善法寺伊作夢
『通り雨』三話
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伊作先輩が実習でいらっしゃらないなんてなぁ、と三反田先輩が困った顔で当番表を見つめている。 放課後の医務室。伊作先輩と先輩以外の委員達が、ずらりと並んで三反田先輩を囲んでいる。少し離れたところには、新野先生のお姿もある。先輩は欠席ではなくて、薬草園の手入れに行かれてるのだとか。 「伊作先輩、いつもちゃんと当番表を書き換えて行かれるのに、珍しいですね」 「お忙しかったんだろうな。実習自体、急に決まったことらしいから」 左近先輩が首を傾げる様子に、三反田先輩はため息を吐きながら頷く。 保健委員会に限らず委員会活動はどこも上級生の先輩方が中心だけど、その先輩方は野外実習のために学園を離れることも多い。その間は他の委員達で活動しなくちゃならないから、突発の実習のときは今みたいに当番表を慌てて書き直さなければいけないときもある。 伊作先輩がしばらくいらっしゃらないのが分かったのが昨日。ばたばたしていて昨日は出来なかったから、伊作先輩が帰って来られるまでの当番表を作るぞ、と三反田先輩に呼ばれて、私達はこうして医務室に集まっている。 「左近、お前明日は夜間訓練なんだよな?」 「そうなんです。授業が終わったらすぐに裏々々山に集合なので、昼休みは大丈夫ですが放課後はちょっと……」 「じゃあ無理だよな……。伏木蔵と乱太郎はどうだ?」 「僕はいつでも大丈夫ですよー……お昼でも放課後でも」 「私も特に用事はないです。あ、でも明日のお昼休みは補習なので、それ以外なら」 「おっ。じゃあ明日は一年二人と先輩で行けるか。昼は僕と左近で……。明日は僕午後からの授業が山岳実習で帰るの遅くなるけど、早めに戻れたら顔を出すようにするよ」 「三反田君、明後日は私も手が空いてますから」 「本当ですか? それなら、委員長が戻られるまでなんとかなりそうです」 ほっとした様子で、三反田先輩が手早く当番表を修正していく。いつもは伊作先輩がいないときは先輩がこのお役目なんだけど、今日は薬草園が大変だからと三反田先輩に任せて出て行かれたらしい。どう大変なのかは聞いていないけど、もしかしたらなにかあったのかもしれない。 「よし、出来た! じゃあ、修正した当番表はここに貼っておくから、明日から間違えないように頼むな。無理だったらまた僕に言ってきてくれ」 「はい、分かりました」 「明日の放課後と明後日のお昼っと」 「忘れちゃうから手に書いとこ……」 「当番じゃないのに悪かったな、お前達。もう戻っていいぞ」 三反田先輩の言葉に、当番表を確認した左近先輩と伏木蔵が立ち上がる。 「じゃあ僕、斜堂先生と日陰ぼっこする約束なので、また明日ですー……」 「僕も明日の準備があるので、失礼します」 二人は一緒に連れ立って医務室を出て行く。今日の本来の当番は、伊作先輩と先輩、そして三反田先輩だったからだ。三反田先輩は、まだ居残ってる私に不思議そうに顔を向ける。 「ん? どうした乱太郎」 「あの、私どうせ暇ですから、よかったらお手伝いしますよ」 「ほんとか? そうしてくれると助かるよ。昨日薬草園が生物委員の逃がしたたぬきとうさぎに荒らされちゃってさ、ちょっと大変なんだ。今先輩が後片付けされてるけど、お一人だと結構時間がかかりそうだからさ」 ああ、どうりで……と頬をひきつらせる私に、三反田先輩も苦笑する。保健委員のいつもの不運、というやつだ。 「じゃあ私は、薬草園にお手伝いに行けばいいですか?」 「ああ、頼む」 「では乱太郎君、こちらをさんに渡してもらえますか。薬草園で使う肥料です」 「あ、はい。分かりました」 新野先生に手渡された桶を落とさないよう慎重に抱えて、私は医務室を出て薬草園へと向かう。 ほんとは今日はきり丸のアルバイトの手伝いをするはずだったんだけど、もうきり丸としんべヱは学園を出てしまったし、今からだと追い掛けても間に合わないだろうから。