山本先生はまた丁寧に花を生けていく。
 私ももうなにも言わずに、ただその手つきを見つめながら、時折思い出したように鋏を動かした。


 紫色の桔梗の花。長次君にもらった簪。
 あれは今どこにあるのだろうかと、私は長次君の部屋を思い出す。
 まだ同じ場所に転がっているのだろうか。長次君や誰かが気づいて箱に戻してくれただろうか。それとも、あの騒ぎで壊れてしまっただろうか。
 昨日長次君に会ったときに、聞いておけばよかった。
 あのとき簪を握り締めていた右手が、じんと鈍く痛んだ。まだ包帯が巻かれている手首からは、昨日の長次君と同じ、傷薬用の薬草の匂いがする。
 長次君は今、なにをしているのだろうか。
 そう思った途端、朝から降っていた雨が急に勢いを増して、ぱたぱたと屋根を叩いた。














 昼頃から勢いを増した雨は、日が沈んだ後もずっと降り続いていた。
 天気の悪さは、多くのひとにとってそのまま感情にも影響する。晴れならば気分がよく、雨ならば不調が多くなる。そのせいか、今日は朝から『頭が痛い』とか『身体が少しだるい』とか、曖昧な理由で幾人もの生徒達が医務室を訪れてきた。
 状況が状況だ。生徒達が普段より特に不安になるのも仕方ない。このままの状態が続けば、きっともっと同じような患者が増えるだろう。
 もうとっくに日は沈み、あと少しで就寝時刻というところだった。日が沈んでからの委員会活動は禁止されているけれど、それでも医務室を閉めるわけには行かない。当然委員会の下級生達は来させられないから、僕と新野先生の二人で医務室を回している状態だった。自然、仕事も多くなる。
 私は今から見回り当番ですから、善法寺君も終わったらすぐ医務室を閉めてお部屋に帰りなさい、と新野先生が出て行かれてから、一刻ほどは経っていると思う。
 最初から今回の騒動を知っていた僕には、単純に一人きりが危ないという危機感や不安はなかった。それよりもずっと、あの二人のことが気にかかる。長次と
 が記憶を失ったとき、僕も二人の傍にいた。先生方がみんな出てらっしゃるのだから、今回僕が出来ることなどほとんどないのだろう。それでも、医務室に居さえすれば自分の役割がある気がして、僕はなんとなくずっとここに居座っていた。
 けれど、それもそろそろ限界だろう。不足していた薬の補充を終えて、医務室の日誌をざっと確認する。就寝時刻を過ぎてまで一人きりでいるのは、さすがにまずい。
 いい加減片付けて帰ろうと思ったそのとき、外から微かに人の気配がした。
 廊下を歩く足音で、相手の見当はついた。上級生と教師の二人。
 僕には聞こえない小さな声でなにかやりとりをしたあと、ふっと教師の気配が消える。そして、上級生の足音と気配が、医務室の前で止まった。
 医務室の戸が開かれる。その先から現われたのは、僕のよく知る同級生。
「……長次」
 名を呼んだまま、しばらくなにも言えなかった。長次はじっと僕を見た後、ゆっくりと戸を閉めて中に入ってきた。それからちらりと医務室の中に目を向けて、また僕に視線を戻す。
「新野先生は」
「……あ。新野先生は、今見回りでいらっしゃらないけど」
「そうか」
「どうしたの、傷の具合?」
「ああ。診てくれるか」
「もちろん。上衣脱いでそこに座ってくれる?」
 僕は長次を座らせて、治療用の包帯や薬を取って戻ってくる。あのときの傷は大分酷かったから、その手当てに来たのだろう。ということは、先ほど消えた気配は長次を送ってきた先生か。
「長次、先生と一緒じゃなくていいのかい?」
「……先ほどまでは木下先生に付き添ってもらっていた。夜も更けてきたから、残っている善法寺と共に長屋に帰れと」
「ああ……そっか。そうだね」
 長次にも一応常に先生方がついているみたいだけど、危険なのは長次よりも直接襲われたであることは間違いない。先生達総出でも学園全てを見張るのは大変だろうから。
