| 『久々知兵助』 | |
口付けとか、言われたら。 もう兵助のことしか考えられない。 私は兵助が大好きだ。 どれくらいかと聞かれたら困るくらい、とにかく好きで好きで好きで好きで仕方なくて、朝起きてから夜寝るまでずーっと兵助のことを考えてる。 だから今回の実習内容を聞いたその瞬間から、もう兵助のことしか頭にない。 他の男なんて考えられない、私は兵助としかしたくない! 兵助と、く、く、くくくく口付けできるなら! 実習って大義名分くらいいくらでも使う!! だからもし、兵助が嫌じゃなかったら。 私と口付けしてください! 「あ、兵助ーーー!」 「わっ!?」 後ろから名前を呼ばれた途端、どす、と背中に軽い衝撃が走った。そのまま勢いづいて前に倒れそうになるのを、慌てて足を踏み出してその重みを支える。 「……うー、兵助ー……」 「なに──……あ、。どうしたの」 一体誰だと振り返ると、そこには俺の背中から身を引くの姿があった。ぶつかったときに打ったのか、軽く鼻を押さえてから、にこっと微笑む。 「よかった。兵助、まだ部屋に戻ってなかったんだね」 嬉しそうなの微笑みに、途端に鼓動が跳ね上がる。俺はの笑顔が大好きだ。だってが好きだから。自分の顔が赤くなりそうなのを察して、慌ててちょっと視線を逸らした。 「な、なにか俺に用事?」 「うんっ。……あの、兵助、今暇かな?」 少し不安そうに俺の顔を見上げてくるに、なにも考えずに即答していた。 「暇。すごく暇」 「ほんと!? ……えっと、誰かと約束とか、してない?」 は一度手を合わせて喜んだと思ったら、また不安そうに顔を曇らせる。 「してない。自分でも驚くくらい暇。暇すぎてどうしようかと思ってた」 今度も即答してから、ほんの一瞬だけ真面目に考えてみた。今日は誰とも約束してないし、委員会も当番じゃないし、今から図書室で自習しようと思っていただけだし。うん、間違いなく暇だ。 ちゃんと結論を出してから、俺はそのことに幸せを感じる。が俺になんの用かは分からないけど、邪魔されるような用事がなくて良かった。 「大丈夫。ほんとに暇だから」 俺がもう一度言うと、はぱっと顔を輝かせて、「そっか、よかった!」と頷いた。 「じゃあ、少しだけ時間もらってもいい?」 「うん、もちろん。何の用?」 尋ねると、はなぜか突然顔を赤くした。ぶんぶん、と首を横に振る。 「?」 「ご、ごめん、なんでもない。……あの、じゃあ、一緒に来てくれる?」 「……ん、うん」 こっち、とが腕を引くのに続いて、歩き出す。はたまに一緒に自主練しようとか夕食を食べようとか誘ってくれるから、今回もそうかなと思っていたけど、どうも違うらしい。行き先は鍛錬場でも食堂でもなくて、もう放課後だから人気のない教室長屋の一室、使われていない空き教室だった。 は教室の戸を開くと、隣にいる俺をおずおずと見上げた。さっき俺に暇かどうか聞いたときのような、不安そうな瞳。どうしたのだろうかと、怪訝に思う。は普段、落ち込んだところが想像出来ないくらい、すごく明るくて元気だから。 「……入ってもらってもいい?」 「うん」 言われるままに、中に入る。剥き出しの壁と閉め切られた窓、使っていない文机だけががらんと並ぶ、閑散とした空き教室。掃除はしているのか埃臭くはないけど、人の出入りがないとやっぱり寂れるんだなーと考えていると、後ろから戸を閉める音がして、が俺の元に歩いてくる。 はさっきと同じ、不安そうな、それとどこか緊張した面持ちで、俺の前に腰を下ろす。それに倣って俺も畳の上に腰を下ろすと、は一瞬迷う素振りを見せた後、座り直して正座した。 それから、沈黙。 「……?」 声をかけると、は俺の視線から逃げるように慌てて顔を伏せて、珍しく小声で、呟くように言う。 「あの……私ね」 「……うん?」 促すと、は急に押し黙ってしまった。それから、またちょっと沈黙。 その沈黙がすごく気になる。躊躇するようなの様子に、なにかあったのかと軽く不安に思う。 「……あのね」 は居心地が悪そうに身じろぎしてから、何回か落ち着かせるように息を吐いた。それから勢いよく顔を上げて、ぱん、と手を合わせて俺を拝む。 