中在家長次夢
『二度目の鼓動』
三話
「当日」その一
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その日、を最初に見付けたのは僕だった。 昨日の委員会中に片付けきれなかった薬箪笥の整理の続きをしてしまおうと、朝早くから医務室へ向かっていたときのことだ。 医務室の前の廊下で、うずくまるような格好で誰かが倒れていた。桃色の装束の人影。慌てて駆け寄って抱き起こすと、同年のだった。意識のない様子に血の気が引いて、抱え上げて医務室の中に運び、身体の状態を確認した。 外傷はほんの僅かだった。手足や頬のあちこちに擦り傷や軽い打ち身はあったけれど、それは誰でも組み手の稽古や山中授業を受ければ出来るだろう程度のものだ。装束が少し泥に汚れていたから、実際地面の上で転んでしまったのかもしれない。 外から見える傷は、それくらいだった。頭を強く打った様子もない。呼吸も落ち着いていてただ眠っているようにしか見えなかったから、とりあえず僕は安堵して、医務室の布団にを寝かせた。 転んで擦り剥いたかなにかで、医務室で治療しようとしてそのまま寝てしまったのだろうか。詳しいことはが起きてから聞けばいいかと考えて、僕は医務室で作業をしながらの目が覚めるのを待った。 幸いにしてその日は休みで、僕はずっと医務室の当番だった。薬箪笥の整理や薬研の手入れをしていれば時間は過ぎたけれど、昼近くになってもは目を覚まさない。呼吸にも脈にも乱れがなく、昏睡というより明らかに寝ているだけなのに、少し乱暴に揺り動かしても反応がない。 さすがにこの辺りでおかしいと思い始めたけれど、それでもまだ疲労が溜まっているかなにかだろうと、僕は楽観的に考えていた。 「じゃあ、日替わり定食でいいかしら」 「はい、お願いします」 食堂のおばちゃんに事情を説明して、昼食を医務室持ち帰りにしてもらっていると、ふと食堂内で昼食をとっている長次と小平太の姿が目に入った。こちらから声をかける前に向こうも気づき、小平太が「よー!」と大きく手を振ってくる。二人の前には、同年の女子生徒も共に机を囲んでいる。のことを聞いてみようと思って、僕は小平太達の元へと足を向けた。 「いさっくんも昼飯か? なら一緒に食おうぜ!」 「僕は今日は医務室で食べるから」 「医務室ー? あんな薬草臭い部屋でよく食えるよなー」 「どこでもなんでも食べる小平太には言われたくないよ。……ごめん、ちょっといいかな?」 小平太に嘆息を返してから、僕はすぐ傍でもぐもぐと食事をしている女子生徒の顔を覗き込む。ん?と顔を上げる女子生徒の次に、長次にも目を向けた。 「長次も、いい? 二人に、少し聞きたいことがあるんだけど」 「なに、善法寺?」 「……なんだ」 二人は食事をする手を止めて、僕に視線を向ける。小平太も、がつがつと食べながら不思議そうに僕を見上げる。 長次はと恋仲で、女子生徒はと仲が良かったはずだ。だからあの様子のことをなにか知っているかもしれない。 「二人とも、昨日の夜か今日の朝、と会った?」 「? えっと……たぶん昨日お風呂で会ったのが最後だと思うけど……」 「いさっくん、私は知ってるぞ! 昨日の夜はな、は長次と一緒にいたんだ! だって私、部屋から追い出されたからな!」 ふっふーん、とさぁさぁ褒めろと言わんばかりに胸を張って大声を出す小平太の隣で、長次が少し迷惑そうに小平太を睨む。だけど否定はしないから、本当なんだろう。 「長次、それで間違いない?」 「……ああ」 それがどうかしたか、と目で問う長次に、僕は程々に生徒達で賑わっている食堂内を軽く見回して、少し声を抑えた。 「そのとき、なにか様子がおかしかったりしなかった? 体調が悪そうだったとか」 そこまで口にすると、さすがに三人もただ事ではないと気づいたようだった。