| 『善法寺伊作』後編 | |
傷の処置を終えたの指が、そっと離れる。ゆっくり目を開けると、は少し微笑んで「終わったよ」と言って、薬箱を棚に戻そうと立ち上がろうとする。 「ねえ」 「なに?」 声をかけると、は浮かせかけた腰を下ろして僕を見る。まだ近い距離、すぐ傍にいるに、今度は焦燥感が浮かんだ。 「、今実習中?」 「……っ」 聞いた途端に、はびくっと小さく震えた。咄嗟になにか言おうとしたのか口を開いて、けれど為せなかったのか沈黙する。そして、ちょっと諦めたような顔になった。 「……もう知ってるの?」 「ん……うん。ここに来る前に、三人くらいに……その」 追いかけられたのも入れればもっとだけど、そこまで情けないことは言いたくない。 「伊作君は、モテるもんね」 「いやこれ明らかにモテてるわけじゃないよ、ほんとに」 即座に否定すると、は困ったように微笑んだ。まあ、今の僕を褒めようとしたら、その言葉しかないだろうけど。 「……その傷、本当はそのときに出来たの?」 「ううん、違うよ。急いでここに来ようとして、目印見落としただけだから」 そういえばさっきもはそんなことを言っていた。まぁ確かにみんな鬼気迫っていたから、そうだと思われても仕方ないかもしれないけど。 「そっか」 はぽつりと呟くと、ちょっとだけ微笑んだ。それから今度こそ薬箱を戻そうと立ち上がろうとするのを、思わず腕を掴んで引き止めた。 「……伊作君?」 は不思議そうに僕の顔を見上げて、抱えていた薬箱を隣に置いて僕に向き直る。掴んでいるの腕が僕のそれよりずっと華奢なのを感じながら、僕は口を開く。 「は?」 「え、なにが?」 はきょとんとした顔になる。その瞳は本当に問われた意味が分からない色で、気にかけている様子が全然見えなくて。僕はちょっと……いや、かなり不安になった。 「の実習は? ……もう終わったの?」 言い直すと、さすがには分かったのか、言葉を詰まらせた。それから、ゆっくり瞬きをする。 「伊作君、心配してくれるの?」 「……いや、その」 心配、というのは確かだけど、きっとが思うそれとは違うはずだ。僕はただ、が好きだから気になるだけで。 そもそもこれはの実習なんだから、僕がなにか言う資格なんて、悔しいけれど一つもない。ごめんと謝ろうとしたとき、空気を変えようとしたのか、はからかうような瞳で微笑んだ。 「もしまだだって言ったら、伊作君は私を四人目にしてくれる?」 「いいよ」 ぴた、との動きが止まる。だけじゃなくて、口にした僕の動きも止まった。……今、なにを言ったのか。 反射的に答えてしまったけど、よくよく考えればすごいことを言ってしまった。そこでようやく、まだの腕を掴んだままだったのを思い出して、慌てて離す。 「……冗談だよね?」 が戸惑ったように視線を向ける。もちろんだよと返せたらそのまま流せたかもしれないけど、僕はそれをしたくなかった。 「冗談じゃないよ。がいいなら」 答えると、は目を見開いた。僕をまっすぐ見てるの黒い瞳が、揺れる。 「……ごめん、変なこと言った」 の顔を見ていたくなくて、僕は視線を逸らす。実習だからって、選ぶ権利はにある。は人を傷つけることが出来ないから、嫌だったとしてもそれを口にすることを躊躇うだろうから。 「ごめん、気にしないで」 もう一度謝っても、はじっと僕を見上げてる。居たたまれなくなってきたとき、が躊躇いがちに僕に手を伸ばした。さっきとは逆で、が僕の腕を掴む。 「……?」 「あのね、伊作君。……私がこういう実習苦手なの、知ってるよね」 知ってる。は脅すとか騙すとか、そういうことが出来ない性格だから。さっきも思ったけど僕と同じで、それはこの学園では欠点になってしまう。 「だからね、困ってたの。私は実技も苦手だから、男の人に無理強いも出来ないし。……だから」 僕の腕を掴むの手が、微かに震えてる。 「伊作君さえよかったら、してくれる?」 言われた言葉が現実だと認識するまで、数瞬かかった。それから、ほんとにいいのか、と思う。確かに自身はこの実習が苦手だろうけど、僕はが男子生徒に人気があることをよく知ってる。が頼めば、大抵の男子はむしろ是非にと頷くだろうことも。これは惚れた欲目じゃない。は優しいし可愛いし、保健委員の仕事に丁寧だから、手当てとかで恩を感じてる生徒も多いから。 だから僕じゃなくて、もっと好みの男にすることだって、きっと出来るのに。 