中在家長次夢
『二度目の鼓動』
二十話
「九日目」
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夢を見た。 きっといつかあったはずの、けれど今の私は知らない、願望のような淡い夢。 遊び場なのだろう故郷の山で、小さな私と長次君が、手を繋いで微笑み合っていた。 身を寄せ合い、お互いにしか聞こえない声で囁き合って、くすぐったそうに笑う。そして手を繋いだまま、二人は夕暮れの中を駆けていく。 ずっとそれを見ているだけの、今の私の元から消えて行ってしまう。 待って、と声をかけようとしたそのとき、目が覚めた。 「先輩、どうぞ。お食事です」 「ありがとう」 雷蔵が差し出してくれる昼食の盆を受け取り、お借りしている山本先生の文机の上に置いた。私の分の食事は、いつも食堂から誰かが運んで来てくれる。 正直食欲はほとんどないけれど、食べなければ心身共に消耗が激しい。今までの学園生活でそれを嫌というほど理解していたから、無理矢理にでも詰め込むようにしていた。 「おい、不破。お前達はもう食べたのか?」 「いえ、まだです」 「ならば今行ってこい。もうすぐ新野先生も戻って来られるからな。私達だけで充分だ」 「はい、それではお願いします」 「失礼します、先輩方」 仙蔵の言葉に、竹谷と雷蔵は私達に頭を下げ、部屋を出て行く。 長次君と先生方が学園を出て行ってから、一日半が過ぎていた。朝日が昇り、昼が過ぎ、真夜中になり、また次の朝が訪れても、学園には誰も帰ってこなかった。 私はその間、ずっと山本先生の部屋にいた。部屋の中には変わらず新野先生と雷蔵と竹谷が、そしてその三人の交代要員として、学園の警護の合間を縫って、仙蔵と文次郎が顔を見せてくれた。 二度ほど伝達役をしている友達が来てくれて、新野先生になにかを報告したり、私に『さっき早馬が来たの。もうすぐみんな帰ってくるよ』と励ましてくれたけれど、その子も知らないのか、詳しいことはなにも教えてもらえなかった。 部屋の中でただじっと俯いている私を気遣って、竹谷と雷蔵は時折話しかけてくれた。委員会でのこととか、五年生の実習のこととか、他愛もない日常生活の話。あまり上手くは応えられなかったけれど、二人は嫌な顔一つせず相手をしてくれた。優しい後輩達だ。 「箸が進んでねぇな。食えるときに食っとかねぇと体がもたんぞ」 「……うん」 「お前が傍にいると食欲が沸かんのだろうさ。文次郎、少し後ろを向いていろ」 「あ? どういう意味だ、仙蔵」 「そのままの意味だが? 気にするな、私も未だこの顔に慣れていない。暗闇で見ると反射的に手裏剣を投げてしまうからな」 「だから、その顔って俺のことかこら」 「他に誰がいると?」 言い合う二人の前で、私は機械的に食事を詰め込んで行く。優しい後輩達とは違い、仙蔵と文次郎はいつもと変わらぬ振る舞いだ。二人して、『こんなに大人しいお前を見るのは初めてだな。明日は雨か。いや雪か』とか『腑抜けたくの一なんぞ使い物にならん、もっと気合を入れろ』とかいろいろ言ってくれたりもした。 それでも、仙蔵と文次郎も二人なりに気を遣ってくれているのは理解していた。二人ともくだらないことばかり話していたけれど、長次君に関することはなにも言わずに、そっとしておいてくれたから。 「遅くなってすみません、今戻りました。……おや、不破君と竹谷君はどこかに行ってしまいましたか?」 軽い駆け足が近付いて来て、戸が開く。戻ってこられた新野先生はざっと部屋を見回し、私達に首を傾げる。 「二人とも休憩に行かせました。なにか、伝えることでもありましたか?」 「ええ。ですが、それなら好都合です。さん」 「はい」 新野先生が、柔く微笑んで私を見る。その次の言葉は、今までのことを思えば、とてもあっさりとしたものだった。 「もう、一人で動いても構いませんよ」 少し遅い昼食だったから、お借りしていたものを片付けたり後始末をして部屋を出ると、もう陽も沈みかけていた。あの後も特に詳しいお話はなかったけれど、お風呂を済ませたら学園長先生の庵に向かうようにと新野先生は仰って、ずっと傍にいてくれた仙蔵達も解散し、私は何日かぶりに教師長屋から出ることになった。 