善法寺伊作夢
『通り雨』二話
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廊下を歩くその足音が、おそらく女のものだろうということは分かっていた。 それが例えば気配を殺しているとか真夜中ならばなんとも思わなかったのだろうが、今はまだ宵の口で、足音を立てぬよう気遣っている様子すらない。男子寮に堂々と入り込んでくる女子は決して少なくないが、それでも限られてはいる。さて誰かと思っているうちに部屋の前で足音が止まり、そのまま控え目に板戸を軽く叩かれた。 「入ってもいい?」 聞こえた声に眉をひそめつつ、書き取りをしていた筆を置いて了承の旨を告げた。次いで部屋に入ってきたのはやはり女子生徒だったが、想像していた顔ぶれとはまったくかけ離れていた。 伊作と同じ、最上級生の女子保健委員だ。気質なのか不運のせいか荒事には向いておらず、あまり無茶なことをする性格ではない。校則で禁じられている男子寮への侵入を、堂々と破るような生徒ではなかったはずだが……とそこまで怪訝に思ったところで、こちらにやってくる女子、の用向きが分かった気がした。あと半月ほどで予算会議が開かれるから、そのことだろう。 「なんだ。伊作の代わりに保健の仕事か? 文次郎ならば、今は委員室だが」 「いいえ。委員会は関係ない個人的なことなんだけど、少し時間をもらってもいい?」 「……構わないが」 あっさりと否定して、は私の前へと静かに座る。いつもは不運な保健委員長と似て無駄ににこにことしているが、今は真面目な面持ちだった。 私との間に、直接的な接点はあまりない。無論同年として六年付き合っているのだからそれ相応の付き合いはあるが、委員会的にも交友関係的にも、用もないのに二人きりで話すような親しさはない。 いつもと違い、の気配は固い。個人的なこと、と前置きするからには、余程込み入った事情でも出来たのか。 何事かと思う私の前で、は前置きもなく、口を開いた。呟きに似た、小さな問い。 「六年生の授業のことなんだけど……最近、色の実習があったかどうか、知らない?」 「色の実習……?」 想像の範囲外の問いに顔をしかめる私に、「そう」とは頷く。 「たとえば、女装の練習とか。女の人を落としてこいとか。あと……そういう手段を用いそうな実習とか」 「…………ふむ」 考えるまでもなかったが、一応の礼儀だ。しばらく間を空け、そして答えた。 「私が知る限りでは、ないな。そういった一般人に接する大掛かりな実習は、どうしても準備が必要になり、ひた隠しにするのは難しい。それにお前も分かってはいると思うが、数日前まで六年は試験期間だったからな。そんな手間のかかる実習を行っている暇はないだろう」 「それは……い組が、ということ?」 の視線が、私から外れて畳の上に落ちる。一呼吸置いて、「いや」と首を横に振った。 「少ない最高学年だ、他の組のことも大抵は耳に入る。ろ組もは組も秘密主義な奴らではないからな。試験期間に重なるとなれば尚更だ」 「……そう」 「だが、言っておくが断言は出来ん。先生方が抜き打ちで個人実習を行っているということならば、さすがに私にも分からんからな。まぁ、気になるのならばあと二つの組にも聞きに行ってはどうだ。終わった実習のことなどひた隠しにする必要はないだろう」 私の言葉に、は肯定もせず否定もせず、ただ少し困ったように眉を下げる。 次いで無意識にか、は組の長屋に目をやる仕草で思い出した。今朝早くから、は組は忍務に出掛けている。抜き打ちの実習が入ったからだ。試験が終わったばかりなのにまたしばらくは帰れなさそうだ、と手洗い場で会った留三郎が言っていた。それで、残る面子でよく把握していそうな私のところに来たのだろう。 しかし、だ。 「ありがとう。もう一つだけ、聞いてもいい?」 「ああ。なんだ?」 見る限り、は私の答えに特に気落ちした様子はなかった。否、気落ちしていても分からなかったのかもしれない。