潮江文次郎夢
『不器用恋絵巻』前編
さらりと微かな衣擦れの音に目を覚ますと、が畳の上に正座して髪を結っていた。 時間を探ると、まだ寝入ってからほとんど経っていなかった。夜が明けるまでは大分あるだろう。 布団から腕を伸ばしての手を掴むと、は少し驚いた顔で俺を振り向いた。どうしたの、と問われる瞳を、闇の中で見返す。 「帰るのか」 俺も布団から身体を起こすと、は少し間を置いてから、小さく頷いた。そしてやんわりと俺の手を離して、また髪を結い始める。 仙蔵がいない夜には、高い確率では俺の部屋に来る。俺が呼ぶときもあるしが唐突に来るときもあるが、どちらにせよやることは同じだ。身体を重ねる、ただそれだけ。 そして大抵の場合、は朝まで共にいることはなく、情事後に抱いて眠っていてもいつの間にかすり抜けて部屋に帰ろうとする。 「おやすみなさい、文次郎」 顔を覗き込み、俺が拒絶しないのを確かめてそっと額に口付けを落とす。それから、気配を消して自分の部屋に戻っていく。 時折、酷く疑問に思う。 ──なぁ。お前、俺といて楽しいのか? ※※※ 会計委員室に向かおうと廊下を曲がった途端に、聞き覚えのある声が響いた。 「そうなんだ、二人ともそこにいたの?」 「はいっ。先輩いつもは怒ってばっかりなんですけど、あのときはすごく慌ててて」 「そうそう、おかしかったよなー。あ、そうだ先輩、僕この間聞いたんですけど──」 まだ変声期を迎えていない下級生の声と、少し大人びた女の声。聞き覚えがあるのもそのはず、委員の後輩である左吉と団蔵、そしての三人が、委員室の前で顔を合わせて話していた。 なんの話しだか知らないがはしゃいだ様子の一年生を前に、はうんうんと楽しそうに相槌を打っている。 は幼いものが好きらしい。いや、好きらしいという域ではなく無茶苦茶好きだ。上級生に冷たいというわけではないが、下級生に向ける瞳はとても柔らかだ。今もわざわざ二人と視線を合わせるために、廊下の上に膝をついて話しを聞いている。いつものように、下級生に通りすがりに声をかけてそのまま話し込んでいるのだろう。 「なにやってんだ、お前ら」 「あ、文次郎」 「潮江先輩! 今先輩とお話ししてたんですよー!」 「んなもん見りゃ分かる。あのな、この女は有名な下級生好きなんだ。油断してると食われるぞ」 「あははは、そんなわけないですよ潮江先輩ー」 「先輩が僕達のこと食べるわけないじゃないですかー」 面白そうに笑い合う一年生達に、は「そうだよ」と俺に笑みを向ける。 「食べたりなんてしないよ。だって私、左吉と団蔵のこと好きだもの。食べちゃったらもうお話しできないでしょ?」 は冗談めかした口調で言うと、素早く立ち上がって「じゃあね二人とも、文次郎」と軽く手を振って去っていく。委員会が始まるから邪魔だと察したのだろう。左吉と団蔵も、「先輩、また来てくださいねー!」「お話しの続きしてくださーい!」と大きく手を振り返している。 「ほら、お前らとっとと委員室に入れ。委員会始めるぞ」 「はーい!」 「あ、潮江先輩、これ先輩からです!」 どうぞ、と俺に一冊の帳簿を手渡して、左吉は先に駆け出した団蔵を追いかけて委員室の中へと入って行く。俺は渡された帳簿に目を向けて、ああ、と思い当たって納得した。 この間山本シナ先生に請われて貸していた、くの一教室のクラス費のまとめだ。会計委員に返すようにと、が頼まれていたのだろう。もしくは自分が行くと申し出てくれたか。 ……どちらにしろ、ならばああもあっさり帰らなくてもいいだろうと少しばかり複雑な思いになる。 委員室に来る前に、俺に直接持ってくることだって出来ただろうに。 ──胸が、少しざわつく。 一年生に続いて委員室に入り、帳簿を棚の定位置へと戻す。 自分達の分の硯や算盤を用意している二人を見ながら、俺も重い胸中のまま委員会の準備を始めた。 好きだと言ったのはで、けれど共にいてくれと頼んだのは俺だ。 それが叶って恋仲になったはずなのだが、といると、たまに恋仲がどういうものなのか分からなくなるときがある。 は俺になにも要求しない。休日に共にいたいと望むことすらほとんどない。