学園内はしんとしていた。先生方がまだ戻って来ていないのか、それとも厳戒態勢が解けていないのか、共同場にもあまり生徒の姿はなかった。お風呂を済ませてからと言ってくださったのは、きっと私が何日もゆっくりと湯を使えなかったからだろう。久しぶりに女子寮に戻りお風呂に入ってから、私はまだ晴れぬ重い気分のまま、学園長先生の庵へと向かった。 一人で動いてもいいということは、あの忍者のことは一応解決したということだろう。けれど学園内に長次君の姿は見当たらなかったし、今までずっと嫌なことばかり考えてしまっていたから、なにも聞かされていない今、手放しで喜ぶ気分にはなれなかった。 「です。入ります」 先生方がたくさんいらっしゃるのかと思っていたけれど、庵には数人の気配しかなかった。学園長先生ご本人と、たぶんあと一人だけ。 「おお、待っておったぞ。入りなさい」 「失礼します。……山本先生! お帰りになってたんですか」 「さん、戸はきちんと閉めなくては駄目よ」 咄嗟に駆け寄ろうとした私をやんわり制して、学園長先生の隣に座っている山本先生は、私にも座るようにと促した。慌てて戸を閉めて、先生達の前に腰を下ろす。 「さっき戻ってきたところなの。少し手間取って時間がかかってしまったから、長い間待たせてごめんなさいね」 にっこり微笑む山本先生はいつものようにとても綺麗だけど、今は表情に少し疲労の影が見えた。十分な休息を取ってないのは明らかだった。私のために、だ。 「山本先生……」 「大丈夫よ、全部終わったわ。もうあなたが危険なことに巻き込まれる心配はありません」 「誰か、怪我とかしてないですか」 「全員が無傷というわけではないけれど、軽傷が一人か二人くらいね。学園長先生にご説明するために私が一足早く着いたけれど、みんなもうそろそろ学園に戻っているはずよ。……中在家君もね」 今まで張り詰めていた気が、ふっと緩んだ。酷い怪我をしたひとがいない。みんな戻ってくる。先生方も、長次君も。 ……良かった。本当に、良かった。 「さん、ひとまず説明をしておくわね。あの忍者がどこの手のもので、なぜあなたが襲われたのかを」 私が落ち着いたのを見計らって、山本先生は始まりから今日にかけて、なにがあったのかを詳しく教えてくれた。福富屋が重火器を大量に輸入し、それを狙う城があったこと。福富屋によく出入りし、取引に関わっていた長次君がまず狙われ、けれど福富屋に侵入していた忍者が長次君に顔を知られていたことから、狙いが私に移ったこと。襲われて意識を失った私を、タソガレドキの忍者隊組頭が助けてくれたこと。 「あの忍者が所属している城はあまり規模が大きくなくて、諜報からなにからすべてあの男一人で動いていたみたいなの。それで直接福富屋に実力行使に出られなかったのね」 「多大な武力が早急に必要だったのじゃろ。もうすぐ冬も訪れる」 学園長先生が私を手招きし、地図を広げてその一部を指で示す。名前しか聞いたことのない、小さな城。冬になれば飢えるひとが増えるだろう、雪の多い厳しい地域だ。 「普通ならば、こんな強引な手は取らん。つまりそれだけせっぱ詰まっていた、ということじゃろうな。ま、どこにでもよくある話じゃ」 からりと笑って、学園長先生は広げた地図をくるくると仕舞う。 「さんから福富屋の内部について聞き出すか、もしくは傀儡か人質にしようと思っていたみたいね。あなたで足りなければ、他に幾人攫ってでもね。まともな忍者のとるべき行動でないことは、確かね」 淡々と言ってから、「でも大丈夫よ」と山本先生は私に微笑む。 「福富屋の取引は、もう予定通りに終わっているの。重火器とその設計図のすべての権利も所在も、すでに移動されて正当な取引先の元にある。それを伝えて、あと少しお灸を据えておいたわ。……学園長先生から正式に書類を作って頂いて、城主に判を押させて来たの。二度と学園に手出し出来ないように、ね」 「儂もまだまだ顔と名前が利くからのう。このくらいは朝飯前じゃ」 いたずらっ子みたいな顔で、学園長先生が笑う。お二人とも簡単に仰ってるけれど、それを実行するのは一筋縄では行かなかったはずだ。