は、そもそも最初から覇気が薄く、憔悴したような様子だからだ。 これは相当厄介かと思ったとき、また、ぽつりと呟くような問いが落ちた。 「試験期間が明けたお休みが、一昨日にあったよね。六年生のみんながどう過ごしたのか、知っていたら教えてくれる?」 「……一昨日の休みか」 今度は、しばらくの間考えた。一人一人を思い浮かべ、答えが出揃ったところで、に改めて目を向ける。 「外出届けを確認したほうが早いだろうからな、あくまでもこれは私が知る範囲だという前提で聞いてくれ。……あの日は私と文次郎と長次で朝から学園内で自主練をしていた。夕方になって解散したから後の二人のそれ以降の行動は知らんが、夕食時には全員いたから大したことはしていないだろう。留三郎はおそらく一日中委員会だ。小平太と伊作は、街に出ていたはずだ。小平太は体育委員のやつらと試験終了祝いにうどんを食ったとか言っていたな。伊作はなんだったか……買い物をしに行ったと言っていたが、なにを買ったかまでは知らん。少し帰りが遅いと小松田さんに叱られた、と零していたが」 そこまで一気に答えて、の様子を窺う。は今の私の言葉を噛みしめるように二度ほど瞬きをして、「ありがとう」と礼を言った。 「もう聞きたいことはないか」 「ええ。邪魔してごめんなさい」 軽く頭を下げて、が立ち上がる。感情の薄いその表情と気配に、他人事ながら嘆息した。 と伊作が恋仲であることを知っていれば、今のの二つの問いがなにを示すかは小平太でも分かることだろう。 余計な世話かと思いつつも、戸に手をかけるに、声をかける。 「言っておくが、あいつは浮気が出来るほど器用な男ではないぞ」 ぴたり、との動きが止まる。そして、その顔がゆっくりと私に向けられた。静かな、深く傷ついたような目。しばらく私と視線を合わせた後、その目は力を無くしたように伏せられた。 「それなら、……本気、だったのかな」 消え入りそうな声を残して、ぱたんと戸が閉まった。その足音と気配が遠ざかるのを待って、再び文机へと向かう。 に告げたことは本心だ。伊作はほいほいと浮気出来るような性格ではないし、複数の女を相手にするのを楽しいと思う気質の持ち主でもない。万が一したいと思っても、出来ない類の人間だ。そういったことと絶望的に相性が悪いと言ってもいい。 ということはたとえなにが起こったとしても、それは誤解でしか有り得ないのだが。 ……それでも。その伊作の性格を熟知しているはずのがあそこまで確信しているとなると、これは多少の誤解ではないのだろう。 「不運の一言で片付けられるものならば、いつものことだがな」 首を突っ込んでも面白みはなさそうだが、放置しておくのも後味が悪い。どうしたものやらと思いながら、筆を取り上げた。 頬を撫でる風は冷たく、夜気を帯びて鋭い。忍装束でほぼ全身を包んでいるとはいえ、顔と指先は晒したままだ。その二つの箇所を、夜風が切り刻むように体温を奪っていく。 二人の目前に広がるものは、どこまでも続くかのような山々だ。雪こそ降っていないものの、枝葉が枯れ厳しさを増した冬の体裁を整えている。寒さのせいか大きな獣達も息をひそめ、強い風が轟々と木々を揺らす音だけが、二人の耳に絶え間なく届いた。 「……武器庫は屋敷の東側か。こんな山奥にばかでけぇもん作りやがって」 屋敷の見取り図を広げながら、留三郎が小さく毒づく。樹齢何十年なのか、生い茂る木々の上、がっしりとした枝に二人並んで立っていても、その足場は揺らぐこともない。留三郎のすぐ隣で、伊作はじっと眼下を見下ろしている。 二人の視線の先にあるものは、山を削ってまで建てられたという広大な武家屋敷だ。麓の村まで四半刻は歩かねばならない不便な場所にあるが、その規模は城下町にあるものと遜色ない。夜中の今でも煌々とした明かりがあちこちに灯され、屋敷の配置はよく見て取れた。 「今日は風が強いからな、風向きにさえ注意していれば薬が使えるか。伊作、お前痺れ薬か眠り薬持ってただろ? それを……おい?」 