中在家長次夢
『二度目の鼓動』


二話
「前日」その二





 長次は黙々と貸し出しカードの整理をしていた。その手元を見ながら、私はさっきと同じ場所、長次の隣に腰を下ろす。
 図書室は、二人分の気配が消えただけで随分しんとしている。聞こえるのは、隣にいる長次が作業をする紙擦れの音と、雷蔵が本を整理している音。それでほとんど全部だ。
 じっと横目で長次を見上げてみたけど、長次はなにも言わない。
「私、ここにいたら邪魔かな?」
「いや」
 簡潔な返事に、そっか、と私は文机の上に頬杖をついた。そして、ついさっきまで目の前にいたカメ子ちゃんとしんべヱを、ぼんやりと思い出す。
「あー、可愛かったなぁ……」 
 特に、カメ子ちゃんがぎゅーっと私の手を握ってくれた感触とか笑顔を思い浮かべると、自然に顔がにやけてしまう。私はもともと小さい子が好きだし、委員会の後輩達もみんな可愛いけれど、あんなに胸がきゅんとしたのは久しぶりだ。
「あんな子が妹だったらいいのになー」
 ね、と同意を求めて長次を見る。けれど長次はなにも答えず、ただ黙々と貸し出しカードの整理をしているだけだ。学年別のいろは組順に並べ終えると、次は貸し出し帳と照らし合わせて不備がないかを調べ始める。
「……ねぇ、長次」
「中在家先輩、少し納戸で予約図書の整理をしてきますね」
 長次の名を呼んだ途端、一つ二つ本棚を挟んだ向こうから、雷蔵の声がした。長次が顔も上げずに頷くと、雷蔵は図書室の奥の納戸へと向かう。
 その微かな足音を聞きながら、私は頬杖をついたまま長次の顔を覗き込み、もう一度口を開いた。
「長次。カメ子ちゃん、長次のこと好きなのって気づいてるの?」
 前置きなしに切り出すと、長次はようやくに私をちらりと見て、そして無言でまた視線を戻した。まだ近くにいた雷蔵が、急に早足になって慌てた様子で納戸へと駆け込む。いや、そんな大した話じゃなかったんだけど。
 もしかして、納戸で作業っていうのも私達を気遣ってくれたんだろうか。それを申し訳なく思っていると、長次がぽつりと呟くように返す。
「……嫌われていないだろうことは理解しているが」
「なら、頭くらい撫でてあげればいいのに。きっとカメ子ちゃん喜んでくれるよ」
「子どもは俺が苦手だ。時折顔を見ただけで泣き出す」
「いやあの、……うん、えーっとね……」
 ある意味事実だからその言葉を否定することはしないけど、カメ子ちゃんがそれに当てはまらないことだってちゃんと分かってるはずなのに。
「長次、カメ子ちゃんのこと嫌いなの?」
「嫌いになる要素はない」
「そうだよね」
 ならやっぱり頭くらい撫でてあげればいいのに……ともう一度言おうとしたところで、長次が私をじっと見ていることに気がついた。ぱちぱちと瞬くと、長次はまたなにも言わずに視線を戻し、作業を続ける。
 その視線に込められた意味をなんとなく理解して、私はきょとんとした。
 いいのか、と問われた気がした。
 いいのか。それは私に聞くようなことなのだろうか。
 私は他人に優しい長次が好きだ。たとえば後輩達を褒めるときに頭を撫でているところを目にしたとしても、嫌な気分になんてなるはずがない。それがカメ子ちゃんでも。
 だけど……そっか。
 長次の本心がどこにあるのかははっきりと分からないけれど、私を気遣ってくれていることは理解出来た。
 カメ子ちゃんに妬くことがないとは言えない。確かにカメ子ちゃんがあのまま大きくなったら、きっと可愛くて頭の良い、非の打ち所のない女の子に育つだろう。そのときもまだカメ子ちゃんが長次のことを好きだったらと思うと、やっぱり少し胸がざわつく。
 けれど純粋な意味で、女の子が誰かに憧れるという感情は眩しいと思うし、……そしてそう、私がカメ子ちゃんを好きなのは、似たもの同士だからだと思う。
 同じ人に恋をしている、ということだ。
 頬杖をついていた文机から身を引いて、一歩分だけ床の上を移動する。長次と背中合わせになるように腰を下ろして、そのまま背にもたれかかった。長次はなにも言わないし、たぶん今誰かが私と長次がこうしているところを見ても、なんとも思わないだろう。私達は恋仲だから。
 隠していることでもないから、学園の半分くらいは知っていると思う。私と長次は幼なじみだし、恋仲になる前もよく一緒にいたから、いまさらはい恋仲になりましたと言ったところで、驚くひとはほとんどいなかった。むしろ、やれやれようやくかと呆れ顔で見られたくらいだ。
 最近そのことに気づいたけれど、つまり私はとても穏やかな恋をしているのだと思う。誰かと競うこともなく、強い嫉妬心で身を焼いたこともなく、長次の傍にいるための障害もなく、なにより私が自分の気持ちに気づいたときには、長次はもう私を好きでいてくれたから。
 それは、とても幸せなことだ。
 長次は口数が少なくて誤解されやすいけれど、優しいし他人に親切だ。私は長次が好きで、長次もたぶん私を好いていてくれている。背に伝わる温もりがそれを裏付けてくれている気がして、なんだか改めて嬉しくなった。