軽傷でも怪我を負った先生方がいらっしゃることと、山本先生の疲労を見れば分かる。 感謝の思いと申し訳ない思いが同時に溢れ出す。「ありがとうございました」と頭を下げると、その頭に、ぽん、と軽い重みが乗った。学園長先生の、手だ。 「。学園に曲者が忍び込むのを防げなかったのは、儂の咎じゃ。長い間不自由をさせて、すまなかった」 その手がゆっくりと私の頭を一度撫でて、そして離れて行く。顔を上げる私と、学園長先生との視線が交わった。 「もう心配はいらん。あとは記憶が戻るのを待つだけじゃ」 学園長先生のお言葉に続いて、山本先生が「きっと大丈夫よ」と微笑んでくださる。それをきっかけに、心の奥からぶわりといくつもの感情が競り上がってくる。ずっと押し込めていた不安や怯えや、……心細かった寂しさ、悲しさ、痛み、悩んでいたことも、それが全部一つになって。 ──長次君。 すごく、会いたい。 「さあ、行きなさい。おぬしの好きにしてよい」 学園長先生のお言葉に、もう一度深く頭を下げる。涙が零れそうになるのをぎりぎりで堪えて、立ち上がった。 庵の戸が閉まり、生徒はしっかりとした足取りで去っていく。ここに来たときのような、覇気のない足音ではない。その気配が感じられないほどに遠ざかったとき、ぽつりと庵に声が響いた。 「して、山本先生。全てを言わずともよかったのかの?」 「あら。言わなくても気づいているはずです。敵に素性を知られた忍びの末路がどんなものか、私はあの子達に繰り返し教えてきました。だからこそ忍務は慎重に行動なさい、と」 「なるほど。ではあの忍びは、よい師には巡り会わなかった、ということじゃの」 ず、と湯飲みから一口茶を飲む学園長の隣で、くの一教諭は生徒の去った方向をじっと見つめ、「どうでしょうか」と独り言のように呟く。 「あの子達が進んでいく道は、厳しいものです。私達は、少しでもその厳しさが和らぐように、繰り返し学ばせることしか出来ません。それも卒業するまでの間だけ。そんなことしか出来ない私が、よい師かどうか」 「おや、弱気じゃの。長年敏腕くの一を育ててきた山本先生が」 「長年やっていれば悩むこともありますわ」 「ま、自分はよい師だなどと、胸を張って言える教師はおるまいよ」 ことりと湯飲みを盆に戻し、学園長は小さく微笑む。 「教師としての役目を果たした後、儂らに出来ることは、あの子らを信じてやることだけじゃ。忍びとしても、人としても」 学園はどこも闇色に染まっていた。昨日までずっと空を覆っていた雲はどこかへと流れ、晴れた夜空から明るい月光が落ちてくる。その中を走り続けて、男子寮へと急いだ。 ただ待っているだけだったこの二日間、ずっと不安で仕方なかった。みんな無事だろうかとか、今はどんな状況だろうかとか、長次君はどうしているのだろうかとか、これからの長次君と私のこととか、考えれば考えるほどに、重い感情で心が埋め尽くされそうになった。 長次君を忘れてしまってから今まで、私はずっと悩んでるし、嘆き続けてる。心のどこかが、足りない足りないとずっと訴えている。 今の私は、やっぱり幸せなんかじゃない。以前の私がなにを思っていても、私は長次君と一緒にいたい。たとえ長次君が私を拒絶したとしても、長次君のことが好きだ。 幾度悩み、考え直しても変わらなかったことだ。私は長次君のことが好きだ。 それを伝えたくて、なによりも早く会いたくてたまらなかった。 「? か!?」 男子寮の入り口に辿り着いたとき、突然に上から名前を呼ばれた。足を止めた瞬間、すぐ近くの庭に人影が落ちてくる。たぶん屋根の上にいたんだろう、その声の主は小平太だった。 「小平太!」 「おー! ほんとにだな! もう外に出てもいいのか!?」 小平太は目前まで駆けてきて、私の顔を覗き込む。久しぶりの小平太の姿に、なんだかすごく嬉しくなった。 「うん、先生方がもう一人でいてもいいって。ありがとう、小平太」 「そうか、よかったな!」 小平太も笑って、私の頭をぐしゃぐしゃと乱暴に撫でた。その大きくて温かい手つきに、ぎゅっと胸が締め付けられる。 「小平太。長次君が帰ってきたかどうか、知ってる?」 