それよりも、今は薬草園のことがちょっと心配だ。予算会議も近いのに、使える薬草が少なくなってしまうのは大変だから。 「まぁ、毒蛇や毒虫でなくてよかったけど…………、あ」 十数歩ほど先、薬草園に接する縁側に、先輩の後ろ姿が見えた。休憩中なのか、鋤を立てかけて縁側に腰掛けている。 先輩、と反射的に声を掛けようとして、私はふいにその言葉を飲み込んだ。 今の私からは後ろ姿しか見えないけれど、先輩はなにをするでもなく、ただぼんやりと俯いている。僅かに風に揺れている髪の他には、なんの動きもない。その様子に、私はなんだか、声をかけるのを躊躇ってしまった。 いつもならそんなこと思わなかったかもしれないけど、先輩は少し前から、ちょっと様子がおかしかった。ぼうっとしていて、元気がなくて。いつもは笑顔なのに、その笑顔も無理矢理浮かべたような固いものしか見ていなかった気がする。 それを心配していたからだと思うけど、先輩が肩を落として俯いてらっしゃるのを見てしまうと、……もしかして泣いてらっしゃるのかな、と思ってしまう。 私の勘違いかもしれないけど、一度そう思ってしまうと、ますます声がかけられなくなってしまう。でもこのまま医務室に帰るわけにも行かないし、肥料が入っている桶もずっと抱えているにはちょっと重い。 どうしよう……と途方に暮れかけたとき、先輩が顔を上げた。 「どうしたの、乱太郎君?」 びくっと反射的に身体が跳ねた。ゆっくりと私を振り返る先輩は、泣いてなんかいなかった。 「あ、えと、すみません、あの……」 「お手伝いに来てくれたのかな?」 「あ、……はい」 ぎゅっと桶を抱えて、先輩のところまで足を進めた。新野先生からです、と桶を渡すと、先輩は「ありがとう」と頷いてそれを地面に置く。先輩は泣いてはいなかったけど、やっぱりいつもより元気がなさそうだった。いつもなら、にこにこ笑ってらっしゃるのに。 「あの、私がいるって分かってたんですか?」 「足音を聞けば、それくらいはね。でも、どうしてずっと後ろにいたの?」 「えっと、その……そ、そうです、ちょっとかくれんぼしたい気分だったんです。先輩に見つけてもらえるかなーって思ってずっと後ろに……後ろに……」 明らかにしどろもどろな私の言い訳に、先輩は深く追求せずに「そっか」と頷いた。先輩の視線が、私から逸らされて薬草園に向けられる。つられて、私も先輩の隣に腰掛けて、同じところに目を向けた。 三反田先輩が仰っていたように、薬草園はあちこち荒らされた跡があった。もともと今は寒い時期だからあまり薬草は植えていないけれど、植えていない場所は次の春のために整備をしていた畑だ。保健委員会の不運から言えば大したものじゃなかったけど、いろんなところがお構いなしに掘り返されていて、元通りにするのはちょっと大変そうだった。 先輩はぼんやりとそれを見つめた後、静かな動きで縁側から腰を上げる。その顔色は、やっぱりあまり良くなかった。 「乱太郎君も来てくれたし、頑張らなくちゃね。乱太郎君は西側からお願い出来るかな。そっちはまだ整地出来てないから」 「あの、先輩」 咄嗟に引き止めるように呼んでしまった私に、先輩は一瞬動きを止めて、それからゆっくりと腰を下ろした。 「どうしたの?」 「その……先輩、お体どこか悪いんですか? 顔色もよくないですし、なんだかお疲れみたいです」 新野先生や伊作先輩には到底及ばないけれど、顔色が悪いとか元気がないとかなら、私だって見れば分かる。伊作先輩がいらっしゃらなくて薬草園がこんな状態だから、先輩は体調が良くないのに無理されてるのかもしれない。 先輩はどう答えようか迷っているような表情を浮かべた後、小さく首を横に振った。 「ううん、大丈夫だよ。風邪も引いてないし熱も出てないし、疲れてもいないの。怪我もしてないし」 「でも……」 「うん、いつもと違うよね。……ごめんね。