「…………え? あ、ごめん留三郎。なに?」 「なにじゃねぇだろ。潜入前に違うことでも考えてたのか? やめてくれ、ここで失敗したら逃げ道がないからな、目も当てられんぞ」 強い口調になる留三郎に、伊作は一言「……ごめん」と呟いてまた眼下の屋敷に目を向ける。けれどその意識が忍務以外のものに向けられているのは明白だ。留三郎はぼうっとしている伊作をちらりと見て、ため息を吐いた。 六年にもなれば、授業の大半は実戦を前提とした実習ばかりになる。学園での活動は自然体力作りと忍具の扱いの向上に限られ、外に出て直接忍務に就くのがほとんどだ。来年にはプロ忍者になるのだから当然のことではあるが、どれも生易しいものではない。 しかもそれは、特に厳しい試験実習のすぐ後でも、ややこしい予算会議を半月後に控えていても変わらない。あの武家屋敷に潜入し武器庫を始め兵力調査を完璧に行い、さらにその情報を無事持ち帰る、というのが今回の実習課題だ。 ……が、と心中で思い、留三郎は明らかになにかに気を取られている伊作の頭を、その頭巾の上からばしばしとやや乱暴に撫でた。惰性のようにのろのろと目を向ける伊作に、もう一度、はぁ、とため息を吐き、 「ああもう、分かった。溜めてるもんさっさと言いやがれ」 「え? 留三郎、なにが……」 「なにがも落とし紙も不運もねーよ。どうせ月が隠れるまであと半刻は待たなきゃならんしな。その間に聞くことくらいはしてやるよ。今度はなにをぐちぐち悩んでるんだ、不運委員長」 伊作はぱちくり、と留三郎を見つめた後、ゆっくりと枝の上に腰を下ろした。「ごめん」とぽつりと呟いて。 「ちょっと気に掛かることがあってさ、すぐぼーっとしちゃうんだ」 「そういやお前、昨日の夜から大人しかったな。なんかあったのか」 上から顔を覗くように見下ろす留三郎に、伊作は小さく頷く。 「委員会でちょっとね……でも留三郎には関係ないことだから」 「そうか、と喧嘩でもしたか」 「なんで分かるの!?」 目を見開いて身を留三郎を見上げる伊作は、次の瞬間「あ」と固まった。その分かりやすさに、留三郎は呆れを通り越して安心感すら覚える。 「お前やっぱり忍者に向いてねぇな……。ま、お前が言い淀んでる時点で、色恋沙汰なのは決まったようなもんだからな。他のやつが協力出来ることなら、お前大抵のことはぽいぽい喋るしよ」 「……僕ってそんなに分かりやすいかい?」 「少なくとも長次や仙蔵よりはな。別に悪いとは言ってねぇよ、俺に言わせりゃ扱いやすいし。……忍びには向いてねぇけど」 ざわり、とそのとき一際強い風が吹いた。反射的に身を竦ませた伊作は、風が通り抜けた後にゆっくりと大きく息を吐く。その情けなさそうな顔と視線を合わせるため自分も隣に腰を下ろしながら、留三郎はさらに問う。 「で? なんで喧嘩なんざしたんだ。逢い引きの約束でも破ったのか」 「そうじゃないんだけど……ていうかそもそも喧嘩ってとこまで行ってないし……」 「ふうん。あれか、コーちゃんと私どっちが好きなのよ、っていう恋愛草子の基本か。そりゃ困るよな、どっちも好きだろ、お前」 「あほなこと言わないでよ……。いや、実はなんでか分からないんだよね」 胡座を組んだ膝の上に頬杖をつき、伊作は困ったように眉を下げる。相変わらず、情けなそうな顔で。 「分からない?」 「うん。さ、話してるときに急に泣き出して出て行っちゃったんだ。それまではちょっと顔色悪かったけど、そんなに変な様子じゃなかったのに」 「体調悪かったんじゃねぇか? 女なら、些細なことでも苛立つときはあるだろ。ほら……つ、月のものとか」 「そんな感じでもなかったんだよね……。それが原因なら勿論構わないけど、も後で謝ってくれるだろうし。……それに」 「それに?」 続きを促す留三郎に、伊作は急に押し黙る。他人に言えるのはここまで、ということだろう。察して、留三郎は肩をすくめる。 「お前、心当たりなにもないのか? 