「カメ子ちゃんは見所のある子だよね」
「なにがだ」
「長次が好きだってことだよ。あんなに小さいのによく分かってるなあって」
「……幼子の憧憬の対象は、好意とは違う。あの子の周りには、俺のような人間がいないのだろう。だからだ」
 長次の声を聞くのに慣れた私でもようやく拾えるくらいの、小さな声音。
 うーん、また難しいこと言って。
 長次の言っていることは、ある意味では正しいと思う。だけど『カメ子ちゃんの周りにいない』という条件だけならば、この学園にも他にたくさん当てはまる相手がいるだろう。つまりその中から長次を選んだというだけでも、私はカメ子ちゃんに親近感が湧くのだけど。
「長次、子ども嫌い?」
「……いや」
「じゃあ好き?」
「どちらかと聞かれたならな」
 背中越しの声に、つまりはかなり好きなんだ、と納得する。長次は、あまり自分から好きだとか嫌いだとか口にしないから。
「そっか……」
 私はなんとなく、ぐぐぐーっと長次の背に体重をかける。だけど体格の良い長次の身体は、それくらいじゃ揺らぎもしない。逆に私のほうが、反動でずるずるとその背を滑ることになる。
「……なんだ」
「特に意味はないです」
 すとん、と背が滑りきって床の上に仰向けに寝てしまうと、長次がやや呆れ顔で振り向いて、私を見下ろした。じっと、私もその顔を見上げる。
 表情の読みにくい長次の顔が、私のすぐ傍にある。長次の黒い瞳に映っているのは、私の顔だ。見つめ合って、数呼吸。長次がやれやれと私の腰に腕を伸ばして、身体を起こしてくれた。
「ごめん。私、仕事の邪魔してる?」
 今更ながらにもう一度聞いてみると、長次は少し乱れていた私の髪を直してくれて、また文机へと向かう。
「いい。俺は今日は当番ではない」
「あれ、じゃあ長次はどうして図書室にいるの? 自習なのに」
 私も移動してまた長次の隣に座ると、長次は軽く眉をひそめて、小さく答えた。
「他の場所はうるさい」
 その一言で、なるほど長屋か教室が騒がしかったのだろうと納得した。長次は賑やかな場所が苦手ということもないけど、さすがに自習の開放感に溢れた同級生達には閉口するところがあったのかもしれない。特に同室の小平太とか、顔を見合わせれば喧嘩している潮江と食満だとか。
「そっか。ここならうるさくしちゃいけないしね」
 とか言いつつも私はさっきからべらべら喋りまくってるけど、長次が注意しないのは、他に利用者がいないからだ。
 さっきのしんべヱも、勉強というよりは本を揃えに来ただけだったみたいだし。
 と、そのとき、図書室の奥で小さく戸が開閉する音がした。目を向けると、納戸での作業を終えたらしい雷蔵が、何冊かの本を抱えて出てきたところだった。雷蔵は「ええっと……」と何事かまた悩みながら、本を一冊一冊所定の棚に戻して行く。
 たった一人が空間に増えただけで、突然に図書室内に動きが生まれた気がした。つまりはそう思うくらいに、さっきまで私一人でうるさかったということだ。
「失礼します」
 続けて、今度は図書室の戸が開いた。その先から下級生が顔を出し、きょろきょろと図書室内に目を向けながら入ってくる。図書委員を探しているらしいその視線に長次が腰を上げるより早く、本来の当番である雷蔵が気づいて駆け寄っていく。
「なにか探し物かな?」
「あ、はい。あの、地蔵の……月の満ち欠けについての本が欲しくて……」
「ああ、それならこっちだよ」
 雷蔵の案内に、下級生がぱたぱたとついていく。それをじっと見てから、私は長次の手元に視線を向けた。
 長次は貸し出しカードを一枚一枚確認して、貸し出し期間を過ぎているものだけをより分け、超過している順に並べる作業を続けている。たぶん取り立てしやすいようにだろう。
「…………」
 ちょっと考えてから、私はゆっくり腰を上げた。長次が無言で見上げてくるのに、小さく微笑む。
「私、うるさくしちゃうからそろそろ行くね。図書室使う子も来たみたいだし」
 長次の隣にいるのは落ち着くけれど、ここにいても邪魔にしかならないし。
 じゃあね長次、と踵を返そうとすると、腕を掴んで引き止められた。
「……長次?」
「邪魔ではないと言ったが」
「あー……うん、それは嬉しいけど、雷蔵にも気を遣わせちゃうし。今日は帰るね」
 私、すぐべらべら喋っちゃうし。苦笑を浮かべると、長次はしばらく沈黙して、そうかと目だけで頷いた。それから、掴んだままの私の腕を軽く引く。
「ん? なに長次──」
 引かれるままに床の上に膝をつき、長次に身を寄せた。瞬間、目を見開く。
 腕を掴まれていないほうの長次の手が、私の頬に触れている。ぐっと引き寄せられた次に、唇に温かな感触が落ちた。
 え?
 唇が重なってる。状況が理解出来た瞬間、かあっと顔に血が集まった。
「っな、なにして」
 突然のことに、思わず反射的に長次の肩を押し戻す。なにしろ本棚を幾つか隔てた向こうには、雷蔵と下級生がいるのに。
 長次は普段、むしろ私以上に人目を気にするから、あまりに不意打ちな行動に戸惑った。