偶然学園内ですれ違っても、さっきのようになんでもない様子で少し挨拶をするだけだ。足早に駆け寄って抱きつかれたいわけでは到底ないが、それで恋仲同士かと聞かれたら明らかに違う気がする。 世間一般で言う恋仲らしいやりとりなど、たぶん俺とはしていない。してやれば喜ぶのかどうかも分からない。 「私に相談というのは、まあいい。だがな文次郎、お前の惚気ほど気持ち悪いものはない。まだ続ける気ならいっそ殺せ」 「……今の、惚気か?」 苦々しい口調の仙蔵に、俺はさっき自分が言った言葉を思い出して首を捻る。そもそも恋仲らしくないことを相談したはずなのだが。 「どういう角度で聞いても惚気だ。酷くつまらん、話しがそれだけなら私は寝る」 「ちょ……! 待てよ仙蔵」 敷いた布団に本気で潜り込もうとする仙蔵の腕を掴むと、「惚気がうつる」と吐き捨てて強く手を振りほどかれる。おいおいおいおいおい。 「お前な、人が珍しく相談持ちかけてんだ、せめて話しくらい聞けよ!」 今までこの手のことに興味のなかった俺とは違い、仙蔵は自他共に認めるほど浮き名を流している。だから同室の手軽さもあって相談を持ちかけてみたのだが、それはねーだろ。 食い下がる俺に、仙蔵は本気で鬱陶しそうに、眉をひそめて強く睨み付けてくる。 「いいか、文次郎。私は上手く行っていない他人の恋路をかき回すのは好きだが、お前との『単にお互い口下手で上手く伝えられない』だけの典型的なお子様的恋路はどうでもいい。見ているこっちがイライラするだけだ」 「……お前、本っ気で性格悪いよな……。って、それどういう意味だ。口下手だ?」 「口下手だろうが。さすがのお前も多少は気づいているんだろう、がなにも言わないのは、なにもしたくないからではなくお前に迷惑をかけたくないからだ。……ったく、理解出来ん。どうしてはこんな男を気にしてるんだ、阿呆なのか? 文次郎を好いている女などいないのだから、もっと上から目線で踏みつけていっそ犬を飼う感覚で調教してやればいいものを」 「お前、本人目の前にしてよくそこまで言えるよな……」 もはや尊敬しそうになる。軽く呆気にとられた隙に、仙蔵は事実イライラした様子でさっさと布団に潜り込んでしまった。そのまま数十秒も経たないうちに、すっと気配が眠りのそれに変わる。 ……眠かったから機嫌が悪かったのか、と納得しそうになるが、たぶん違う。本気で俺の相談内容とやらがお気に召さなかったのだろう。 苛立ち混じりに息を吐く。今夜は満月で、鍛錬には向かないからと珍しくまともに睡眠をとるつもりだった。すでに火も消して窓も閉めた部屋の中、仙蔵の眠りの気配だけがある。 ……惚気じゃねーだろ。 さっきのやりとりを今一度思い出して、顔を歪める。仙蔵が言うように、たぶんは俺を気にしてなにも言わないのだろうということは理解していた。だからそれも含めて、どうすれば良いのかと相談しようとしていたのだが。 惚気どころか、そもそも恋仲らしいことなど本当に何一つしていない。情けないことに、恋仲らしいと自信を持って言えるのは、身体を重ねていることくらいのものだ。しかしそれだけなら明らかに身体だけの付き合いだ、恋仲なんかじゃない。 恋仲がどういうものなのか、俺にはよく分からない。女心の機微に疎い自信があるから、から望まれれば出来る限りはその意思に沿おうとしていた。だがはそれすらほとんど口にしない。 ああ、焦りだ。 胸を渦巻く嫌な感情に、ようやくに気づく。俺が仙蔵に相談を持ちかけるほどに気にかけているのは、恋仲とはなんなのかという漠然とした悩みなどではない。 耳にタコが出来るほどに、唐変木だの朴念仁だの言われる俺を見限って、が他の男を選ぶのではないかと。 ……俺はそれが不安なんだ。 ※※※ 「先輩は、どうして潮江先輩と恋仲なんですか?」 放課後の教室で、当番の日誌を書いているときだった。同じく当番の一つ年下の後輩が、明日の授業の用意をしながら前置きなしでそう言った。 「どうしてって……好きだからだよ」 当たり前のことを口にした途端に、後輩はあからさまに「うわー……」と嫌そうな顔をした。 「先輩と潮江先輩、全然釣り合わないですよ。