「ん、まだ会ってないのか? 長次なら半刻くらい前に戻ってきたから、自分の部屋にいると思うぞ。さっき伊作が包帯替えに行ってたしな」 「怪我とか、してた?」 「いや、前からの以外は、たぶんしてないと思う」 小平太の言葉に、改めてほっとした。それから、入れ替わりに今度はどくどくと鼓動が速くなっていく。会える。もうすぐ、長次君に会える。 「小平太、ごめん。しばらく長次君と二人きりにしてくれる?」 「いいぞ! 私の荷物、どうせ空き部屋に突っ込んだままなんだ。、長次のことを思い出すまで、これからも長次と一緒にいるよな?」 「……うん。一緒にいたい」 当たり前のように言ってくれる小平太の言葉が、胸に沁みた。たとえ記憶が戻らなくても、ずっと長次君と一緒にいたい。それが今の私の、心からの願いだ。 「。私な、今すごく嬉しいんだ」 小平太、言った通りにすごく嬉しそうな笑顔で、私を見る。 「私、やっぱりお前達が一緒にいるほうが好きだ。だから、早く長次のところに行ってやってくれ」 とん、と。小平太が私の背を軽く押す。一歩踏み出して振り返ると、そのときにはもう小平太は私から離れていた。庭の向こうから笑顔で手を振る小平太に、届くように声を上げる。 「ありがとう、小平太!」 「おう! 団子百個の約束、待ってるぞ!」 小平太の明るい声に頷いて、長次君の部屋へと駆けだした。 久しぶりに戻った部屋は、誰が片付けたのか、血が染みこんだ筈の畳さえ綺麗に取り換えられていた。立ち回りをした際に崩れた私物の本や小物も元通りに直されていて、部屋だけを見ればとても賊が入り込んだ後とは思えない。 文机の上に置いていくことしか出来なかったの簪も、血を拭われて白い紙の上へと丁寧に置かれていた。薄桃色の珊瑚を下地に、紫色の花弁を散らした細工の簪。数箇月前、俺がにと贈ったものだ。 学園に着いたときには夕暮れ時だった空は、すでに闇に包まれている。伊作が肩の傷を処置した際に灯した火の光が、ちらちらと簪を照らしていた。 取り上げようと指を伸ばし、触れる寸前で止める。簪のすぐ隣には、それを収めていたのだろう箱が並べられていた。そこに書いてある、俺からの贈り物だと示すの字に、どうしていいのか分からなくなる。 恐らく、の厳戒態勢は解かれているだろう。今頃は自分の部屋へと戻っているかもしれない。あの忍びのことが済んだ今、はもう危険に晒されてはいない。末路まで見届けたのだから、それは間違いない。俺がを巻き込んだ原因自体は、今となってはもうないはずだ。 けれど。 指を伸ばし、簪に触れる。ひんやりとした細い金属の感触が、指の先へと伝わる。さほど高価でもないこれを、は喜んで受け取ってくれた。勿体ないからと、使わずに仕舞い込んでいた。だから俺がこの簪にゆっくりと触れたのは、贈ったとき以来だ。 手の中のものを、文机の上へと戻す。見ているだけで様々な思いが溢れそうになり、目を伏せた。正しい道など分からない。にとってどうしてやるのが一番なのか、未だ答えは出ていない。 俺を忘れたかったのだと知ったとき、から離れようと決めた。呼び方を変えるように伝えたのも、そのためだった。俺の存在が迷惑だと、不要だときっぱりと示してくれたなら、その意志が揺らぐこともなかったはずだ。 共にいてくれと願うことは、罪だろうか。 にとってなにが毒なのか分からないままに、それが自分自身であるかもしれないと知りながら、それでも傍にいたいと望むことは罪だろうか。 今同じようにこの簪を差し出したら、お前はまたありがとうと笑ってくれるのだろうか。 。 お前にとっての幸せは、なんだろうか。 ──ふいに、風が動いた。 髪を揺らす風に顔を上げると、開いた戸の向こうにが立っていた。 ここまで駆けてきたのか、肩で大きく息をするの瞳が、真っ直ぐに俺へと向けられる。その唇が、小さく俺の名を呼んだ。 俺の元に足を進め、はすぐ目の前で膝をつく。言葉もなく伸ばされたの腕を取って、引き寄せた。 長次君、と。名前を呼んだ瞬間、鼓動が鳴った。 腕を引かれて、抱き締められる。強いその力に、感情の堰が切れたみたいに溢れ出す。、と小さく囁かれた途端に、視界がゆるりと滲んだ。 