 けれど長次はいつもの顔で、身を引いた私をまた引き寄せる。傍から見れば内緒話でもするような体勢で、耳元にそっと低い声が囁く。
「今夜、部屋に来れないか」
「え、長次の部屋?」
「そうだ」
「あ、……う、うん」
 少し遅れて、頷いた。
 長次がこうやって私を誘うことはあまりない。皆無ではないけれど、滅多にないと言っていいくらいに。
 珍しさもあって少し驚いたけれど、誘ってくれたことは素直に嬉しい。
「わかった。じゃあまた夜にね。就寝時刻が近くなったら行ってもいい?」
「ああ。……待っている」
 言葉の後、掠めるようにもう一度口付けが落ちてきた。立て続けの行為にちょっと照れる。私も笑って長次の頬に軽く口付けを返して、またねと立ち上がって長次に背を向けた。
 運良く、二人には見られなかったみたいだった。何冊かの候補本を吟味している下級生の隣で、雷蔵が私に気づいて一礼した。手を振ってそれに返して、私は図書室の戸を開ける。
 後ろから、微かに長次の視線を感じた。それが心地良くて、私は図書室を退室した後、ふわふわした気分で自分の部屋へと歩き出した。
 早く長次の部屋に行くために、宿題とかの用事をさっさと済ませてしまおう、と思いながら。







 予感なんてものはなにもなかった。
 私はただ幸せで、そしてこの幸せがこれからもずっと続いていくのだと思っていた。
 私の隣には長次がいてくれるのだと、そう、なんの根拠もなく信じていた。





 その夜。
 私は、長次に関する全ての記憶を失った。















 →三話『当日』その一