「一生のお願い、兵助!」 「え?」 「わ、私のお願いを聞いてください!」 縋るように、は俺に懇願する。なんだかすごく必死そうな表情に驚いて、俺はとりあえず拝まれたの手を掴んで下ろさせた。 「お、落ち着いて。話は聞くから。俺で手伝えることがあったらするから、その」 「ほんと!?」 がばっとは俺に身を乗り出して、それから「いやいやいやいやさすがに無理」と途端に頭を抱える。そのの様子に、もしかしたら俺じゃ力になれないと思われてるんだろうかと思って、少し傷つく。 「。困ってるならなんでも手伝うから、とりあえずどうしたのか言ってみて」 好いた女子に頼りないと思われるのはすごく辛い。俺に出来ることなら無茶でもなんでもしようと決めて、の顔を覗き込む。 は何秒か言いにくそうにじっと俺を見上げて、それから意を決したように口を開いた。真っ赤に染めた顔で、勢いよく叫ぶ。 「口付けさせてください!」 「────は?」 なんの冗談かとぽかんとしてから、次の瞬間、ああなるほどと納得した。 いつもの、趣味の悪い罰ゲームだろう。 最近はあまり被害を受けなくなったけど、下級生の頃はしょっちゅうこの手のことに巻き込まれた。『ごめん、これ罰ゲームなんだよね』と、全然悪いと思ってない様子の女子生徒に思いっきり池に叩き込まれたり、頭巾を奪われたり。お前ら罰ゲームでもそうじゃなくても普段とやってること変わらないだろ、と思ったけど、今はそれはどうでもいい。 外の気配を探る。上手く隠してあるのかまったく感じられないけど、きっと天井裏とか戸の外とかで今か今かと待機している女子共がいるに違いない。理解して、嘆息する。 頭が醒めてくる。目の前でじっと俺を窺ってるは、今まで見たこともないほど必死そうだ。……可哀想に。 「お、お願い……兵助、一生のお願い」 「。そんなことで一生とか言っちゃ駄目だよ」 「じゃ、じゃあ、させてくれるの?」 期待を抱いたのか俺にちょっと身を乗り出すに、言葉が詰まって即答出来ない。その俺の様子に拒絶の色を察したのか、は悲しげに顔を曇らせた。 正直に言えば、口付けするというだけなら、大歓迎だ。俺はが大好きだし、いつだってに触れたいと思ってるし。だからこれがの本意なら、手放しで頷けるんだけど。 でも、の本意のはずがない。賭け事とか弱そうだもんな、。 女子生徒達の思惑にそれと分かっていて乗るのも癪だし、なによりが可哀想だ。なんとか打開してやりたいと思うけれど、どうすればいいか分からない。 「だ、駄目かな……?」 しゅん、とが肩を落とす。いや、本当は全然駄目じゃないんだけど。 でも。 「」 そっと近づいて、の肩を引き寄せた。びく、と慌てたように震えるに、お互いにしか聞こえないように、小さく耳打ちする。 「逃げられないのか?」 「にげる……? どうして?」 俺の小声で察したのか、も声を落とす。戸惑うように、俺に揺れる視線を向ける。 「嫌だろう、こんなの」 「で、でも……やらなくちゃいけないことだし、それに……」 「色事を無理強いするなんて、悪ふざけにしてもやりすぎだろ」 本当に腹が立ってきた。あいつらは確かに悪辣だけど、それは俺達男子生徒に対してだけだと思っていたのに。見損なった。 「……兵助? どうしたの……?」 不安そうに俺を見上げるの姿に、胸が痛む。が傷つくのは、見たくない。 「。逃げるなら、手伝う」 「に、逃げるって、……だから、なんで?」 「なんでって……」 俺はむしろ、が素直に受け入れようとしているほうが分からない。は確かにまっすぐな性格でからかいやすいかもしれないけど、だからって見世物にされていいはずがない。 はじっと俺を見て、それからゆっくり顔を伏せた。膝上に置いた手をぎゅっと握り締めて、搾り出すような小さな声で言う。 「……兵助は、そんなに嫌……?」 今まで一度も聞いたことのない悲しそうなの声に、ぐさっと凄い罪悪感が襲う。思わずごめんと謝りそうになるのを堪える。俺だって、こんな場面じゃなかったらすごく嬉しいのに。 「……だって、だって嫌だろう」 「嫌じゃないよ。