あのね、ちょっと考えなくちゃいけないことがあってね。ずっと悩んでるんだけど、どうしたらいいのか答えが出なくて、それでぼうっとしちゃってるの。昨日の夜も考えすぎてあんまり眠れなかったから、なおさら頭があんまり働かなくて。……だから体調が悪いわけじゃないんだよ」 ごめんね、ともう一度謝って困ったように笑う先輩に、思わず身を乗り出していた。 「あの、私でよければ、お聞きします!」 「え?」 「悩んでることとか、なんでも! ……あ、いえ、私じゃお役に立てないことは分かってるんですけど……でも、言ってすっきりするなら話してください!」 先輩が悩んでらっしゃることを、まだ一年生の私に手伝えるとは思えない。だけど、気持ちが軽くなるかもしれないから。 先輩は、私の言葉に「ありがとう」と小さく笑う。 「でも、気持ちだけで十分だよ。それに、乱太郎君に話したらきっと困っちゃうから」 「困るって……私がですか?」 「うん、きっとね。でも本当にその気持ちだけでも嬉しいよ。心配かけてごめんね」 「いえ……」 私では力不足だろうということは分かっていたから、それは仕方ないと思う。でも、先輩は他に相談出来るひととか、ちゃんといるのかな、と私はそれも心配になった。私が、きり丸やしんべヱになんでも言えるみたいに。 「乱太郎君」 私が俯いているのをどう思ったのか、先輩が私の顔を覗き込む。顔を上げると、先輩はそのまま視線を空に向けた。まだ日が沈むにはちょっと早い、明るい空。 「あのね」 「はい?」 先輩が空を見つめながら言った言葉に、私は一瞬きょとんとしてしまった。 「私がもしいなくなっても、保健委員のみんなはしっかりしてるから大丈夫だよね」 「……え?」 「みんな真面目だし、一生懸命だし。今日も数馬君は頑張って当番表を組んでくれてたし、調合の仕方も予算表の作り方も、新野先生が教えてくださるし」 突然に、はっと気がついた。先輩が悩んでたことって、もしかしたらそのことなのかもしれない。私達下級生がちゃんとやっていけるかどうか。そうだ、だから先輩は『話したらきっと困っちゃう』って言ったんだ。 「それに、伊作君も……」 「大丈夫です!」 先輩の言葉を遮って、ぐっと気合を入れるために拳をつくって握り締めた。 「わ、私達、大丈夫ですよ! 先輩と伊作先輩が卒業された後も、ちゃんと頑張りますから!」 「……卒業?」 「最初は先輩方みたいに上手く行かないかもしれませんけど、来年は私も二年生ですし! あ、えと、ほんとは保健委員にはなりたくないんですけど、でも、保健委員になったら絶対ちゃんと頑張ります! 先輩方が心配なさらなくてもいいくらいに!」 今はまだ知らないことばかりだけど、頑張ればちょっとずつでも出来ることが増えていくはずだ。薬草を煎じることとか、傷の縫合とか。 一気に言ってしまってから、急に不安になった。大きなことを言い過ぎてしまったかもしれない。 「……あ、で、でも、卒業されても、たまには伊作先輩と一緒に来てくださいね。今のままだと来年の上級生は三反田先輩だけですから、予算会議のときとかちょっと不安ですし……」 もともと保健委員は不運という意味で不利なのに、予算会議のときに最上級生が不在だとますます大変だろうから。 ああやっぱり先輩が不安になるのも分かるなあ、と困ったとき、先輩が口を開いた。 「乱太郎君は、保健委員会が好き?」 「……えっと、好き……かどうかっていうと正直なところ難しいですけど……不運ですし……。でも活動は楽しいですし、新野先輩も伊作先輩も委員のみんなも、私は大好きです」 「……そっか」 ぽん、と頭巾の上に軽い重みが乗った。先輩の温かな手が、私の頭を二度ほど撫でて、そして離れていく。 先輩は私と目を合わせて、にっこり笑う。久しぶりに見た、いつもの先輩の笑顔だった。 「そうだね、ありがとう」 「先輩、大丈夫ですか? もう不安じゃないですか?」 