長次の瞳に剣呑さが混じり、女子生徒が不安そうな顔になり、小平太もようやく食事の手を止める。 「、今朝医務室に行ったときに──」 三人分の視線を受けながら、僕は手短に今医務室で寝ているの状態を伝えた。 説明を終えた途端に長次が席を立ち、小平太に食べかけの定食の盆を押しやる。「おーい、長次ー?」と小平太が声をかけるのに、ただ一言「食え」と返して、長次はそのまま食堂を出て行った。 「あ、長次ちょっと待っ…………ま、いいか……」 「ねぇ善法寺、はただ寝てるだけなんだよね?」 「うん、僕にはそうとしか思えないんだけどね」 「あれじゃないかー? 長次が昨日無茶なことして疲れてるとか」 にしし、とからかうように笑いながら、小平太が長次の盆からひょいひょいとおかずを自分の皿に移動させていく。 「うーん……まあ、単に睡眠不足とか疲労とかならいいんだけどね……」 けれど、あまりそういう風にも見えなかった。たとえば文次郎みたいに隈が出来ているとかなら、分かりやすいんだけど。 「善法寺、食べ終わったら私もの様子を見に行ってもいい?」 「うん、構わないよ」 「あ、じゃあ私も行くぞ! そんで長次からかってやる!」 「小平太、医務室で騒ぐのだけはやめて欲しいんだけど……」 「善法寺くーん、持ち帰り出来たわよー!」 「あ、はい! ありがとうございます! じゃあ二人とも、後で」 「おう、食ったらすぐ行くぞー!」 小平太の声を背中に聞きながら、僕は慌てて食堂のおばちゃんの元に定食を受け取りに行った。 定食の盆を持って医務室に入ると、長次は眠っているの隣に座っていた。盆を文机の上に置いて、僕も二人の元に足を運ぶ。 長次の視線は、眠りに落ちているへとじっと向けられている。 「、昨日なにか変な様子はなかった? 疲れてたりとか、ひどく眠そうだったりとか」 僕の問いに、長次は一度こちらを見る。「いや」と簡潔に返して、その視線がへと戻る。 「これまでにもこうなったことは?」 「ない」 また簡潔に答えて、長次は手を伸ばして、の額にそっと触れる。長次は幼い時分からと寝食を共にしているはずだから、彼が言うならそうなのだろう。昨日の夜は普通だったのなら、やっぱりただ深く眠っているだけなのだろうか。 「なら、心配しなくても大丈夫だと思うよ。今日は休みだからね。明日は遅くまで寝てもいいって思いながら眠ると、なかなか起きないようになっちゃうし。……ああそうだ、そういえば小平太が、長次が昨日の夜無理させたんじゃないのかって言ってたよ」 場を和ますための軽口のつもりだったのに、長次は僕の言葉に否定も肯定もせずに、ただ押し黙った。なんだかその沈黙は自身の行動を振り返って悩んでいるように、もしくは悔いているようにも見えたから、僕は逆効果だったと反省した。小平太ならともかく、僕が言うべきことじゃなかった。 「ごめん、気にしないで。君が無理させたなんて思ってないから。……僕は今から昼食食べるけど、長次はまだここにいる?」 「いても構わないか」 「うん、もちろん。後で小平太達も来るって言ってたよ」 その場から立ち上がり、僕は二人分のお茶を淹れる。湯飲みの一つを長次の前に置いて、文机で昼食を食べ始めた。 いただきます、と手を合わせて食べている間にも、長次はただずっとを見つめている。身じろぎせず、湯飲みに手もつけず、ずっと。 大事なんだろうな、と素直に思う。 あの二人がようやくに恋仲になったと知ったときには、みんなしてやっとかと苦笑したものだった。長次が昔からを憎からず思っていたのも、がそれにまったく気づいていないのも、近くで見ていた僕達には分かり切ったことだったから。 めんどくさいなーもう、私が言いに行ってやるよ、と何度も勝手に代行告白しようとした小平太をその度に無言で引き止めて、結局長次は自分の言葉で想いを告げて、と恋仲になった。 もともと二人は幼なじみで仲が良かったから、傍目には前とあまり変わらないように見えたけれど、それでも恋仲になってからの二人はやっぱり幸せそうだった。 