それが分かってるのに、僕はそれをに伝えようとしなくて、 「僕でいいの」 ただそれだけを聞いてしまう。僕はの性格をよく知っている。人を傷つけることが出来ないは、拒絶が出来ない。……出来ないから。 「うん。……伊作君が、いいの」 きっと、そう答えてくれるから。 僕はが好きだ。 だからこんなことは卑怯だと、の優しさにつけ込んでいるだけだと理解しているのに、それでも僕はに触れることを選んでしまう。 僕は、ずっと前からが好きだった。年を重ねるごとにを僕のものにしたい思いが強くなって、自分でもどうしようもなくなるときがある。誰か他の男とがと、そう考えるだけで嫉妬心が湧いてくる。告白する勇気もないくせに、独占欲だけ強くて。 「伊作君……?」 不安そうなの声に、ごめんと心の中だけで謝りながら、掴まれていた腕を優しく離す。そのままの肩を引き寄せると、は素直に身を寄せた。さっき傷の手当てをしてくれていたときよりも、ずっと傍にがいる。もう、頭がそれだけしか考えられなくなる。 「、ほんとにいいの」 「うん。……お願い」 肩を抱いて耳元で囁くと、は躊躇いがちに僕にさらに身を寄せる。軽く抱き締めると、は小さく震えて、それから身体の力を抜いた。 ずっと触れたかった温もりが、腕の中にある。そう思うだけで、胸が揺らぐ。これだけでもすごく幸せのはずなのに、その先を望んでしまう。口付けしたら、きっともっと先が欲しくなる。分かっているのに、止めることが出来ない。 の頬に指で触れると、は緊張しているのか目を伏せて俯いてしまう。普段と手が触れるだけで動揺するから、もし本当にこういう場面になったらきっと身体が動かなくなってしまうだろうと思っていたのに、それよりもが欲しいと思う衝動のほうが強かった。強引にならないようにとそれだけを気をつけて、顔を覗き込む。はようやく顔を上げて、躊躇いがちに僕を見た。 近い。 の瞳に僕が映っているだけで、のすべてが僕に向いているような錯覚を覚える。ずっと、そうであればいいのに。が僕だけを見てくれたなら。 ──ただその想いだけに突き動かされて、の唇に僕のそれを押し付けた。 触れた途端に、熱を感じた。じゃない、僕の熱。触れたの唇は僕より少し冷たくて、僕との想いの違いのように感じて、悲しくなる。熱を与えるように強く押し付けると、はゆっくり目を閉じて、僕に身体を預けてくる。それを許しだと都合のいい解釈をして、舌先での唇に触れた。 僕は保健委員の仕事で女の人の身体には慣れているし、触れるだけとはいえ今日だって三人の女の子と口付けを交わしているのに、の体温はその他のものと全然違って、これが僕の欲しかったものなのだと本能で思う。抱き締めて、口付けして、それだけでも満たされているはずなのに、まだ全然足りないと思ってしまう。の全部が知りたくてゆっくり舌を押し込むと、はほんの一瞬躊躇するように身体を強張らせてから、それからすぐに受け入れてくれた。 舌先と舌先が小さく触れる。肌と肌との接触とは違う粘膜同士の感触に、これまでにない『近さ』を感じて酔いそうになる。ぴと、と僅かな水音。の舌を僕のそれで舐めると、びく、との肩が跳ねた。嫌がられるかと少し待ってみても、は身を引かないでくれた。だから欲しいと思うままに、を強く抱き締めて舌の絡みを深くする。 の舌も触れている身体も、どちらのものか分からないくらいに熱くなる。最初に感じた冷たさはもうどこにもなくて、それが僕は嬉しかった。目を閉じると、の匂いと味とその熱が僕のものと入り混じって、境界が曖昧になっている気がする。いっそ一つのものになれたらいいのに。こんなに焦がれて、こんなに求めているのに。 この想いは、にとっては単なる押し付けでしかないと知っているのに。 は僕を拒絶しない。は優しいから、人を傷つけることが出来ないから、僕がするのを真似るように、口付けを返そうとする。 口付けしたら、きっとその先も欲しくなる。そう理解していたのに。 ──欲しい。 その酷い喉の渇きのような苦しさに、泣きそうになる。。。。 腕の中にいる女の子が好きで仕方ないのに、嫌われるようなことをしたくてたまらない。でも出来るわけがないから。 せめてこれだけは許して欲しいと、僕はの優しさに縋り続けた。 口付けを解いて離れる直前、は微かな声で『ごめんなさい』と謝った。 ありがとうと礼を言われるならともかく、どうしてが謝るのか。僕の立場なら分かるのに、が負い目を感じることなんて、なに一つないはずなのに。 