私達頑張ります、ともう一度拳を握り締めて見せると、「うん」と先輩は笑って縁側から腰を上げる。 「大丈夫だよ。……大丈夫」 自分に言い聞かせるように頷いてから、先輩は立てかけていた鋤を持ち上げた。慌ててそれに続いて、私も縁側から降りる。 「よし、それじゃ保健委員のお仕事しようか」 「はい! 私は西側からでいいんですよね?」 「うん、お願い。薬草が生えてるところには後で肥料を撒くから、触らないでね」 「分かりました!」 鋤を手に、私達は薬草園での作業を始めた。先輩はやっぱりときどきぼうっとしていたけど、さっきよりは元気そうに笑っていて、私はすごくほっとした。伊作先輩がいつもにこにこと微笑んでらっしゃるように、不運のとき以外はみんなに笑っていて欲しかったから。 これからは先輩方を心配させないためにも頑張ろう、と気合を入れて、日が暮れるまで鋤を握り続けた。 伊作先輩がいつものように満身創痍の疲労困憊でお戻りになったのは、それから二日後のことだった。 夜も更けた学園の中を、医務室へと急いでいた。 六年は組が戻った、という報せを耳にしたのはつい先程。山本先生に、『医務室に手伝いに来て欲しい』という新野先生からの伝言を聞いたときだ。もう布団を敷いて夜着姿だった私は、慌てて忍装束に着替えて部屋を出た。 就寝時刻も過ぎている今、いつもならば寮の長屋以外はどこも静かだけど、今は随分と人の気配がする。本来この時間は閉室しているはずの医務室も煌々と灯りがついていて、戸も開け放されている。中からは、複数の人の話し声も聞こえてくる。先生方と六年生の男子達の声だろう。 野外実習に出ていた上級生達が戻ってくると、医務室は急に忙しくなる。それが厳しい実習であればあるほど、怪我人の出る確率も高いからだ。実習中は応急手当でしのいでいた怪我を本格的に治療するためにも、気づかずに負ってしまった傷がないか確認するためにも、学園に戻ればほとんどの生徒はまず医務室へ向かう。 その中には、きっと伊作君の姿もあるだろう。あれから少しは冷静に考えられるようになったけど、まだ吹っ切れるほどじゃない。無事だろうかと心配する思いと共に、出来れば顔を見たくないという気持ちも確かにあった。 一瞬躊躇ったけれど、すぐに気合を入れて医務室に足を踏み入れた。今はそんなことを考えている場合じゃない。後でゆっくり悩めばいい。 「です、入ります」 中には新野先生と、たぶん実習に付き添っていた先生方がお二人、そして六年は組の生徒達がいた。包帯を用意していた新野先生が、私に気づいて一度手を止めて顔を上げる。 「ああ、さん。就寝時刻も過ぎているのにすみません。怪我人が多くて、私だけでは手が足りなくて」 「いいえ、そんな」 「全員軽傷ですが数が多いんです。誰からでも診てあげてください」 「はい、じゃあ…………、伊作君!?」 頷いて改めて医務室の中を見回したとき、視界に伊作君を見つけて思わず駆け寄った。伊作君に対して抱いていた複雑な気持ちが、一気に吹き飛ぶ。数日ぶりに見た伊作君は、食満の隣でうずくまるようにして倒れていた。顔にも手足にも切り傷や打撲があるけれど、意識を失うほど酷い怪我は見当たらない。まさか内臓か頭の中に負傷があったのかと血の気が引きかけたとき、食満が「大丈夫だ」とあっけらかんと言った。 「そいつ、さっき俺が気絶させただけだ」 「え?」 意味が分からず食満を見ると、水桶に手拭いを浸して絞りながら、食満は呆れた顔で言う。 「伊作のやつな、全身打撲の疲労まみれのふらっふらなくせして、怪我人見たら誰彼構わず治療しようとしやがるんだよ。今のこいつに治療されたら、逆にこっちの怪我が増えそうだからな。あまつさえ本人も倒れるのは目に見えてる。だから、まずてめーの怪我治してからにしやがれって、無理矢理寝かしつけてやった」 食満の言うとおり、よく観察すると伊作君はただ眠っているだけだった。それもよほど疲れていたのか、随分深く寝入っている。