「……そりゃ心配だよね」 僕だって恋仲の相手が今のと同じ状況になったら、心配するに決まっている。いくら周りが大丈夫だと言ってもだ。 僕が昼食を食べ終えてしばらくしても、は目を覚まさなかった。長次は委員の当番だから一度図書室に顔を出すと言い残して、医務室を出て行った。その後すぐ、入れ替わりに小平太と女子生徒が訪ねて来て、場が一気に騒がしくなる。 「ほんとだ、寝てるだけだな」 「どうしたんだろ。、寝起きが悪い子じゃないんだけどな」 小平太と女子生徒が、布団を左右から挟んでを覗き込み、不思議そうに首を傾げる。 「ひとの寝顔って、ずっと見てると額に落書きしたくなるよなー。あ、いさっくん、墨と筆貸してくれ! 真面目なことに使うから!」 「長次に本気で怒られるからやめときなよ」 「大丈夫だ、『長次大好き』って書くだけだから! かんぺきだ!」 「殴られるよ絶対に」 「ー、もうお昼も過ぎちゃったよー? お腹空いてないのー? ……んー、だめだ、起きないなあ」 女子生徒がゆさゆさと身体を揺すったりぺちぺち額に触れたりむにゅっと頬をつまんでみたりするけれど、は目を覚まさない。それどころか、ほとんど反応もしないというのが心配だ。実は昼前にも一度、少し強く痛みのツボを押してみたけれど、それでもぴくりとも動かなかった。 「起きないからつまんないぞー。長次もいないから、からかえないし。あれ、そういえば長次どこ行ったんだ?」 「今は図書室だよ。委員の当番だから一度顔を出しに行くって」 「じゃあ、帰ってくるまで私が長次の代わりをしてやろう! ……長次の代わりってどんなんだろうな?」 「んー、隣でただ無言で見守ってるのが中在家じゃないかな」 「あはは、絶対無理だやめとこう。あ、額に落書きは駄目でも、手のひらとかならどうだ!? 右手と左手でそれぞれ『長』『次』って書いてやろうぜ! ついでに足の裏にもなんか書くか! 『中』『在』『家』……だめだ、の足二本しかない!」 「君はとりあえず長次に殴られたいんだね……」 ここまで騒いでたらいつもならすぐに医務室から追い出すんだけど、今はそのほうがが起きやすいかと放置していた。ようし、なら指の先にするか、それならたくさん書けるぞ!とまたくだらない言葉が聞こえてきたとき、医務室の戸が開いて丁度長次が戻ってきた。外にまで声が響いていたのか、長次はじろりと小平太を睨んで中に入ってくる。 「あ、中在家。おかえりー」 「おー長次だ長次! なあなあ、南蛮の言葉で『好き』ってなんて言うんだ!? あ、この炭に特に意味はないぞ!」 「……から離れろ、小平太」 「えーつまんないのー。長次のためにしてやってるのにー」 「ー、起きないと押し入れに隠してあるお酒飲んじゃうぞー。うーん、いつもならこれで起きるのに……」 「長次、委員会大丈夫?」 「ああ。他の委員に交代を頼んだ」 ということは、が起きるまで傍にいるつもりなんだろう。長次はそのまま、またへと足を向ける。 「あ、待って長次」 そのときふと思い出して、長次を引き止めた。 「なんだ」 「この間の野外実習のとき、腕に怪我したよね。一応傷の具合診せて」 「……ああ」 に向けていた足を返し、長次は戻ってきて僕の前に腰を下ろす。上衣を脱いで差し出された腕を診ようと、その腕をとって視線を落としたときだった。 、と遠くで名を呼ばれたのが始まりだった。 それまでずっと闇色に沈んでいた頭の中が、その声をきっかけにして動き出す。 、、と名を呼ばれるたびに、声の距離が近くなる。 呼ばれてる。起きなくちゃ。 そう思った途端に、覆い尽くしていた闇に一筋の光が差した。光の筋は瞬く間に広がって、闇をかき消していく。 頭の中の闇色がすべてなくなったそのとき、私はゆっくり目を開けた。 目を開けたと同時に、眠気がすうっと引いていく。