釣り合うのは年くらいです。美女と鬼瓦じゃないですか」 「びじょとおにがわらって」 「大体、あのギンギンな潮江先輩のどこがいいんですか?」 「ん……」 後輩のうさんくさそーな視線にちょっと笑って、私は日誌を書く手を止めて文机の上に頬杖をつく。 文次郎の好きなところ、ね。 「どこだろうね。……私にもよく分からないんだけど」 「分かりました。なんて言って脅迫されたんですか?」 「……脅迫じゃないよ」 「泣き寝入りは駄目ですよ、先輩。女の敵は共に拳で殴り倒しましょう」 「そもそも告白したのは私からだよ」 「そう言えって言われたんですよね。弱みを握られてるんですか? 大丈夫です、私もお手伝いしますから勇気を出して殴り倒しましょう」 「こらこら」 身を乗り出してくる後輩に苦笑して、その頭をぽんぽんと撫でて落ち着かせる。後輩はじっと探るように私を見て、信じられないと言いたげに首を小さく横に振る。 「先輩、もしかして本当に潮江先輩が好きなんですか?」 「好きだよ」 「……でも、どこが好きなのかよく分からないんでしょう?」 ずずず、と身を寄せて顔を覗き込んでくる後輩に、私は「うーん……」と言葉を濁して少し真面目に考える。 文次郎が好きなのは確かだ。それは疑いようがないけど、どこがと具体的に聞かれたらちょっと悩む。……正直に言うのは恥ずかしいし。 「分かりました、脅迫じゃなくて洗脳ですね。いったいどんな手を使ったのやら、あの年齢詐称」 やはり殴り倒すしかありませんね、ととりあえず文次郎を殴りたいらしい後輩にもう一度苦笑してから、私は文次郎に片恋していた頃のことを思い出す。辛かったあのときを思えば、今はすごく幸せだ。文次郎がたまにでも私の傍にいてくれて、触れてくれるなら。 ゆっくり身体の力を抜いて、後輩に向けて微笑んだ。 「どこがっていうのはすぐに言えないけど、私は文次郎がすごく好きだよ」 えー、と不満そうに顔を歪める後輩に、繰り返して微笑んだ。 「好きになっちゃったら、仕方ないよね」 それに今は、好きなのだと口に出来るだけでも幸せだから。 私は何年も前から文次郎に恋をしているから、房術の先生が繰り返し言っていた「惚れさせたほうが勝ちだ」という教えがすごくよく理解できた。恋は盲目、恋は判断を鈍らせる、恋をすると人は馬鹿になる。 まさにその通りだと思う。私は最初から文次郎に完敗だったから、恋仲という立場になれた今も、これは現実なのだろうかと時折とても不思議になる。すごくすごく幸せだけど、こんな幸せはきっと長く続かないんだろうなと、なんとなくそう決めつけてもいる。 だからせめて、文次郎の邪魔だけはしたくない。恋仲という間柄になれた期間を、文次郎にとって煩わしい記憶にはしたくない。 長かった片恋期間で悟ったことの一つだ。私は文次郎に好かれたいけれど、それ以上に『疎まれて拒絶される』ことを恐れる気持ちが一番強かった。 ──だからそれを避けるためならば、私はこのままで構わない。 ※※※ 俺はずっと前から色恋は鍛錬の邪魔だと馬鹿にしていたし、今でもその考え自体が間違っているとは思わない。恋路は面倒なことばかりで目を曇らせるし、余計なことに気をとられて時間を消費してしまう。それに弱点になるような相手は作らない方が良いに決まっている。選ぶことが出来るならば、恋などしないほうが効率的だ。 けれど実際に惚れてしまえば、それも別の話しだろう。喜ばせたい、傍にいたい、どうせならば自分を好いて欲しいのだと、そう想いが募り続ける。 俺があれからのことしか考えていないのも、つまりはそういうことだ。俺はあいつが好きなんだ。 ……厄介だなチクショー。 正直なところ、俺はこの手のことが本当に苦手だ。仙蔵のように女の扱いが得意なわけでも、伊作のように優しいわけでもない。だから不安に染まる一方で、それをどう解消すれば良いのかもさっぱり分からない。結局昨日も仙蔵に相談を放棄されてから悩み続け、気づけば朝だった。 「なあなあ長次、今日のもんじイライラしてると思わないか? 溜まってんのかな?」 「……小平太。