「肩、まだ酷く痛む?」
「少し」
「そうだろうね。……もうちょっと腕上げてくれる? うん、ありがとう」
 侵入者と切り結んだときの傷は、かなり深いものだった。凶器に毒が塗られていなかったことだけが救いだろうか。いつまた傷口が開いて出血してもおかしくないほどで、僕は慎重に長次の肩に薬を塗り、包帯を巻き直す。
「小平太は、どうしている」
「元気がいいとは言えないね。でも、ご飯はちゃんと食べてるよ」
「……そうか」
 あの騒ぎの後、長次と小平太の部屋は使われていない。長次は長屋の空き部屋で先生と、小平太は僕と留三郎の部屋か、文次郎と仙蔵の部屋を行き来して眠っている。
 あの日、侵入者を追い掛けて行った三人は、結局足取りを掴めないままに戻ってきた。留三郎と文次郎は悔しそうにしていたけれど、小平太はどこかぼうっとしていて口数も少なかった。今もそうだ。僕と同じく、長次との事情を最初から知っていたことで、小平太も落ち込んでいるのだろうと思う。
「小平太に、気にするなと伝えておいてくれ」
「……うん、分かったよ」
 当然だけれど、気にするなと小平太に伝言を頼む長次こそが、一番気落ちして見える。顔色がよくない。ほとんど寝ていないのだろう、疲労というよりも憔悴しているようだった。ちゃんと食べてちゃんと寝て、といつも文次郎に注意するような言葉すらも、今の僕には言えない。出来るならとっくにそうしているだろうから。
 僕が傷を診ている間、長次はなにも言わずに、ただじっと畳の上を見つめていた。僕も言えることなんてほとんどなかった。やっぱり、医務室にいても僕は無力だ。こうして傷を診ることくらいしか出来ないのだから。
 肩以外の傷も一通り診終えたとき、就寝時刻を知らせる鐘が控えめに鳴った。ああ、一人で落ち込んでる場合じゃない。長次のためにも、早く長屋に戻らないと。
「ごめん長次、少しだけ待っててくれる? 医務室閉めるから」
「ああ」
 薬箪笥に鍵をかけて、日誌に長次の手当てをしたことを記す。ざっと明日の分の準備をして、それからようやくに立ち上がる。
「待たせてごめん長次、長屋に──」
 振り向いて言いかけた言葉を、途中で切った。気づいたのは、長次のほうが早かった。他人の気配。教師でもない生徒でもない、『忍者』の気配。咄嗟に身構えたとき、かたんと小さな音を立てて、隅の天井板が開く。
「っ!」
「長次、待って!」
 反射的に縄標を手にする長次を、慌てて引き止める。そのまますとんと医務室に降りてきた人影は、長次が警戒するのも分かる、黒一色の忍装束。
「やあ。久しぶりだね、伊作君」
「……なんでこんなややこしいときに来るんですか、雑渡さん……」
 はあ、と僕がため息を吐いている間に、雑渡さんは僕達に近付いてくる。長次はじっと雑渡さんを見ていたけれど、やがて興味を失ったように縄標を戻した。
「おや、来て欲しくなかったような言い方だね。せっかく君に会いに来たのに」
 残念だねぇと少しも残念そうじゃない声で言って、雑渡さんは僕達の前に腰を下ろす。タソガレドキ城の忍者隊組頭。僕達のような見習いの身ではとてもどうこう出来る相手じゃない。普段暇なときなら構わないけど、今はもの凄く時機が悪い。
「この時間だし伊作君一人だろうと思ってたんだけど、お友達も一緒なんだね。六年の子かい? 何度か見た気もするけど」
「ええまぁ……というかですね雑渡さん、今ちょっと学園がばたばたしてますんで……」
「知ってるよ。学園の様子がおかしいって陣左が報告して来たから、遊びに来てみたんだ。確かに、あいつが言ってた通り厳戒態勢だね。自主練も禁止かい?」
 学園がタソガレドキに見張られていること自体は、特に驚くことじゃない。だけど、僕はふいに不安になった。雑渡さんがここにいる、ということは。
「あの、仰った通りに今は厳戒態勢なんですが、雑渡さんはどうやってここまでいらっしゃったんですか?」