一度、二度、瞬きをして改めて目を開いて、視界に映ったものにきょとんとした。 「あれ……?」 「おっ! 起きたな」 「、おはよー。今何刻だかわかる?」 ふふふ、と微笑みながら私の頭を撫でているのは同級生の友達で、「おーい、起きたぞー」とどこかに向かって声をかけているのは小平太だ。ん? んん? なんだかおかしいことだけは理解出来て、私はとりあえず身体を起こす。 見慣れた造りの部屋。ここは医務室だ。……なんで? 「あれ? どうして私ここで寝てるの?」 「起きた? 良かったね。身体の具合どう? あ、もう少しだけ待って。この薬塗ったら終わりだから」 ちょっと離れたところから、伊作の声も聞こえてくる。まだ状況が理解出来ない私の顔を、隣の小平太がじーっと覗き込んでくる。 「なんかお前、医務室の前で寝てたらしいぞ。うん、顔色いいな」 「、ずっと起きなかったから心配してたんだよ。どうしたの、昨日夜通し自主練でもしてたの?」 「医務室の前……?」 小平太と友達、交互にかけられる言葉に思い当たることがなくて、首を捻る。外の明るさからして、もうお昼なのだろうか。昨日の夜は部屋から出ていないから、普通に自室で寝たはずなのに。 「身体はどう? どこか痛くない?」 「うん、別になんともないよ。……医務室の前で寝てたって、なんでだろう」 全然記憶にないんだけど、夜中にふらふら歩いて来たんだろうか。 「この間、医務室のお布団気持ちいいって言ってたじゃない。居心地のいいほうに来ちゃったんじゃないの?」 「あー、私もよく夏場なんかに涼しいほう涼しいほうに寝たままごろごろ転がって、気づいたら部屋の外だったこと何回もあるしなー」 「逆に冬は暖かいほうに行くよね。私も昔あんまりに寒くて、同室の友達のお布団に入って怒られたことあるよ」 わかるわかる、となんだか同意してくれる友達と小平太に、私はなんとなくまあいいかと微笑んで、掛け布団を取り払う。そこでふと不思議に思う。寝たまま来たなら夜着のはずなのに、なんで私は忍装束を着てるんだろう。 うーん、と首を傾げてもう一度医務室を見回して、……そしてまた新しい疑問に気がついた。 「とりあえず、顔でも洗ってきたらどうだ? もう昼過ぎだぞ」 「、お腹減ってない? 今ならまだ食堂で定食残ってると思うよ」 「……ねえ、二人とも」 「ん、なんだ」 小平太と友達に、私は疑問のままにそれを口にした。 「あのひと、見たことないね。もしかして転入生?」 「え……?」 私の問いに、小平太と友達は顔を見合わせて、それから医務室内に視線を向けてきょとんとした。 「えっと、誰のこと?」 「、寝過ぎて誰か忘れてるんじゃないかー? 私のことはちゃんと覚えてるよな?」 「やだな、小平太のこと忘れるわけないでしょ。……そうじゃなくて、あそこの」 私が視線で指すと、友達も小平太もその方向に顔を向ける。医務室の戸の近くで座っている二人。二人ともこっちを見てるから、たぶん話は聞こえていると思う。 「あ、いさっくんのことか!? つまり不運か!?」 「やめなよ小平太。も誰のこと言ってるの?」 苦笑する友達に、もしかしてからかわれてるのかと思って、私も苦笑を浮かべた。 「伊作は知ってるよ。伊作の隣にいるひとのこと」 私は微笑んで、「ねえ」とそのひとに声をかけた。 「あなたの名前、なに? いつ学園に転入してきたの?」 「……え?」 「大変だね、六年から転入なんて。普通は四年からだと思うんだけど……どこかの学校で六年生までいたのかな?」 「、なに言ってんの……?」 「あ、でも鍛えてる身体してるし、やっぱり忍術習ってたのかな。なにが得意? 組み手とか強そうだね。……あ、えーとごめん、私すぐ喋りすぎちゃってよく怒られるの。いきなりいろいろ聞いてごめんね。こういうの苦手かな?」 そこまで言って、医務室の空気がぴたりと止まってることに気がついた。