少なくともそういう話しは本人がいないところでやれ」 朝食の席で無言で飯を詰め込んでいた俺のすぐ隣で、小平太があっけらかんとまったく抑えていない声を上げる。対応するのが面倒なので無視していると、小平太はお構いなしに今度は直接俺を覗き込んでくる。大声で。 「もんじもんじ、今度私の春画貸してやろうか? 溜めるのは身体によくないぞ! なぁ、いさっくん!」 「や、あのね小平太、とりあえず声落として! ここには下級生も女子もいるんだから!」 「なんだよー。どうせみんなすぐ分かるようになるから、気にしなくてもいいじゃん!」 「それでも食堂で言うことじゃねーだろ……」 「小平太、この隈のことは気にするな。単にいつものように寝不足で頭がイカれてるだけだ」 「……誰が隈だ、誰が……」 仙蔵の言葉に、小平太は「なんだそっかー」と納得した様子でがつがつと食事をし始める。つか誰のせいで悩んでると思ってんだ仙蔵の野郎。正面の仙蔵を睨みつけると、仙蔵は視線を合わせないままに「隈がうつるから見るな」と切り捨てた。……腹立つ。 「ねぇ文次郎、本当に顔色良くないよ。体調が悪いなら僕が診ようか?」 「……必要ねーよ。ただの寝不足だ」 「ならいいけど……」 伊作の気遣いに、ほんの少しホッとする。俺も含めてだが、この中で空気を読んで他人をきちんと気遣えるのは伊作と長次くらいだ。 「どうせまたと喧嘩でもしたんだろ、お前は朴念仁だからな」 「ちょっと、やめなよ留三郎」 ホッとした直後にムッとした。空気を読んで他人を気遣えるくせに、俺には常に喧嘩腰の用具委員長だ。これも人のことは言えないが。つかと喧嘩なんかしたことねーよ。 「あ、そーなのか? だから溜まってんだな文次郎! 大変だな!」 「……小平太、いい加減その話題から離れろ」 「長次の言うとおりだ、黙って食べろ小平太。飯が不味くなるだろうが」 「えー、仙ちゃん冷たいなー。……ああ、分かったぞ! 仙ちゃんも溜まってるからイライラし……うおっ!? 箸飛んできた! すげー飛んできた!」 「おい! いい加減にしろよお前ら、下級生が怯えるだろ……って伊作どうした、大丈夫か!?」 「うー……箸飛んできた……いっぱい飛んできた……」 「仙蔵、お前せめて狙って投げろ!」 ……ああ、うるせー。 「そこの男子もとい学園のゴミ共、朝っぱらからうるさい!」 「こらあんたたち! 食堂で暴れるなら出て行ってもらうわよ!」 「ちょ! 七松先輩! こっちまで箸飛ばさないでください!」 喧噪は俺達だけではなく、女子生徒や食堂のおばちゃんや後輩の忍たまやらも巻き込んで広がって行く。付き合う気力がなくてさっさと飯を終わらせて、盆を返して食堂を後にした。 「あ、文次郎おはよう」 「…………ああ」 食堂から一歩出た途端、朝食に来たのだろうに会った。 はそのまま自然に食堂に入ろうとするから、その腕を掴んで引き止める。 「? なに……?」 「今は入らないほうがいいぞ。小平太が暴れているからな」 はきょとんと食堂を覗き込んで、ああ、と納得した顔になった。それから俺を見上げて、ゆっくりと眉をひそめる。 「どうしたの文次郎、体調悪いの? 隈、いつもよりすごいけど」 「ただの寝不足だ」 それだけだと心配させるかと、「委員会の仕事が片付かなくてな」と続けた。 「……そう」 はそれでもやはり心配そうな表情になった後、少し躊躇いがちに言う。 「あの、時間作ってちゃんと寝てね? 出来ることがあるなら、私も手伝うから」 その言葉に、不眠の本当の理由が理由だけに、見透かされている気がして動揺した。反射的に、それを隠すために口を開く。 「お前には関係ないだろうが」 「……っ」 言ってしまってから即座にまずいと思った。は顔を一瞬強張らせてから、すぐに「そうだね、ごめん」と視線を伏せる。 「……悪い。寝てなくてイライラしてるんだ」 「ううん、ごめんね」 はもう一度謝ると、半ば俺から逃げるように、まだ喧噪の響く食堂へと入っていった。これも反射的に引き止めようとして、けれど今度は実行出来ずにその背を見送ってしまう。 ああ……確かに仙蔵が言うとおりガキだな、俺は。 好きな女傷つけてなにしてんだ。 →中編 |