他の手もあったけど、決めたのは私だし。……その、……私は全然嫌じゃないから」 「でも」 「だから、兵助が嫌じゃなかったら……お願い」 縋るようなの瞳は、少し赤くなっている。涙が浮かびそうになっているそれに胸を締め付けられて、俺は心を決めた。 「……分かった」 「いい、の?」 「うん。が、俺でいいなら」 は一瞬目を見開いて、それからすごく嬉しそうに微笑んだ。「うんっ」と頷いて、俺に身を寄せてぎゅっとしがみついてくる。うわ。 柔らかくて、温かくて、俺とは全然違う女の子の、の身体がものすごく近くにある。思わずの背に腕を回してさらに引き寄せても、は少しも嫌がる素振りを見せなかった。同じように俺の背に手を伸ばして、肩口に顔を埋める。 否応がなしに、身体が熱くなる。すごく好きな女の子が、腕の中にいる。のどこか甘い匂いと柔らかさに、鼓動が高鳴る。手足の先に至るまで、全身がの存在を意識してる。ああ、くそ。すごく幸せだ。こんな状況でさえなければ、きっと、もっと。 が顔を上げて、少し身を引こうとする。離れるのが嫌で咄嗟に阻もうとして、慌てて腕の力を抜いた。 至近距離にある、の顔。は両手を俺の肩に伸ばして、はにかむように微笑んだ。恥ずかしそうな嬉しそうなその顔に、身動き出来なくなる。ゆっくり近づくの瞳を、ただ見返すことしか出来ない。 「……ありがとう」 囁かれた瞬間に、俺の唇にのそれが重なった。は、ん、と小さく声音を漏らしながら、ゆっくり唇を押し付ける。その圧倒的な柔らかさに、ぞくり、と背筋に痺れが走る。 の腰に腕を回して引き寄せながら、辺りの気配を探る。見られているのかと思うと腹立たしいけれど、もう、いい。 は俺と唇を重ねたまま、嬉しそうに目を細める。それがすごく可愛くて、俺は自分からも強く唇を押し付ける。は拒絶せずに、受け止めてくれる。 口付けを交しながら、の身体を抱き締める。華奢な柔らかさと唇の感触に、頭が溶かされそうになる。もうそのことしか考えられない。可愛い。すごく可愛い。……可愛すぎて、おかしくなりそうなくらいに。 本当なら重ねるだけでいいはずなのに、どちらからかお互いの唇を柔く吸い始めて、じんと痺れる感覚が走る。それが気持ち良くて、咄嗟に舌をねじ込んでしまいそうになるのを必死で堪えた。そこを越えたら歯止めがつかなくなるだろうと、自分でも分かっていたから。 の手が俺の頬に伸びて、優しく撫でられる。包み込むような、柔らかな感触が心地良い。素肌と素肌の接触だけで、こんなにも満ち足りるものだとは思わなかった。が、好きだ。すごく。 ……でも、これ以上は出来ない。 お互いの唇の形と感触を把握出来るまでに触れ合った後、どちらからともなく口付けを解いた。は照れたように微笑んで、ぎゅうっともう一度俺にしがみついてから、ゆっくり身を引く。 「ありがとう、兵助」 「ん……いや……」 正直さっきの口付けだけで身体が火照っていて、まともにの顔を見ていられない。このままでは下卑た想像をしてしまう、確実に。けれどは俺を覗き込もうとするから、慌てて顔を逸らした。 「兵助? ……ごめん、嫌だった? ごめんね?」 「や、違……! ていうか、見られてるんだし、もう少し離れたほうが──」 これ以上からかわれるネタを増やすこともない。というか今に近づかれると俺が大変だ。の肩を軽く押して離れようとすると、はきょとんとした。 「誰に見られてるの?」 「……え?」 の言葉に、あれ、と思う。 「見られてるって、私に……?」 「じゃなくて……いるんだろう? 外に」 「外?」 は外の気配を探るように窓と戸に視線を向けて、それから不思議そうに、首を傾げる。 「……誰もいないんじゃないかな」 …………は? かちん、と一度思考が固まってから、俺は恐る恐る、の顔を見下ろす。 「……あのさ、」 「うん?」 「い、今、俺に口付けしたの、なんだけど」 「うん」 「罰ゲームだよな?」 「なんの?」 ──ちょっと待って。 「っ」 「は、はい!?」 の両肩を強く掴むと、はびくっと震えて身体を強張らせた。 緊張にどくどく言う鼓動を感じながら、俺はに尋ねる。震えそうになる声音で。 