全身に長次君の体温が伝わってきて、それだけなのに途方もなく嬉しかった。私から身を寄せると、その分だけ抱き締め返してくれる。私だということを確かめるように、長次君が幾度も私の名前を呼ぶ。すぐ近くで聞こえるその声に、堪えきれずに涙が零れた。 「……怪我、しなかった?」 「ああ」 嗚咽混じりの問いに、長次君はすぐに頷いてくれる。ひくりと喘ぎが漏れて、それを止めるように長次君の手が私の頬に触れた。ゆっくり体を離して、長次君と目を合わせる。長次君の黒い瞳が、すぐ傍にあった。 「先生が、もう大丈夫だからって。好きにしていいって」 「……ああ」 頬に触れてくれる温かな長次君の手に、自分の手を重ねる。心の奥から、感情が膨れ上がる。ずっとずっと不安に思っていたことを、ようやくに口にした。 「どうして私があなたのことを忘れたか、分かった?」 長次君の手が、ぴくりと動く。離されてしまうかと思って、その手を強く握り締めた。 「私、あなたのことを『邪魔』だと思っていなかった?」 「……」 「私、あなたがいらないから、忘れたんじゃないよね? そうだよね……?」 私を見つめる長次君の瞳が揺れて、ゆっくりと、瞬く。ほんの一瞬だけ、その瞳が濡れているように見えた。 長次君の腕が、私を引き寄せる。そっと、その唇が私の耳元に寄せられて、 「もしそうでも、お前は俺の傍にいてくれるか」 囁かれたその言葉は、私を抱き締める長次君の手と同じで、少し震えていた。息が詰まる。自分じゃ制御できない感情の渦が、心の奥から溢れ出して止まらない。 長次君の瞳と、私のそれがまた交わる。ほんの僅かに顔を寄せ合って、唇を重ねた。 幸せとか、嬉しいとか、そんな単純な感情では表現出来ない。怒りや憎しみの衝動に近いくらい、強い強い想いだった。 愛おしい。このひとを愛したい、求め合いたいという想いだけが、頭から足の指先まで、身体中全部を染めていた。 重ねるだけだった口付けが、すぐに深いものになる。長次君の手が動いて、私の頭の後ろに触れる。するりと髪留めが解けて、肩に髪が落ちる。長次君の長い指が、優しく私の頭を撫でた。 「長次君……」 「抱いていいか」 私が口にする前に、熱を持った声が囁いた。言葉に出来ない感情に、胸が締め付けられる。 「抱いてください」 目を合わせて、儀式みたいにそっと、優しく口付けを交わす。長次君の傍にいることが、長次君に触れられることが、そして求められることが、本当に嬉しかった。 「大好き」 告げた途端に、胸の奥が熱くなる。二度、三度、啄むだけの口付けを交わし、それからすぐにまた深く口付け合いながら、畳の上に倒れ込んだ。 獣みたいに愛し合うって、きっとこういうことなんだろう。 長次君に触られるだけで身体の熱がどんどん上がって行って、このひとが欲しい、という想いだけが頭を占める。理性なんて、たぶんとっくにないと思う。布団を敷く間でさえも、幾度も幾度も口付けを交わした。 私もだけど、長次君は手足だけでなく身体中あちこちに包帯を巻いていた。私の知っている傷も、知らない傷もある。でも今は布一枚すら余計に感じられて、全部解いてしまって長次君の熱にもっと近付きたいとさえ思っていた。 「……っ、あ」 「すまない。痛むか」 「大丈夫だから、やめないで」 手も足も、頭もお腹も背中も、熱いところもそうでないところも、全部に長次君の熱が触れる。怪我を負った傷口にも、包帯越しに口付けてくれた。身を寄せて、私も長次君の傷に唇を寄せる。お互いに痛みがあったはずなのに、なんだかもうその痛みすら愛おしくて、すべて高まる熱に変わっていく。 好き、と告げるその度に、長次君が私の名前を呼んでくれる。触れる肌も、重なる唇も、繋がったところも、全身が長次君を求めている。 気づけば、どろどろに溶けていた。身体も、頭の中も、全部。 いっそ一つであればいいのに。全部交じり合ってしまって、私の心も頭の中も全部、長次君に見てもらえばいい。 そうすれば口にしなくても伝えられるだろう。私の想いを、全部。 繰り返し求め合い、お互いの昂ぶりが消えた後も、離れずに身を寄せ合っていた。 