布団も敷いていない畳の上なんて、寝心地もよくないだろうに。 ようやくにほっとして、眠る伊作君の手首に触れる。全身傷だらけで疲労の色が濃かったけれど、確かにどれも酷い怪我じゃない。適切な治療をすれば、すぐ治るものばかりだ。伊作君の手から伝わってくる鼓動も、落ち着いている。 その顔を見てしまうと、やっぱり胸を締め付けられるような切なさも浮かんでくる。でも、今は無事だったことが嬉しかった。 「そっか……。大きな怪我がなくてよかった」 安堵の息を吐いて、伊作君の手を離す。そのときじっと食満が私を見ているのに気づいて、不思議に思って顔を向けた。 「食満? どうしたの」 「……いや、なんでもない。悪いが、消毒と包帯頼めるか。片手じゃ上手く出来なくてな」 「うん、もちろん。すぐ処置するから、その間に傷口拭いててね」 伊作君ほどじゃないけど、食満もあちこちに怪我をしていた。だいぶ厳しい実習だったのかもしれない。掛け布を出して伊作君の身体に掛けてから、治療用具を取ってきて食満の治療を始めた。 全員の治療が終わるまでには、だいぶ時間がかかった。治療が終わった生徒はすぐに部屋に戻って行ったから、今はもう先生方も戻られて、残っているのは私以外には食満と伊作君と新野先生だけだった。変わらず寝入っている伊作君の傷を新野先生と治療して、医務室の布団の上に寝かせる。伊作君は一度も目を覚まさなかったけど、治療中の痛みには反応していたから、眠りは少しだけ浅くなったのかもしれない。 「さてと、俺も部屋に戻って寝るか。新野先生、伊作ここに転がしておいてもいいですか? 運ぶの面倒なので」 「いいですよ。無理に動かすのも良くないでしょうしね。私もそろそろ戻りますが……、さん、あなたももう戻って構いませんよ。遅くまでありがとうございました」 新野先生のお言葉に頷こうとして、ふと思ったことがあった。立ち上がる新野先生に、「あの」と声を上げる。 「なんでしょうか、さん」 「あの……私、ここにいてはいけませんか? 伊作君少し熱があるみたいですし……」 「構いませんが、微熱も疲労からのものですし、ずっと傍についているほどのことでもありませんよ。放っておいても明日には立ち上がれるようになっていると思いますが」 「あー、新野先生、出来ればそのほうが有り難いです。伊作のやつ、たまに夢遊病みたいにふらふらしてるときがあるんですよ。普段ならともかく、あの怪我でうろちょろしたらさらに怪我が増えますし」 困ったような食満の言葉に、新野先生は軽く小首を傾げて思案してから、「ではお願いできますか」と仰ってくださった。 「ですがさん、無理をしてはいけませんよ。傍についていても構いませんが、あなたも休息をとってください」 「はい、新野先生」 「頼むな、。そいつ、明日回収しに来るわ」 新野先生と食満は私に会釈して医務室を出て行く。二人を見送って、開け放されていた医務室の戸を閉めた。 もう治療のためにたくさん灯りをつけている必要もない。一つだけを残して後始末して、軽く医務室の中を片付けた。 さっきまでとは違って、医務室は明るくもなく騒がしくもない。意識すれば、伊作君の静かな寝息までもが耳に届いた。 薬箪笥から軟膏を取り出して、伊作君のところに戻る。衝立で囲まれた病人用の場所。伊作君の隣に腰を下ろして、改めてその顔を見た。 二人きりになったことで、束の間忘れていた複雑な感情がじんわりと溢れ出す。掛け布団を少し持ち上げて、力の入っていない伊作君の手に触れる。伊作君の手を膝の上に乗せて、取ってきた手荒れ用の軟膏をゆっくりとその指に塗っていく。 伊作君の手は傷痕が多いし、荒れている。学園にいて忍具を扱っていれば指が傷つくのも荒れるのも当然だけど、伊作君のそれは他のひとと比べてもかなり酷い。伊作君の手は、いつも薬草に触れているからだ。薬は量を過ぎれば毒になるものも少なくない。製薬途中で有害な成分が出るものもある。始終そんなものに触れていれば、荒れてしまうのは当たり前のことだ。 