「じゃあ……どうして俺に口付けしたの」 正直言って、期待した。そりゃ期待した。だって、意味もなく口付けなんかするはずがない。 は俺の勢いに一瞬呑まれたように目を丸くしてから、あ、となにかに気づいたように小さく声を上げた。そして、あっさりと答える。 「実習だったから」 「え?」 「ごめん、言ってなかったね。あの、くの一教室の実習で、誰でもいいから男子生徒に口付けすることが試験で……それで」 「………………ああ」 身体から力が抜けそうになる。ああ、実習か。そうか実習か。そりゃ大変だ。……そーか。 それなら確かに誰かに見られてないかもしれないけど、特別な意味なんかあるはずがない。 すごく拍子抜けすると共に、まあ人生そんなもんだよな、とちょっと諦める思いもある。そんなことよりも、が俺を選んでくれたのを幸せに思うべきだろう。それだけでも、少しは救われる。 「……ごめん。兵助、私のせいかな。ごめんね……?」 「違う……なんでもないから、ごめん」 憔悴する俺を心配そうに見るの顔を、さっきと同じでまともに見れない。あの一瞬でものすごくいろいろ期待した自分に、ちょっと落ち込みそうになる。馬鹿だな、俺。 は、じっと俺に不安そうな視線を向けている。きっと自分のせいで俺が気分を害したかと思って、気にしてるんだろう。自分が落ち込むのはどうでもいいけど、を傷つけるのは嫌で、俺はちょっと無理に笑ってみせた。 「ごめん。ほんとになんでもないから」 「……ほんと?」 「うん」 俺の言葉にちょっと安心したのか、はほっとした表情になる。実習を手伝ったことへの礼だろう、「ありがとう」と俺に微笑んでから、立ち上がる。 「あのね、後日に先生から実習出来たかどうか聞かれると思うから、お願いしてもいい?」 「……うん。分かった」 俺が答えるのを見届けて、は教室の戸に向かう。教室の戸に手をかけて、は俺を振り向いて嬉しそうに笑ってくれる。その俺の大好きな笑顔に、さっきまでの少し落ち込んでいた気分が晴れていく。 「……私ね」 戸を開けながら、が口を開く。 「兵助に嫌だって言われたら、もうこの実習やめようと思ってたの。だから、ほんとにありがとう」 じゃあね、とは教室を出て戸を閉め、ぱたぱたと軽い足取りで去っていく。 「…………え?」 どういう、意味だ? 俺に断られたら、実習やめようと思ってたって、それは、それ、は。 「────っ」 頭に一気に血が上る。さきほどの口付けの感触が瞬く間に蘇ってくる。。それは、もしかしたら。 「ま、待って!」 立ち上がる。もう遅いかもしれないと思いつつ、教室を飛び出してを追いかけた。 へ、兵助と。 口付け、し、した? 空き教室を出た瞬間に、私の頭はさっきのことでいっぱいになる。抱き締めてくれた兵助の腕とか指とか私より大きな男の人の身体とか体温とか唇の感触とかが全部蘇ってきて、もう信じられないくらい胸がいっぱいになる。 すごく恥ずかしかったけど、すごく幸せだった。兵助は私がしつこくお願いしたから頷いてくれたんだろうけど、それでも私は兵助が大好きだから、嬉しくて嬉しくて仕方ない。泣きそうなくらい、嬉しい。 身体が熱くなる。手も足も、兵助に触れてた全部が熱くなる。 口付けなんて、ほんとなら恋仲じゃなきゃ出来ないのに、しちゃった。 あまりに嬉しすぎて、頭にも顔にも血が集まっていく。 私は、やっぱり兵助が好きだ。 もうどうすればいいか分からないくらい、好きで好きで好きで仕方ない。 兵助が好き。大好き。死ぬほど好き!! 「…………ちょ、……早すぎ」 呼吸に限界が来て、足を止める。 教室を出た瞬間、少し前にいたが猛烈な勢いで走り出した。の俊足を知っているから慌てて俺も全力で追いかけたけど、瞬く間に引き離されて、すぐに姿を見失ってしまった。 ああ、もう。 走ったせいかさっきの口付けのせいかそれともの言葉のせいか、凄い速さで全身に血が巡る。 がどういう意味であんなこと言ったのかは分からないけど、でも。 ──もしそれが俺の望むことだったら、すごく幸せだ。 だから。 気合を入れ直して、とにかくを探してそれを聞こうと、また走り出した。 終 |