どうしたんだろうと不思議に思って、私はやっと大事なことを思い出した。 「あ、ごめん、そうだね。最初に自分から言うべきだよね。私、。くの一教室だからあんまり会うことはないかもしれないけど、たまに合同授業があると思うから……」 「」 突然に、小平太の低い声で遮られた。医務室の空気はさっきと同じく止まったまま、さらに冷たくなっていく。友達は不安そうにきょろきょろしているし、小平太は戸惑いに溢れた顔をしてる。伊作は唖然としていて、その隣の転入生はただじっと私を見ているだけだ。 「……なに? みんなどうしたの」 「、それ冗談で言ってるならやめときなよ」 「え……なにが?」 「なんだよ長次、と喧嘩でもしたのか? 早く謝れよー」 やれやれと呆れたような小平太の声に、私は眉をひそめる。なに? どういう意味? 場の雰囲気についていけなくて、どく、と鼓動が早くなる。なにか、おかしい。焦りが大きくなってきたとき、ふいに空気が動いた。 「……」 その知らない男の子がゆっくりと立ち上がって、私のところまで来た。慌てて、友達が身を引いて場所を空ける。大きい。私より二つか三つ年上に見える。表情が読みにくくてあまり愛想のいい感じじゃなかったけど、名前はもう覚えてくれていた。ちょっとほっとする。 「あ……って呼んでくれるの? 男子ってみんな途中から名字で呼ぶようになるんだよね。あなたのことはなんて呼べばいい?」 笑いかけても、なんにも答えない。男の子は私の隣に膝をつき、顔を覗き込む。初対面とは思えない近すぎる距離に戸惑って身を引きそうになったとき、ぽつりと低い声がした。 「──俺のことが分からないのか」 え? きょとんとして、その後、もしかしてものすごく悪いことを言ったのだろうかと思って不安になった。みんな変な顔してるし、たとえば昔他の学校に転校していった同級生が帰ってきたとか、そういうことなんだろうか。……でも、こんな男子いたっけ。 「……ごめんね、覚えてないや。会ったのって何年前かな?」 「お前、いい加減にしろ」 突然に、小平太が私の肩を強く掴んだ。鋭く睨み付けられる気迫に、反射的にびくりと震える。 「え、小平太……」 「いくらなんでも、そんな冗談言うな。長次が傷ついてるのが分からないのかよ!」 ぴしゃりと怒号を叩きつけられて、私は硬直した。焦りに、血の気がすっと下がっていく。どうしていいか分からなくて、私は無意識にみんなから身を引きそうになる。 なにこれ。 「小平太、やめろ」 痛みを感じるほどに掴まれていた小平太の腕を、私をじっと見つめたままの男の子が離してくれた。名前、さっき小平太に呼ばれていた気がするけど、もう覚えていない。みんなの視線は、戸惑いを通り越して悲しみや怒りが含まれている。私、もしかしてすごく傷つけることを言ってしまったんだろうか。 「なんだよ長次、お前も怒ればいいだろ! いくら悪ふざけでもやりすぎだ!」 「小平太、ちょっと待って」 「なんだよ伊作まで! 、お前言っていいことと悪いことがあるだろ!」 小平太が眉をつり上げて私に迫ろうとするのを遮って、男の子が私をじっと見る。その黒い瞳には私を責める色はなくて、それだけがこの場で一番優しいものに、私には思えた。 「」 私の名前。そう、きっとこのひとは私の名前を知ってるんだ。 「俺のことが分からないのか」 また、同じ問い。声音は小さかったけれど、その分胸が痛む。やっぱり傷つけてしまったのだろうか。私はなんとか動悸を落ち着かせようと息を吐いて、ゆっくり頷いた。 「ごめんね。冗談とか、ふざけてるつもりとか、全然なかったの。私ほんとに忘れっぽくて、だから……」 ぎゅっと、膝の上で手を握り締めた。許してもらえるだろうかと、不安に思いながら。 「名前、教えてもらってもいい……? あなた」 私を見ていたその瞳が、ゆっくりと伏せられる。 「あなた、誰……?」 →四話『当日』その二 |