「ああ、大丈夫。そのままでも通れなくもなかったけどね。見つかってややこしいことになったら面倒だから、きちんとここの優秀な門番君に話を通してきたよ」
 門番って、まさか。嫌そうな顔をしている僕に気づいたのか、雑渡さんは愉しそうに目だけで笑う。
「伊作君に会いに来たって素直に言って入門表にサインしたら、すんなり通してくれたよ」
「小松田さん……」
 がっくりと力が抜ける。だけどまあ、このひとに限ってはそういう対処でいいのかもしれない。
 ちらりと隣の長次を見る。長次は先ほどと同じく、興味がなさそうにじっと畳の上を見つめていた。雑渡さんを無視することは出来ないけど、出来れば早くお帰り願いたい。
 けれど雑渡さんにその気はないようだった。きょろきょろと以前来たときと変わっているところがないか確かめるように医務室を見回しながら、なんでもないことのように口を開く。
「それで、学園が騒がしいのはあの日のことかい?」
「あの日……」
 二日前、が襲われたときのことだろうか。そう言おうとするより前に、雑渡さんの言葉がそれを否定した。
「えーと、……正確には六日……七日前の夜かな」
 ぴくりと、それまで隣で黙っていた長次が顔を上げる。僕も今の言葉に怪訝に思って、眉をひそめた。
「雑渡さん、まさかあの夜のことをご存じなんですか」
 七日前の夜。この事件の発端。未だ素性の分からない侵入者がいた、が記憶を失った筈の夜。思わず身を乗り出す僕に、雑渡さんがあっさり頷く。
「そりゃ、まぁね。だって私、あの夜学園にいたから」
「は?」
「あの夜も伊作君に会いに来たんだ。君は医務室にいなかったし、目立つのも嫌だったからすぐに帰ったけどね」
「……あ、あの、もしかして、あの夜の侵入者って……あなたなんですか?」
 そうだね、と雑渡さんが軽く頷く。
 脱力しかけた。
 あの日、先生達が騒いでいた侵入者が雑渡さんだとすると、謎の侵入者との記憶喪失には、なんの関係もなかったということになるじゃないか。つまり、
「なんて人騒がせな……」
 つい呆れた顔をしてしまう僕に、雑渡さんの片目が意味ありげに瞬いた。笑うように。
「それも間違ってはいないよ。あの夜は入門表も書かずに、私もただの侵入者だったからね。今日はきちんとお客様だけど。伊作君、お客様にお茶出してくれない?」
「いえ、その、お客様というかですね……」
 とりあえず早く雑渡さんに帰ってもらって、このことを先生方に報告しないと。どうしたものかと迷っていると、ふいに、それまで黙っていた長次が口を開いた。
 固い、感情を抑えたような声。
「…………私、『も』?」
 その言葉に、僕も気づいてはっとした。雑渡さんの言った言葉。『私もただの侵入者だった』。いや、それよりも前に、雑渡さんが来て帰っただけだとしたら、学園が騒がしい理由を『七日前の夜のことか』と尋ねること自体、おかしい。
 雑渡さんは長次の問いに、不思議そうに首を傾げる。
「ん? だってそうだろう? あの忍者、どこの城のものか分かったかい? そこそこ手練れに見えたけど」
「──っ」
 ざわりと、すぐ隣の長次の気配が変わった。手練れの忍者。二日前にが襲われたことじゃないはずだ。
 もう一度、長次の声が響く。珍しく焦りを帯びた、長次にしては聞きやすい大きな声。
「あの夜なにがあったのか、あなたは知っているんですか」
「なにって……君たちはもしかして、あの子からなにも聞いていないのかい?」
「あの子って、誰ですか」
 思わず、僕も強い口調で訊ねた。あの子。あの子って、のことか?
 雑渡さんは僕と長次の顔を交互に見て、それから怪訝そうに目を細めた。
「七日前の夜、私が医務室の前に運んだ子だ。気絶していたけど軽傷だったはずだし……本当になにも言ってないのかい?」















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