私も同じように薬草をよく触るから、伊作君ほどではないけど手荒れはある。だけどそれが『伊作君ほどではない』のは、きつい効用の薬草を触るときは、伊作君がさり気なく代わってくれるからだ。それは僕がやるからいいよ、と。 伊作君の指の何本かは、少し深く傷ついている。包帯で巻かれたその箇所以外は全て塗り終えて、手を布団の中へと戻す。立ち上がり、今度は対面に移動して腰を下ろし、もう片方の手にも軟膏を塗り始めた。 その手の指にも、幾つかの傷が走っている。食満が『今のこいつに治療されたら、逆にこっちの怪我が増えそうだからな』と言ったのは、伊作君の指が傷だらけで、右肘にも打撲があって満足に動かせないからだろう。自分が疲れていても、傷ついていても、目の前に怪我したひとがいれば、伊作君は治療したいと思うだろうから。 ……それは、私のよく知っている伊作君の姿だ。 あれから何日か経って、気持ちはだいぶ落ち着いてきた。幾度も数え切れないほど考えたおかげで、自分がどうしたいのかも今は分かる。 私は伊作君が好きだ。それはどうしたって変わらない。私は伊作君が好きで、そして出来るなら私のことを好きでいてほしい。大切にしてほしいし、傍にいてほしい。 ずっと好きだった。だから恋仲になれたことが嬉しかった。触れ合えることも嬉しかった。漠然とだけど、卒業した後も、ずっと一緒にいたいと思っていた。伊作君も同じように望んでくれたらと、願っていた。 そうじゃないかもしれないと知ってしまったから、私はとても悲しかったのだ。 伊作君は、女の人に不誠実なことをしないひとだと思う。気持ちを弄ぶような性格じゃないことは、十分に理解している。だけど、傷つけたくないからずるずる付き合ってしまっている、というのは、あり得そうなことだった。 伊作君は、あの女の子が好きなんだろうか。可愛らしくて明るそうな、あの女の子。 伊作君の手を、握り締めた。両手で包み込むと、伊作君の体温と鼓動が重なる手のひらから伝わってくる。 もし別れて欲しいと言われたら、伊作君が幸せならばと、素直に身を引けそうにない自分が嫌だった。みっともなく泣いて、縋って、私が好きだと言ってくれたじゃないと叫んでしまいそうで、その醜さが嫌で仕方ない。そんなことをする私を、伊作君がまた好きになってくれるはずもないのに。 逃げたことを謝らなくちゃいけないと、それだけは強く思っていた。私は伊作君になにも聞かなかった。真実でもそうじゃなくても、きちんと伊作君の言葉で聞いてから考えるべきだった。それが酷く怖いことでも。その結果として、自分の嫌な部分しか見せられなくても。 私は、伊作君を好きでいたことも、今好きでいることも、悔やまない。 何日も考えて出した答えは、それだけだった。 伊作君の体調が良くなったら、今度はちゃんと話をしよう。ごめんなさいと謝って、私の気持ちを全部伝えて、もしあの女の子に対して本気じゃなかったのならやめて欲しいとお願いして、もし本気だったら素直に頷いて、……頷いて。 目頭が熱くなってきて、俯いていた顔を上げた。今だけ、と心に刻んで、伊作君の隣に横になる。伊作君の手を握ったまま、その指先を頬に擦り寄せる。荒れていて、傷ついていて、私が大好きな伊作君の手だ。 胸奥から感情が競り上がってくる。声を殺して泣きながら、その温もりを確かめた。 伊作君の意識がないのにこんなことをするのは、いけないことかもしれない。でももしかしたらこれが最後かもしれないから。触れることすら、最後かもしれないから。 ……私は、伊作君が好きだ。 本当はずっと一緒にいたい。離れたくない。私を好きでいてほしい。他の女の子といてほしくない。私だけを好きで、私だけを見てほしい。 もう、それが叶うことはないかもしれなくても。 夜明けまでは、まだ時間があった。 目を閉じて、身体の力を抜く。繋いだ手から伝わってくる温もりと鼓動を、ありったけの想いで愛した。 →四話 |