泣かせたってことは、怒らせるか傷つけるようなことしたんだろ? 不用意に変なこと言ったんじゃねーのか」 「ううん、なにも。街で買ってきた小物を渡そうとしただけだよ。怒らせるようなことはした覚えはないから、困ってるんだ。…………たぶん。……た、たぶん」 突然に小さくなる声と先程押し黙った様子からして、心当たりあるんじゃねぇかよ、と留三郎は呆れた思いになる。 「たぶんってなんだ、たぶんって。後ろ暗いことでもあるのか」 「後ろ暗いっていうか、その、気に掛かることがないとは言わないよ。でもそれとは関係ないはずなんだ。……あのさ。が泣いたのは僕が原因なのは間違いないのに、その理由が分からないんだ。だからすぐ謝ることも出来なかったし、実習だからに会えないし……それで本当にどうしていいか分からなくて……」 そこで伊作は言葉を切り、俯いてしまう。六年間共に過ごした間柄から、留三郎は伊作が落ち込んでいる姿をよく見てきた。伊作は実技が良いほうでもなく、不運で、そして矜持が高くもないから、よく怪我をしたし失敗もしたし、わんわん泣いていたのを慰めたことも一度や二度ではない。さすがに上級生になった頃から泣くのはやめたようだが、気質はほとんど変わることなくそのままだ。 この男が意図して意味もなく他人を傷つけることはない、というのは伊作を知る者なら誰でも頷く共通認識だろう。実際本気で悩んでいるからこそこうして落ち込んでいるのだろうが、うじうじと悩むのが性に合わない留三郎には、その姿はいつも少々苛立たしく映る。 「あのなぁ。分からないなら、なんですぐに理由を聞かなかったんだよ」 「そうだよねぇ、そうすればよかったんだけどね……」 はぁ……とますます落ち込んだ様子の伊作は今までにないほどに情けなさそうで、留三郎もそれ以上は言葉を重ねるのをやめた。 放っておくと木の上で三角座りでもしそうな伊作をどうしたものかと思っていると、ふいにぽつりと、伊作が呟く。 「……嫌われちゃったのかな……」 留三郎に聞かせようと発したわけではないのかもしれない。読み上げたように感情のない声に、こりゃまずいなと留三郎は無言で眉をひそめる。少しの間考えてから、俯いている伊作の背を、ばしんと少し強めに叩いた。 「わっ! なにするんだよ留三郎、落ちたら危ないだろ!」 「伊作、俺も偉そうなこと言えねぇけどさ」 「ん、……うん?」 「このままが嫌なら、とっとと土下座でもなんでもして謝ってこいよ。理由が分かりませんごめんなさい教えてくださいって、お前謝るのは得意だろ。悩んで落ち込んで放置しとくより、万倍有意義だ」 「……君は簡単に言ってくれるね……」 「おう、他人事だからな。どっちにしても今日明日には学園に戻れないんだ、その間そうやって塞ぎ込んでてもなんにも進展しねーぞ」 「うん……そうだね」 ゆっくり、俯いていた伊作の顔が上げられる。留三郎の言葉に励まされたというよりは、単に軽く開き直ったように見えたが、それでもさっきよりはずっといい。 「大体、お前がそんなんだと、最悪に二度と会えないかもしれんぞ? 関係こじらせたまま死にたいなら、話は別だけどな」 不穏な言葉に、伊作は嫌そうに顔をしかめる。もう一押しだ、と留三郎は言葉を続けた。 「分かったら、今はのこと考えないで忍務に集中しろ。ただでさえいつ不運に巻き込まれるか分からんのに、そもそも使い物にならなきゃ爆死に行くのと変わらないからな。お前はともかく、俺にはまだ自殺願望はねぇんだよ」 「親身になって聞いてくれたと思ったら……」 じと、と半眼で見てくる伊作に、留三郎はにやりと笑って見取り図を掲げて見せる。 「俺は自分の身と授業単位が可愛いからな。……あと四半刻ほどか。とりあえず侵入経路から決めるぞ。伊作、東門と西門、どちらが手薄だと思う?」 ばさりと見取り図を広げると、伊作がようやくまともに覗き込んでくる。ありがとう留三郎、と小さく呟かれた声に「おう」と頷いて、月が隠れるまで打ち合わせを続けた。 →三話 |