けれど本当に謝るべき立場の僕はその言葉を伝えられず、は静かに仕事を終わらせて、日が沈む頃に部屋に戻って行った。 気だるい。 と口付け出来たのに。ずっとしたいと望んでいたことなのに、それが叶った幸福感はほとんどなくて、ただそれ以上を望む独占欲にまみれてる。 僕の半分でも、その半分でも構わない。が僕を求めてくれたら、この胸も少しは満たされるのだろうか。 ※※※ たぶん初めて、伊作君に嘘をついた。 まだ感触が思い出せる、伊作君の温もりに、胸が酷く痛む。 そんな必要などなかったのに、伊作君が優しいから、私はそれに甘えた。自分の欲の為だけに伊作君を使った。 ごめんなさい。 それでも嬉しいと思ってしまうのがさらに自己嫌悪を募らせるのに、やっぱり嬉しい気持ちのほうが強い。 僅かな時間だけでも伊作君の一番近い場所にいれたことが、本当に幸せだったと思ってしまう。 いつまでも嘘をついていたくない。こんな嘘、どうせすぐに分かってしまうに違いない。 でもそれを謝るときには、きっと自分の気持ちも伝えることになるから。 そのとき伊作君がどう思うのかを考えたら、……私はどうすればいいのか分からない。 「善法寺君、ちょっといいかしら?」 その次の日の放課後だった。薬売りさんから仕入れた薬を医務室に持って行こうとしていると、後ろから声をかけられた。 振り向くと、にこにこと微笑むくの一教室の山本先生が、いつの間にかすぐ後ろに立っていた。 「……はい。なんでしょうか」 昨日はなにかとくの一教室のいろいろに巻き込まれたから、その親玉……もとい先生を見るだけでも警戒してしまう。嫌な予感に無意識に退避口を定めていると、それを見抜いたのか山本先生は苦笑した。 「そんなに緊張しないで。単に昨日の実習の確認に来ただけだから」 その言葉に、そういえばと思い出して情けない思いになる。山本先生は小脇に抱えていた『実習報告書』と書かれた冊子をめくって、にっこりと僕に微笑んだ。 「モテるわね、善法寺君。たぶんあなたが一番人気よ」 案の定だ。 「……褒めてませんよね」 「あら、そうでもないわよ? 私はあなたには順忍の素質があると思うけど。……じゃあ確認お願いね、この子達で間違いないかしら。あ、読み上げないで文字だけ目で追って」 はい、と見せられた冊子の一頁には、僕の名前の横に連名で女子の名前が書かれている。ざっと昨日の女子達を思い出して、顔と名前を一致させる。確かに間違っていない……けど。 「……山本先生」 「なに? 誰か嘘をついてるかしら?」 「いえ、その三人は合ってます。……あの、さんは?」 「さん?」 女子の名前の中には、の名前が含まれていなかった。もしかして報告し忘れたのかと思ったけど、まさか真面目なに限ってそんなはずがない。昨日はそんなに遅くまで医務室にいたわけじゃないし、時間はたくさんあったはずだ。 だから書き間違いかなにかかと不思議に思っていると、山本先生は興味深そうに僕を見て、それから開いていた冊子をゆっくりと閉じた。 「同じ保健委員として気になるのかしら?」 「え。……ああ、はい。そうですね……」 さすがに口に出すのは躊躇われてそう答えると、山本先生は軽く頷いて、少し考えるような間を持った。そして、「まあ、すぐに分かるからいいかしら」と前置きして話し出す。 「さんはね、この実習は他のものと変更していたのよ。色の実習に気が進まない子のための処置。善法寺君も、さんがこの実習に向いてないのは分かるでしょう?」 ────は? 言われたことが理解出来なくて、唖然とする。なにも言えない僕に、山本先生は言葉を続ける。 「明日には実習内容を変更した生徒達向けに、掲示板に代替実習の連絡書を貼るから、それを見てくれれば事実だと分かるはずよ。該当する生徒達の名前も書いてあるから」 もともと疑ってるわけじゃない。山本先生が僕に嘘をつく必要はたぶんないから。でも。 言葉に詰まる。やっぱりなにも言えない僕に、山本先生はなにかを見透かした表情で身を引いた。 「じゃあね、善法寺君。実習に協力してくれてありがとう」 そのまま、山本先生の気配が消える。 ……変更? 実習変更? 言われた意味が、全然分からない。 だっては実習だと言っていて、実際僕と、──した、のに。 『ごめんなさい』 ふいに、の声が蘇る。 微かな声。震えた声が、僕の耳に。 ──あれは、どういう意味だったんだろう。 終 |