布団の中でただお互いの鼓動だけを感じていると、なんだかさっきとは違う意味で胸が熱くなって、泣きそうになる。 長次君の手が、そっと私の頭の後ろに回される。向かい合う形で横になって、慈しむように額や頬に口付けてくれる。優しいその仕草に手探りで腕を伸ばすと、すぐに長次君から手を握ってくれた。 「……長次君」 ぽつりと長次君の名を呼ぶと、「どうした」と小さく長次君の声が届く。近い距離だから聞こえる、その低い声に、ふいに不安が募る。繋いだ手をぎゅっと握り締めて、長次君と目を合わせた。 「長次君は、本当に私でいいの?」 「…………」 「もしも私がずっとあなたのことを思い出せなくても、こうして一緒にいてくれる? 前の私じゃなくても構わない?」 私の声は震えていた。いつかは思い出せるかもしれないなんて、そんな保証は一つもない。長次君が本当に求めているのは、今の私じゃない。そのことはちゃんと理解している。 私の頭を撫でてくれていた長次君の手が、一瞬だけ止まった。それから、ゆっくりと長次君が口を開く。じっと私を見つめたままで。 「……お前は、だ。今も前もない」 優しい嘘の色もない、はっきりとした口調だった。 「記憶があってもなくても、お前がであることは変わらない。それだけでいい」 同時に強く握り締められた手に、私はぼんやりと今までのことを思い出す。私は、ずっとそう思っていた。長次君は今の私を通して、前の私を見ているだと。違ったのだろうか。本当に、私一人しかいないと思ってくれているのだろうか。 「でも私、あなたのことを覚えてない。前の私と一緒じゃない」 「」 長次君の手が私の頭から離れて、そっと頬に触れる。 「昔からずっと、お前が傍にいてくれるならば、他になにもいらないと思っていた」 「それは──」 「今もだ」 引き寄せられて、唇が優しく重なった。瞬きをした瞬間に、涙が零れる。愛してる。そんな言葉じゃ足りないくらい、私はこのひとが好きだ。嬉しい。すごく。 「長次君……」 「長次でいい」 「ん……長次」 「ああ」 幾度か触れるだけの口付けを交わし合い、合間合間に名を呼んだ。呼ぶほどに、呼ばれるほどに、想いが深くなる気がする。 「」 長次君の指が、私の頭を撫でる。促された気がして改めて長次君を見ると、真面目な眼差しが私に向けられた。 「お前こそ、俺でいいのか」 「え?」 「俺以外の男などたくさんいる。……すぐに結論を出さなくてもいい」 とても真剣に言ってくれる分、なんだかくすぐったい気持ちになった。自然に笑みが浮かんでくる。繋いだままの手をゆっくりと握り直し、口を開いた。 ああ、私は幸せだ。 「あなたのことを思い出したいと思うのは私の勝手だって、言ったよね」 だから、 「あなたにもう一度恋をするのも、私の勝手だよね」 恋。言葉にした途端に、今まで以上に想いが溢れた。 「……大好き」 大きく鼓動が鳴り響く。好きですと繰り返すたびに、心の隙間が埋まっていく。 今、ようやくに分かった。 足りない、足りないとずっと思っていたのは、これだったのだ。失った記憶のことじゃない。このひとを想う気持ち、それだけだ。 「あなたが、好きです」 きっと幾度忘れても、きっと幾度も恋をする。そう思えるほどに、想いが募る。 背中に腕が回されて、一層強く抱き締められる。私も同じように手を伸ばし、身を寄せた。 「私とずっと一緒にいてください」 告げた瞬間、抱き締めてくれる身体が、僅かに震えた。 少しの沈黙のあと、ありがとう、と、小さな声が囁く。 嗚咽も聞こえないし、涙の温度もなかったけれど、なんだか長次君が泣いている気がした。 目を閉じると、伝わってくる長次君と私の鼓動が入り混じって、本当に一つになってしまえばいいと思った。 おやすみなさい、。 頭の中で、誰かの声がした。同時に、どっと眠気が襲ってくる。ずっと寝ていなかったから、身体が疲れてるんだと思う。 意識が溶けてしまう前に、大好きだよ、ともう一度囁く。目が覚めたら、また何度でも言おう。忘れてしまったものの代わりに、その想いでいっぱいにすればいい。 温かで優しい、抱き締めてくれる腕に身を預けて、私はゆっくり眠りへと落ちた。 →最終話「十日目」 |